くびれるろ

 雷門らいもん桃李とうりッス。

 ——筋肉がすごい? アザッス。小学生の頃から野球やってるんで、基礎体力が大事ッスから。

 ——はい、今もやってます。……って言ってもプロとかじゃなくて、地元の草野球チームなんスけど。あと、近くの小学校で少年野球のコーチもやってます。子どもたち、活気がすごくて。ああ、自分も昔はこうだったな……って、懐かしい気持ちもありつつ、厳しく指導してます。子どもの頃は「プロ野球選手になって無人島に豪邸を建てるぞー!」とか思ってましたけど、現実は厳しいッスね。今でもプロになる夢を見るぐらいには諦めきれてないッスけど、昔の野球仲間と子どもたちとでワイワイやるのも楽しいって、本当に思ってます。

 それに、野球を通して学んだこととか経験は全部ムダじゃないって思ってます。——そうッス。大学では農学部を専攻してて、卒業して今はオヤジの畑次いで農家やってます。例えば、地道な努力とか、忍耐力とか、そういうのがないと農業って続かないッスからね。別に野球じゃなくても身に着くことッスけど、自分の好きな野球で得られて良かったなって思ってます。

 そうだ。今日は明道あけみちあかねさんのことで来たんスよね? 昔のことが聞きたいとかなんとかかんとか。昔って言っても、俺なんか5年前まで……高校3年間だけクラスが一緒だったくらいで、そんなに接点なかったんで、お役に立てるかどうか……。

 いや、それにしても。明道さんが女子のコイバナにあんまり興味示さなかったのも納得だな。枯れ山水がお好みだったとは。先月の同窓会では何も言ってなかったのに————あ、イイヒトじゃないんスね。じゃあ月刊ムーの記者さん? ——探偵さん? ひょっとして、どっかの宗教団体——さすがに違うかあ。——え、警察? 明道さん、何かしたんスか?  ————行方不明? フラッととこかへ行ったとかじゃなくて? ————はあ、なるほど。この前会ったときは普通でしたけどね。新社会人で早速くたびれてるやつとか、結婚して子ども連れてきてるやつとかいる中で、全然変わってなくて。比喩とかじゃなく、高校生の時のままみたいな感じでした。

 そういえば、今日は明道さんの高校時代の話をすればいいんスよね?

 ——まあ、友達は多かったと思いますよ。俺らの通ってた学校ってここより都会だったから、方言混じりの喋り方をしてた明道さんはちょっと目立ってたし。——昔はこの辺に住んでた? へえ。それにしても、俺ら世代だとあそこまで訛りませんよね。おばあちゃんっ子だったとか? まあ、珍しがられてたっていうのと、気さくだし、どんな奴ともすぐ打ち解けられるしで、クラスの妹キャラみたいな感じでした。告ったって同級生もチラホラいましたよ。ほら、明道さん、結構かわいいじゃないッスか。童顔で、背も他の女子より一回りくらい小さくて、制服着てても「本当に同じ高校生か?」って疑っちゃうくらい。あと黒目がデカくて、髪の毛がフワフワしてて、守ってあげたくなるっていうか。狙ってた奴は少なくなかったと思います。

 狙ってるといえば、オカ研のやつらは明道さんによく絡んでましたね。「UFOがー」とか、「呪術がー」とかなんやらかんやら。2年の時に明道さんが占いにハマってた時期は、先生に怒鳴られるくらいの勢いで勧誘してましたね。

 ————そう。占い。もうめーちゃくちゃ当たるんですよこれが。手相とかタロットカードとか色々やってたみたいなんスけど、なんだっけ……星座が描いてるやつで……『ホログラム』みたいな名前の……、——そうホロスコープだ! それは特に人気でした! 俺も一回占ってもらったんスけど、ほんとにその通りになって。明道さんの席にお供え物すると良いことがあるって噂まで流れてましたね。まあ、オカ研と揉めてからは占いも辞めたみたいッスよ。

 ————ああ、その辺りは俺、当事者じゃないんで。オカ研の誰かなら詳しいと思います。あとは観月みづき……観月ありすって言って、明道さんと一番仲が良かった子で。そいつも詳細を知ってると思います。

 ——観月を紹介してほしい? いやいや、あいつ気が強いし、オカルト話とか嫌いなんでやめといた方がいいッスよ。近くでそーゆー話してるのを聞いたらものすごい剣幕で食ってかかってましたから。————そこまで言うならいいッスけど。

 明道さんについて知ってることといえば、それぐらいッスね。特別親しかったわけじゃないんで。あとは……「明道さんの周りでは不思議なことが起きる」って噂だけ。大っぴらに言えたものじゃないッスけど、そう信じてた奴、少なくないッスすよ。俺もその1人で。まあ、俺の場合は夢かも。

 ……でも、夢のはずなのに、「事実は小説より奇なり」みたいな感じで、どんな現実よりも現実らしく、今でもはっきりと思い出せるんス。




 少しでも野球の強い高校に行きたくて、県内で甲子園への出場数が一番多いあの高校に進学したのはいいものの、野球部に入部してすぐに中学までの、あの田舎っぽい緩めの雰囲気は甘えだったって思わされました。「甲子園に出場しなきゃいけない」っていうプレッシャーがヒシヒシと伝わってくるくらい、部内はいつも殺気立ってて。先輩やコーチは血の気が多くて、怒鳴らない日はなかったし、妥協と諦めは一切許されないっていつも威圧されてて。そのうえ同じ1年だけで中学の時の総部員数より多かったから、みんな秋の新人戦ベンチ入りか、あわよくば夏の甲子園も狙ってました。とにかく必死で、我武者羅で、無我夢中な奴らばっかり。思い出に、とか、とりあえず、っていう、中途半端な奴は誰一人いなくて。本気の仲間がほしいとは思いましたけど、いつ殺しにかかってくるかもわからないライバルが欲しかったわけじゃないって、ちょっとショックでした。

 おまけに進学校だったから勉強も厳しかったんス。推薦で入学できたのは良かったものの、部活の練習だけで手いっぱいなのに勉強なんてままならなかったッスよ。授業中は大体寝てたし、家に帰ると疲れて寝ちゃうから、行きと帰りの電車の中で課題をこなして。テスト期間中は野球部も練習が休みだから、その間はずっとガリ勉くんになって。それでやっと赤点回避。部活でも勉強でも中途半端な成績しか残せなくて、1年生の間はずっとモヤモヤしてました。

 なにがいちばん辛かったかって、電車通学ッスよ、電車通学。毎日片道2時間弱かけて通学していました。特急なら乗り換えもなく、もう少し早く着くんスけど。

 ————いやいや、特急電車で通学なんて、電車賃どんだけすると思ってるんスか。ブルジョワじゃあるまいし。大人しく鈍行で通ってました。特に面倒だったのが、学校の最寄りの2駅手前の乗り換えッス。その乗り換え待ちの時間もまた長いときた。おまけに電車は1時間に1本しかないから、乗り遅れたらその時点で遅刻確定。夜なら深夜帰宅確定。酷けりゃ家に帰れない時間になることもありました。そんなだから毎朝始発に乗って、帰りはほとんど終電。電車代と乗り換え待ちの時間が勿体ないから、本来なら乗り換える駅で降車して、ランニングがてら学校まで片道20分くらいの道のりを走ってました。

 ————3年間ずっと? まさか。流石にキツくて、2年からは寮に入りましたよ。親にも心配されてましたしね。

 そんな生活をしていた1年生の冬のことでした。時期はバレンタインデーの少し前で、大寒波のあった次の週でした。

 冬って空気が澄んでて運動しやすい代わりに、本当に体力が削られるんスよ。その日は特に絞られた日でした。チームメイトのミスが原因で「連帯責任だ」って言われて、練習後に追加で7キロくらい走らされてヘロヘロで。いつもより遅い、夜の10時台に駅へ到着しました。駅構内のベンチで座って、練習の汗が引くと同時に手のひらのマメが冷たい空気に締め付けられて、ジクジクと痛みました。

 そんな状態だったんで、電車に乗ってすぐに強い睡魔に襲われました。


 冷たい空気が一気に入ってくる気配がして、目が覚めました。電車はどこかの駅に停車して、乗降者客を待っているようでした。

 しばらくドアを見つめていたんですが、いつもは1分くらいで閉まるはずなのに、その時は一向に閉まる気配がなかったんです。「特急電車の追い越し待ちか?」とも考えました。ところが電車の近づく音も聞こえないし、特別アナウンスがあるわけでもなく。スマホでときどき時間を確認しながらドアが閉まるのを待っていましたが、5分も経つと流石に変だと思うようになりました。周囲を見渡すと、俺が乗った時にはまばらに座っていた乗客も、いつの間にか全員降りていたようでした。

 俺は車掌室に行って状況を確認しようと思い立って、一度外に出ました。車両間のドアをいちいち開け閉めするのも面倒でしたから。俺が両足をホームにつけた途端、すぐ後ろでドアが閉まりました。「ドアが閉まります」の声もなく、まるで俺が外に出るのを待っていたみたいでした。振り返った時には電車はもう動き始めていました。

 暫しあっ気にとられていたものの、外灯はなく、月明かりを頼りに目を細めて周りを見渡しました。2本の線路と、歩道橋を伝った向こう側にもう1つのホーム、待合ベンチもなさそうな小さな駅舎しかありませんでした。この辺りではよくある、無人駅だということがわかりました。

 俺はポケットから学生証を取り出し、1ページ目を開きました。確認しやすいよう、ポケット時刻表を挟んでいたんス。————ポケット時刻表、知りません? 駅で「自由にお取りください」って置かれてるやつで、時刻表が小さく印刷されてて。……3つ折りにできるんスけど。ほら、ホームにある時刻表看板が小さくなったような。——はあ、都会にもなると線がゴチャゴチャしてるし、ないんスかねえ。————スマホで見た方が早い? まあ、そうッスけど、面倒じゃないッスか。

 時刻表を確認すると、俺が乗った時刻の電車が終電でした。実はそういうことはままあったんです。コーチに途中まで車で送ってもらって、親の車に合流して乗り換えることもありました。仕方がないので親に連絡しようとスマホを開いたとき、電波が繋がっていませんでした。この辺りは山の中を掘って線路を通しているので、圏外になるところもままあるんス。「タイミングが悪いな」とひとり呟きました。立たないアンテナとは対照的に右側からあまり動いていないスマホのバッテリー表示が恨めしかったッス。

 ジッとしていても体が冷えて辛いだけなのは目に見えていましたから、俺は駅から出ることにしました。外灯もない中、月の光だけが頼りで、そこまで寒くないのに、吐く息がやけに白かったです。手のひらのマメはあまり痛みませんでした。

 改札横の駅員室にはシャッターがされていて、駅員はもちろんいませんでした。最近は無人駅にもICカード用の改札機なんてものもありますけど、当時は無人駅の中でもよく使われる駅に設置され始めたくらいでしたから、そういったネオンチックな光源も当然ありませんでした。

 駅の改札を通って、想像通りベンチもない待合室を抜けて屋外へ出ました。晴れていたはずの空は黒く淀んでいて、月が辛うじて顔を覗かせているばかりでした。周りには構内と変わらず外灯が見当たらず、光がいつ途切れるかもわからないのが不安に感じて、俺はスマホのライトをオンにしました。振り返ると、駅舎の壁に木が掛かっていました。そういえば、駅の名前を確認していなかった、と、その木をライトで照らしました。なんていうんですかね、書道家の人って達筆じゃないですか。達筆すぎてわからないみたいな、そういう感じでした。————いや、俺には読めなかったってことですよ。

「どこかに民家があれば、そこで電話でも借りよう」そう思って歩き始めました。

 道という道もなく、かといって民家もなく。少しだけ整備された公園がずっと続いているような、そんな道だったように思います。起伏の多い道で、俺を囲むように聳える黒い山々が遠くに見えていました。10分は歩いていたように思います。目印も、当てもないまま歩いて、そこでやっと、いくら山の中だからといって車道の1本もないのはおかしいことに気が付きました。荒々しい風が耳元を切るように吹き抜けて、背中からブルルと震え上がりました。冷え切った手で耳を覆うと、少しだけじんわりと温かくなった気がしました。スマホを見ると、寒さのせいかバッテリーの残量が半分ほどであることを示していました。

「もう少しだけ民家がないか探そう」「駅まで戻ったら公衆電話があるはず。それか線路沿いに電波の届くところまで歩こう」2つの考えがぐるぐる回りました。今思えばかなり危なかったのかもしれません。

 ふと、乾いた空気が2つの音を響かせました。

 ドン、ドン、ドン。シャリン、シャリン、シャリン。

 それは神事に使う太鼓と鈴の音に似ていました。さっきまでは聞こえなかった音に、気分が高揚しました。自分以外の人をやっと見つけたのだという安堵感さえありました。

 その音に吸い寄せられてフラフラと歩いていくと、すぐにスマホのライトが人の足を照らしました。そのままライトを上に向けると、そこに立っていたのは男性でした。歳は……70歳くらいッスかね。節分に配られている鬼の面を、何倍か怖くしたような顔の面を被っていました。左足がなくて、長ズボンが、風に煽られてゆらゆら揺れて。

「なんだあ、お前。そこの駅で降りてきたのか」

 数日ぶりに人の声を聴いたような気分になって、目頭が熱かったです。

「はい。……あの、間違えて降りてしまって、終電で」

 しどろもどろになりながらも、ジェスチャー交じりに状況を伝えると、男性は分かってくれたようでした。

「近くにトラックがあるから、送ってやる」

 背を向けて歩き出した男性に着いていきました。太鼓と鈴の音はいつの間にか聞こえなくなっていました。

「そういえば、太鼓と鈴の音が聞こえたんですが」

「ああ、俺が鳴らしてたんだよ」

「はあ……」

 男性は何も持っていませんでした。スマホで鳴らしていたのか? とも思いましたが、聞こえなくなるまでの間に男性がスマホを操作していた様子もありませんでした。

 いえ、そんなことはどうでもいいんスよ。そんなことより、どうやって。

「これが俺のトラックだ。乗れ」

 片足がないのに、杖も持たずに、この人はどうやって歩いていた? それに気づいた瞬間に汗がジワリとにじみ出てきました。気温とは違う、何かうすら寒いものを感じて、その場から動けなくなりました。とにかく、この人から離れなければならない。バッテリーの残量表示が赤色に変わりました。

「いえ、あの、電波繋がったんで、大丈夫です。親に迎えに来てもらうんで。ありがとうございました」

「こんなところでケータイの電波なんかつながるわけがないだろう。おくってやるから乗れ」

 男性が俺の腕をガッと掴みました。ジュゥと肉の焼ける音が聞こえそうなくらいに熱い手でした。

「おくってやる、おくって、おお、くってやる。赤い水、かぶったらくびれるろ」

 人間じゃない。人間だとしてもヤバイ人だ。俺はその手を振り払って逃げようとしました。

「すみません。ほんとに、お気持ちだけいただくんで。大丈夫です。大丈夫」

 だけど、俺の腕を掴む男性の力が段々と強くなって、離そうにも離せませんでした。

「ここにおったんや」

 聞いたことのある声。明道さんが暗がりに立っていました。右手に持ったビニール袋がガサッと音を立てました。

「もうすぐ電車が来るよ」

 明道さんはまっすぐ俺たちの方まで歩いてくると、男性の、先ほどまでと比べて異様に太くなった腕に手を添えました。すると男性の手の力が一瞬で緩み、俺はその隙に振り払いました。

「くびれるろ。くびれるろ?」

 男性が明道さんの方をゆっくりと向きます。先ほどよりも頭3つ分ほど上にあるその顔は、男性のつけているお面と同じ、鬼でした。そして明道さんの両肩を掴んだんス。もう駄目だと思いました。

「早う去ね!」

 そう叫ぶと、男性の二の腕を手のひらで思いっきり叩きました。すると男性はくるりと背を向けて、

「つぎ、つぎ。赤い水かぶったらくびれるろ。くびれるろ」そう言って立ち去りました。

「駅に戻ろか」

 明道さんは何事もなかったかのように歩き出しました。何も聞くな、とその背中が語っているようでした。俺もその後をついて行きます。

「終電はもう過ぎただろ」

「イノシシにぶつかって止まってたんやって。代走してくれるらしいで」

 今思うと、答えのような、そうでないような返事でした。イノシシや他の動物が衝突して電車が止まることは月に1度あるかないかで、ありえなくはないッスけど、でも俺の乗っていた電車が勝手にどこかへ行ってしまったことの説明にはなってませんよね。だけどその時は寒さで頭が冷え切っていて、そんな考えにはならず、「そうなんだ」と返事をしました。

「スマホ、切っておいた方がいいんとちゃう。もう充電ないやろ。私のスマホつけとくから、切っときよし」

 なぜ知っているのか。スマホを確認すると、あと2%で、俺は慌ててライトを消しました。

 駅からかなり歩いていたはずなのに、少し歩くともう駅の前でした。

 駅のすぐ横に「いももち」と書かれた屋台がありました。こんな夜遅くに? とは思いましたが、屋台から漂う甘い匂いを嗅ぐと、急激にお腹が空いてきました。その日は部活前に間食をしたっきり、何も食べていなかったんス。————ああ、いももちっていうのは地元の名産で。さつまいもともち米でできた餅であんこを包んでるやつッスよ。……そうだ。ここから車で20分くらいのところにオススメの店があるんで。この話が終わったら、メールで住所送っておきます。

 俺はあんこときなこの甘い匂いにつられて、そっちの方へ歩いて行こうとしました。お礼も兼ねて、明道さんにもおごるつもりで。でも、明道さんはそんな俺の腕を掴みました。

「食べたらあかんよ」

「なんで」

「美味しくないから」

 美味しくないというのが嘘に思えるほど、いい匂いでした。それと同時に空腹感が強くなって、どうしてもそれを食べたい、という衝動に駆られました。

「俺、ちょっと買ってくるよ」

「あかん。電車に乗り遅れる」

「走れば大丈夫だよ。先に行ってくれればいいから」

 そんな問答を繰り返して、明道さんは呆れたようなため息をつきました。子どもっぽいと思われたかも、とは思いましたが、俺も引くに引けなくなってて……。

「これ、あげる」

 ビニール袋から取り出したのは桃でした。その桃は、お腹が空いてたっていうのもあったんスかね。今まで見たどの桃より美味しそうで。差し出されたそれを受け取りました。

 その桃を一口食べると、不思議とお腹が満たされて、全部食べ切る頃には、さっきまであんなに強かった「いももちを食べたい」という気持ちも収まってきました。

「早よう行こ」

 そう急かされて、残った種をティッシュに包んでから、ポケットに入れて明道さんの後を追って駅舎を抜けました。

 ホームに入ると、ちょうど電車が止まっていて。俺たちがそのまま電車に乗り込むと、降りた時と同じように、アナウンスもないままにドアが閉まりました。

 2人並んで座っていると、また抗えない眠気が襲ってきて、俺はそれに身を委ねました。


「雷門くん、終点やよ」

 気が付くとまたドアが開いていて、冷たい空気が俺の頬を撫でていました。

 どれだけ寝ていたのか、頭がズキズキと痛んで、冷たい空気と手をつないだマメも痛みます。先ほどまでのことは夢なんじゃないかとうつろに考えていました。

 明道さんの後をついて、俺は電車を降りました。今度は閉まることもありませんでした。ちゃんと自分が降りるはずの駅で、ホームの奥にある改札では、降車客が駅員に定期券を見せているところで。

 改札を抜ける明道さんに「明道さんの家、反対方向じゃなかった?」と聞くと、「今日は親戚の家に泊まりに来てん」振り返らずにそう答えました。

 歩く脚に、何か硬いものが当たって。ポケットを探ると、ティッシュに包まれた種でした。そこでやっと意識がはっきりして、あれが夢でなかったのだと気づきました。

「桃、ありがとう」

「なんの話?」

 右手に持った袋をガサリと鳴らして、明道さんは停車スペースに停めてあった車に走っていきました。

「ヤス子さん。お久しぶりです。これ、うちの母から」

 フロントガラス越しに見えたのは、40代程度の女性でした。明道さんの言っていた親戚だったんでしょう。

「ありがとう……やだ、この桃、腐ってるじゃない」

 やっぱりあの夢は夢じゃなかったんだ。俺はそう思って家に帰りました。




 その時の種から生えたのが、あそこにある木ッス。たまに、桃以外の実も成るんスけど……植物って奥が深いッスよね。

 そう思うことにしておきます。

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あなたの轍 下村りょう @Higuchi_Chikage

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