あなたの轍
下村りょう
母親失格
——
えぇと、何から話せばいいんでしょうか。
——そうですね。
正直、あの子の話をするのも何年振りか……。家から追い出したのももう大分前ですし、大学生になってからは一度も会っていません。成人式も写真はがきが送られてきたくらいで。……気にはかけていたんですよ。でも、時間が経つにつれて「私なんかが今更……」と会う勇気もなくなってしまって。私の一時の怒りでこんなことになってしまって、本当に情けないです。
——家が広い? ああ、娘……茜の4つ上の姉で、
……ああ、すみません。都会の人はこんな話、興味ないですよね。話し相手がいないと、おしゃべりが多くなっちゃって。
茜の話に戻りましょうか。そうですね……茜は私の2番目の娘でした。人懐っこくて、好奇心旺盛で。
これ、アルバムです。——天然パーマがすごいでしょう。義父譲りなんです。目が真ん丸でくりくりしてて、お人形さんみたいでした。こっちが生まれてすぐで、こっちが初めてお風呂に入った時の。お風呂が気になってしょうがないって顔で、「お母さん、これ何?」って顔が本当に可愛くて。茜がお湯をパチャンパチャンって手で叩いて喜んでる間に大急ぎで体を洗ってました。ああ、懐かしい……。
うちの場合は長女の陽依が怖がりでよく泣く子だったので、赤ちゃんの頃から誰に抱かれてもニコニコしている茜は手がかからなくて楽でしたね。陽依が誰に会っても泣き叫ぶ子だったので、妹の茜も赤ちゃんの頃は私の両親や姉弟以外の人には会わせないでいました。今となっては、それが悪かったのかも、と思っています。
歩き回るようになってからは全く知らない人にも自分から抱かれに行ったり付いて行ったり。ほら、向こうに縁側があるでしょう。——そう、あの廊下のようになっているところ。茜はいつもあそこで姉を追いかけて遊んでいました。曲がり角でぶつかった姉が泣き出して、何度茜を叱ったことか。
そういえば2歳の頃だったか……、茜がどこかへ行ってしまったことがありました。家族で近くにある神社の隣の公園で遊んでいた時でした。陽依と2人でブランコで遊んでいるのを見ながら夫と話している間に消えたんです。陽依の泣き声が聞こえてから振り返ったらもういなくて、陽依に聞いても泣くばっかりで。警察と親族とで探したのに見つからなくて、あの時は誘拐されてしまったか、山の動物に襲われたんじゃないかと気が気じゃありませんでした。
それなのに1週間ほど経ったら同じ公園で1人でブランコを漕いでいるところを保護されたんです。怪我も何もなくて、変わってたところは頭に乗せた葉っぱくらいで、怒ればいいのか安心して泣けばいいのかわからなかったのをよく覚えています。まだ上手く話せる歳でもなかったので、どこへ行っていたのか尋ねても「こんこんとあそんでたの」と言うばかりで。神隠しだったんじゃないかって協力してくれた方々は笑ってみせてくれました。
そんな不思議な話はたくさんありますね。何もないところで誰かと話している素振りを見せたり、どこかに行ったり。私たちに見えない『何か』が視えていたんだって、受け入れてあげればよかった……。
——茜がこの家を離れたきっかけ? ……そうですね。その話をしなければ、なりませんよね。
きっかけは私の姉、茜の伯母にあたる、セツ子の今際でのことでした。
写真は……ありました。右の方で男の子を抱いている、ベリーショートの女性がセツ子です。
セツ子は私の12歳上の姉です。歳こそ離れていますが、私たちは本当に仲が良かったんです。彼女は見た目通りの快活で勝ち気な女性で、高校を卒業してから30代までバスガイドを勤めていました。バスガイドを辞めてこっちに帰ったタイミングで、父がセッティングしたお見合いで旦那さんと結婚して専業主婦になって。茜の……7つ上だったかな? そのぐらいの息子が一人います。
私の家系は……遺伝なんでしょうかね、癌に罹りやすいようで。思えば母も若くして亡くなりました。当時44歳だったセツ子も例に漏れず肺癌に蝕まれてしまいまして。抗がん剤治療を始めてからは、髪も抜け落ちて、何も喉を通らないせいでどんどん痩せていって、本当に辛そうで…………すみません。もう昔のことなのに、涙が……。
それでも、緩和ケア病棟に移動してからは幾分か落ち着いているように見え、状態が良ければ週明けにでも退院を、と医師から言われていました。
その頃になると、セツ子も色んな人に会いたがりました。自分の最期がわかっていたんでしょうね。友人からバスガイト時代の同僚、果ては小学校の頃の担任まで、本当に色んな人に。最後に茜を会わせたのもその時でした。
その頃の茜は保育園に入ったばかりで同年代のお友達が新鮮だったのか、毎日泥だらけで帰ってきてはお風呂に入って夕飯の時刻まで眠りこけていました。そんな状態だったから連れていくのも難しくて。でもセツ子が会いたがっていたので、保育園の先生に遊ばせないように見張ってもらって、ようやく連れていくことができました。
やせ細って頬のこけたセツ子を見た茜は、はじめこそ少し怖がるような反応を見せていましたが、「セツ子おばちゃん」だとわかると抱っこをせがんでいました。
「きのうねえ、おばあちゃんにおうたよ!」
「茜ちゃんはおばあちゃんのことが好きなんやねえ」
「うん!」
私の母、茜から見て祖母は、茜が2歳の頃に亡くなりました。子どもの記憶力は侮れない。といいたいところですが、今思えば茜にはずっと視えていたんですかね。母も、それ以外の人も。……あるいは人でない「何か」も。
「おばちゃんも、昨日夢でおばあちゃんに会うたよ」
「母に会った」というのは、その頃の姉の口癖でした。病気に罹った人はよく死んだ人について語ると言うじゃないですか。ナーバスになるとそういうことを考える気持ちもわからなくはないです。担当医は「楽しい思い出を、少しでも永く」と、力を尽くしてくれていましたが、姉の口から「母に会った」と聞くと、もう、ダメなんだと、ただただ無力感が……。「姉が少しでも永く生きていられますように」と願うばかりでした。
『セツ子な、もうあかんらしいわ」
最期に顔見せたって。義兄からそう連絡が来たのは、セツ子と茜を面会させた、その日の夜でした。
迎えに来るという義兄の言葉を待ち、居間で準備を済ませていましたが、私は居ても立っても居られず、外で待つために玄関に出ました。鍵を開けようとした時、木の床の軋む音が聞こえます。何か嫌な視線を感じて私はハッと振り返りました。
まさか泥棒? いやそんなはず。
玄関脇の階段の、その前に何かが立っていました。目を凝らすと、暗がりに慣れた目が捉えたのは茜でした。茜が電気も点けず、真夜中の廊下にひとりポツンと立って私を見上げていたのです。
私は少しの安堵と、今にも姉が亡くなってしまうかもしれないという焦燥感、それから娘から感じた嫌な感情が混じり合って、暫しの間声がでませんでした。先に茜が口を開きます。
「おばあちゃんはな、ええねん。人に会いに来るのは自由やろ。でもなあ、あかんわ。アレはあかん。セツ子おばちゃんのとこへ戻っていってもうた。セツ子おばちゃん、今日でさいごやわ」
離れているはずなのに、脳に響くような声。いつもの舌足らずとは違う、どこか不安を煽る声。「おばあちゃんはいい」とはどういうことか、「アレ」とは何なのか。いや、そんなことより、なぜ……。
私が娘に尋ねようとしたその瞬間、外で車のエンジン音が聞こえました。次いでタイヤが砂利を踏みしめる音。義兄が来たのです。
「お母さん、セツ子おばちゃんのとこへ行くから、茜は寝てなさい」
そう言って私は玄関を飛び出し、義兄の車に乗りました。
車に乗り込んでから、義兄が何を話しているのかも耳に入らず、私は茜の言葉を反芻していました。
なぜセツ子が危篤だと知っていたのか。娘たちと私たち夫婦は寝室を別に用意していて、娘たちはいつも2階に用意されたその場所で寝ていました。……良くも悪くもまだ幼い子どもです。半日ほど前まで元気そうに見えた伯母が危篤だなんて、そう簡単に感じ取れるものなのでしょうか。
はじめは、何かしらの理由で私たちの寝室の前まで来て、そこで私たちが伯母の話をしているところを聞いたのだと思いました。ですが、私たちの寝室は居間からしか入れないんです。私が寝室を出たとき、足音も何も聞こえなかったので、寝室の前にいなかったことは確かだと思います。
もしかしたら物音で目が覚めて降りてきたのかも、とも思いました。それもありえない。2階に繋がる階段は、娘たちが夜に階段を踏み外さないようにセンサーライトを設置していたのに、私が振り返ったときにライトは点いていなかったんです。まるで、私が気づくよりもずっと前からそこにいて、何かをしていたような……。例えば、誰かを見送っていたとか。
それに気が付いた時、背筋がゾッと逆立ちました。まさか、さっき言っていた「アレ」をセツ子のところへ送り出したんじゃないかって。
「セツ子おばちゃん、今日でさいごやわ」その言葉が、確かなものであると思い込んでいる自分がいました。
「大丈夫か。ぼけっとして」
肩を強く揺らされてやっと、自分が病室にいたことに気が付きました。一大事だというのに、それほど物思いに耽る余裕があることにいら立ちました。記憶を辿れば、「何か声をかけてあげてください」という担当医からの言葉がボンヤリと浮かぶだけで。自分の足でそこに立ったことすらも思い出せません。
私はセツ子の顔を見つめました。頬はこけ、唇の色は薄く、管に繋がれて、薄く呼吸をするだけの、それだけの、全く別の生き物のような。溌剌な姉はもういないのだと悟りました。
「姉さん」
セツ子の瞼が、こじ開けるように開かれます。天井を見つめたまま、口が僅かに動いていました。何かを伝えたいのだと気づき、私は口元に耳を近づけます。
「今日なあ、お母ちゃんがな、アレと一緒におって……」
弱弱しい声でした。音にもならない呼吸音でした。それでもいつ最期の言葉になるかわからない。私は呼吸音の一つも逃すまいと耳をそばだて、意味を理解していくとともに、先ほどまで反芻していた茜の言葉が縁取られ、嫌な予感さえしていました。『母』、『アレ』……呼吸を忘れていたように苦しくなり、私は大きく息を吸いました。
「アレって何? 姉さん、アレってなんなの」
「でもなあ、茜ちゃんもおって…………『おばちゃん、抱っこして』って……あたし、ヤス子の代わりにお母ちゃんに茜ちゃん見せてあげたくて、アレも茜ちゃんと一緒やったら、きっと怖くないって……連れていったんよ」
「アレってなんなの、教えて、ねえさん」
「お母ちゃんのところまで行ったら、茜ちゃんがアレに「あっち行け」って言って、あたしの腕から飛び降りて、アレを追いかけてって……それで、それで……」
私の声は聞こえていませんでした。まるで面会の時に誰かと話しているように、天井に向かって声にもならない声で話し続ける。私たちには目もくれない。
セツ子と目が合った、気がしました。窪んだ目は私を見ているようで、もっと遠くを見ているようでもありました。瞼がひっきりなしに震えて、眉尻が吊り上がって。いつもの姉ではないような。
「ああ、おる……おるよお。茜ちゃんが追い払ってくれたんに、そこにおる……」
程なくしてセツ子は意識を失いました。譫言のように「アレがいる」と言いながら……。
担当医は後から「亡くなる方はそういった幻覚をよく見るんですよ」と言っていましたが、セツ子のあの言い方は、本当に見たままを伝えているように聞こえたんです。
担当医たちが処置をするため、私たちは病室を後にしました。何もできないまま、セツ子は数時間後にこの世のものではなくなりました。
そこから通夜まで、時間は流れるように去りました。義兄の代わりに各所への連絡や、葬式の準備を行いました。ゆっくりしておけと止められはしましたが、何かをしていないと、悲しみや無力感で押しつぶされそうで。それでも、何をしている時でも、姉の今際の言葉がぐるぐると廻っていました。傍にいた私たちではなく、夢見心地に誰かと話しているようなあの言葉が浮かんでは、悔しさのような感情が邪魔をして。同時に背中の怖気立つような嫌な予感を思い出しました。
「茜が『アレ』を送り出さなければ、姉さんは助かっていた?」なんて。馬鹿らしい仮説を。科学の不始末を娘に押し付ける母親の妄執を振り払うために、私はただただ動きました。
陽依と茜にも事情を話し、葬儀場に連れて行きました。陽依は私にくっついてセツ子の顔を覗き込んでは悲しさから泣いていましたが、茜の方は親戚に抱かれて子どもらしく笑っていました。きっとセツ子が亡くなったというのも理解できていなかったのだと思います。
通夜が終わり、誰が葬儀場に残るかで話し合っていた時でした。親戚も帰り、控室で皆で集まっていて。茜が急に飛び出したんです。それでセツ子の入った棺に一直線に向かいました。
「あっちいけ! あっちいけ!」
茜がセツ子の遺影に向かって、そう繰り返していたんです。
すぐに夫が止めに行きました。それでも茜は暴れて、「あっちいけ」を繰り返しながら灯篭をけり倒しました。その時に確信したんです。茜がセツ子を殺したのだと。でなければ、あんな、死者を冒涜するような……!
——『アレ』を追い払おうとしていたのでは? ……冷静に考えるとそうだったのかもしれません。そうじゃなくても、子どものやることだと許してやればよかったんです。それでも、セツ子を喪った悼みや、喪主を支えなければならないという使命感から頭に血が上ってしまって……思わず茜の頬を叩いてしまいました。母親でならなくてはならなかったのに、あの時の私は姉を亡くした妹でいたかったんです。
子どもらしいと見逃していた茜の何かもが許せなくて、もう育てる気力すらなくて、葬式後は陽依と茜に対する接し方に自然と差が出てしまっていました。
……本当は、娘に対して「気持ち悪い」なんて、母親失格なんでしょうけど。あの子は私の手には収められなかったんです。
その後はタカ子が、私の妹が茜を引き取りたいと言うので預けてそれっきりです。タカ子は私と違って子どもがいませんでしたから。交流も最初に話したようにほとんどありません。結局、アレとは何だったのか、聞けず仕舞いですね。
……私が死ぬときにも来るんでしょうか。アレは。
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