第七話 手強かった耳原病院と弁護士

①第四話が予期せぬ事態から途中で終わってしまったが、ここに本来書くべきだった第四話の続きを書き加えさせていただく。このような書く作業にいそしめることは、怒りを一時的にも忘れられ、また正五郎を助けられなかった後悔というか、名状し難い心の落ち込みも、しばしではあっても意識から遠のいてくれる。


母親である妻の日常と較べると、ほんとうに後ろめたくはあるが、父親であり夫としての至らなさを噛みしめながら、冷静に、冷静にならねば、耐え難い屈辱を受けてきた正五郎の無念は晴らせないと自分に言い聞かせ、長い時間の日々を送っているのが私の有りようである。


そんな中で、本来のテーマの具体的事実例と言ってよい、父死亡の耳原病院事件と息子正五郎が亡くなったパワハラ事件の関連。この二つに於ける似て非なるフェーズ解明が全体としてのテーマに連なると考えるのであるが、そのための判断対象として、ここではまず耳原病院事件の概要を、登場人物を絡めて簡潔に述べてみたい。


❶医療ミスの被害者と遺族についての、簡単な説明。

 両親の離婚により、私は生後一歳の時に南埜宏(ひろむ)・フジヱ夫婦の養子に迎え入れられ、南埜姓を名乗ることになった。昭和二十五年七月七日のことだった。父宏は中国・フィリッピンでの過酷な戦争体験により、終戦による復員後も、肺機能低下による慢性的な呼吸不全に苦しめられていたが、西埜植織物(株)の工場長や剣山敷物(株)の貞光工場長に就いていて、定年年齢である六十歳過ぎまでは日常生活に支障をきたすことはなかった。孫である正五郎を抱きあやし、また成長につれ手を引いて歩く、父の嬉しそうな笑顔が今も私の脳裏に焼き付いて離れない。

 

しかし父は六十も半ばを過ぎると、頻繁に喘息の発作に苦しめられることになり、救急搬送の世話になることも少なからず発生し、その際の搬送先が耳原病院であった。亡くなる前の数年間は、入退院を繰り返していたが、気管切開による人工呼吸器装着後も、テレビを観、食事を楽しむ日々であった。特に、死亡事故前は体調も良く、主治医から人工呼吸器をつけたまま、外泊をすることも検討してもらっていた。それほど健康状態はよかった。そんな矢先に、事故が起こってしまった。


ほぼ毎日、私は父への顔見せと父の様子見を兼ね、予備校や塾への勤務の途中、病院を訪れていた。妻も、食が楽しみの父の食事の介助のため、昼食時や夕食時に病院を訪れていたが、人工呼吸器が外れた日に限り、偶々、二人とも病院を訪れなかった。個室には入っていたが、病院近くを車で通った時は午後九時近くで、さすがにこの時間に訪れることは病院や他の患者さんに迷惑がかかると、はばかられたのだ。


「今日はちょっと遅くなったから、明日のお昼に行くことにした方がいいでしょう」

 

妻の言葉に、妙な不安を覚えながら子供たちの世話を引き受けてくれている、母フジヱの家へ向かったのだった。母の家で、五人で食事を済ませ、帰宅後、子供たちが寝入った深夜に、ためらいと分かるような電話のベルが鳴り、すぐ切れてしまった。そしてしばらくして再び電話のベルが鳴り響き、今回は切れることはなかった。耳原病院からの電話で、父の容態が急変したので、すぐ来てほしいとの内容だった。眠っている長男正五郎を起こし、


「病院から電話があって、おじいちゃんの容態が悪くなったので、すぐ来てほしいて言ってきてるから、お父さんと二人で出かけるからね。真住(ますむ)のこと頼むね。お父さんはすぐ帰ってもらうから、心配ないからね」

 

妻が眠け眼の正五郎に、弟の世話を伝えるのを聞きながら、私はガレージへ急いだ。


❷当直医の説明

 午前二時過ぎだったと思うが、正確な時間は訴訟資料に記載が残っているのであろうが、さほど重要と考えられないので、おおざっぱな時間の記述にとどめさせていただく。慌ただしく病院裏手の駐車場に車を滑り込ませ、妻と二人で照明の抑えた寂しい院内を早足で歩く。エレベーターを三階で降り、ナースに案内されて妻と二人椅子に並んで、当直医の説明を受ける。眠っているところを起こされ、しかも心臓マッサージでようやく父が蘇生したとのことで、三十代後半の当直医は顔に疲労が滲みながらも、蘇生に成功したことの達成感からか興奮気味に状況を語ってくれた。


「人工呼吸器のチューブが外れていたんですよ。ナースステーションに誰もいなかったので気が付くのが遅れ、私が心臓マッサージをしてやっと蘇生したんですよ」


「えっ! ‥‥‥人工呼吸器が外れていたのは、どれくらいの時間ですか?」

 

思わず問い返した私に、


「六分くらいだったと思います」

 

当直医は我々二人の真剣な表情に気圧されたのか、それとも今後起こるであろう事態が脳裏をかすめたのか、憶測を交え困惑気味にゆっくりと答えた。


「脳死ですか?」

 

目の前の昏睡状態の父を見て、私は不安を口にした。


「脳死に近い状態です」

 

当直医にこれ以上聞くのは酷な気がして、私は後を妻に託して、帰宅を急いだ。父の状況を見ていると、子供たちへの新たな不安が脳裏に押し寄せ病院にとどまっていられなかった。自宅前の路上に車を止めてそっと家に入ると、子供たちは何事もなく眠っていた。


「どうだった?」


午前七時前に妻を病院へ迎えに行き、車中で父の様子を聴く。


「うん‥‥‥」

 

妻の口から洩れたのは、予断を許さない深刻な父の症状だった。しばらく付き添っていると、父の体がガタガタと震えだし、白目をむいた状態が続くので、ナースコールを押すとナースがやって来て注射で震えを止めたというのだ。


「お父さんのあんな姿見せたら、純一さんはきっと怒りだすから、付き添っていたのが私で良かった」

 

妻は淡々と語ったが、薬剤師資格を持つ身には、事態に対するある程度の判断が付くのであろう。目を伏せた顔に希望の光はなかった。

 

耳原病院は正確なことを教えはしないとの確信めいたものがあったので、一歳上の親族に電話を入れて、彼の判断を仰いだ。当時、京都にある旧帝大医学部助教授であり、消化器外科では既に世界にその名を知られていて、生体肝移植手術の成功実績も数多く、妻も私も彼の能力に対する信頼は厚かった。当直医や妻から聞いた父の症状を伝えると、


「おっちゃん、よっぽど心臓が丈夫やったんやな」

 

簡単な状況説明だけで、彼は驚きの声を上げた。もはや回復不可能な事態であることが、言外に現れていた。普通の人間であれば、ほぼ蘇生は不可能で、確実に死に至っていたとの判断が、声にも滲んでいたのだ。


「病院は、人工呼吸器が外れていたのは、六分くらいだと言っているんだが」


「いや、十分くらいやろ。‥‥‥おっちゃん、脳死やな」


「‥‥‥そうか。どれくらい持つんやろ?」


「二週間やな」

 

幼い頃から一緒に遊んだ仲で、説明には患者の親族に対するような遠慮やいたわりはなく、正に単刀直入だった。


「持って二週間らしいから、母や親しい親族には会いに行ってくれるよう、伝えてくれるか」

 

横で聞いていた妻に伝え、私も心の準備を急いだのだった。

 

親族である外科医―――具体的な親等を記載せず、この表示にとどめるのは、彼とは病院提訴に対するポリシーが我々夫婦とは大きく異なり、また後に述べるように、父の死から五年後に彼の息子が明らかな医療ミスで亡くなるという不幸に見舞われたことから、実名や親等は控えることにした。数年前まで、長らく大病院の病院長であったという事情も当然あるが―――その彼が明言した通り、父は二週間後に、きっちり二週間後、まるで判で押したように亡くなってしまった。人工呼吸器外れと死との因果関係を少しでも薄めたかったのであろう、耳原病院は一日でも長く父を生き永らえさせるべく、ありとあらゆる手を尽くしたが、徒労に終わってしまった。


「患者さんが自分のミスでベッドから落ちても、婦長(正確には看護主任)さんが平謝りで、当の患者さんが恐縮していたというのに、何でお父さんの件は謝ってくれないの?」

 

父の葬儀が終わって少し落ち着くと、妻は不満を口にするようになったが、私も同感だった。亡くなるまでの二週間、付き添いに訪れていた妻に、


「南埜さんごめんね」

 

婦長が一度、すれ違いながら軽く述べたらしいが、これが人の死に対する謝罪というのでは、亡くなった人間は浮かばれない。もちろん、遺族が納得できるはずもなかった。

 

我々夫婦の意を汲んで、主治医は病院長と総婦長(正確には看護部長)の説明の機会を設けてくれた。その席で、病院長は、


「誠に申し訳ありませんでした」

 

深々と頭を下げて謝罪したが、


「父は苦しまなかったのでしょうか?」

 

私は一番気になっていたことを尋ねた。


「苦しまずに、スーッといかれたと思います」

 

病院長は妻と私にすまなそうな表情を浮かべたが、隣席の総婦長に険しい視線を送り、


「看護婦がまだ嘘をついていたら別ですが」

 

忌々しげに吐き捨てた。


「‥‥‥許してください。看護婦が悪いんです。でもこれは理由になりませんが、看護婦は忙しいんです。本当に一生懸命なんです」

 

総婦長は突然、泣き出したが、私は妻の同情した困惑顔を見ながら、人の良いのも程があると一層しらけてしまった。

 

病院長の説明から数カ月たっても、病院からは何の連絡もなく、まさに梨の礫だった。総婦長の名(迷)演技で幕を引いたつもりだったら、何とも不快で、こちらの気持ちの整理がつかない。外科医の親族との会話も私の気持ちを安らげてくれるものでなく、より深い苦悩に引きずり込まれてしまった。


「病院は、おやじが苦しまずに死んだって言ってるが、やっぱり苦しんだんやろか?」


「うん。そらそうやろ。窒息状態やからな」

 

ナースコールを押しながら、薄れゆく意識の中で、どんなに苦しかったかと思うと私はたまらなくなる。以前、危篤状態から回復した父が、子供のような表情を浮かべ私に語ったことがあった。


「きれいな花畑を通って川に着いたら、亡くなったお袋がこっちへおいでと呼ぶんや。渡ろと思ったら、『コラ! 帰って来い』って、純一に怒られて戻ってきたんや」

 

臨死体験としてよく話される情景であるが、親族の口から語られるのを聞いたのは初めての経験だった。もっとも、これから十数年後、私は生身へのトラック激突という異常事態に見舞われ、死の淵をさまよったが、その折の体験は、寝ている自分を足元に立って見下ろしているというものだった。川を渡るか、足元から離れていくか。おそらくこれが生から死への分岐ではないだろうか。いずれにしても、父が薄れゆく意識の中で、誰の名を呼び続けたのかと思うと、このまま病院との関係を放置して終わることは到底、我慢がならず、納得も出来ないことだった。

 

耳原病院を訪れ、事務長に面談を申し込むと、父の死については当然知っていたようで、自己紹介もスムーズに進んだが、


「病院は、慰謝するという気はないんですか。病院長と総婦長が謝罪しておきながら」

 

私が憮然として本題に切り込むと、


「エッ! 病院長が謝ったんですか!?」

 

事務長は驚いて、問い返した。事務長の狼狽で、私と妻への病院長の謝罪は彼の独断での単独プレイと判明したのだった。病院長がトップに近い地位を有するとの認識を持っていたが、あからさまな事務長の反応に接し、病院内部というか、医療法人同仁会内部の容易ならざる力関係を垣間見てしまい、私は新たな不安と困難に襲われたのだった。


「慰謝料をお支払いするについては、医師会の調停に掛けないといけないんですよ」

 

慰謝料と言った覚えはないのに、事務長はこれに特化してしまったようだった。


「それじゃ、そうしてもらいましょう」

 

事情がよく呑み込めないまま、事務長の提言に私が同意を与える形で医師会での医事紛争処理委員会の審議が始まったが、そこに提出されてくる病院側資料と主張は、出席した妻と私を不信と不快のどん底に突き落とすものだった。


❸医事紛争処理委員会

 耳原病院の事務長は「調停」という言葉を使ったが、最近では、医事紛争調停委員会といわず、医事紛争処理委員会での紛争処理ということになっているので、ここではこの名称を使うことにする。


調停委員会の調停でも同じであるが、当事者である被害者遺族や病院を拘束するような法的効力を持つためには、医師会の紛争処理委員会の判断に当事者が同意することが必要なことは言うまでもない。この点は当事者の同意の有無にかかわらず、法的判断の効力が及ぶ裁判所の判断である判決と大いに異なるものである。ただ、医療保険との関連で、保険会社への支払い請求がスムーズに行くよう、耳原病院は医事紛争処理委員会にかけた、というのが私の判断であった。が、この点は第一回目の医事紛争処理委員会への出席で、認識の甘さを思い知らされてしまった。


医事紛争処理委員会への出席回数は正確には覚えていないが、資料を漁る気も起らないので、数回という表現にとどめるが、多分四、五回であったろう。

 

呼び出された時間は、たいてい午後七時か八時で、妻と二人で地下鉄谷町線の谷町六丁目駅を降り、紛争処理委員会の開かれる大阪府医師会館へ歩いた。事務所へ寄り、来館の趣(おもむ)きを伝えると、柔道をしていたとまる分かりの体格のよい事務員が出てきて案内を受ける。


エレベーターに乗り、石川という名前の事務員の先導で、六階だったか、七階だったかの面談室に入る。二十畳はある部屋の会議用テーブルに妻と並んで座っていると、二人の紛争処理委員が現れ、簡単な自己紹介の後、本題に入る。頭髪も顎髭も白一色の、六十過ぎの医師が我々を和ませる意図であろう、


「看護婦がナースステーションにいてなかったって話ですが、喫茶店へコーヒーでも飲みに行ってたんでっか?」

 

医師の意図的中で、隣りに座る妻が、いいえ、と口元をほころばせ肩の力を抜いて首を振った。


「耳原病院の看護婦さんに限って、勤務中、喫茶店へコーヒーを飲みに行って、ナースステーションを空けるというのは、考えられませんが」

 

私も苦笑いを浮かべ、高橋という委員の作戦に乗った。もう一人の福田という委員は、だんまりを決め込んでいた。雰囲気が和んだ中で、私と妻が当直医や主治医から聞いた説明を話し、病院長と総婦長の謝罪を語ると、


「泣いて謝ったって言わはるけど、道義的責任を感じて謝っただけで、泣いて謝ったのは、長いこと入院してた患者さんが亡くなったので、悲しくなって泣いただけです、と病院側は言ってますけど」

 

高橋委員から、信じられない病院側の主張を知らされる。弁護士の入れ知恵だろうが、こんな論理をまかり通す病院側のやり方に改めて怒りが込み上げる。横で妻も驚きの表情を浮かべ首を振る。

 

耳原病院の主張としては、人工呼吸器が外れていたことは認めるが、すぐさま適切な処置をしたので、この点ではミスはないとの主張を展開する意図であろうと分かる。


「でも、主治医の先生は、看護婦さんがナースステーションを空けていたのは六分くらいだったと聞いていると、私たちに説明してくれました。用紙に書いてあるところを何度も丸で囲っておられました」

 

目の良い妻には、主治医の説明時、カルテ用紙の裏に書かれた記述が見えていたようだ。近視の私にはもちろん見えていなかった。


「せやけど、そんな用紙、どこにもおませんで。何やったら見せましょか」

 

高橋委員は、病院提出書面をすべて我々の前に開示してくれたが、彼の言うとおり、病院に不利な内容の書面はどこを探してもなかった。結局、耳原病院の主張としては、先に述べたように人工呼吸器のチューブのはずれは認めるが、適切な処理をしたので、この点でのミスはなかった。泣いて謝ったことも認めるが、単に道義的に謝っただけで、法的責任を認めるものではない、とのことだった。


「長いこと入院してた患者さんが亡くなったら、耳原病院は、いっつもいっつも泣いて謝るんか。そんな話は聞いたことないな」

 

大阪府医師会館を出て、妻と並んで、地下鉄谷町六丁目駅へ寂しい街灯の下を歩きながら、私は無力感と不信感に圧し潰されんばかりだった。父の長い入院生活の中で、人工呼吸器が時折外れるのを目撃したが、その都度、


「外れたら、自分では接続は難しいから、ナースコールを押して看護婦さんにすぐ来てもらうんやで」

 

父にはしつこいほど念を押してきたが、ナースが詰め所にいなければ、むなしい警告灯が点るだけで何の役にも立たないのだ。


「こんなこと認めたら、お父さんが可哀そうすぎる。‥‥‥浮かばれへん」

 

妻も心底、ショックを受けたようで、夏から秋に変わる暗い夜空を見上げ、深いため息をついた。お互い、これほどの不信感に襲われたことは初めてで、かといって、湧き上がる怒りの方向が定まっても、納得のいく収め方など思いつくはずがなかった。

 

医事紛争処理委員会へは、その後数回出席したが、耳原病院側の主張は変わらず、出席のたびに不愉快にされるだけだった。総婦長が、「お父さんが生きていらっしゃったら、息子さんが紛争処理にかけたりしたら、きっと悲しまれると思います」と述べたと、紛争処理委員から聞かされたときは、私は怒りで体が震えてしまった。


あれほど世話をしてやったのに、恩を仇で返すのか、との総婦長の主張であろうが、思い上がりも甚だしい。確かに献身的ともいえる看護にはずいぶん感謝して来たし、折に付け言葉でも表してきた。


しかしその感謝は、愛する家族を失った悲しみと、それを失わせた行為に対する怒りの前では、とてつもなく小さい。死をもたらす可能性ある職務や行為に従事する者は、このことを常に肝に銘ずるべきである。


「怒鳴りつけてもミスを認めようとせんのですよ。裁判にかけられたらどうですか」

 

最後に出席した処理委員会の席で、高橋医師からの提言だった。


「ええ、そうするつもりです」

 

私は答えたものの、先の展望が全くといってよいほど見えなかった。なお、後日分かったことであるが、高橋道成医師は医療法人積善会高橋病院の創立者で、私たちにはずいぶんと好意的であった。おそらく、医師会に医事紛争処理委員会を設けている以上、出来れば裁判ではなく、医師会内部の紛争処理機関で解決したいという意図であったのであろう。彼は私の裁判の結果を待たず亡くなってしまわれたが、お手を煩わせたことへのお礼と裁判結果の報告を兼ね、三年前、大阪府貝塚市の高橋病院を訪れ、拙著〈耳原病院が謝罪し、一千万円を支払った理由〉を奥様に託したが、妻と大阪府医師会館を出た29年前には想像もできなかった裁判結果がもたらされたのだった。さて、大阪府医師会館を出た、どん底の妻と私に時間を戻すと、


「ねえ、どうするの?」

 

地下鉄谷町線で天王寺へ向かう電車のシートで、妻の和子が私を見上げ不安を声ににじませた。不条理に怒り心頭の私を慮(おもんばか)っての問いであるが、平然と事実を否定する病院相手に具体的対応など、現時点で思いつくはずがなかった。


カルテの保存期間が過ぎる五年以内にカルテの差し押さえをすること、父の死から十年以内に裁判を起こさなければ損害賠償請求権が時効にかかってしまうので、この期間制限をタイムリミットとして対策を立てねばならないことを妻に告げて、私は再び目をつぶった。経験したことのない深い闇の世界に身をゆだねるしか、所作が思い浮かばなかったのだった。

 

五年以内のカルテの差し押さえがなされ、十年以内に裁判を起こしたことによって、耳原病院の謝罪と解決金の支払い。この実質勝訴の裁判上の和解が成立したのは、いずれの期間制限も充足できたことが前提であったのは言うまでもない。が、いずれのタイムリミットも、期限ぎりぎりのクリアであった。


なぜ、訴え提起が十年の時効直前まで待たねばならなかったのかは、母フジヱに父の医療事故死を伝えていなかったことから、提訴となると、それを知られてしまうことが一番の理由だった。病弱で父より二歳上の七十七歳、この母がどれほどのショックを受けるか計り知れなかったからであった。


❹カルテの差し押さえ

 はやる心を抑えながらの日々の暮らしはつらいもので、私は格闘技で培った極意というか諦観に似た心理で、心的葛藤をオブラートに包む〈怒り閉じ込め一時忘却パターン〉と名付けた毎日を送ってきたが、妻は父の苦しむ姿が頭から離れず、悩み続けていたのだった。


「こんなこと、許されるはずないわ。お義父さんが可哀そうすぎる。ねえ、何とかならないの」

 

カルテ保存期間の五年が近づくにつれ、同じ言葉が何度も口をつくようになった。私が自分以上につらい心裡を抱えていることが分かっていながら、口に出さざるを得ない妻の心情が分かるだけに、私も今すぐにでも訴訟を起こしたかったが、勝てる見込みのない訴訟を起こして敗訴が確定すると、一生後悔することになってしまうのだ。

 

大学の少林寺拳法部の後輩である山下良策弁護士に、カルテの差し押さえを委任する時期が近づくと妻の我慢も限界に達したようで、裁判を起こし、そこで外科医の親族に証言を頼んでくれと、私に懇願した。


当時、京都にある旧帝大医学部助教授だった彼の立場を考え、私は渋っていたのだが、妻の意を汲んで電話だけはしてみることにした。


「嫁さんが、裁判で証言してくれるよう、頼んでみてくれって、言うてるんやが。無理やろな‥‥‥」


「うん、控えさせてもらうわ」

 

受話器から迷いのない返答を漏れ聞くと、


「えっ! そんな‥‥‥」

 

耳をそばだてていた妻は絶句して、次の言葉をのんだ。おそらく、〈おじさんなのにそんな・・・・・・〉が、飲み込まれた言葉であったろう。


「彼のポリシーなんやろ」

 

気落ちした妻を慰める意図もあったが、幼少時からの長い付き合いの中での確信めいた実感でもあった。そして、このポリシーは強烈な印象を持って、私と妻に襲い掛かった。


彼の息子が、父の死後五年と三か月後に、明らかな医療ミス、正確には処置ミスで亡くなってしまったが、裁判を起こすことはなかった。


「‥‥‥亡くなる三ケ月前の、六月末に京都を訪れたときは、外泊許可が出て家に帰ってたのに。あの子と話した、あれが本当に最後になってしまったな」

 

葬儀から帰って、妻の和子に力なく語った。化学療法が成功して、ほぼ完治の状態で喜んでいたのに、適合する骨髄が見つかり、骨髄移植に踏み切ったのが裏目に出てしまったのだ。移植そのものは成功したが、その後の処置でミスがあり、菌が体内に入って、死を招いてしまった。


「お父さんの訴訟での証言を断られた時はショックで、少し恨んだこともあったけど、私の誤解やね。息子さんの死に明らかな医療ミスがあっても訴えないんだから、お父さんの裁判で、証言を断るのは、当たり前ね」

 

妻は、それからは一切、我が家の長男正五郎と同い年の、彼の息子の医療事故について話すことはなかった。母親の心情を想うと、どんな言葉もむなしく、ただ頬を伝う涙がやり場のない怒りと絶望を声もなく伝えるのだった。

 

このように、カルテ保存期間の五年目は、私の親族にとって大きな不幸に襲われた年であった。我が家にとっても、カルテが焼却される前に証拠保全のため差し押さえただけで、耳原病院に対して勝算があってのことではなかった。そんな中、私や家人にとって、大小さまざまな事件が降りかかり、奇跡的といってよい確率下で私は一命を取り留めたが、区画整理という利権紛争への提訴事件が反社会的勢力の怒りを呼び起こし、私が死の淵をさまよう伏線が張られ始めていたのだった。


②耳原病院が謝罪し、一千万円を支払った理由


❶日本の医療訴訟の原点とも呼ばれるものが東大梅毒血輸血事件で、文字通り東大病院で梅毒血を輸血され、その結果、甚大なる身体的及び社会的被害を被った女性が起こした裁判だった。この裁判で、裁判所は原告の請求を認容して、被告たる東大(国)敗訴の判決を下し、東大(国)の賠償責任を認めた。


最高裁の判決が確定したのは昭和三十六年のことである。この判決を機に、まるで燎原の火のごとく、全国に医療訴訟が燃え広がった。


日本の最高学府たる東大の、最先端というか、最も信頼のおける医療機関と考えられていた東大病院。そこでのミスを最高裁が認めたのだから、その他もろもろの医療機関へ波及するのは至極当然のことといえるものだった。


❷この東大梅毒血輸血事件が起こった当時、職業的売血者による売血液の供給が輸血用血液の主な供給源であった。血を売り、その金でホルモンを食べ酒を飲んで簡易宿泊所で寝泊まりする。これが売血者の生活実態だった。


ただそれでもまだ手元に金が残ったという、そんな生活が成り立った時代であったのだ。当然のこととして、売血を生業(なりわい)とする職業的売血者が輸血用血液供給者の大半を占める社会的背景が出来上がって行ったのだった。


東大医学部付属病院へ血を売りに来た者も、そのような売血者の一人であった。医師の、


「大丈夫だね?」

 

との問いかけに、


「はい。先生、大丈夫です」

 

売血者は、二週間前の血清反応証明書を差し出したのだった。つまり、これは二週間前の検査時点では梅毒の検査はクリアしたことを意味する。


が、潜伏期間中であったかもしれないし、この検査後、梅毒に罹患したかも知れないのである。


事実、この売血者は、この検査後、売春婦を買って彼女から梅毒をうつされていたのだ。


❸1492年にコロンブスが新大陸を発見し、そこから持ち帰った梅毒は彼の帰国後、一年以内にヨーロッパ全土に広がってしまった。当時は特効薬もなく、性交による感染は言うに及ばず、親から子、そして孫への胎内感染で爆発的な広がりを見せたのだった。


七つの海を制した覇権国の著名女王などは梅毒感染で顔が崩れ、肖像画を描く画家が眉毛の位置に困ったという笑えない話も残っているほどで、当時は、三十年前後に目と耳を襲うダメージが特に深刻だった。


このように、ヨーロッパ全土に猛威を振るい、我々のよく知る有名音学家たちも感染被害者と疑われる梅毒であるが、わが国への渡来も早かった。戦国時代の武将・加藤清正の死因も、最近の研究発表では毒殺説を否定する梅毒死因説が有力に主張され、注目を浴びているのだ。


❹戦国武将の死から400年以上経過した現在の我が国でも、梅毒の罹患者が静かに、という形容が及びつかないほどの罹患者数増加の脅威にさらされているが、これはある特定の国からの観光客の増加とピタリと一致するもので、関係各所や医療機関を悩ませる深刻な事態に至ってもいる。


このように、梅毒と梅毒の歴史を語るときりがないので、とりあえず、最高裁の判決が出された約60年前に紙面を戻したいと思う。

 

❺さて、東大(国)に対する国家賠償請求訴訟で、最高裁が国家賠償法一条一項の責任を認めたということは、東大病院の医師に少なくとも過失があったことが前提となっている。つまり、医師の「大丈夫だね?」との問いかけ、これだけでは注意義務を果たしたとは言えず、無過失といえるためには、問診段階で「この検査の後、(売春婦を)買ってないね?」との問いかけまで必要だと判断したと解されている。


医療訴訟で、これまでほとんど病院側の責任を認めてこなかった裁判で、病院側の責任を認めたことは患者や遺族にとって大きな前進であった。全国に医療訴訟が燃え広がる原因でもあったのだが、患者・遺族にとって勝訴が困難であることは、この判決以降も変わることはない。


医療関係者が意を通じて患者側に不利な証言をすれば、証拠の大半を病院側が握っているという、証拠偏在の観点からみて、到底、患者側に勝ち目はないのである。

 

❻10年の時効期間があと数日で経過するという、きわどいタイミングで訴えを起こしたものの、父死亡の医療訴訟においても、勝訴の見込みは全くなく、ましてや、担当医も主治医も前言を翻してしまい、病院側有利な証拠提出や証言がなされる現実に直面すると、妻も私も法廷で暗澹たる気分にさせられたものだった。


病院側担当の中年弁護士も、見るからに優秀で、口をつく弁舌もなめらか、自信満々に病院側無過失の法的主張を展開するのだった。

 

総婦長(看護部長)が泣いて謝った事実は弁護士も否定しなかったが、道義的謝罪であり、法的責任を認めたものではないと、医師会の医事紛争処理委員会で病院側が述べた主張を臆面もなく展開した。結局、医事紛争処理委員会での、病院側主張は彼のアドバイスというか、彼の論理に乗っかったものであることがまる分かりであった。

 

勝訴を確信した弁護士の傲慢さが私の神経を逆なでたが、ナースの証言の途中から彼の表情が激変してしまった。


❼元々、父死亡当日勤務だったナースの証言には、当方の弁護士も私もまったくといってよいほど期待はしていなかった。


弁護士事務所での打ち合わせの時、


「南埜さん、看護師さんの住所を見て下さい。耳原病院が住所になっていますよ」

 

病院提出の証人住所と氏名を山下良策弁護士に指し示され、


「ホントだ。バリバリの党員だな。正直な証言は期待できんな‥‥‥」

 

我々二人の共通認識で、事実、証言台に立った中年のナースは、


「ナースステーションを空けていたということはありません。人工呼吸器が外れているのに真っ先に気付いて、私が駆けつけて、心臓マッサージを施したんですから」

 

案の定、病院側の過失を否定する証言を行った。ただ、カルテの差し押さえから5年が経過しており、また、父の死から10年もたっていることから気の緩みがあったのか、それともおだてられた故の不遜さからか、この裁判の勝訴を確信した面持ちで、彼女は続けた。


「私は前々から上(病院幹部)には言っていたんですよ。南埜さんは容態が急変するから、ナースステーションから一番遠い個室へ入れたらあかんて」

 

最後に言わなくてもよいというか、決して言ってはいけない証言を、自らの意思で付け加えてしまった。そう、ナースは自らの口で看護ミスの存在は否定したが、その同じ口で病院の管理ミスを認めてしまったのだ。


この、病院側に大きな不利益が及ぶ―――裁判上の自白と呼ばれるナースの証言で、相手方弁護士の顔からスーと血の気が引いて、彼は呆然と証言席のナースを見やった。が、語っている当のナースは自分の証言の法的意味を全く理解しておらず、この二人の強烈なコントラストが私の網膜に飛び込んできたのだった。


❽君子豹変ではないが、さすがと思わせる変わり身で、優秀なだけあって病院側弁護士は往生際が良かった。裁判所を通して和解の申し立てをしてきたのだ。

 

まず、私が裁判長に呼ばれ、相手方から和解の申し出があることを伝えられた。


こんな時、渡りに船だ! と、飛びついてはいけない、というのが裁判官だった友人のアドバイスであった。何故なら、裁判官はできれば判決書を書きたくない。少なくとも友人は、書きたくなかった。


❾一生懸命、慰謝料と逸失利益等の細かい計算をし、過失相殺その他もろもろの条件を加えてようやく判決書を作成して判決を言い渡す。ところが、原・被告どちらかが控訴すると、血と汗の結晶とまでは友人は言わなかったが、大事に作り上げた判決がパアになってしまうのだ。


その点、和解はいい。これで争いに決着がつき、裁判官の苦労もそれほど大きくないもので、しかも爽快。和解大好き、が友人の口癖であった。


そこで私は、メガネの似合う上品な面立ちの五十がらみの裁判長にこう述べた。


「判決を出してください。耳原病院には、さんざん事実と違うことを述べられてきまして、これでは父が浮かばれません。判決をお願いします」

 

当然、裁判長は渋い顔。私に代わって山下弁護士が呼び出された。しばらくして、私の隣席に戻ってきた彼は、


「南埜さん、判決を出してもらいましょう。満額取れますよ」

 

私に耳打ちしてくれたが、


「一番の目的は病院に謝罪させることで、満額取れても、謝罪がなされんとあまり意味がないんで、謝罪をさせたい。この点の譲歩があるなら、和解に応じてもいい」

 

私の譲れない一線だった。再度彼が呼び出され、相手方弁護士と裁判長の三者で譲歩案が練られ、謝罪に応ずるとの結論に到達した。


❿これで、私の訴訟意図が八割がた達成された。あとは、慰謝料としての解決金の問題が残った。相手方弁護士は、500万円程度を着地点にしたかったようであったが、私は渋い顔で首を横に振った。これも友人の元裁判官のアドバイスに従ったのである。


「南埜さんは、大台に乗らんと納得されませんわな」

 

案の定、裁判長が水を向けてくれた。


「ええ、人の命がなくなっているんですから」

 

父の苦しみやこれまでの病院の対応を考えると、やはり一千万は最低限確保せねば、収まりがつかないと思った。それに一千万と500万では、この裁判に対する注目度が格段に違うのだ。


同じ苦しみを味わう人たちの支えになる参考例。この紛争の私なりの位置づけだった。


「出します」

 

相手方弁護士の英断(?)で、本件紛争の裁判上の和解が成立した瞬間だった。和解が完成したのは11月21日の正午前。当日の読売新聞夕刊の三面トップ、四段抜きで記事が掲載された。夕刊にぎりぎり間に合う時間まで、記者が裁判所に待機していたのだった。父の死から11年と5ヶ月11日目の決着で、長く苦しかった耳原病院との闘いにようやく幕が引かれ、父の無念を晴らすことが出来る理想的な終焉だった。





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