第11話
(三十二)
どうやら就職活動というものは、沙耶の思っていたようなものではなく、
その部分だけを切り取れば、
大きく変わったといえば、前の牟田口に関わる話をぷっつりとしなくなったことだ。まるで、そういった過去など無かったかのように
しかしそれと反比例し、僕の精神は
沙耶が牟田口とのあれこれを口にしなくなったものの、僕の記憶には沙耶の話した牟田口とのことが完全に
彼女を愛していながら、どこかで同時に
沙耶と牟田口に逢う為に通っていた門前仲町を含む「
(こんなの、おかしい、なんで自分が彼女に怒りを感じるんだ)
沙耶が間違ったことをしたのか、ただ彼女はごく普通に牟田口と恋愛をしていたに過ぎない。そして別れた、それだけだ。すべては彼女が決め、実行したのだ。そして、そこに一つも誤りはないと思う。
沙耶は僕を信頼し、四年も付き合っていた恋人との別れに
そう言い聞かせても、その感情は事ある
どんなに僕の行為が粗暴になっても、沙耶は受け入れてくれていた。
(三十三)
夏休み前の期末試験が終わった。静馬と秋穂とは相変わらず距離を置いている。静馬とは絶交を言い渡されており、彼は進路を理系にしているので、ほとんど会うことは無くなった。だが、秋穂とは一緒のクラスだ。僕は出来る限り彼女の側に行かないようにし、彼女もこちらの気持ちを理解しているらしく、時折寂しそうな
期末試験最後の科目は英語で、その試験が終わると、クラス中に試験が終わった喜びや、これから
やはり僕は病んでいるのだと思う。クラスメートの
一人でいると、絶えず沙耶のことを考えている。彼女を求めて心が
日に焼かれ、汗が若干浮いている。どこにも寄らず、住いの近くまで来ていた。工場やオフィスビルが建つ一帯は、人や車の
背後から誰かが走ってくる足音がした。反射的に沙耶かと思って振り返ると、秋穂だった。何だという失望と、何でという
彼女は息を切らして僕から二メートルほど前で立ち止まった。
「……なんで
息を継ぎながら秋穂は言った。
「避けてはいないけど、僕ら少し距離を置いた方がいいとは思っている」
そう答えると、彼女は下を向いた。高校から僕を追いかけて走り続けてきたせいだろうか、秋穂の額や首筋から汗が流れ落ち始めていた。
「うん、……そう、でもそれが避けていることじゃない」
何故だか、いつもより彼女は綺麗に見えた。汗をかき、細い肩をすぼめるようにして立つ秋穂は男の保護本能を
「静馬とは、どうなの……」
そう訊ねると、秋穂は首を力なく横に振った。
「目も合わせてくれない」
会社員らしい三人連れが、僕らを迷惑そうに避けて通り過ぎた。
「……ここじゃなんだから、僕の部屋にくる」
まずい事を言ったという気はした、でも自然とそう口を突いて出たのである。なぜ、言ってしまったのだろう。
「いいの……」
秋穂は
「いいよ、ここではきちんと話も出来ないし」
そう言い終え、そのまま住いのある印刷会社へ歩き始めた。秋穂が付いてきているのは分かっていたが、会社の門を通り抜けるまで振り返らなかった。まずいなという気持ちはさらに大きくなって、今では後悔に変わり始めている。
敷地内にある二つの工場からは盛んに印刷機が回っており、ここからは見えないがバックヤードの方向からはフォークリフトが
僕の部屋がある本社ビルのロビー前には
ビルの脇を回り、社宅用の通用ドアをカードキーで解除し、僕はビル内に入った。ビル内は全館冷房が入り涼しかった。通用ドアを潜るとき、ちらりと本社ビルの背後に建つ、沙耶の自宅に目をやった。沙耶からは、今日二次面接があると聞いている。もう帰ってきているのだろうかとふと思った。
部屋に入るまで、幸い誰にも会わずに済んだ。データ管理と大判プリンタ部門の部屋は誰も居ないようだ。
「上がって、朝起きた時のままだから、散らかっているけど」
そう言い、朝起きたままに
「上がりなよ」
と僕が呼んだ。
秋穂は誰も他に居ないのに「お邪魔します」と小声で
彼女を罠にかけ、部屋に連れ込んだような感覚がある。彼女の小さく
男子高校生の一人住まいの部屋を秋穂は
「その辺りに座っていて、今、飲み物入れるから」
そう言うと、秋穂が両手を振って「ああ、いいよ、気を使わないで」と遠慮する表情も可愛いと思ってしまう。
僕はどうかしている、得体の知れぬ獣が心に
冷たくなったコップを両手に持ち、部屋に戻ると、秋穂はベッドが唯一視界に入らない位置、つまりベッドを背にし座っていた。「はい、どうぞ……」と両手に持っているコップの一つを彼女の前に差し出した。
「ありがと……」
「おいし、……走ったから
こちらの視線に気づいたのだろう、彼女は恥ずかしそうにコップを
「……」
「男の人の部屋って、こうなのね。……結構整頓されてる」
「……仮住まいだからね、いつかは出て行かなければいけない部屋だから、そうそう好き勝手に使えないんだ」
この部屋を去る日は、そう遠くないはずだ。それに、こうして沙耶や秋穂を
「そうなんだ、どうするの」
「どこか働いて、アパートでも探すしかないんじゃない」
「本当に大学へは行かないの。成績、悪くないよね」
「ああ、いかない。高校出たら働く」
「……それは向島君の勝手だけど、……じゃあ、高校を出たら私達バラバラね」
「そうなるかもね、秋穂は大学行くんだろ」
僕は麦茶を一口飲んだ。そして、自分が彼女を八嶋さんと言わず、秋穂と呼んでしまったことに気付いた。彼女もそれに気づいたようだ。
「……行けと言われている、親から」
秋穂の返事は
「行った方が良いと思うよ。うちの高校は進学校だから、入る時点で大学進学は決まっているようなものだし、それに、あき……八嶋さんは俺より成績良いしさ。ああ、そうか、静馬と進路が違うから合わせるの大変かもしれないな」
再び秋穂と呼びそうになり、慌てて修正した。秋穂は静馬の彼女だ、そう思いつつ相変わらず獣の様な衝動を
「……彼のことは良いの、……それより、今、秋穂って呼んでくれたでしょ、これからもそう呼んでも良いよ」
彼女は白い首まで赤く染めて、そう告げてきた。
くそっ、どうしたんだ、彼女が欲しくて仕方がない。沙耶の事を頭から追い出して、欲望のままに秋穂を抱きたいと思い始めている。
「それに青地君とは、大学一緒にするとは決めていないから……」
「そうなの」
「うまくいかないかもしれない、青地君とは……。私はあなたが良い」
こちらを見つめ秋穂はそう言った。僕は秋穂に
「……お代わりを注いでくるよ」
だが、そう行動したことで、彼女を少し大胆にさせたのかもしれない。掴む指の力が増してきた。そのため、僕は彼女のコップを掴み損ねてしまい、コップはからんと横に倒れ、少し残っていた麦茶の輪をローデスクの上に広げ始めた。
「あっ、拭くものを」
と
「好き……」
そう言った。
目の前に細い小柄な秋穂の身体がある。身体の造作は沙耶とは全く違うが、それでも十分魅力的だ。空いている左手を彼女の腰に回すと、弾力のある尻の
女性の身体は沙耶から教わった。だから、女性の身体に
それを実行するだけだ、と僕は沙耶を想い浮かべつつ、次の行動に移ろうとした。秋穂の身体が
(三十四)
部屋のドアが開いた。最初に気付いたのは秋穂だった。彼女は「はっ」と強く息を吸い、身体を縮めるように僕から急に離れた。リクルートスーツ姿の沙耶が玄関に立っていた。
「ごめんなさい……」
と、我に返ったのか下を向いてこちらも固まったまま僕に隠れるようにしていた秋穂が、素早く沙耶の横を駆け抜け、靴を突っかけるように部屋を飛び出していった。玄関には秋穂の
「……なんで」
そう僕を見つめたまま言い、沙耶はゆっくりと
目撃した光景から逃げるように沙耶もまた、部屋を出ていくだろうと僕は思っていた。彼女はプライドが高い、だからこのような状況は認められないだろうからだ。なのに彼女はこちらを見つめたまま動こうとしない。
「なんで……」
声は先ほどより大きく、そして
(どうして怒らないんだ、
そう思った時、なぜか逆に僕の心に怒りが湧き上がってきた。考えてみれば、これまで胸の中で抑えていた様々な沙耶と牟田口との事への怒り、それと秋穂を抱く
加えて怒りの発端でもある沙耶への強い欲求が突き上げてくる。秋穂を抱こうとした獣はまだ身体に
立ちつくしたまま動かない沙耶の身体を荒々しく引っ
「だめ」と沙耶は言ったが、「やめて」とは言わなかった。ブラに隠れきれない盛り上がる二つの丘の間に僕は顔を押し付け、唇に触れた肌を強く吸った。肌から汗と香水、そして微かにたばこの
「……だめだよ」
彼女はそう言い続けた。僕は構わず、弱弱しく
その最中、何度目かの行為の時、部屋のドアが開かれたような気がした。誰かに見られたと思ったが、気にしなかった。ただ、沙耶の身体に自分をぶつけ続けた。僕は狂っていたのだ。そうとしか言いようがない、普通なら沙耶に対しこんな暴力的な行為をする自分が許せないはずだ。これは愛の
いつしか、犯されている沙耶も、あられもない声を上げ僕の動きに応え始めている。自分の獣じみた感情が移ったに違いない。沙耶は僕に爪を立て、僕の上や下でのたうち回ったのだ。
開かれたドアがいつ閉じたのかは知らない。誰かが僕らを見ていたのは事実だと思う。
嵐が去り、汗にまみれた沙耶の身体を見下ろしながら、僕には後悔しか浮かばなかった。こんなことを彼女に
(最低な男だ)
そう思った。
やがて、沙耶はのろのろと身を起こすと、脱ぎ散らかした衣類を黙って一つ一つ身に着け始めた。彼女は打ちのめされたように見え、
扉を開け、よろめくように疲れ切った背中を見せて出ていく沙耶に僕は「ごめん」と言った。それが彼女に聞こえたかどうか分らなかった。
何時の間にか秋穂の
時計は午後の六時を指していた。
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