第八話 医療事件とパワハラ事件の異同(その1)証拠の偏在


① 大学で公務員試験の論文作成講座を担当した折に、「~の異同について述べよ」との論述要求が出されたときは、国語辞典にあるように、異同=相違点と理解して、相違点のみを述べればそれで良いのですか、と問われたことがあった。例えば「日本国憲法における、団体自治と住民自治の異同を述べよ」との出題形式のような場合である。


この場合、同一ないし類似点につき二割弱程度の紙面を割いて、残りの八割ほどに差異を重視して述べるのが論文の体裁として収まりが良いのではないか、と受講生の皆さんには助言させて貰った。全く無関係な二つの事柄の論述が求められているのではなく、同一点ないし類似点を前提にその差異の記述が求められていると考えられるから、前提に関する類似点についても必要な範囲で述べることが望ましいからである。


本話も第四話(耳原病院事件と、似て非なるフェーズ)の延長と位置付けられる内容となるが、本書(整形外科医南埜正五郎の、パワハラによる死の真相)のそもそものテーマが、正五郎を亡くした我々夫婦の追悼の記述にとどまるものではなく、第一話の最後に述べたように、パワハラに苦しむ人たちの対策の参考にして戴くことが最大の目的であってテーマでもあった。すなわち医療事件とパワハラ事件について、私が採用した方法を自己の場合に当てはめて比較検討してもらい、有意義であれば採用して戴ければ、というのが本書のテーマである。そこで、以下には医療事件とパワハラ事件の同一ないし類似点について、まず述べてみたい。


医療事件もパワハラ事件もその類似点は、証拠の大半を病院ないし企業が握っていて、証拠偏在の不公平が被害を受けた人たちの泣き寝入りの原因ともなっていることであろう。第七話で述べたように、父の耳原病院事件の折も、全く勝訴の見込みを得ることが出来ず、10年の時効ギリギリの時点で裁判を起こしたのだった。


ただそれまで全く無抵抗だったのかというと、そうではなく、父の死から6年目に〈ジパング通信局〉というタイトルの書籍を出版した。病院内外に事件の概要を知ってもらうことを目的として、できるだけ正確に事件を書き記したのだ。


病院がミスを否定しているので、病院名を耳原病院とすることは名誉棄損の問題が発生する可能性があるので、病院名は鼻山病院にして、地名や出来事を可能な限り〈ジパング通信局〉上に再現した。出版社から6000部の印税が振り込まれたが、病院内部の良識派の人たちの掘り起こしという点で、大きな成功を収めたか、と問われれば、あまり自信がない。ただ事件が広く知れ渡ったという自信は持っていいのではないかと思っている。いずれにしても、第七話(手強かった耳原病院と弁護士)で述べたように、実質勝訴の裁判上の和解を勝ち取ることが出来たので、シェークスピアの戯曲のタイトルではないが、〈終わりよければ全てよし〉であった。


息子正五郎が亡くなってしまい、何も手につかない状況下で、何とか正五郎の無念を晴らすべくネットに発表したのが〈鳥取吉岡温泉まほろば診療所〉だった。耳原病院事件と同じ手法を取ったのである。ただ、23年前に較べ無料で使えるネットという媒体があることから、迅速かつ費用を掛けずに、病院内部の良識派の方たちへの注意喚起と助力が得られるようになったのは非常にありがたかった。


そこで、パワハラや医療事件に悩む方たちの参考にして戴ければと思い、23年前に私が出版した〈ジパング通信局〉を以下に記載させて貰うことにした。大学の講義案作成に追われながら、かなり無理をして書き上げた作品だったが、パワハラや医療事件で同じ悩みを持たれている方々にとっては、媒体という点で、うまく利用して事件に対処されれば、よりよい目的に近づけるのではないかと思う。もしそうであれば、出版社とポリシーが合わずとっくに(出版から2年後に)廃版にしてしまった〈ジパング通信局〉も存在価値を取り戻してくれるのではないだろうか。


③ ジパング通信局


〈本書を我が父・南埜宏に捧ぐ。楽しみにしていた孫達の成長を語りかけながら〉


❶ 帰郷


生誕地は東京都港区赤坂。故郷は、十八年前にたった一度訪れただけの、堺市鳳―――麗子はそう断言できる。人情息づく庶民的な町並み、忘れられない印象をうえつけた優しい人。‥‥‥恋しい。東京にいて、堺を恋うる日々だったが、ようやく念願かない、十八年振りに麗子は堺を訪れる機会を持つことが出来たのだ。

 

 ―――もうすぐ、大和川。

 

この川は、堺と大阪市を分かつ一級河川である。かつて黄金の日々を謳歌し、堀と塀で囲まれていた―――自由都市―――堺は、現在この大和川に北限を画されているのだ。


(‥‥‥もう二度と、この川を渡らせない!)

 

夫を東京へ帰さない決意を、麗子は眼下の川に託した。台風明けの濁流が両岸をなめ尽くさんばかりで、ゴウゴウと渦巻く荒々しい大河が、たくましく頼もしかった。


「間もなく、堺市―――」

 

大和川を渡ると、次の停車駅を告げる軽快なアナウンスが、車両に響き渡る。


「―――ね、恒彦さん。十八年ぶりの堺よ」

 

身じろぎもせず天王寺駅から目をつぶったままの、隣席の夫を見上げた。JR杉本町駅を通過したとき、十八年前と同じく、沿線に広がる母校大阪市立大学に目を細めると期待していたのに、恒彦は興味を示さなかった。


「ねぇ、いや、そんな仏頂面。北野間のおじさんの前では明るくしてよ」

 

無視されたままなので、麗子はふくれっ面を向けて、窓際の夫の肩をゆすった。


「‥‥‥うん。分かってる。分かってるって。大丈夫だって」


「そうよ、その顔。私、大好きなんだから。お願いだから、こっちでは仕事のことは忘れてね」

 

眉間にしわを寄せた、怒ったような仕草が一番好きだ。麗子は甘えるように夫の右腕を抱いて、体を、少し寄せた。北野間博司に頼んで、恒彦を東京から呼び戻してもらったのである。休暇をとったこの機会を利用し、新聞記者の仕事を辞めさせなければ、主治医の言を待つまでもなく、夫の命が数年で尽き果てるのは明らかであった。

 

大腸癌を患った仕事の虫には、新聞社の社会部デスクは命の切り売りといってよい激務なのだ。再発の不安におびえる麗子に、追い打ちをかける特派員だった親友の死。カイロでの交通事故が原因だが、恒彦が、ルクソールで起こった無差別殺傷テロ事件の調査を頼まなければ、一ヶ月前に帰国していたはずであった。


「‥‥‥薫さん、今日、急に引っ越されたの。―――もちろん連絡しようとしたわよ。でも、薫さんに止められたの。‥‥‥恒彦さんの顔を見たら、智之君が泣いて、別れがつらくなるって。‥‥‥『ごめんなさい、挨拶もせずに』って。‥‥‥それから、『ご自分をあまり責めないでください』って」

 

親友の妻は、麗子にだけ別れを告げマンションを引き払ったが、引っ越し先は麗子にも明かしてくれなかった。


「ねえ、生まれ故郷で暮らすつもりはない? 体が良くなるまで、私が働いて、あなたを養ったげるから。薬剤師の免許を使うと、結構、時間給いいのよ。それに、看護師の資格も持ってるし」

 

鳳駅の手前で、冗談交じりに自分の意図を伝えた。夫の性格を考えると悲観的にならざるを得ないが、麗子には頼もしい味方が三人もいて、すでに彼らへの根回しも済ませてあるのだ。


「おおとりー、おおとりー」

 

関空(関西国際空港)快速を鳳駅で降り、両手にバッグを下げてホームの階段を上がると、


「おーい! 麗子ちゃん! こっち、こっち!」

 

改札前で坂田源治が手を振って、大声で二人を迎える。


「何だよ! 源(げん)! 十八年振りに親友に会うのに、嫁さんの名前を呼ぶヤツがあるか!」

 

笑顔で抱き合いながら、恒彦は親友に悪態をついた。


「‥‥‥ありがとう、源さん。こんにちは」

 

麗子も微笑みを浮かべて、強い味方に挨拶する。「もとはる」が正式な呼び名だが、麗子も親しみを込めて、「げん」さんと呼んだ。


「‥‥‥ところで、おじさんの具合はどうなんだ?」

 

十八年振りの帰郷は自らの意思ではなく、大恩ある人の遠慮がちな言動に促されてのものであった。駅前の狭い車道を横切り、パチンコ店裏の路地を並んで歩きながら、恒彦は源治の顔をのぞき込んだ。


「‥‥‥うん。相当悪いよ。上原の話じゃ、気力で持っているようなもんらしい。‥‥‥でも、もう大丈夫だよ。北野間の親父さん、お前を息子のように可愛がってたから、おまえと麗子ちゃんの顔を見ると、きっと元気が出るだろう。さあ、名医殿が、お待ちかねだ。急がないと、上原助教授がカンカンだ」


源治は小学校時代からの親友をダシに、恒彦と麗子の笑顔を誘うが、二人とも深刻な表情を崩さなかった。


「とりあえずここへ荷物を置いて、すぐ大学へ行こう」

 

鳳商店街一筋西の、源治の店にボストンバッグを預け、三人は源治の車で大学病院へ向かう。


「こんな新しい道路が出来たんだな‥‥‥。以前、狭山町だったのに、大阪狭山市になったのか」

 

つぶやくように口から漏れたが、車窓の景色も新市名も、恒彦には上の空だった。

 

三時過ぎに病院の構内へ入ると、上原靖夫が正面玄関へ飛び出してきた。


「おい、早う! 早う! 急がなアカンがな!」

 

靖夫に急かされ、顔が強張ったまま、二人は彼に従い三階の集中治療室へ飛び込んだ。


「北野間のおじさん! ‥‥‥ごめんなさい。うー!」

 

麗子が真っ先に駆け寄り、やせ細った北野間の手を握って泣き崩れた。


「‥‥‥おじさん。済まなかった」

 

恒彦も涙声だった。胃癌とは知らされていたが、病状は素人目にも、末期であった。


「‥‥‥」

 

唇がかすかに動くが声にはならず、やせた顔に北野間の笑みが寂しかった。麗子が目を拭いてやると、北野間は靖夫を見上げ、頼むような仕草を浮かべた。


「うん、うん。分かってるで。これ、恒ちゃんに渡しとくからな。よっしゃ、よっしゃ、安心してや」

 

靖夫が白衣のポケットから手紙を取り出すと、北野間は少し口元をほころばせて、恒彦の手を一度だけ小さく握り返した。


「おじさーん! あー!」

 

麗子の声もむなしく、十月十日、午後三時三十一分、北野間博司は七十五歳の生涯を閉じてしまった。もう五分遅ければ、恒彦と麗子は彼の死に目に会えなかっただろう。


(‥‥‥ありがとう、おじさん。私達が来るまで待っていてくれたのね)

 

自分のために、北野間が最後の死力を尽くしてくれたのかと思うと、麗子は、やせた細い体がいとおしくてならなかった。



❷ ふるさと


やさしい人だった。父の無二の親友で、子供の時から家族同然に接してきたが、恒彦は北野間に怒られた記憶がない。彼の怒った顔が想像できないのだ。

 

父はよく怒る人で、いたずらをするたびに、大声で怒鳴られたが、


「百瀬、そんなに怒るもんやないで。お前も、小さい時はワルサやったやないか。ちょっとは大目に見たれや。―――な、恒ちゃん。今度から気ィつけるんやで」

 

いつも北野間がとりなしてくれた。

 

恒彦が十一の時、父は事業に失敗して全財産を無くしたが、鳳の家と土地は北野間が買い戻してくれた。


「エエねん、エエねん。わしは独り身やから、広い家はいらへんねん。‥‥‥百瀬、そんなに恐縮するなよ、友達やないか。恒ちゃんのために、もういっぺん、頑張ったれや」

 

父を励ます北野間の声が、恒彦の耳の奥に刻みつけられている。


「恒彦。‥‥‥北野間はわしの命の恩人やねん。あいつには命を助けてもろて、おまけに世話になりっぱなしで、―――なんにも返されへんかった。‥‥‥片肺だけになったんも、わしのせいなんや。大事にしたってくれよ、頼むぞ!」

 

いまわの際の父の言葉だった。終戦時、フィリッピンで敗走中、マラリアにかかった父を背負って逃げてくれたらしい。極限時での無理がたたり、復員船内で結核を患ってしまった。病気に対する偏見と長い療養生活のために、北野間は婚期を逸してしまった。代書をもっぱらとする行政書士業務で生計を立てていたが、決して裕福でなくつましい生活だった。

 

恒彦が十八の時、父が亡くなり、看病疲れのため母も後を追うように、その年の暮れに逝ってしまった。‥‥‥どん底。当時、恒彦にはこれ以外の形容が思いつかなかった。

 

父の葬儀も母の葬儀も、すべて北野間が取り仕切ってくれた。


「‥‥‥恒ちゃん。大学はあきらめんで、エエんやで。それくらいの金は、あるさかいな。東京でも、どこでも、好きな大学へ行ったらエエんや。今日から、おっちゃんが、恒ちゃんの家族や。何も遠慮しィなや」

 

母の通夜の晩から泊まり込んでくれたが、恒彦が北野間と一緒に暮らしたのは、わずか三カ月だった。家から通える大学だったが、負い目と北野間の優しさが苦痛に感じられて、大学の近くでアパート暮らしをした。


「どうや、よう勉強してるか。ちょっと、この近く通りかかったんで寄ってみたんや」

 

月末になると、判で押したようにアパートを訪れては、部屋へも入らずに、北野間は小遣いだけを置いていった。

 

大学を卒業して、東京の新聞社に勤めると告げに行くと、


「‥‥‥そうか、新聞社は東京にあるんか。‥‥‥もう、杉本町へ行くみたいなわけにはいかへんのやな」

 

目にうっすらと涙を浮かべて、北野間はやせた肩を落とした。痛々しいほどの落胆だった。

 

十八年前、麗子を連れて一度、恒彦は堺へ帰ってきたが、彼女が言い出さなければ、帰ることはなかっただろう。


「まあ! それじゃ、恒彦さんの、お父さんみたいな人じゃないの。‥‥‥私、会いたい! 北野間のおじさんに、私達のことを知ってもらいたいの。ね、お願い!」

 

送られてくるだけの、淡々とした葉書の文字から、深い愛情を読み取ったのだろう。麗子は北野間に会うことに強いこだわりを見せた。恒彦二十六、麗子二十歳の春だった。薬科大の新聞部員だったので、麗子は取材を口実に春休みを利用して、丸々一カ月、堺で暮らしたが、日帰りの恒彦は女子大生連れの旅行がバレて、同僚たちに散々冷やかされたものだった。


「‥‥‥ね、北野間のおじさんのことを考えているの?」

 

十八年前、―――いや、高校を卒業した二十六年前そのままの自室のベッドに、恒彦が寝そべっていると、麗子が二人分の紅茶を運んできた。


「‥‥‥」

 

ぼんやりと梁の走る天井を見上げたまま、恒彦が返事をせずにいると、


「ね、北野間のおじさんの手紙、どんな内容だったの?」

 

夫が愛用したグレーのスチール机に紅茶を並べながら、麗子がさり気なく尋ねる。


「君はすでに知っているだろう」

 

体を起こして、恒彦は苦笑いを浮かべた。いずれも麗子が望む内容で、彼女の意思が色濃く反映されているのだ。相続財産一つとっても、すべて恒彦名義に書き換えられていたが、麗子が実印を送らなければ不可能なことであろう。


「恒ちゃん。麗子さんを大事にしたってや。恒ちゃんだけが生きがいなんやで。それから、上原のボンの診察受けてや。おっちゃんの最後の頼みや」

 

僅か二行の手紙なのに、恒彦は涙でぼうっとかすんで、なかなか読み進まれなかった。生涯独身を通し、いったい何を楽しみに、と子供心に思ったこともあったが、北野間の手紙で彼の生きがいが、ようやく分かった。しかし、自分は何と恩知らずだったのだろう。読み終えて、恒彦は後悔と慚愧の念に堪えなかった。


「‥‥‥ね、手紙見せてよ」

 

麗子に催促され、渋々、カバンの書類入れから、手紙を取り出した。


「‥‥‥下のリビングで、続きを―――」

 

溢れる涙で、最後は、声にならなかった。口を押さえ、麗子は逃げるように階下へかけていった。


 ―――靖夫の診察か‥‥‥。

 

椅子に腰を下ろして、恒彦はため息をついた。北野間の遺言とあらば、受けねばなるまい。


大腸癌の再発も懸念材料ではあるが、肝臓は確実に要治療の宣告を受けるだろう。本人が自覚しているほどだから、肝臓外科医には一目瞭然なのだ。


帰郷がまた一日延びるのかと思うと、恒彦は特集記事の遅延が気になって仕方がないが、無理に帰れば麗子の猛反発を食うのは明白であった。東京と違って、堺では手ごわい味方が彼女の脇を固めていて、こちらの勝手がすこぶる悪いのだ。

 

しばらくして階下へ下りると、麗子はリビングのテーブルで泣いていた。両手で顔を覆い、小さな肩がこきざみに震えていた。

 

十五畳余りのリビングの西隅に、香典返しが個人の徳を偲ぶように、ひっそりと積み上げられてあった。身寄りがないので、恒彦が喪主だった。


人情味あふれる互助が未だ健在で、北野間の死を悼み近隣の人たちが通夜や葬儀を率先して手伝ってくれた。故郷を捨てた不義理な男なのに、鳳は恒彦を温かく迎え入れてくれたのだった。


「―――あっ、恒彦さん。ずるいわ、黙って見てるなんて」

 

気配に呼び覚まされ驚いたように振り向くと、麗子はぎこちない涙の笑顔で口をとがらせた。


「さあ、これで美人の麗子サンに戻ったでしょ!」

 

リビング奥の洗面から、両手を広げ、おどけた仕草で出てくると、麗子は恒彦の向かいに腰を下ろして軽口をたたいた。子供がいないせいもあると思うが、三十過ぎにしか見えない若さで、小柄だが鼻筋の通った、愛くるしい顔の美人である。


恒彦は、麗子の艶のあるアルト調の声が特に好きで、電話の応対を受けた知人たちからは、「声美人だね」と、よくからかわれる。


「‥‥‥うん、美人だよ」

 

麗子の軽口に、恒彦も自然と笑顔がこぼれた。感情がこれほどストレートに表情に出るのは、十四年振りのことなのだ。


第一子を流産で亡くし、術後の合併症によるものか、精神的なものなのか医師にも判断がつきかねるらしいが、不妊症ではないかとの診断が下されていた。責任を感じているのか、急に寡黙になり、恒彦の無茶な生活リズムにも不平を言わなくなった。


会話らしき会話のない夫婦生活が長い間続いて、以前の麗子を忘れかけていたのに、鳳へ帰ってからは見違えるような変貌を遂げてしまった。北野間の魂のなせるわざか、鳳という土地柄のせいであろうか、麗子は以前の自分を取り戻したのだ。


「ね、恒彦さん。祭神ヤマトタケルノミコトの、大鳥神社へお参りしたいわ。十八年振りだもん。北野間のおじさんと、よくお参りしたのよ。‥‥‥源さんとも。『麗子ちゃん。仁徳の御陵さんが、堺で一番有名な史跡だとしたら、大鳥神社はその次なんだ。なんてったって、ヤマトタケルノミコトがオオトリになって舞い降りたのが、この神社の森だって言われているくらいだから』って、源さん、鼻高々だったわ。私、その話を聞いて、大鳥神社が大好きになっちゃった。―――ね、お参りしましょ。堺へ帰って、まだ一度もお参りしてないんだから」

 

通夜の日は秋祭りが済んですぐだったし、忙しくて参拝など思いも寄らなかったが、初七日が過ぎると心にも少し余裕が生まれる。死者に対する思慕の念は生涯消えることはないが、表面的な日常からは潜行を始める時期なのだ。


「こんにちは、坂口さん。いろいろお世話になり、ありがとうございました」

 

自宅近くのお寺の前で、温厚な老夫婦に、通夜と葬儀の礼を言う。


パチンコ店の裏路地を抜け、商店街へ出て北へ歩くと、五分余りで大鳥神社に着く。


「視聴者の皆さん、こんにちは。今日も○○(マルマル)テレビ特ダネワイドショーの時間がやってまいりました。本日のゲストは、記者の鑑(かがみ)とマスコミ界では呼ぶ人もおりますが、記者の妻たちからはブーイングの絶えない、百瀬恒彦さんです。百瀬さん、こんにちは。―――インタービューアーは、わたくし、マムシのお麗こと、百瀬麗子です。それでは最初の質問ですが、百瀬さん。小学校入学時、マスコットの亀さんを裏返しにして、校長先生から大目玉を食ったというのは本当でしょうか」

 

鳳小学校前で、麗子が笑いながら、マイクをつきつける真似をする。


「‥‥‥本当に腕白だったのね」

 

麗子に言われるまでもなく、腕白の限りを尽くしてきた。源と靖夫、それに商店街で寿司店を営む山上豊吉が仲間だった。靖夫は祖父の代から自宅で医院を開業し、地区の人たちには「上原のボン」と呼ばれるほどの、ぼんちだったが、腕白付き合いはよかった。


「ねぇ、こんなマンション、なかったのに」

 

大鳥神社近くに差しかかると、外壁がレンガ風の瀟洒なマンションが民家の屋根の奥に控えていた。


「―――そうだな。‥‥‥十八年か」

 

思い出が古いページの片隅に追いやられて寂しくなったが、幸いなことに、神社の境内はほとんど変わっていなかった。


「♪ うさぎ追ーいし、かの山ー ♪ こぶな釣ーりし、かの川ー ♪」

 

恒彦の右腕を抱きながら、麗子は小さく口ずさむ。

 

神社の境内で兎を追ったことはなく、二キロほど東にある家原寺(えばらじ)の裏山がもっぱらだった。しかしこの境内と違い、開発で今は跡形もないだろう。麗子の歌う「ふるさと」が妙にうら悲しく、恒彦は体の芯がしびれるような感覚に襲われるのだった。


「ね、ドングリ!」

 

うすく色づき始めた楓の下で、麗子がしゃがんでドングリを拾う。

 

妻と、こんなおだやかなときを過ごすのは、恐らく初めてだろう。大学の新聞部へ講師に招かれたときは、よく構内を二人で歩いたが、結婚後は、二人で散歩することも無かった。誇れるものではないが、新婚旅行にすら行っていないのだ。


「これじゃ、釣った魚にエサはやらないってのと同じじゃないの!」

 

新婚当初の口癖が、麗子と境内を歩いていると、恒彦の耳に甦ってくる。


「―――いいから、‥‥‥寒くないのに」

 

本殿前で、渋る麗子の肩に、恒彦は自分のグレーのカーディガンをかけた。

 

堪能するまで大鳥神社を散策し、商店街裏の《お好み焼き喫茶ブタジュウ》へ入る。丁度、昼の定食時間帯で、源治は鉄板前で格闘していた。


「源さん、手伝うわ」

 

麗子が腕まくりをして、カウンターの内へ割り込む。十八年前、一カ月近くアルバイトをしたので、仕事の手順は体が覚えているのだ。


「ありがとう、麗子ちゃん。これ、一番テーブルへお願い」

 

髭の中から白い歯を見せ、源治が焼き上がった豚玉を鉄製トレイに乗せる。


「よう! 恒」

 

奥のテーブル席から、豊吉が恒彦を招く。タバコをくゆらせ、小太りの笑顔が優しい。


「いいのか、豊。こんな時間に、商売敵のところで油を売っていて」

 

椅子に腰を下ろし、初七日の仕出し料理と巻寿司の礼を述べると、恒彦はさっそくコーヒーを口に運ぶ親友をからかう。


「いいよなあ! 豊んとこは、頼りになる若いモンが一杯いるから。親方がサボってても、ちゃんと仕事をしてくれるんだもんな。俺も、あやかりたいよ」

 

源治も、鉄板にジュウジュウ、テコを押しつけながら追い打ちをかける。


「源さん、ひがまない、ひがまない。今日から、ブタジュウは強い助っ人が入ったんだから。私がずっと手伝ったげるわよ。豊さんとこの、若い衆にも負けないから」

 

麗子は夫の反応を見たかったが、背中を向けているので彼の顔は見えなかった。



❸ ワーカホリック


帰省直後の北野間の死と葬儀、それに、その後の雑務は、恒彦の帰京意思を阻む強力な助っ人であった。


「いいかな、東京へ帰っても。すぐ戻るからさ。社の連中も困ってるんだ」

 

恒彦が伺いを立てる度に、


「駄目よ。いま、帰られたら、本当に困るわよ。よそ者の私じゃ、勝手が分からないし、なんてったって、恒彦さんが喪主で、北野間のおじさんの承継人なんだから。社の皆さんには、電話の対応で何とか間に合わせてよ。源さんのファクスで不便だったら、ここへファクスを取り付ければいいんだから。それにパソコンでインターネットという手もあるし」

 

麗子は、恒彦をおだて宥(なだ)めすかしてきたが、十日目ともなると、そろそろ限界である。イライラが高じているのが表情から明らかだし、もどかしいのだろう、東京への電話の指示も怒鳴り声が多くなってきた。


(‥‥‥一波乱起きるのは、致し方ないか)

 

四十九日、少なくとも三十五日をダシに、それまで滞在し、その間に帰京を断念する方向にもって行きたかったが、認識が甘かったようである。


 ―――とりあえず、今日の結果にかけてみよう‥‥‥。

 

麗子は仏間の位牌に手を合わせ、午後八時前に自宅を出て、点々と明りのともる夜道を上原家へ向かう。ブタジュウ前を通り、ガラス越しに夫と源治を確認するが、声をかけなかった。


南北に延びる、鳳商店街のアーケード下を、うつむき加減に南へ向かって歩く。薬局手前の路地を左に折れると、華やぎと音楽の消えた路地の奥に、上原医院の小さな看板が、蛍光灯の白い光に照らし出されていた。


「ごめん下さい」

 

母屋の横あいを抜け、奥の離れのドアホンを押した。


「はい、はい」


 訪問を告げてあったので、明らかに麗子を迎える好意的な声が返ってくる。


「いらっしゃい」

 

格子の引き戸が開いて、大きな笑顔がのぞく。大学から帰宅間際のようで、まだネクタイを外していなかった。


「すみません。お忙しいのに」

 

厚意に甘えてしまい、麗子は恐縮してしまう。


「いや、いや。こっちこそ、申し訳ないです。家内のやつ、詩吟を習いに行ってるらしくて、家におらんのですわ」

 

靖夫も大きな背中を丸め、苦笑しながら玄関左の応接間のドアを開けた。廊下の奥に居間があるのだろう、テレビと子供たちのはしゃぎ声が漏れてくる。


「いや、いや。うるそうて、かなわんのですわ」

 

子供が出来ないのを知っているのか、気遣いが口調に現れていた。


「検査結果は、これなんですわ」

 

ソファーに腰を下ろすと、早速、靖夫はカバンから書類を取り出し、テーブルの上に広げた。


「先日の検査では、大腸癌の再発はなかったんですが、肝硬変がかなり進んでましてね、あんまり楽観できる状態やないですな。ほら、この数値‥‥‥」

 

靖夫はデータを指し示して、眉間にシワを寄せた。


「―――本当ですね‥‥‥」

 

麗子も検査数値をのぞき込んで、顔を曇らせた。やはり、東京へは帰らせられないようだ。


「こっちでは無理してないんで体調はエエ言うてたけど、東京へ帰りとうて仕方のない恒彦のいうことやから額面通り受け取れんしね。それに、ここまで悪してたら、肝臓のことやから、ちょっとやそっとじゃ話にならんし。‥‥‥睡眠不足に過労、それに過度の飲酒は命とりやな」

 

大腸癌より肝臓の方が、よほど深刻だったのだ。


「‥‥‥どうしたら、いいんでしょう?」

 

東京へ帰れば、一日二十四時間勤務といってよい日々が待ち受けていて、酒は浴びるほど飲むのだ。


「今の仕事をやめたら一番エエんやろけど、記者にこだわりがあるやろし、おまけにワーカホリックやさかい、恒彦は仕事せなんだら、落ち着かれんでイライラするやろしね」

 

まさに靖夫の言うとおりで、既に禁断症状が出はじめているのだ。


「私は東京へは帰りたくないんです。このまま、ずっと堺で暮らしたいんですが‥‥‥」


「そうやね、それがエエと思うけど、本人が納得せんやろね。何せ、頑固やから。やりがいのある仕事さえ見つけたら、こっちにいてることに抵抗を示さへんと思うんやけど、難しいな」

 

靖夫は思案顔でメガネをはずすと、薄くなり始めた髪を左手でしきりになでた。


「‥‥‥そやな、来年ちゅうことになってたけど、少し早めにやってみよか。恒彦の経験も生かせるし、興味を示してくれたら、もうけもんや」

 

鳳の若手商店主を中心に、地元の振興のためにタブロイド判の月間新聞を出す計画があるらしい。単なる商店の宣伝では面白くないので、時事問題や読者の要望も入れた、ミニ新聞を発行しようということになったが、適当な編集者がいないので、計画が暗礁というほどではないが、先送りのような事態を余儀なくされていた。


「それだったら、私も手伝えますし」

 

月間新聞と聞いて、麗子も身を乗り出した。大学の新聞部で、キャプテンまで務めた身なのだ。


「ほなら、谷口印刷の社長と話し合ってみるさかい、取り敢えず、検査結果が思わしくないんで、もう一度、十分な検査したいから、一週間後に再検査する言うて、恒彦を納得させてもらおかな」


「はい、そうしていただけると助かります。本当にありがとうございます」

 

帰り際、玄関前で、


「本当にありがとうございました」

 

再度、靖夫に深々と頭を下げて、麗子は彼の家を後にした。来る時と違い、スキップでも踏みたい気分であった。源治が〈動(どう)〉であれば、靖夫は〈静(せい)〉で麗子を応援してくれる。好対照な二人が頼もしくて、夫がチョッピリうらやましくなった。


「おじゃましまーす」

 

ニコニコしながらブタジュウのドアを開けると、恒彦が眉間にしわを寄せて、源治に反論していた。


「何いってんだい、馬鹿! 俺なんか、毎日、ボトル一本空けてたんだぞ。ビールの一本や二本、屁でもないんだ。水臭いこと言わずに、もう一本よこせよ」


「コラッ! 恒。もっと体を大事にせんか。俺も肝臓やられたから、肝臓悪いヤツ、顔見れば分かるんだ。お前の顔は大ビン二本まで。後はウーロン茶、ウーロン茶」


「そうよ、ウーロン茶で今夜はお開きよ」

 

最後の客の勘定を済ませ、麗子が二人の間へ割って入る。


「‥‥‥ホント、面白くないよ。お前らね、よってたかって、俺を東京へ帰らせまいとして、共同戦線はってんだろ。―――あー、いやだ、いやだ。周りが敵ばっかりで、おまけに体がなまって仕方がねぇよ。早く東京へ帰りたーい」

 

恒彦は酔いがまわってきたのか、少し機嫌が悪い。


「―――で、どうだったんだ。名医さんの見立ては? どうせ、靖夫まで味方に引き入れてんだろ」

 

今度は、自分の横に座った麗子にからみ出す。


「もう一度、十分な検査をしたいから、一週間後に、再検査ですって」


「何を言ってるんだ! 一週間だって! ‥‥‥社の連中になんて言い訳をすればいいんだ。俺は明日、絶対帰るぞ! これじゃ、仲間に言い訳がたたないじゃないか。馬鹿も休み休み言えよ!」

 

恒彦は声を荒げて、麗子の肩をゆすった。


「社の皆さんには、社をやめるって言って下さい。このままじゃ、二、三年しか体がもたないから、女房のために社をやめたい。これまで夫らしいことを、なんにも、してやれなかったから、これからは女房とゆっくり話をする時間を持ちたい。買い物にも一緒に付いて行ってやりたい。食事も一緒にしてやりたい。子供がいないから、夜、一人で待たせるのはかわいそうだ。‥‥‥ね、私がどんな思いで毎晩、あなたの帰りを待っていたか、考えたことがあるの? ねぇ、どうなのよ! 黙ってないで、ちゃんと、答えてよ!」

 

麗子は居直ってしまった。泣きながら恒彦の肩をゆすっていたが、


「もし東京へ戻るんだったら、あなたの葬儀の翌日、私も死ぬのを覚悟して、戻ってくださいね。北野間のおじさんの気持ちと同じなんだから。―――もう! この分からずや!」

 

最後の言葉を告げると、目をぬぐって一人でブタジュウから帰ってしまった。



❹ パート勤務


昨夜の妻の反撃がよほど応えたのか、朝、階下へ下りてきた恒彦は神妙だった。


「はい、これ。コーヒーがいい? それとも紅茶?」

 

ハムエッグの皿を夫の前において、麗子はことさら明るく尋ねた。


「‥‥‥うん。―――紅茶」

 

恒彦はうつむいたまま、ぼそぼそと口ごもった。こんなしょげた表情を東京でされたなら、


「いいわよ、恒彦さんの思いどおりにしたら。記者の女房になる決意をした時、すでに覚悟はできてんだから」

 

麗子は無理にでも、自分の意思を殺しただろう。しかしここは堺で、かつて信長にさえ楯突いた、ジパングの町なのだ。人情厚い人たちが住み、心強い仲間もいる。夫の健康を考えると、北野間博司が守ってくれた、この家に住むのが麗子には最良の選択に思えてならなかった。


「ね、ダイユウで、薬剤師のパートを募集しているの。行ってこようかなって、思ってるんだけど」

 

紅茶をカップに注ぎながら、さりげなく聞いてみる。募集は三日前のチラシで知ったが、タイミングを見計らっていたのだ。

 

ダイユウというのは、鳳駅から東へ三○○メートルほど下がった、府道十三号線沿いの大きなスーパーマーケットで、ウイングという翼型のビルの大半を占有していた。


「‥‥‥うん」

 

朝刊に目を落としたまま、箸もとらず、恒彦は気のない返事を口から漏らした。


「それじゃ、今日、面接に行ってこようかな。―――でも大丈夫かな。卒業以来、薬剤師の免許なんて、使ったことないから」

 

一応、迷いを口にしたが、応募の決意は固かった。東京へ帰る足かせになるなら、麗子はどのような既成事実でも積み上げるつもりなのだ。

 

昼食をブタジュウでとり、恒彦をそこへ残して、麗子は一人でダイユウへ向かった。上原や山上の奥方、それに源治に連れられて既に三度訪れているが、広い敷地に翼型の壮大なビルがマッチして、スーパーのイメージからかけ離れた存在であった。店内もイベントホールを持つ、娯楽施設としての機能を兼ね備えていた。

 

飲食店街ならびにある広いガラスドアを開け、腕時計に目を落とすと、一時五分前。買い物客で賑わう一階フロアを横切り、


「あのう、一時に伺うことになっていました、百瀬というものですが」

 

西隅の薬局で、主任の柴山哲子に、緊張した面持ちで名前と来店理由を告げる。


「いやー、エエわねぇ、東京弁って。何とのう、アカ抜けしてて。私なんか、憧れてしまうわ。―――ま、こんな調子で、ざっくばらんやけど、よろしう頼みます」

 

採用は即決だった。しかも翌日から、見習いを兼ねて来てほしいというのだ。

 

ダイユウは現会長が、神戸の中央区で薬の安売り店から始め、全国規模のスーパーを作り上げたもので、特に薬品には力を入れているらしい。阪神淡路大震災で阪神間の店舗が大きな被害を受けたこともあり、ここツバサ店も営業時間を夜八時まで延長して、収益の向上につとめているとのことである。


「医薬分業になったでしょ。だから急に忙しくなってしもて」

 

事情によっては、すぐやめなければならないが、柴山はそんな麗子でも大歓迎だと言ってくれた。

 

喜び勇んでブタジュウへ顔を出すと、源治が遅い昼食を口に運んでいて、彼の前で夫がブスッとした顔でコーヒーをすすっていた。


「へぇー、良かったじゃないか。―――実は、恒のアルバイトも決まったんだ」

 

源治が恒彦にチラリと視線を送ってから、意味あり気に麗子に笑いかけた。


「まあ! どんなアルバイトなの?」

 

嬉しそうに夫の横に腰掛け、源治の顔をのぞき込んで興味を示す。


「いやぁ、それがさ。―――何と! 喫茶ブタジュウのカクテルコーナー専属の、バーテンダーなんですよ、奥様」


「何だよ! もう、馬鹿にして! 靖夫の検査が終わるまでだぞ! それ以上は、やんないから。誰かみたいに鳳中毒になって、日がな一日、鳳、鳳って口走るようになったんじゃ、たまんねぇからな。‥‥‥アル中より、よっぽどタチが悪いんだから」

 

恒彦は眉間にシワを寄せ、いつもの仕草で悪態をついた。

 

源治の話によると、客の要望に応え、恒彦が冷やかしで店内の洋酒にライムや野菜汁を混ぜたカクテルを提供するのだが、これが意外なほど好評でファンクラブまで結成されかねん勢いなのだ。


「麗子ちゃん。恒のやつ、結構、ご婦人方に人気があるんだ。『マスターのお友達の、あのハンサムな方、お名前は?』なんて聞く女性ファンが多いんだ。気をつけろよ、麗子ちゃん」


「はい、はい、分かりました。‥‥‥でも」

 

恒彦には、アルコールを飲んでもらいたくないのだ。麗子が言いよどんでいると、


「分かってるって、常識だろ! 自分の商品に手をつけないのが、プロなんだから。シラフでやるって。酔っ払ってカクテル間違うなんざ、―――そんなみっともないまね、するわけねぇだろ!」

 

恒彦はウンザリした顔で二人を見回し、ブツブツ文句を言った。

 

その日の夜から、お好み焼き喫茶ブタジュウの二階に、カクテルコーナーが開設された。営業時間は午後八時から十一時までの三時間。開店祝いに駆けつけたのは、常連客と恒彦の小学校時代の腕白仲間、それに鳳商店会の店主たちだった。


(‥‥‥ありがとう、源さん)

 

客たちの注文に、言いたい放題の悪態をつく夫を見ながら、麗子は隣席の源治に感謝せずにおれなかった。これでまた一つ、夫の足かせが出来たのである。



❺ 伊原のおばあちゃん


猛暑の反動だろうか、十月も半ばを過ぎると冷気が肌に刺さる朝が時折訪れ、魔法にかかったように口から漏れる息が白く染まる。植木も寒さに驚いたのか、庭に舞う木の葉の数がめっきりと多くなり、風の強い日は、またたく間に、地肌が赤・青・黄のじゅうたんに覆い尽くされてしまう。


自宅は鳳駅から歩いて五分、商店街まで二分という好立地だが、二十坪あまりの庭には松・梅・桜それに金木犀が、こざっぱりと刈り込まれていて、北野間の人柄がしのばれる。


「あー! いい匂い!」

 

金木犀の下で、落葉を掃く手を止めて、麗子は胸いっぱい甘い香りを吸い込んだ。東京のマンションも公団の分譲だったので、敷地は緑に恵まれていたが、自分のものという感覚はなかった。


「‥‥‥ありがとう、おじさん」

 

松の木の下の、手入れの行き届いた椿の小枝を手折った。玄関の一輪挿しに飾って、訪れる人をピンクの花びらで迎えたいのだ。


「おはよう。―――ほう! 寒椿が咲きだしたのか」

 

縁側のガラス戸を開け、恒彦が朝の挨拶をする。今朝は殊のほか、機嫌がいい。


「おはよう。綺麗でしょう。―――でも、昨夜の風で、落葉がこんなに一杯」


「そうだな」

 

恒彦も苦笑いを浮かべて、玉砂利を覆うカラフルなじゅうたんをしばらく眺めていたが、


「さて、面倒な仕事に取りかかるとするか」

 

さも迷惑だと言わんばかりの口調で、縁側のテーブルに腰を下ろし、おもむろにジャンパーの胸ポケットからメモ帳を取り出す。言葉とは裏腹に、B4用紙を見つめる目元が微笑んでいた。昨夜、カクテルラウンジ―――ブタジュウ二階に急きょ設けられた、というより、一人暮らしの源治のダイニングルームそのもの―――で、商店主たちからミニ新聞編集の依頼を受けたらしい。


「今日は私、ゆっくりしていられないから、朝ご飯、一人で食べててね」

 

鼻歌まじりで紙面の分割作業に勤しむ夫に断り、麗子はミニサイクルでダイユウへ向かう。十時開店なので、まだ三十分あまり余裕があるが、早めに行って話したい人がいるのだ。

 

軽くブレーキをかけながら府道十三号線への坂道を下っていると、風が肌に冷たい。厚手のコートにスラックス、長めのブーツに手編みの特製手袋と、完全防備のつもりだったが、頬が冷たかった。


「おばあちゃーん」

 

麗子は駐輪場に自転車を立てかけ、ベンチの老婆に笑顔で手を振る。


「はいはい」

 

伊原のおばあちゃんは少しはにかんで、右手を小さく上げた。仕草が控え目で、上品だった。

 

おばあちゃんの存在を知ったのは、パートに出たその日だった。イベントホールの椅子に座って、見るとはなしにテレビの画面にぼんやりと視線を注いでいた。麗子と目が合うと、寂しそうな笑顔を浮かべ、すぐ俯いてしまった。


「ね、百瀬さん。伊原のおばあちゃん、あなたが気に入ったみたいよ」

 

柴山哲子が二人を見比べて、くすっと笑った。どことなく雰囲気が似ているのだ。


「ね、どんな人」


「‥‥‥それがね―――」

 

哲子の話は愉快なものではなかった。

 

おばあちゃんは八十九歳。菱木という、バスで二十分ほどのところに住んでいるが、息子の嫁との折り合いが悪く、息子が勤めに出るとすぐ家を出て、ツバサで一日の大半を過ごすとのことだった。


「近所でも評判の、性悪嫁らしいわよ」

 

陰口の少ない哲子が顔をしかめるほどだから、額面どおりの女性なのだろう。

 

次の日、ブタジュウの定食をパックに詰めてもらい、おばあちゃんを誘った。


「いえ、いいんです。本当にいいんですよ」

 

おばあちゃんは膝の上の粗末な弁当を隠して、何度も何度も断った。小さな体が、これ以上小さくならないほど縮こまっていた。


「いいのよ、おばあちゃん、遠慮しなくて。私、おばあちゃんが好きなの。だから、一緒に食べて」

 

麗子の目から、いつの間にか涙が流れていた。こんな不条理があって良いものだろうか。九十に手が届くというのに、なにゆえ、このような苦しみを強いられるのであろう。


遠慮がちに、隣で箸を運ぶ老婆を見ていると、麗子は自分の幸せが後ろ目たかった。恒彦への感謝の気持ちがこみ上げて来て、食事が喉を通らなかった。


「ね、おばあちゃん。ツバサにいる時は、楽しくしましょうよ。いつでもここへ来て、私の話し相手になってね」

 

せめてウイングにいる時だけでも、嫌なことを忘れさせたかった。一言も不平を言わず、はにかむだけのおばあちゃんが、麗子は気になって仕方がないのだった。


「やっぱり、もう来てたのね。寒いでしょう」

 

麗子はコートを脱いで、立ち上がったおばあちゃんの肩にかける。


「さあ、従業員の通用口から入って、内で暖まろう」

 

細い小さな肩を抱いて、ウイングの中へ入る。外と違い、春の暖気だった。


「‥‥‥な。なんで、こんなに私にようしてくれはるん?」

 

おばあちゃんは、いつもの、少し困った遠慮がちな仕草で、麗子を見上げた。


「おばあちゃんが、私の大好きな人に似ているの。控え目で、無口で、とっても優しかったの。‥‥‥私も夫も、その人を大切に、大切にしたかったのに、できなかったの。だから、おばあちゃんには、少しでも楽をしてもらいたいの。―――ね、気を遣わなくていいから。じゃ、あとでね」

 

イベントホールの椅子をおばあちゃんに勧め、ひざの上におはぎと小さなポットをおくと、麗子は開店準備のために薬局へ駆けて行った。



❻ 名医の診断


ふるさとは遠きにありて―――と、詠んだのは室生犀星であった。しかし、恒彦は東京でふるさとを思わなかった。北野間に対する負い目を忘れるためにも、甘く切ない郷愁を絶つためにも、意図的に避けてきたのに、堺へ帰ってからは子供のころの記憶が堰を切ったようによみがえってくる。

 

海恋し―――と、晶子が詠んだ大浜も、十歳のころは白砂青松をとどめていて、靖夫とよく泳ぎに行った。いまは見る影もないだろうが、松並木を並んで歩きながら、彼と交わした会話の一部始終を恒彦は思い出すことが出来る。


密閉されていた分、記憶が鮮明なのだろうか。東京での日々がぼんやりとヴェールに包まれたままなのに、少年の日の出来事が、色彩を帯びた明るい画像でよみがえってくるのだ。


「―――な、恒彦。ぼくは森鴎外みたいな人になりたいんや。文学だけやのうて、医者としても立派な人やったんやで。僕も頑張るさかい、恒彦もヘミングウェイのような人になってや。知ってるやろ、あの『老人と海』、書いた人。新聞記者やったんやて。―――新聞記者から文学者。どっちも最後は文学に向いたとこが共通してるやろ」

 

小学校四年の時、アイスキャンデイーをなめながら靖夫は語りかけたが、彼の言葉で記者という職業を選んだように思う。

 

 ―――さて、名医殿の診断を仰ぐとするか。

 

二十七日の金曜日、恒彦は苦笑しながら、縁側のロッキングチェアから立ち上がった。新聞記者を選ばせた張本人に、今後の身の振り方を決めさせるつもりだ。


「よう、源。車を借りるぞ」


「うん。靖夫に、ウチのバーテンやめさせんように言ってくれ。カクテルコーナー廃止になったら、お前もブラッディメリー飲まれへんぞって」

 

愛車のキィを手渡しながら、源治はいつもの軽口をたたいた。

 

雲一つない透き通る青空の下、七十年代初期の名車「スカG」は、ロックビートの力強いエンジン音を響かせ、午後三時前に大学病院の駐車場に着いた。


急な階段を足早に上り、正面入り口から新館への通路に入る。エレベーターを待っていると、新館奥から靖夫が書類を右手に抱いて、小走りにかけてくる。腕時計に目をやっていて、こちらに気付いていない。


「‥‥‥よう」


「おお! 待たしたらアカンと思うて、―――ちょうど良かったわ」

 

靖夫はエレベーター前で恒彦を見上げ、息を弾ませた。


「エヘン。―――一応、検査結果は、‥‥‥いや、エエわ」

 

せき払いをして改まったが、自ら腰を折ってしまった。恒彦の横でパラパラと書類のページをめくって、思案顔だったが、


「どや、ちょっと歩こか」

 

エレベーターの表示が二階まで降りてくると、ようやく意を決したのか、苦笑しながら靖夫が誘った。

 

新館奥のドアを開け、緑に囲まれた中庭を二人並んで黙って歩く。


「―――昨日の雨で、落葉がようけ落ちてるやろ」


「‥‥‥そうだな」


「この匂いかぐと、雨の後、大鳥神社へ行った時のこと思い出してな‥‥‥。不思議やな、子供のときのことは、匂いまで鮮明や」


「うん」


「‥‥‥な、恒彦。覚えてるかな、お前と大浜へ行った時のこと」


「うん」


「あの時、ませたこと言うてしもて、―――せやけど、あれがお前との約束のように思えて、俺なりに必死に頑張ったつもりや。鷗外と同じ大学へ入ったまでは良かったけど、なかなかドイツ留学はまわって来えへんかったわ。毎日、研究室と自宅を行き来するだけでな、東京にいてるのに親友のお前と会う機会さえ持てへんかったやろ。―――結局、体こわしてしもて、‥‥‥いったい俺の人生、なんやろ、って思うようになったんや。エリスを捨てて名声をとるか、それともエリスとの恋に生きた方が良かったか。鷗外は死ぬまで悩んでたように思うたんや。そしたら、嫁さんが急にいとおしなってな、堺へ帰る決心ついたんや」

 

藤棚の下で立ち止まると、靖夫は照れながら頭をかいた。


「‥‥‥お前、白衣が似合ってるよ」

 

恒彦も立ち止まって、こぼれる笑顔を靖夫に返した。


「うん。‥‥‥ま、お前が決めることで、医者としての俺の言えることは、あんまりエエ状態やないということやな」

 

急にかしこまると、靖夫は背筋を伸ばして最期の言葉に力を入れた。


「うん。分かってるよ。このままだと、親父の二の舞になるのは分かっているが、踏ん切りをつけられないんだ。‥‥‥意地かな。でも、お前の話を聞いて、少しは楽になったよ。一人じゃないってことだな」


「―――せやけど、エエ嫁さんやないか。源に聞いたぞ。麗子さん、迫力あったって。―――分かってると思うけど、俺も麗子さんの味方や。本音を言えいわれたら、なんぼでも言うけど‥‥‥、まあ、今日はここらでおいとくわ。一応、医者やからな。さあ、帰ろか」

 

本音を言いかけて、靖夫は照れを隠すように、親友の肩をポンとたたいた。



❼ ミニ通信


適当な言葉が思いつかないが、‥‥‥根を下ろすという感覚だろうか。鳳が好きだ。東京生まれの東京育ちが、十八年前、初めてこの地を訪れ、恒彦が生まれ育った家で一カ月、思う存分暮らした。


夜、一人になると、麗子はなぜか涙があふれて仕方なかった。八歳の時に父が亡くなっていて、母は麗子が中学二年のときに再婚した。父の姉である伯母に引き取られ、育てられていたこともあるのか、東京に鳳に感じるような情は湧かなかった。


「エエ町やろ。わしは、鳳が好きでな、‥‥‥この家は恒ちゃんの家やから、麗子さんの家になるんやで。‥‥‥いつか、帰ってきてな」

 

遠慮がちな口調だったが、北野間の願望が嵐のように伝わってきて、麗子は悲しいほど胸が苦しかった。


「分かってるわ、おじさん。必ず帰って来るから」

 

笑顔で涙をごまかしたが、あの時の約束がようやく果たせ、麗子は恒彦と鳳に住み、鳳で働いているのだ。親しい友人たちに囲まれて、彼らと心ゆくまで語り合う。なんて充実した毎日であろうか。

 

東京にいる時は、夫中心の生活だった。社に近いからと、千代田区のマンションに住み、買い物とカルチャーセンターへ通うだけで、電話番のような日々だった。


 ―――さあ、今日も頑張るぞ!

 

駐輪場に二十四インチのグリーンのママチャリを立てかけ、麗子は一人ほくそ笑んだ。夫の心が、自分の願う方向に傾き始めている自信があるし、昨日、店長からお墨付きをもらって、今日からミニ通信局の開設準備にとりかかるつもりなのだ。

 

ダイユウのイベントホールには、常連のお年寄りがたくさん訪れるが、家庭内に悩みを抱えている人が少なくなく、病気や老いの不安も深刻だった。しかも、ツバサへ来れる人はまだ恵まれている方で、知り合いの大半は家に閉じこもって、悩みを話す相手もおらず、ストレスを発散する術も持っていないという。


また、消息を知りたいのに連絡先の分からない人も多いらしい。麗子が簡単な連絡名簿を作って手渡すと、一部消息が知れただけでも、皆、子供のようなはしゃぎようで、あまりの感謝に、こちらが恐縮してしまったが、連絡は電話が主で、便利な一面、限界もあった。


「それじゃ、ミニ通信―――ちょっと大げさだけど、連絡帳みたいなものをね、そんなのを発行したら、どうかしら。―――大丈夫、私がおばあちゃん達の代わりに書くから」

 

麗子の発案で、ミニ通信を発行して、各々の意見や感想を載せあってはどうかという運びになった。意見や感想は、家族がダイユウへ買い物に来るとき持参してもらい、一カ月に一度、つまり月刊のミニ通信に掲載するのである。


「いいですよ。百瀬さんが編集して発行してくれるんだったら、当店もバックアップしますよ。店のCMを入れたりすると、採算が取れるかも知れない」

 

店長の滝田栄一が快諾してくれた。


「お年寄りの皆さん、昔訪れた堺の旧跡をもう一度、見てみたいと言われるんですが、私がビデオ撮影したのを、イベントホールの画面で流してもいいですか」

 

恐縮しながら、麗子が無理な願いも告げると、


「ええ、午前中の三十分くらいなら、いいですよ。土・日と祝祭日は無理ですけどもね」

 

こちらも、笑顔でOKをくれた。

 

うまく行けば、鳳商店会発行予定のミニ新聞と合体させ、堺の名所旧跡案内、時事通信も載せられるものにしたいと考えている。


「ね、おばあちゃん。連絡したい人がいたら、この紙に書いてね。―――うん、ひらがなで大きく書いてくれればいいの。ここへね、見たいところを書いてくれると、希望者が多ければ、私がビデオで撮ってくるわ。午前十時から、三十分。あの画面で見られるわよ」

 

麗子は記入事項を説明しながら、ホールのテレビ画面を指さす。


「お昼休みに、いま配った用紙を貰いに来るからね。もし書けてなかったら、家で書いて、いつでもいいから、薬局前の連絡箱に入れといてね。それじゃ。―――はーい。いらっしゃいませ」

 

ゆっくりと用件を伝え、麗子は急いで薬局へ戻る。本業をおろそかには出来ないのだ。


今日は早番で、麗子の仕事は十二時で終わりである。イベントホールのお年寄りからアンケート用紙を集め、


「それじゃ、失礼します」


「はい、お疲れさん。明日もお願いやからね」

 

哲子に見送られて、ダイユウを出る。


「ただいま」

 

ブタジュウに寄ると、源治が額の汗にタオルを当て終え、鉄板で焼きソバを焼くところだった。


「手伝おうか」

 

麗子が笑顔で助っ人を申し出る。角切りの、大きなキャベツが青々と新鮮だ。


「うん、頼むよ。―――でも、その前に二階」

 

源治が渋い顔をして、二階をアゴでしゃくった。どうやら、招かれざる客のようである。

 

恐る恐る階段を上がると、上り口に擦り切れた靴が、夫のゲタの横に並んでいた。


「‥‥‥お邪魔します」

 

ドアを開けると、


「やあ、奥さん! ご無沙汰しています」

 

編集局長の前田道成だった。


(‥‥‥これは、手強そうだ)

 

首をすくめて、麗子は夫の横に腰を下ろす。


「奥さんからも、よく言ってくださいよ。もし東京がダメだったら、『大阪本社勤務でもいいから』って言ってるのに、恒さん、首をタテに振ってくれないんだ。―――困るよ、今やめられたら。大体、もったいないよ。一体なに考えてんだろうね! まったく!」

 

前田はまだ言い足りないようで、ブツブツぼやきながら、たばこを灰皿に押しつけてギュッと揉み消した。


「えっ!? 今、何ておっしゃいました!」


 近視の目で、麗子はまじまじと前田の顔を見つめた。開いた鼻がデンと据わった、鬼瓦のような厳つい顔。不思議なことに、その顔が急に仏様の慈悲の顔に変わってしまったのだ。


「もう、いいよ。何度も同じことを言わせるんじゃないよ。―――そうさ、やめるよ。やめればいいんだろ」

 

今度は恒彦がふてくされた。


「うれしいッ!」

 

あまりの喜びに、麗子は夫に抱きついてしまった。


「おい。やめろよ! やめろってば! ―――子供みたいじゃないか。‥‥‥ったく、もう!」

 

恒彦に逃げられて、仕方なく前田に向きなおると、


「このようなわけでありまして、ご了承願いたいと思いますので、どうぞよろしく」

 

麗子は、あっけにとられている前田に、両手をついて深々と頭を下げたのだった。




❽ 記者魂


弾み―――と、一言で片づけるのは、多くの人たちの尽力を無視するようで抵抗があるが、弾みがついて、トントン拍子に事が運んだのも事実であった。麗子の企画に鳳商店会も賛同し、タブロイド判の新聞発行が十一月中に可能となったのだ。紙面は一枚とじの、四面である。


「一面は、品格を示す意味でも、当然、時事問題に割きたいね。そうでなきゃ、名編集長に依頼する意味がないだろ」

 

得意満面笑顔で、恒彦が第一面を早々と取ってしまった。


「‥‥‥まぁ、仕方がないか。しばらくはお給料が出ないんだから、編集長には譲歩しないとね。―――それじゃ、局長は第二面をいただいて、ミニ通信をここへ移すわ。本当は第三面も頂戴したいんだけど、それだと、広告は一面しかとれなくなっちゃうから、商店会とダイユウの援助をもらっても、赤字になっちゃうんだ。‥‥‥うん。ま、当面は、ミニ通信は第二面だけってことで、仕方ないな」

 

一度は納得したものの、


「―――でも、堺には紹介したい名所、旧跡が一杯あるのよ。旧市内には黄金の日々の、ニュータウンにはモダンでナウイところがね。おじいさん、おばあさんの連絡通信欄はもっと充実させたいし‥‥‥」

 

麗子は不満タラタラで、容易に収まりそうになかったが、


「そこは、それ、局長としての君の腕の見せどころじゃないか」

 

恒彦におだてられ、渋々引き下がったのだった。


「さあ、今日は二時に谷口印刷の社長と、カクテルコーナーで活字の打ち合わせがあるから。早めに出て、源と三人で豊のとこで寿司でもつまみながら、源治サンの頼みとやらを拝聴しようじゃないか」

 

11日の土曜日、早番の麗子が帰宅すると、恒彦が玄関へ出迎えて誘った。


「こんにちは」

 

ブタジュウのドアを開けて、二人そろって挨拶する。


「こんにちは、いらっしゃいませ。どうぞ」

 

今日はぎこちない挨拶の主が店内にいて、恥ずかしそうに顔を赤らめ二人を迎え入れる。亡くなった妻の妹で、今日から手伝いに来ていた。


「へぇー! 良かったじゃないか、源」

 

恒彦は思わず声を上げてしまった。色白の美人で、仕草がなんとも初々しい。源治の後添いに、これ以上の女性は望むべくもないだろう。


「‥‥‥おい、冷やかすなよ。―――小百合ちゃん、悪友の百瀬恒彦と、奥さんの麗子さん」

 

よほど照れくさいのか、頭をかきかき、源治もぎこちない紹介だった。


「それじゃ、小百合ちゃん。一応、定食の準備はしといたから、分かってるね。なくなったら、『今日は売り切れで、ゴメン』って言や、お客は納得してくれるから。何かあったら、おかめ寿司にいるから、―――電話番号はここに書いてあるから」


「はい、分かりました。行ってらっしゃいませ」

 

小百合が店外まで三人を見送り、深々と頭を下げる。


「―――おい! 『行ってらっしゃいませ』だって! このー!」

 

小百合が見えなくなると、恒彦がヒジ鉄を見舞うまねをして、源治をからかう。


「もう! 恒彦さんったら。私だって、あんな時があったんだから。―――あっ! 源さん、赤くなって。いいわねぇ、新婚生活」

 

結局、麗子も源治を冷かしてしまった。


「―――な、そんな訳で、俺はお前さんらに、仲人をしてもらいたいんだ。ごく内輪だけで、ひっそりとしたいんだが、一応、形だけは整えとかないとな」


「何だよ! 俺らは一応、形だけの仲人かよ!」

 

二階の座敷に腰を下ろすと、源治は恐縮しながら本題を口にするが、またまた、恒彦に言葉尻をとられてしまった。


「―――ま、いずれにしても、めでたいことだ。俺らで良かったら、仲人でも何でも引き受けるから。さ、―――それじゃ、乾杯」

 

恒彦の音頭で、三人がそろってビールを口に運ぶ。


「ところで、初版の時事欄、もう何を書くか、決めたのか?」

 

冷やかされっぱなしだったので、一息ついたところで、源治が話題を変えた。


「‥‥‥そうだな。ミニ通信がお年寄りに好評だったんで、老人問題を扱おうと思ってるんだ」


「ね、恒彦さん。鼻山病院、老人医療に積極的に取り組んでて、お年寄りの評判もいいから、あそこのスタッフの方の特集を組むのはどうかしら」

 

鼻山病院というのは、医療法人耳原会グループの病院で、革新団体の一翼を担い、機関誌発行による積極的な政治活動と、政府ないし資本主義体制への批判を展開している。


「鼻山病院! あそこはやめとけ! 最低だ!」

 

源治は顔をしかめて、吐き捨てた。


「どうしたんだ、源。お前らしくないじゃないか」

 

温厚な源治とは思えない非難に、恒彦も驚いている。


「いや、これはオフレコにしてもらいたいんだが、以前、医療ミスというか看護ミスがあったんだ。しかし、その隠し方が最低で、お粗末としか言いようがないんだ」

 

源治は知人の父が亡くなった医療事故について、目と口元に不快をにじませ話し始めた。


「総婦長が、『看護婦が悪いんです! 許してください! ご家族の悲しみを思うと、何とお詫びをしてよいのか‥‥‥。でも、これは理由になりませんが、看護婦は忙しいんです! 本当に一生懸命なんです!』と、延々二十分近くも泣きながら謝ったのに、医師会の医事紛争調停委員会では、『あれはミスとは思っていません。泣きながら謝ったのは、長い間、お世話をしていた人が亡くなったので、悲しくなって泣いただけです』と陳述しているんだよ」


「―――すると、医師会の調停にかかったんだな」

 

恒彦が身を乗り出してきた。医療過誤事件には、新聞記者として許しがたい事例が枚挙にいとまがないのだ。


「うん。病院長も謝罪して、総婦長も〈泣き女〉さながらの涙だったんだが、その後、一向に病院から連絡がなく、ナシのつぶてだったんだ。そこで被害者の息子さん―――ウチのお客さんなんだが、病院へ出向いて、『慰謝するという気持ちはないのか』って尋ねると、事務長の村木、これは医療法人耳原会の常任理事なんだが、彼が出てきて、『慰謝料をお支払いするためには、医師会の調停にかける必要があるんです』というので、病院の誠意を信じて調停にかけたところ、病院側は嘘八百を並べ立てた、というわけんなんだ」


「で、調停案は出たのか」


「いや、構成員が医師の調停委員会も、さすがに病院側の嘘八百には呆れ果てて、明確な調停案というべきものは、伝達されなかったらしいんだ。有名な調停委員がね、『病院は、どうしてもミスを認めようとせんのですよ。このままでは六十万円くらいの金額しか出せないんですよ。訴訟にかけられたらどうですか』って、息子さん夫婦に伝えたらしいんだ」


「医師会は、六十万円の支払命令は出すと言ったんだな!」

 

恒彦は声に力を込めた。調停委員会の心証は、明らかにクロなのだ。


「何か証拠になるようなものは無いのか?」


「うん。担当医師がカルテに、人工呼吸器が外れていたのは数分と記入しているんだ。それに息子さん夫婦に、看護婦がナースステーションを空けていたのは、五分間くらいだったと打ち明けているんだ。もちろん、医師会の調停でも、明言しているんだ。―――それとな、友人の弁護士にいわれて、病院とのやりとりを克明に記録し、証拠として残してあるんだ。医療ミスがあった場合、ほとんどといっていいくらい、病院側は嘘をつくらしいから」


「‥‥‥そうだな」

 

恒彦も、眉間にシワを寄せてうなずいた。


「でもひどいわねぇ、無茶苦茶じゃないの。どうして、息子さんは訴えないの?」

 

麗子も怒り出してくる。薬剤師で、看護師の資格保持者でもあるのだ。


「うん。お母さんが、訴訟を嫌っているらしいんだ。何度も命を救ってもらったことは事実だし、それに、訴訟になると一番世話になった、担当の先生が窮地に立たされるんだ。彼は息子さん夫婦に正直に打ち明けているからね」


「な、源。テープやメモを見せてもらえないかな。何とか、息子さんに会えないかな」


「ほら、そういうだろうと思って、お前には黙っていたんだ。‥‥‥でも、無理だろうな。一度、南埜さんには話しておくけど」


「―――南埜さんて、ダイユウの薬局にパートに来ている、南埜若子さんの親戚の方かしら」


「彼女、南埜さんの奥さんだよ」


「えっ! 南埜さん、そんな素振りを、おくびにも見せないのに」


「それがますます腹立たしいんだよ! 病院への感謝の気持ちがあるから、南埜さん、黙っているんだよ。しかしね、人の命だよ! しかも苦しんで死んだことは、『当然でしょう』って、医師会の調停委員も認めているんだ。一体、何ていう病院なんだ! 病院に勤務している者は皆、ミスを知っているんだ。それなのに、総合医療センター院長の一声で、みな右へならえらしいんだ。オウムと一緒じゃないか。組織って、あんなもんなのか。俺には信じられないよ!」

 

よほど腹に据えかねているのか、源治の怒りは治まりそうになかった。



❾ はい、ジパング通信局


ミニ新聞の中身と形が決まったというのに、名前がなかなか決まらない。


「鳳通信というのはどうかしら。鳳が発祥地なんだから」


「鳳が好きなのは分かるけど、ちょっとローカルな気がするな。この堺を拠点に、堺の内外にメッセージを送るつもりなんだぜ」


「だったら、堺通信というのはどうかしら。ピッタリじゃない」


「もう少しモダンにいきたいね。それに、堺通信だったら、すでに発行されているものがあるんじゃないか。名前がダブッたりすると、クレームが出るよ」


「そうか。‥‥‥何がいいのかな。堺の歴史に負けない重みと、二十一世紀へはばたく堺を先取りする名前、‥‥‥難しいな。温故知新‥‥‥か。そうだ! ジパング通信というのはどうかしら。黄金の日々を謳歌した町に、一番ふさわしい名前じゃない」


「それだな。‥‥‥よし! それに決めよう。後援してくれる人たちも、きっと賛成してくれるだろう」


「それじゃ、我が家はジパング通信局ということになるのね。―――源さんに、格好いい看板を描いてもらおう。源さん、絵が上手だから。‥‥‥でも、良かった」

 

ようやく名前が決まり、麗子は重い肩の荷が一つ下りた。安堵の溜め息をつくと、リビングの椅子から立ち上がって紅茶の準備を始めた。


「ね、南埜さんの奥さんに君から頼んで、何とか協力してもらえないかな」

 

名前が決まると、恒彦は自分の書く時事欄が気になる。ジパング通信を単なる宣伝誌で終わらせないためにも、少し硬派なものを扱う必要があるのだ。

 

源治が南埜純夫に、恒彦の取材を打診してくれたが、彼の回答はノーだった。病院にはアンビバレント(両面的)な感情を抱いており、献身的ケアを尽くしてくれた医師や看護師、それにケースワーカーへの感謝の気持ちが、病院トップに対する怒りを抑えているらしい。


「病院を弾劾する記事を載せるつもりはないんだ。父親を亡くした、心の葛藤を語ってほしいんだ。そうすることで、老人医療に対する警鐘とともに、新しい医療のあり方を考える一助にもなると思うんだ。匿名でいいし、穏やかな内容の記事を書くからさ。最高のスタッフなのに、もうろくした人物のせいで、最低の対応を強いられているんだぜ。何とかスタッフの手で、自浄作用を果たしてほしいんだ。このままでは、医師会の評価も最低のままだよ」

 

靖夫の紹介で、恒彦は医師としても有名な調停委員に会ってみたが、苦り切っていた。調停委員会のメンバーで、病院を疑っていない者は一人もいないらしい。

「三崎、辻井の二人がナースコールで詰め所を出て、最後の山内も詰め所を空けたことから事故が起こったんですわ。みんな知ってるのに、誰も正直に言いよらん。遺族は医師会の調停に委ねると言ってくれているのに、病院に全く誠意がない。調停ということの性質上、双方の歩み寄りがないと、満足のいく調提案が出せないんですよ。これじゃ、鼻山病院のために、医師会加盟のすべての病院が誤解されてしまう。医師会にとっても、大変なマイナスですわ。体質を変えなければ、どうしようもないが、あそこじゃ、難しいわな」

 

ベテランの調停委員は、最後に侮るように口元をゆがめたのだった。


「一度、南埜さんに頼んでみるけど、あまり期待しないでね」

 

麗子も期待していなかったが、二日後、ダイユウで南埜若子に尋ねてみると、


「そういう意図だったら、お話しします。夫も私も、病院の対応には許せない気持ちで一杯なんです。ただ、担当の影岡先生に迷惑をかけたくないのと、義母が荒立てて欲しくないと言うもんですから」

 

昼の休み時間、ダイユウのコーヒーショップに腰を下ろすと、若子はゆっくりと正確に言葉を選びながら、麗子の問いに答えてくれた。同じ薬剤師で、パート仲間。年は六つ上だが、穏やかな口調に性格がにじみ出ていて、麗子は若子が好きだったが、相手の好意も麗子の予想を上回るものであった。


「‥‥‥そうですか。そこまで認めたのに、調停委員にはシラを切り通したんですか」

 

当直医、担当医、それに病院長、総婦長との話し合いすべてに立ち会っただけあって、若子の話は真に迫り迫力あるものだった。


「総婦長が余りわざとらしく泣くので、夫が、『分かりました』と、その場をおさめたんですが、彼女は自分の演技が認められたと誤解したらしく、『損害賠償請求権があれで放棄されたと思った』と、調停委員に陳述しているんです。あんな猿芝居で、人の命を償ったと思うなんて、義父がかわいそう過ぎます。命の尊さに対する認識が無さ過ぎます。ケースワーカーの才山さんも、婦長の河村さんも道理の分かった人だと思っていたのに、どういうことなんでしょう。‥‥‥もう、信じられなくなりました」

 

話し終えて、若子は寂しそうな笑みを浮かべ、小さく首を振った。


「編集長、―――主人のことなんですが、彼の取材に応じていただけないかしら。迷惑はおかけしませんから。彼、つい最近まで、新聞社の社会部勤務でしたので、十分心得ていますから」


「ええ。私はかまわないんですが、一度、夫がお断りしていますので‥‥‥」

 

若子は迷っていたが、


「そうですね、帰って夫を説得してみますから、―――もし気が変われば、彼がそちらへ電話を入れると思いますので、その時は宜しくお願いします」

 

立場上、無難な言葉を口にして、即答を避けたのだった。


「説得するって言ったって。―――締め切りまであと一週間なんだから。間に合わなかったら、困るよ」


「でもその時は仕方がないから、差し替え記事を掲載してもらうしかないわね。もちろん、あるんでしょう、名編集長さんだから」


「そうだな‥‥‥」

 

嫌と言われれば、他の記事をあてなければ紙面は埋まらない。食い下がってでも、ネタを取るのがブンヤの習性ではあるが、恒彦は黙って待つ覚悟だった。〈動〉から、〈静〉。靖夫のように、少し、引いてみようと思っているのだ。

 

次の日も、その次の日も電話がなかったので、仕方なく差し替え記事の構想を練り始めていた、三日後のことであった。ブタジュウへ出かけようと、麗子と玄関へ下りた時、


「ルルルルルー」

 

と、真新しいベルが二人を呼び戻した。


「はい! こちら、ジパング通信局」

 

恒彦が応接間の、通信局専用電話を取ると、


「‥‥‥南埜と言いますが」

 

低い男性の声が受話器から流れてきた。大学の講師をしているだけあって、落ち着いて、声に自信と威厳があった。恒彦が待ちに待った、南埜純夫からの電話だった。



❿ 取材


真実の入手が取材の最重要課題であり疑いを入れる余地はないが、これで事足れりという牧歌的時代では最早なくなっていた。唯一のはずの真実さえ、思い込みで、いかようにも姿を変えるところが又、厄介であった。

「女に惚れたときのことを思い出せよ。思い入れが強いと、アバタもえくぼに見えるだろう。ああなるとダメだ。真実なんて、掴めっこないんだ。だから、白紙で臨むんだぞ。端(はな)から、取材対象に惚れるようなヤツは、ブンヤは失格だ。いいな、白紙だぞ!」

 駆け出しのころ、キャップだった前田に浴びせられた決まり文句で、今も耳にこびりついているが、南埜への取材に際し、恒彦は肝に銘じなければならなかった。判官びいきも手伝い、白紙ではいられないのだ。鼻山病院にとって、老人医療・老人福祉は、集金と政党への集票のキャッチフレーズにすぎなかったのか。市政や府政、はたまた国政を批判する資格が、鼻山病院や耳原会にあるのか。革新団体の実像が、南埜純夫への取材で、より鮮明になろうとしているのであった。

「こんにちは、源サン」

 恒彦の右腕を抱いて、麗子が意味あり気な笑顔で、ブタジュウのガラスドアを開ける。

「よっ! 麗子ちゃん。随分ご機嫌だね」

「こんにちは、いらっしゃいませ」

 小百合の挨拶は今日も新鮮で、初々しい。

「よう! 恒。どうしたんだ? 奥方と違って、今日はばかに仏頂面じゃないか」

 定食のみそ汁を椀に盛る手を止め、源治が、無愛想の恒彦をからかう。上機嫌を隠すとき、よくこんな顔をするのだ。

「うん。実は、‥‥‥いや、ちょっとな。ま、いいじゃないか」

 恒彦は話そうとして、もったいぶった。親友を無視して、そのままトントンと階段を駆け上がる。

「おい、ちょっと待てよ。気になって、仕事が手につかないじゃないか。―――小百合ちゃん、あとお願い。麗子ちゃん、ニコニコしてないで、これ、頼むよ」

 肩透かしを食うと、余計、気になるものだ。麗子にエプロンを手渡し、源治は慌てて恒彦の後を追った。

「な、恒。電話があったんだろ? 南埜さんから」

「おい、落ち着けよ。こんな狭い階段、並んで上がることないだろ。―――それに、取材の秘密ってものがあるんだから」

 恒彦は仏頂面のまま、カクテルコーナーのドアを開けた。

「もう! もったいぶらずに教えてくれよ。商店会の若手店主はみんな、お前の書く記事を、首を長くして待ってんだから。な、あったんだろ、電話」

 カウンターの椅子に腰を下ろして、源治は恒彦の顔をのぞき込んだ。

「うん。ほんのついさっき、電話をくれたんだ」

「そうか。やっぱり電話があったか。昨日、大学の帰り店へ寄ってくれて、お前のことを聞いていたから、今日あたり電話が入るんじゃないかと期待してたんだ」

 聞きたいことが分かると、源治は急に口をつぐんだ。ようやく事件が明るみに出るかと思うと、感無量なのだ。取材の手順を考えながら、シェーカーを振る編集長の邪魔もしたくなかった。

 カウンターをはさんで、源治がマンハッタン、恒彦がベジタブルジュースのグラスを、黙って口に運んでいると、

「お待たせしました。ブタジュウ自慢の定食が、ようやく出来上がりましてよ。さあ、ムッシュー・カクテル」

 麗子が定食を運んできて、恒彦の前に豚玉とみそ汁、ご飯に漬物、それに冷や奴を一つずつ、まるで宝物を扱う鑑定士のように恭しく並べる。

「源さんの分も持ってくるから。―――いいのよ、座っててよ。ムッシュー・マスター。お昼は、私と小百合さんで十分間に合うんだから。気が合うのよ、私たち。―――お二人と一緒で」

立ち上がろうとした源治の肩も、摂関家の執事さながら恭しく押さえ、麗子は恒彦に吹き出しそうな笑顔を隠し階下へ下りていった。

「取材はどこで? カクテルコーナーにするのか」

「いや、南埜さん宅へ伺うことにしたよ。内容が内容だから、ここじゃぁな」

 リキュールのボトルやグラスに目をやり、恒彦が渋い顔をした。

「そうだな。その方がいいだろう。それに家だと、若子さんの話も一緒に聴けるから」

「そういえば、南埜さんの奥さん、洋子さんの親友だったんだって」

 恒彦が、源治の亡妻の名前を出すと、

「‥‥‥うん。小学校の時から、大学までずっと一緒だったんだ。良くできた人でね、洋子の看病まで引き受けてくれて。―――小百合とのことも、若子さんのおかげなんだ。余計なことを言わない人でね。見合い話が進み結納まで済んだ小百合に、『小百合ちゃん、今なら、まだ間に合うのよ。‥‥‥さあ、泣いてないで、源さんとこへ行きなさい。おじさん、おばさんは、私が説得するから』。そう言って、小百合の肩をやさしく押してくれたんだって。後のゴタゴタも、全部、若子さんが引き受けてくれて。―――ま、それやこれやで、俺は彼女に全く頭が上がらないという訳なんだ」

 源治は照れくさいのか、ウォタ―グラスをグッと飲み乾した。

「―――で、亡くなった南埜宏さんも、若子さんが世話をしていたのか」

「うん。病院は完全看護なんだが、彼女は毎日のように行っていたよ」

「ところで、病院側が調停委員に述べているところでは、治療費や病院への謝礼に五万円まで、彼女が渡しているということなんだが」

「ああ、あれか!」

 源治は怒気を含ませ、吐き捨てた。

「治療費は、看護師の三崎が彼女に要求したんだ。当直医がミスをしゃべるなど、夢想だにしなかったのだろう。自分の点数でもあげるつもりで治療費を要求したんじゃないか」

「でも、どうして支払ったんだ」

「それはね、ケースワーカーの才山課長が、『病院への感謝の気持ちと、こちらのミスとは別ですから。病院長に、会う時間を取らせますから』と、病院側の誠意ある対応を約束したもんで、矛盾を感じながら支払ったらしいんだ、南埜さんの了解を得ずに。謝礼の五万円も、お母さんに手渡されて仕方なく持参したんだ。お母さんには、ミスで亡くなったことは最近まで伏せていたからね、ショックを与えないために。ところが葬儀が終わっても、病院からはナシのつぶてなんで、南埜さんが電話を入れて病院長に会いに行くと、同席した総婦長が猿芝居を打った、というわけなんだ」

「で、南埜さんの要求は何なんだ? 慰謝料なのか?」

「慰謝料は当然支払うべきだという考えだが、額にはこだわっていないよ。だいたい、慰謝料が支払われても、世のために役立つことに使いたいと言っていたし、それは事務長の村木にも伝えてあるんだ。病院側も、村木の電話の録音で了解していることだろう。南埜さんの要求は、誠意ある謝罪と事故防止策の確立だろう。しかるに、同じ病院長の下で、院内感染による多数の死者が最近のように出たりすると、父親の死は何だったんだ! という気持ちなんじゃないか」

「‥‥‥なるほど。―――ところで、麗子の話でもそうなんだが、南埜さんは病院に随分、感謝の気持ちを持ち続けているらしいんだが、なぜ、ここまでこじれてしまったんだ」

「それは、生命に対する尊厳が微塵も感じられない事務長と総婦長に対する怒りだろう。調停委員に怒鳴りつけられても、幼稚な嘘をつき通した二人の無能さと、そんな無能な人物が、革新団体を標榜する鼻山病院のトップにいるという救いようのない現実。人工呼吸器がつけられていたといっても、食事をとりテレビまで観ていた患者を、植物状態で今まさに死にゆく者と信じ込ませるカルテを調停に提出する、病院側の卑しさ。数え上げれば切りがないが、それらが時の経過とともに、遺族の怒りを増幅させてきたんだろうな。‥‥‥事故直後に、正直に打ち明けて謝罪すれば、わずかの見舞金で済んだものを、本当に愚かな奴らだ。南埜さんが、事務長と総婦長を堺南署(現、西堺警察署)に告訴にいった気持ちが、今になってよく分かるよ」

「南埜さん、事務長と総婦長を告訴したのか!」

「うん。事実を南署の刑事に伝え、告訴手続きをとろうとしたんだが、結局、思い止まったんだ。担当の影岡先生がメモを読みながら、事故の経過を南埜夫妻に伝えたんだが、その用紙は恐らく処分されているだろう。一番世話になった人に、証拠隠滅の嫌疑をかけるわけにはいかないし、病院内で一番つらい立場の山内ナースには、あまり怒りは湧かないらしいんだ。ただ、‥‥‥ナースコールを押して、ナースの来るのを待ちながら薄れゆく意識の中で、息子である自分の名前を呼び続けたと思うと、南埜さんは堪らないんだろうな。『主人の胸中を想うと、私にはそれが一番苦痛なの』って、若子さんが言ってたよ」

「‥‥‥そうか。お前の話を聞いて、二人の心情がよく分かったよ。―――さあ、これから、南埜さん宅へ行ってくるよ。午後ならいつでもいいって言ってくれたけど、あまり遅くなると、夕食の準備に支障が出るだろう。下の息子さん、まだ小さいらしいから。―――今だったら、十分話が聴けるだろう」

 北野間が三十年来愛用の、オメガの自動巻きで時間を確認する。予備知識はこれくらいにして、あとは直接取材でまかなうべきなのだ。

「よし! それじゃ、車を借りるぞ!」

 恒彦はカウンターから身を乗り出し、源治の肩をギュッと掴んで興奮を抑えた。戦いの火蓋が、自分のペンで切られる予感がこみ上げてきたのだ。百戦錬磨のベテランが、駆け出しさながら胸が高鳴り、武者ぶるいを抑えることが出来なかった。








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