最終話

(三十五)

 翌日、沙耶から逃げるように東京を離れた。

 長時間、鉄道を乗り継いだ目に飛び込んできた景色は懐かしいものだった。

 日本海から吹く強い西風に家屋かおくを護るために植えられた松に囲まれた家々が点在てんざいし、その家々が西に傾き始めた日の光に照らされて視界を流れていく。

 この風よけの松は「築地松ついじまつ」とよばれ、出雲特有の風景だ。辺りは田園地帯で、青々とした稲が風に波紋を作っている。間もなく斐伊川ひいかわを越え、特急列車は終点である出雲市いずもしに到着する。車窓に映る島根半島の山並みが深い紫色になって見え、朱色の空は綿雲わたぐもが点在するだけで良く晴れていた。

 再び目に収めたいと何度も思っていた景色である。車窓からその景色が飛び込んできたときは色鮮いろあざやかに見えたのだが、我に返り沙耶とのことを引きずった陰鬱いんうつな気分に戻ると、色はせ、よどんだ景色に変わってしまった。不思議な感覚だった。

 斐伊川ひいかわの鉄橋を渡り終えると急に屋根の密度が増える。市の中心部に入ったのである。やがて、松江温泉と出雲市いずもしを結ぶ私鉄線が接近し並行し始めた。子供の頃、僕はこのあたりに住んでいた。JR線と私鉄線が並行し、高架駅こうかえきとなっている出雲市駅に駆け上がる寸前すんぜんの所だ。目をらして車窓を眺めながら、住んでいた頃と街の景色がそう変わっていないことに少し驚いた。

 広いスペースが確保された駅前ロータリーからのながめは、僕の記憶よりもさびれて見える。こんなに空が広く人が少なかっただろうかと思った。だが、青であることを示す歩行者信号の、「ピポッピポッ」という電子音を聞いた時、ああ、やっぱり出雲に帰ってきたんだと改めて感じた。子供の頃、この電子音を良く耳にしていた。

 時刻は夕方の六時半近く、西に太陽は傾いて、空は夕焼け色に染まってはいるものの、あたりはまだ明るく、夏の日差しを残している。東京を昼前に立ち、ここ出雲に着くまで約七時間、およそ千キロの行程こうていを座りっぱなしでいた尻は痛いし、ずっと揺れの中にいたため足元が不安定に感じる。

 すでに夕刻であり、駅前の小ぶりなビジネスホテルに素泊すどまりで部屋を取った。

 新幹線と特急を乗り継いで出雲に辿たどり着く間、沙耶のことを思い続けていた。彼女のことを忘れようと、高校をサボりここまで来たというのにである。

 昨夜、よろけるように部屋を出ていった沙耶がいない空虚感くうきょかんを感じながら、僕はひどい自己嫌悪じこけんおも感じていた。

 自分は未熟で、大人である沙耶を受け止めあぐねている、やはり彼女の過去をなかなか受け入れることができないようだ。いや、受け入れたつもりが、消化しきれず心におりのようなものがたまり続けている、そんな感じだ。何度も思うが、沙耶が牟田口との関係を隠すことなく僕に打ち明けたのは、それだけの僕への信頼感があるからだ。

 たぶん沙耶は、「自分のすべてを知ってほしい」という気持ちで打ち明け続けたのだろう。そしてそこには、受け止めてほしい、受け止めてくれるという信頼に裏打うらうちされた想いがあることも分かっている。ただ、それにこたえられる心の容量が今はないように感じていた。

 では、どうする、沙耶をあきらめるか、無理だ、沙耶しか考えられない、彼女以上に愛せる人はもう現れないだろう。

(リセット)

 浮かんだ言葉がこれだった。彼女から離れる。そうして自分の負の精神をリセットしよう。それもできなければ、この世からいなくなる事もリセットの一つだなとも思っていた。一生この負の精神にさいなまれながら生きていくのは、どう考えてもつらい。

 

 (三十六)

 ほとんど眠れないまま朝を迎え、九時過ぎにホテルをチェックアウトした。梅雨空つゆぞらが戻っていた。

 料金はこちらが未成年であることから前払いで清算せいさんさせられており、手持ちの金が心許こころもとなくなっている。どこかコンビニか銀行のATMで金を下ろさねばならないと思った。一昨日からほとんど固形物こけいぶつを口にしていないが、不思議に空腹は感じていない。身体はだるいのだが、頭だけはみょうえている。

 何か腹に入れなくてはと、出雲市駅構内にあるコンビニで二万円下ろすのと同時にのおにぎりを買った。だが、すぐには食べる気がしないので、それを持ってぶらぶらと線路に沿って、昔住んでいた家のある方向へ歩くことにした。JR出雲市駅から少し離れた位置にある私鉄の出雲市駅に隣接するホテルの横を過ぎるとき、観光バスタイプの路線バスがJRの出雲市駅方向に通り過ぎていった。

 県の県庁所在地けんちょうしょざいちである松江まつえの方向に向かってJRと私鉄は一キロばかり並走し、すぐに私鉄線の方は駅になる。線路の南側に大きな紡績ぼうせき工場があり、そこに働きにくる人のための駅で、昔は駅名も紡績ぼうせき会社の名を取ったものだったが、今は紡績ぼうせき工場に隣接して科学博物館が建てられたので、科学博物館の名称が駅名になっている。

 僕が住んでいたのは、その駅から百メートルほど北に進んだところで借家しゃくやの一軒家であった。

 懐かしい家並みを眺めながら思い出深い道を進んでいたが、家のあったはずの場所を前にし、驚きで足が止まった。どう記憶を思い返しても、そこは父親と母親の三人で暮らしていた平屋建ての家があった場所に違いないのだ。

 家は無くなっていた。

 それどころか隣の理髪店なども無くなり、あた一帯いったい平地ひらちの駐車場となっている。出雲から離れて九年が経っているものの、ここまで辿たどってきた道筋みちすじはほぼ記憶のままであったから、この衝撃は大きかった。

 僕は小二の秋まで住んでいた。物心ものごころもここで付いた。その家が失われてしまった。しばらく家のあったあたりの駐車場を眺め立ちくしていたが、思わず薄い笑みが漏れた。あまりにも驚くと、人間笑ってしまうらしい。

 何もない駐車場だけの土地を眺めていても仕方がないので、ひと気のない近くの公園まで足を運び、それほど食欲はないのだが、花壇の前にあるベンチでコンビニのおにぎりを食べた。案の定、あまりうまくない。

 家はいつまでもあり続ける存在だと思い込んでいた。まあ借家でもあったし、家をどうこうするかは大家次第ではあるので、こういった結果になるのはいたかたないことなのだろうが、心象的しんしょうてきには釈然しゃくぜんとしない。

 自分としては残っていてほしかった。列車の車窓から見た時には変わっていないと思っていた街であるが、時は遠慮なく進み、物事ものごとは変わっていくのだということを痛感させられる。自分に残された数少かずすくないどころが無くなっていたというのはつらかった。

 僕には確固かっこたるどころがない。父親が亡くなってからはずっとそうだった。いくら沙耶がやさしくしてくれても、月ヶ瀬社長夫婦が気にかけてくれ、手を差し伸べてくれていても、根無ねなぐさという感覚はぬぐい切れなかった。

 おにぎりをもそもそと食べ終え、僕はベンチを離れた。此処からすぐ近くに高瀬川たかせがわという斐伊川ひいかわから枝分えだわかれした川が市内をつらぬいている。

 高瀬川たかせがわはその昔、出雲の街に物資ぶっしを運ぶために利用された水路で、両側を石組いしぐみで固められた運河のような川である。

 いつもんでいて水量豊すいりょうゆたかな川で、ここ出雲は藍染あいぞめが盛んだった関係上、水を必要とする藍染あいぞめ屋は高瀬川沿たかせがわぞいにのきつらねていたようだ。

 現在でもわずかにはなったが藍染あいぞめ屋が川沿かわぞいに残っており、店の前の川には染物そめものを水にさらすためのくいが残されているし、石組みの護岸ごがんから水面近くまで降りることのできる石段も残されたままだ。

 古い家と家との間にある白壁しらかべと黒い板塀いたべいはさまれた路地を抜けると高瀬川たかせがわである。市中の川沿いには柳の木が植えられ、川には細長い水草が生えていて速い流れにそよいでいた。

(ここは変わっていない)

 僕はほっとした気分で川端まで進み、懐かしい流れを見つめた。川の対岸は車道で、見た限りではガードレールなど設置されていない。ここに住んでいた頃は気にならなかったが、交通量は少なくないので車などが川に落ちたりしないのだろうかと思う。

(……どうするかな)

 変わってしまった景色、変わっていない景色の両方に接してみても、トータル的には失望感が強い。故郷こきょうに見捨てられたといった思いが込み上げてきていた。

 無力感がつのった。やはり東京に戻るしかないのか、そう考えると「本当に帰れるのか」という思いが浮かび上がってくる。自分をリセットしたいがためにやってきた出雲だが、その目的を果たせるかとなると疑問だ。結局は尻尾しっぽいて戻るしかないようだが、おいそれと東京には戻りたくないという気持ちもある。

(どこか、他に行ってみようか……、それとも死んじまうか)

 どこへという目標はない、高瀬川たかせがわの流れに揺れる水草を眺めながら、そうしてもいいのではと思ったのだ。こんな川で死ぬことなどできるのだろうか。その一方で、沙耶にもう一度会っておきたかったなとも考えている。


「もう、心配するでしょ。死ぬつもりなら、あたしも連れていってよ」

 沙耶の声だった、それもとびきり明るい声である。

 驚いた。会いたいと思った矢先であるため本当に驚いて、飛び跳ねるように後ろを振り返った。薄クリーム色のカットアウトトップスとインディゴ色のワイドパンツを着て、満面の笑みを浮かべた沙耶が息を切らして立っていた。どんな恰好かっこうをしても彼女は似合う。

「……」

「あたしも連れてってよ、行きたいところがあるなら……どこか知らない所でも、あの世でも。……それにスマホ切ったままよ」

 何故彼女がここにいるのか、さっぱり分からない。出雲に行くことは誰にも話していない。沙耶が知っている訳がない。それでも東京を立つとき切ったスマホを起動きどうさせると、大量のラインやメールなどの履歴りれき矢継やつばやに画面をくした。

「……どうして」

 沙耶が目の前にいることが未だ信じられない僕はあんぐりと口を開けていただろう。

「忠邦が行きたいところ、どこにでも付いていくから」

 口調は軽口であるが、笑みは消え表情は真剣しんけんである。

「うん」

「どうして、黙って勝手に行っちゃうのよ」

 沙耶は立ち尽くす僕に近づくと、手を握ってきた。じとりとする気温であるのに、ひんやりとした冷たい指だった。

「ごめん……」

「あたしにごめんなんて言わないで。……それと一人で出掛けたかったら出掛けていい。でも、黙って出掛けないで、心配で死にそうになるから……」

 沙耶の口調に切実さが表れている。たぶん、必死になって僕が何処にいるかを考え続けてきたのだろう。

「……なんで、ここだと分かった」

「えへへ、なんででしょう」

 彼女は悪戯いたずらっぽく見つめてきた。このような状況でも、僕と会えたことで嬉しくて仕方がないらしい。

「……分からないな、ここに来るのは誰にも言わなかったし」

「自分でも不思議。忠邦が居なくなったのを知って、ずっと考えて、思いついたの。……というより、頭に浮かんだというのが正しいわね。まるで、誰かがそっと教えてくれたみたいに、すっと浮かんだのよ。……ここだって」

 そんなことあるのかと思ったが、かなり前の事だ、彼女に故郷は出雲と言ったような覚えがある。沙耶はそれを忘れていなかったのだろう。

「確信があった。絶対あなたは出雲に居るって……」

「……そう」

「それからパニック……、今度はあなた、ひょっとして死ぬつもりなんじゃないかと思っちゃって」

 本当に僕が死ぬつもりなのではと思っていたのであろう。切れ長の輪郭がはっきりした瞳が懸命に僕の心を読み取ろうとそそいでくる。

「よかった、本当に良かった。あなたと会えなくなったらって……」

 我慢しきれなかったらしい、沙耶は僕を人目ひとめはばからず抱きしめてきた。

「うん、……ごめん」

 彼女の背中を軽く撫でながらそう答えた。「死」、それに近いことは考えていた、今でも考えている。

「……お願いね、置いてけぼりにしないで」

「……しないよ」

 そう答えながら自分に確信はなかった。僕は彼女の身体を抱き締めたままでいた。

「本当よ、約束ね」

「わかった……、じゃあ、沙耶も僕の前から居なくならないでよ」

 沙耶は明らかに顔を赤らめていた。

「絶対にしない。ずっとあなたのそばにいる……」

 そう言ったことに自分で照れたのか、彼女はつっと離れると、足元に川面近くまで降りれる石段を見つけ、それを降りていった。一番下の段でしゃがむと高瀬川の流れに右手を付けた。僕も彼女の後から段を下った。

「……前、言ったわよね、覚えてる」

「なんだっけ」

「忠邦の彼女になる人は誰がふさわしいか、あたしが見極みきわめてあげるって」

「そんなこと言ったっけ」

「あたしは覚えてる」

「……そうだったかな」

「そうよ、でね、……結論だけど、あたしは忠邦の彼女にふさわしくない。それにあたしが近くに居るから、忠邦は高校生らしいキラキラした恋をしていないでしょ」

 何を言い出すんだと僕は思った。ひょっとして別れ話につなげるのかとさえ考えた。

「あたしくらい、あなたにふさわしくない女はいないと思う。……大好きな人がいるのに他の男に抱かれてくるし、大好きな人に男との尻拭しりぬぐいはさせるし、傷つけてばかりいる、ごめんね……、つらかったよね。嫌いになって良いから」

 水面を見つめながら、沙耶はそう言った。彼女は僕がおちいっている泥沼どろぬまを分かっているようだ。でも、そこまで自分を卑下ひげする必要は絶対にない。僕は僕自身の弱さ、未熟さに振り回されているだけなのだから。

「……たぶん、嫌いにならないと思うよ」

 やっとの思いでそう返した。

「本当、嫌いになったかと思った。……苦しんでいたよね、これまで」

「仕方ない、僕は頼りない単なる高二のガキなんだから……」

 僕はそう返した。

「忠邦はガキじゃない。いつも冷静だし精神年齢はあたしよりずっと上だって思ってる。……あなたの冷静さが、どんなに頼もしいか、あたしは良く知っているもの」

 なぜか彼女はむきになって僕を擁護ようごするようなことを言う。

「この間の僕は、冷静さの欠片もなかったけどね」

 怒りに捕らわれ衝動的に彼女を抱いた一昨日の夜のことを言った。

「身体がばらばらになるかと思った。……でも、良かった」

 沙耶は恥ずかし気に上目遣うわめづかいで僕を見上げる。

「反省してる……、どうかしてた」

 そう言うと、沙耶はクスリと笑った。

「……忠邦の赤ちゃんができるかなって期待したの。でも昨日、生理きちゃって、ちょっと残念だわ」

 そう彼女は微妙な話をしてくる。まあ、それはごく親しい人間にしか見せない一面ではある。

「赤ん坊って……、そんなこと考えてたんだ」

「そう、……だって生みたいもの。相応しくない女だけど、好きな人の子供は育てたいから。それは自由でしょ」

 沙耶と僕の間できる子供、考えたこともなかった。その可能性もあるのだ、そこまで行くとさっぱり分からない。

「仮にそうなったら、責任はとるよ」

 そう答えた僕に、沙耶はとろける様な笑みを返してくる。

「……忠邦の子ならね、絶対に可愛いと思う」

 恥ずかし気に目を反らすと、沙耶は再び流れる水面に指をけ、そして続けた。

「一緒に育ててというわけじゃないのよ、あたし一人でも育てるし。……ただ欲しいと思った」

「……子供ができたなら、一緒に育てるよ。僕と沙耶の間にできた子なんだから」

「無理言わなくていい。あたし、忠邦を振り回すことを散々してきたでしょ。……うんと苦しめたと思う、たぶん今も……」

 僕はそれに応える言葉を探していた。苦しいのは本当だ、でも、それ以上に沙耶が居てくれることが嬉しいし、身体の芯に力が入る気がする。沙耶は続けた。

「……答えなくていいよ、分かってる、忠邦の気持ち、最近良く分かるんだ。嫌いになっていいよって言ったでしょ……それは本心なの。けれど、忠邦があたしをどう想ってくれているかも分かる。本当に嬉しい、そして申し訳ない気持ちで一杯。だから、あたしはあなたから離れたくない」

 沙耶は笑みを浮かべながらそう言った。寂しい笑みだった。

散々さんざんひどおもいをさせてきたんだもの……。だから忠邦があたしから離れようとしたことも、理解している……」

「そんなことない、それは違う」

 僕は彼女の言葉をさえぎった。そして、彼女がしゃがんでいる石段まで降り、彼女の肩に手を置いた。

「嬉しいよ。僕を見つけてくれたこと……」

 彼女は再び水面に視線を移した。沙耶の肩が小さく震えだして、彼女が泣き始めた事を知った。僕は、すまないと思いながら、沙耶の肩や背をさすり始めている。

「あたしね、本当言うと、忠邦のこと、初めて会った時から好きだった……」

「……」

「本当よ」

「僕も……憬れてたよ、初めて会った時から」

 ちらりと沙耶が僕を見上げてきた。

「そうなの……」

「ああ、こんな時に嘘はかないよ」

「……じゃあ、あたしももっと正直に言うわね。とても不謹慎ふきんしんだとは思うけど、忠邦に男の人を感じたのは、あなたのお父さんが亡くなって、葬儀場そうぎじょうに付きって行った時だったわ。前から好きだったけれど、異性としてはっきり意識したのはその時」

「めそめそ泣いていたよ、その時の僕は……」

「泣いてたかもしれないけど、あたし達の前ではそうじゃなかった。しっかりと現実を受け止めようとしているように見えたわ」

 沙耶は薄く笑って見せた。

「途方に暮れていただけだよ」

「うん、……とても悲しんでいるのは分かった。でも、懸命にそれを見せないようにしているのが、あたしにはすごくこたえたのよ。なんで、泣かないんだろこの子、もっと悲しみを表に出せばいいのにって」

 そうか、あの頃の僕は「この子」といったひどく幼い者の位置づけだったんだ。

「うん……」

「で、火葬場かそうばであなたがあたしに言ったでしょ。一人ぼっちになっちゃったよって、あなたが本当にいとしいと気づいたのはあの時」

 打ちのめされて、希望も何も感じられないと思ったあの時、沙耶は黙って僕を抱き締めてくれた。あの暖かさ、柔らかさは今でも覚えている。

「初めて親以外の男の人を抱き締めて、初めて意識しちゃったのよ。忠邦にならそうなっても良い、あたしを抱いて欲しいって、そう思った。……葬儀の時に、そんなこと思うなんてどうかしてるでしょ。あんまりよね。でね、……あの男と付き合う事にした。前から好意はあったし、そうすれば、あなたを冷静な目で見れると思ったから。……できなかったけど」

 僕は黙って彼女を見つめていた。良く分かった、すとんと気持ちの落としどころができたような気がした。

「ところでさ、出雲に来たことだけでもすごいけど、よく僕を見つけたね」

 僕は話を変えた。

「偶然だった。空港から出雲市の駅まで行くシャトルバスに乗ったんだけど。忠邦さ、あなた駅前の道を歩いていたでしょ」

 沙耶はホッとした表情を浮べた。

「うん、そうだけど」

「バスの窓から歩くあなたを見た」

 そう言えば、駅前に大型の路線バスがやってきたのを見た覚えがある。

「へええ、そんな偶然あるんだ」

 朝九時にホテルを出なければ、駅のコンビニに寄らなければ、彼女と出会うことは多分なかった。

「でね、急いでバスを降りてあなたの後を追ったの……。あなたが駐車場を眺めていたり、公園でおにぎりを食べているのも見てたわよ」

「気付かなかったな……」

「そうでしょ、あたし探偵の才能があるかもだわ」

 僕らは顔を見合わせ笑った。

 この出雲で沙耶に会えた。それも彼女の懸命な推測と偶然、奇跡が重なった形で会えた。そこに意味があると僕は思う。運命という言葉はあまり好きではないが、運命は本当にあるのだと感じていた。

「……帰ろうか、東京へ」

 そう僕が言うと、彼女は「嫌嫌いやいや」するように首を横に振った。

「ねえ、忠邦が良いって言うなら、せっかく出雲に来たんだし、出雲大社いづもたいしゃに行かない……」

「良いけど」

 そう答えると、沙耶の表情がさっと明るくなる。出雲大社いづもたいしゃ縁結えんむすびで有名な所であることを知ってのことだろう。

「本当、良いの。……じゃあ、温泉にも泊まろ」

 彼女は色々としてきた。

「……良いよ」

「……初めてのお泊りデートね」

 泣き顔に笑顔が浮かび上がる。くるくると変わる彼女の表情は可愛かった。

「でもねえ、……あたし、四つも年上だよ」

 石段を登り護岸ごがんの上に立った沙耶が甘える様なとろりとした声で言った。

「年上の奥さんはかね草鞋わらじいてでも探せと言う言葉をさ、……知ってるかい」

 僕がそう返すと、彼女は小さく頷いた。


 (終)

 出雲から戻り、あっという間に一学期の終業式を迎えることとなった。

 どうやら沙耶は、出雲に僕を連れ戻しに来た日、就職活動をしていた応募企業の第三次面接日だったらしく、みごとに落ちた。けれども彼女は、そのことを全く気にかけておらず、兄の月ヶ瀬専務から紹介された企業には目もくれないで、「次よ、次」と就職活動を止める気配はない。

 僕はというと、静馬とは冷戦状態れいせんじょうたいが続いている。秋穂からは冷たい視線にさらされていた。あの時、部屋のドアが開いた気がしたが、やはり秋穂が持ち忘れたかばんを取りに戻ったらしく、彼女は僕と沙耶のセックスを見てしまったようだ。

 それでも終業式の日、秋穂は僕が一人でクラスを出ていこうとするのを呼び止めてきた。

「夏休みはどうするの」

 何の意味のない問いかけであった。

「バイトかな、卒業したらあそこを出るから」

「ふうん、沙耶さんと」

「たぶん違う。彼女は就職次第だけど、家に残ると思う」

「そう……」

 秋穂はうなづいた。彼女の瞳が、わずかに揺らめいている。この瞳で僕と沙耶の痴態ちたいを見つめたのだろうと思うと、ひどくばつが悪い。

「君は、どうするの」

 その気持ちを誤魔化すようにそう訊ねた。

「今のところ、特別な行事はないかな。海に行くぐらい」

 そう答え、僕は「そう」と頷いて見せた。

「じゃあ、二学期の始業式に」

 とそう僕は言ったが、彼女からはそれに対しての返答はなかった。仕方ないので廊下を歩き始めた。

「あのね……」

 と秋穂が声を張った。

「わたし、また青地君と付き合うことになったの……」

 怒ったような、べそをかいたような、それでいて何か強い意志を感じられる顔つきだった。

「うん、そう。よかったじゃないか」

 僕は足を止め振り向いた。彼女には珍しくるような視線を投げかけてきた。

「わたし……気持ち変わらないから。あんな姿見せられたら退けない。わたしだってあれくらい、向島君にしてあげられるもの……」

 今度は秋穂が踵を返すと小鹿がねるようにクラスの中に消えていった。

(……なんだ、どういうことだ)

 気持ちは変わらないという言葉が急に重く圧し掛かってきた。じゃあ、静馬と付き合うというのはどういうつもりだ。

 トラブルの芽が盛大にいたような感じがする。

(やめてくれよ、やっと落ち着き始めたというのに)

 僕は心の中で、そう泣き言を繰り返している。

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金のわらじをはく 八田甲斐 @haxtutakai

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