第2話

王子の天幕。ベッドとテーブル、チェストケースが置かれている。配置はいつものようにエディットが取り仕切ったらしく、変わらなかった。

「おまえ、また…」

「いいじゃない、これが私の仕事よ」

平然と言う彼女を見つめる。いつもの生活。でも何かが欠けている。戦争の残酷さを今更、気づいた。憧れていた戦士が死んだ。手の平に彼の徽章を転がす。駝鳥の羽根の独特の品物。

「何それ」

「ある人の形見だ」

握りしめる。

「あんた…泣いてないの」

「えっ」

「憧れていたんでしょ、好きだったんでしょ、なんでその人のために泣けないの」

「泣けない…」

心が乾いていた、そのせいか。戦場の熱のせいか、あるいは…心を亡くしていたのか。祈りでは満たされない心。

「ちゃんと泣いてやればいいじゃない、簡単な事でしょ」

徽章を握りしめた手を彼女の小さな手が覆う。

「王子様って案外、バカね」

「うるさいよ」

その途端、涙があふれた。彼女にしがみついて声を上げて泣いた。その彼の髪を優しく撫でる手。聖母のように。

「おまえ…今日は別のテントへ行け」

「いやよ」

「何するかわからんぞ」

「王子様なら別にいいわよ」

そのまま口づけをした。彼女は動じなかった。その頬を撫でる。荒れた肌。乾いた唇。貴婦人とは程遠い肌と唇。これは野の花だ。宮殿の庭に咲く管理人が面倒を見た花と違い、荒野に咲く名も知れぬ花。そっと天幕のベッドに横たえる。

「知らんぞ」

首を振った彼女。奇妙に美しく見えた。彼女の衣服を取り去り、自分も脱いだ。彼女の体は鍛えてあった。さほど大きくない乳房。こわごわ触れてみる。柔らかい。

「女の肌って…」

「それ以上言うな、バカ」

「ごめんごめん、エディット、ありがとう」

彼女の腕が背中に回った。あとのことは混乱していた。

「ところで…」

「何」

「この先、どうしたらいいんだ」

「あんた初めてなの」

「いや、売春婦とだったが、経験はある」

「で」

「相手が、そのな」

「わかった、その先言うなよ、王子様、でもあたしだってわかんない」

「困ったなー」

「伯爵さまに聞くとか」

「やめろ、なんとかする、お前も協力しろ」

「そうね、王子様」

彼女の首筋に口づけた。ぎこちない交わりだった。彼女の負担になったのか、彼は妙に気になっていた。性的暴行で傷ついていた彼女の肌は震えていた。強がった言葉とは裏腹に。無理をさせた気がしてならない。



「ねーねー伯爵さま」

翌朝、彼女はウォリック伯爵のテントにいた。

「何があった、今日は遅かったな」

伯爵はテーブルで手紙を書いていた。

「殿下は急に元気になったが、何かあったのか」

「あのね、あたし、王子様とやっちゃった」

「何を」

「ベッドで男と女がやるやつ」

ぎぎぎーーーっと変な音がした。

「あ」

伯爵は羊皮紙の手紙を伯爵はペン先で裂いていた。そのペン先も壊れている。

「大丈夫?」

「なんだって…おまえ…」

見ると彼女の頬は紅潮していた。

「本当の事か」

「王子様、ほとんど初めてって…それでさ」

「それはわかるが」

「やり方、不味くなっちゃってね、伯爵さまに聞こうかって話も出たの」

がらがらがっしゃーんっっと派手な音がして伯爵がこけていた。

「そんなこと、私に聞くなっ、何考えてるんだっっ」

「だって、伯爵さま、子供たくさんいるじゃない」

「おい…」

そんなところに青年が、王子がやってきた。

「何しているんだ、お前ら」

伯爵は床に転がったままだった。慌てて立ち上がって服の埃を彼は払った。

「殿下」

「あのね、伯爵さまに話しちゃった」

「それはいいが」

「やり方わかんなくて聞きにいこうかって話したの、そしたら…」

「そりゃこけるな」

王子は落ち着いた口調で言った。

「よろしいですか、お二人とも」

「なんだろう」

「痴話喧嘩なさっても、私を巻き込まないでいただきたい」

「…はい」

彼女だけが返事した。

「殿下」

「わかったよ」

どこか不貞腐れ気味に王子が返事していた。

「これから、エディット」

「なあに」

「あなたを小間使い扱いできなくなりました」

「どういうこと」

「王太子殿下の愛妾を無碍な扱いはできませんのでね」

「なんでぇぇぇぇ」

彼女はそう叫んでいた。そして。


「連絡した。ウィリスフィールド卿は納得した。養子縁組というか、わが子として認めるそうだ」

「なんのことよ」

「王太子殿下の愛妾に百姓娘はまずいんでな」

伯爵は苦笑していた。それは真実ではない。伯爵個人の感傷でそうしたに過ぎない。ウィリスフィールド卿は年老い、子はなかったが、ウォリック伯爵の友人配下の騎士だった。彼はほとんど引退状態だった。彼には実子はいたが、早く亡くなっていた。娘だったと聞く。連絡すると彼は手持ちの屋敷を整えたと聞く。あくまでもウォリック伯爵個人の好意からだった。

「掃いて捨てりゃいいじゃない」

「それを殿下が望むと思うか」

「…わかんない」

「望むわけなかろう。お前ほど殿下と親しい女はおらぬ。そりゃ宮中では違うかもしれんが、私の感覚ではお前ほど殿下が好まれた女は見たことがないのでな」

「王子様はどうなのよ」

「邪険にするな、とご命令だ」

「そう…」

「未婚のお前につらい思いをさせることになった」

「どうして」

「教会と世間ではふしだらな女とお前を見なすだろう」

「兵士に暴行された女なんか掃いて捨てるほどいるわよ」

「だからってお前が傷つかないわけはない。私はお前を殿下の愛妾として扱う。教会の教えに反してはいるが、人はぬくもりが欲しいものだ。殿下の御心をお慰め出来るものは残念ながら私にはない」

「伯爵さま」

「だから、変わらず、殿下のおそばに」

「わかった」

「けど、下働きのすることはするなよ、お前は今日から宮廷の貴婦人なんだからな」

「えー…それつまんない」

「戦場だから臨機応変になるがな」

苦笑して伯爵はそう言った。

「なら、いつものようにするわ」

「出来ると思うなよ、レディ」

「あ」

「レディ・ウィリスフィールド、ご身分に相応しい行動を願います、よろしいですか」

「…マジ」

「マジですよ、レディ」

くっくっと伯爵が笑った。楽しそうに笑っていた。


そのウォリック伯の天幕。

「あいつの身分整えたって本当か、ウォリック伯爵」

「ええ。勝手に整えさせてもらいました。ただの田舎娘として殿下は捨てるおつもりはないのでしょう」

「ない」

「ならば、騎士の娘にいたしました、それならば殿下の愛妾として身分に釣り合いましょう」

「トマス」

「結婚できる身分ではありませんが、あなたのそばにお仕えできる身分に整えました」

「あいつは納得しないだろうな」

「ええ、でも手放すおつもりがないとおっしゃるならば、私にも考えがございます」

「わかった…」

どこか顔が赤い。横を向いた顔が奇妙なくらい少年のようであった。


自分の天幕に彼は戻り、待っていた彼女の顔をおそるおそる見た。

「ねえ、いつの間に私、貴族様になったのよ」

「トマスがな、整えた」

「伯爵さまならこんな田舎娘、どうでもいいし、愛妾とかいうの嫌いそうなのに」

眉をひそめ、どことなく不機嫌そうだった。

「先走りすぎかと思ったが、騎士の娘なら宮廷も納得する」

「別にいいのに」

「お前を捨てるつもりはないからな、エディット」

「王子様、熱でもあるの」

「茶化すな、そばにいろ。私がいいと言うまで」

「命令は嫌よ」

「ただの願いだよ」

「わけわかんないけど、そばにいればいいのね」

「ああ、そうだ」

彼女の手を取る。甲にキスする。

「お前が好きだ」

愛の言葉ではなく、友人として好きの単語を王子は選んでいた。この二人に愛の言葉は長らくなく、最初で最後の愛の言葉はかなり後になってからだった。



北部フランスでの戦線は常に流動的だった。天幕での暮らしはまだ続いている。髪の毛が中途半端に伸びた彼女は帽子やリボンで髪を整え、女性ものの衣服を身に着けるようになっていた。宮廷の婦人たちとは程遠い衣服だったが、元から貴族の生まれでもない彼女は気にも留めなかった。

「おい」

「何」

「スカートまくり上げてばっさばっさと動くなよ、目のやり場に困る」

王子の言葉に彼女は苦笑した。

「天幕の中ってスカート邪魔なのよ」

「それでも、だ。あーまたそんなもの持ち上げて」

チェストを持ち上げ、いつもの位置に彼女は置いた。

「ここの方がいいでしょ」

「そりゃな」

天幕の中はいつも二人きりだった。古びたコップに彼女は野の花を入れたりもした。

「花は好きか」

「きれいじゃない」

「そうだな」

カモミールの花は違った効果をもたらしてもいた。

「これは」

「薬草なのよ、葉は痛み止めに使えるの、お茶にすると気分が落ち着くわよ」

「そうか」

「取りに行こうとしたら従士の人が持ってきてくれたの、助かったわ、一人でうろうろは怖いし」

「それもそうだな」

なるべく従士を連れていけ、と指示しておいた。剣をもって出かけようとした彼女を止めた。

「もう剣は持つな、お前は」

「どうして」

「一応、宮廷の貴婦人なんだぞ」

「一応、ね」

「仕立て屋呼ぶぞ」

「新しいの作るの、王子様の服」

「バカ、お前のドレスだよ」

「えーいらないわよ」

「ダメだ」

王子は従士を呼び、仕立て屋に連絡を入れるように指図した。

「アクセサリーも必要だな」

「いらないってばー」

「貴婦人の恰好しろって言ってるだろ」

「動作が身についてないからーダメー」

「そんな事はわかってる、恰好だけでもしてろ」

憮然とした彼女のそばに仕立て屋がやってきた。

「採寸して、仕立ててくれ。デザインは任せる」

「はい、殿下」

「あーあまり華美にならんようにな」

彼はそう仕立て屋に支持すると手幕から出て行った。

「さ、お嬢さん」

「もうっっ」

採寸用の用具片手に仕立て屋は微笑んでいた。

「動きやすいものにしますね、察しますと小間使いの仕事、やめる気はないように見受けられます」

「さすが…」

「客に沿うのが仕立て屋ですよ、お嬢さん」

「そんなものなの」

「ええ、それから宮廷の貴婦人が身に着ける品物より質素な、実用的な材質のもの選びます。その方があなたにはいいでしょう」

「ありがとう、ごめんなさいね、私みたいなのに」

「いいえ、あなたは殿下の思い人ですからね」

「愛人ってことね…」

「それでも、神がお赦しになれない立場としても、殿下の御心は貴方でなくぱ、癒されませんから」

「そうかしらね…」

「ルクセンブルクのヨハン王の事…」

「駝鳥の羽の…」

「ええ、そのことで殿下は」

「知っているわ…」

「貴方のおかげでいつもの殿下に戻っておられます」

「私の力ではないわ」

彼女は素っ気なくそう返事していた。


仕立て上がったドレスは仕立ては上等だったが、生地は上質の毛織物だったが、手が込んだものではなく、刺繍も簡素なものが入ってるだけだった。ベールと髪飾りも仕立て屋は置いていった。

「この髪でどうしろっての」

「つけ毛も求めておいたぞ、あとで届く」

王子が戻って来てそう言った。

「どういうことなの」

「母上が近々こちらにおいでになる」

「あ」

「私の母が陣中見舞いに来るんだよ、お前も身だしなみは整えておけ」

「王妃様が来るの、こんなとこに」

「母上は構わない御方だ」

「え、だって…」

「どこにいても父上と共に生きる御方だよ」

「そうなんだ…」

「挨拶しろとは言わん、無理はさせない」

「あーそのためのドレス」

「女性のお辞儀は私にはわからん」

「どーすんのよお、私知らないわよー、見てくれだけでも教えてー」

「たしか、片足引いて、腰を落とす、みたいな」

やってみたが、びっくり人形のようだった。

「おもちゃみたいだぞ」

「あたし貴婦人じゃないもん…」

「まあ、いい、心がけてるだけで」

「うん…」

正式ではないが、王妃フィリッパが陣中見舞いに来ると王太子は聞いていた。父王の天幕はそれらしく整えてあった。



「王妃陛下のおなり」

出迎えた騎士たちは次々と跪いていく。女官を連れ、歩んできた女性は美しい。

「みな、お出迎えありがとう。元気そうで何よりです」

独特の声が響く。王冠をかぶり、豊かな髪を結い、見た目は質素ながらも独特の刺繍や織り目が施された衣服をまとった彼女は女神の様にも見えた。

「おまえ、こら、挨拶教えたろ」

王太子がつついたが、エディットはぼっけり突っ立ったままだった。

「挨拶ってどーやるの」

「え」

「こんなお美しい人初めて見たあ…」

あかん、そんな顔を彼はした。

「母上、失礼しました、この者は…」

「エドワード、お前のお気に入りの小間使いと聞いてますよ」

「すみません、母上」

「お嬢さん」

その呼びかけに彼女は座り込んでしまった。

「あら」

「腰抜けちゃった…」

「かわいい人ね。大事になさい、エドワード」

「母上、あの」

「聞いています。ここで公言することですか、エドワード」

「ありがとうございます、母上」

彼女に向って彼は手を差し出した。

「立てよ」

「無理―」

「おまえ、な」

無礼な小娘と、誰もなじらなかった。素直な態度、言葉。それが好感を感じさせた。礼儀とは建前でするものではない。王妃を見上げる瞳の素直さ。素朴さ。王妃が手を伸べた。

「大丈夫よ、私は魔物でもなんでもないわ。お立なさい。駄目なら、この子使っても構わないことよ」

「とんでもございません。こんな卑しい女に気を使っていただいて光栄です」

腰が抜けたまま、彼女は答えていた。

「あー、せっかく作ってもらったドレス…」

「気にするな、お前はほんとにおもしろいな」

「面白がらないでーこれでも必死なんだから」

ころころと王妃が笑った。そして振り向いた。

「さあ、陛下。あなたの天幕はどこですの」

「おお、フィリッパ、こっちだ」

振り向いた先の王に王妃は言葉をつげ、王はそれに返した。王の天幕は一際豪華だ。フランス王のものよりは質素で実用的ではあったが。


「伯爵さま」

ウォリック伯爵の天幕にエディットは向かった。

「お入り」

「伯爵さま、この御方は」

「妻だよ、私の」

一人の女性がいた。

「初めまして」

「聞いてますよ、呼んだのは他でもない、殿下がね」

「え」

「あなたに立ち居振る舞いを教えてやってくれないかと直々に相談がございましたの」

「あー」

「挨拶の仕方、ダンス、会話は…そうね、無理に変えなくてもいいと思うの。取り繕った宮廷の女になる必要などないわ。あなたは」

「伯爵夫人…」

にっこりと夫人は微笑んだ。

「殿下はそんな女をお望みなわけないのよ」

「伯爵夫人、でも」

「私もはねっかえりなのよ、そうでなきゃ生きていられなかったの」

「キャシー」

夫がそう声をかけた。

「この人だって子供だったの。私の父が死んだ時。モーティマーのこと、かまけていたら、ビーチャム一族がバラバラになってしまいかねなかったの、そんな事、私、許さない。私とこの人の大事な家を壊すなんてさせないわ」

「奥方様」

「宮廷の女たちは嫌いよ、王妃様の特別なお召しだから来たけれど…本当は子供たちのそばにいたいのよ」

田舎の母と変わらない人。貴婦人と呼ばれようとも彼女は主婦でもあった。

「あなたこそ無理していないの、それが心配だわ」

夫を見て彼女はそう言った。

「大丈夫だよ」

「信用してないわよ」

「知ってる…御見通しか、キャシー」

「まあね」

「あの、伯爵さま、結婚いつだったんですか」

エディットが思い切って聞いてきた。

「十一歳だったよ、お互いにね」

「子供じゃない…まだ」

「そんなものだよ、貴族の結婚なんて」

伯爵はそう言った。

「それでも、私は運がいいんだよ、キャシーと結婚できたんだから」

苦笑して伯爵は告げた。穏やかな夫婦。

「子供たちは元気か。さぞかし嫌がっただろうな、君まで海を渡るなんて…」

「ええ、みんな大騒ぎだったわ、早く、お父様、帰って来て、ですって」

「そればかりは陛下に伺ってみないとな」

「そうなのよね。では、どうやるか、さっそく…トマス、席外していてくださらない、下着姿になるから」

「え」

「スカートでかくれちゃってるからわからないと思うの。どこに力を入れればいいか、すぐわかるわ、その方が」

「わかった、殿下の天幕にいるからすんだら、呼んでくれ」

「ダンスもあなたがいてくれた方がいいんだけど、恥じらいは私にもあるの」

「わかってるよ、キャシー」

妻にキスすると伯爵は去って行った。

「奥方様、意外と大胆で」

「手早く覚えたほうがいいわよ、殿下狙ってる宮廷の女なんてゴロゴロいるし、みんな怖いわよ、足引っ張るのなんかザラですもの」

「はあ…」

確かに体のラインが見えたほうが解りやすかった。

「慣れればいいのよ、爵位のある人と王妃様、それから王女様にすればいいんだから。他はみな騎士の妻や娘たちばかりよ」

やってみる。伯爵夫人の指導は的確だった。

「いいわよ、とってもいいわ。あとは敬意をこめれば十分よ」

「ありがとうございます、奥方様」

「いいのよ、役立ててうれしいわ」

伯爵夫人は朗らかに笑った。


王妃・フィリッパを見送るときはエディットはきちんと腰を落とす挨拶をこなしていた。その前に野外で催された臨時の舞踏会にもちゃんとしたダンスを見せていた。

「元々、勘がいいみたいだな、あいつ」

「そうですね」

ウォリック伯爵夫妻は歌も教えていた。

「なかなかいい声で歌いますよ、あのお方」

「トマス」

「殿下ご寵愛の御方を小娘扱いはできませんよ」

「許される間柄じゃない」

「でも、人の心はそうはまいりません、殿下」

「そんなものかな、ただそばにいてくれると気分がいいだけなんだけど」

「そのうちわかりますよ、殿下も」

恋ならしている。それは人には言えない。焦がれてもいい人じゃない。幼いころからの憧れ。エディットと関係を持ってから気づいた。誰にも内緒の恋。だから、隠すしかない。いい隠れ蓑なのかもしれない。それにしてはエディットは威勢がよく、好感のもてる女であった。女らしさ、当時の貴婦人なら持ち合わせているものは何もない。こざっぱりとしたある意味男みたいな、少年じみた性格は好ましいものだった。

「しかし、殿下」

「色気ないなー、あいつは」

「よくそれで惚れましたね」

「そばにいてくれればいいだけだ」

トマスの言葉を何気なく否定する。その言葉の意味をウォリック伯爵トマスは受け取っていた、この青年の密かな心と共に。

「何話していたの、二人して」

相変わらず小間使いの仕事をエディットはこなしていた。

「お前のこと、話していた。悪いことじゃない。いつも通りにそばにいてくれればいい」

「それだけでいいなら、いくらでも」

「十分だ」

ただ、戦場。男装させて隠すしかない。カレーの包囲戦はなかなかしぶとく、続いていた。王も王太子も留守のイングランドにスコットランド軍が侵攻した。その知らせにイングランド軍は騒めいたが、王の一言で収まっていた。

「そのことならわが后、フィリッパに任せてある」

王妃の賢人振りは知れ渡っていた。勇敢さも併せ持つ優れた貴婦人であることも。

「父上はそう言うが、私は不安だし、母上が気がかりだ」

「私の感覚でいうけど、あの御方なら大丈夫よ」

「エディット、おまえ」

「いざとなれば、武器とって敵兵の一人や二人倒せそうに見えたけど、見当違いかしら」

「武器、か」

「あたしの感覚で言うと鋤とか鍬でぶんなぐる」

「あー、なる…それはわかるな…」

王子は笑った。その声に伯爵が苦笑を漏らしていた。

「王妃陛下ですよ、殿下」

「でもな、トマス、なんとなく…わからないか」

「それは…あり得ますね」

実際、王妃の演説で奮い立ったイングランド軍は奮戦し、スコットランド王を捕虜とした。実はスコットランド王はイングランド王エドワード三世にとって義弟にあたる。スコットランド王妃はエドワード王の妹であった。が、そんな情けはない。国家間という冷徹な事実だけがある。妹の嫁ぎ先であろうとフランスと結びついたスコットランドは敵国であった。細かい知らせに王は喜び、青年、王太子は安堵していた。カレーは堅固な城壁の中、籠城戦を繰り広げていた。インフルエンザと現代なら診断されたであろう性質の悪い風邪が陣中で流行っていた。予防衛生の観念のないこの時代、罹患した部下の咳から王子も突然の高熱と関節の痛みに苦しんだ。そばにいたエディットは軽く済んだが、体質の関係もあったのか、青年の高熱はなかなか下がらなかった。様子を見ていたエディットは突如、立ち上がり、駆けだしていった。

「おいっ」

衛兵の静止を振り払い、彼女は王の天幕に押しかけていた。

「どうした」

王の誰何を待たず、その胸元を力の限りねじ上げた。

「さっさと医者よこしなよっ、息子が死んでもいいのかよ、王様」

「苦しい、離せ、おい」

騎士達は騒然としていた。うら若い女性が、王の胸元を締め上げているが、この女は王太子の愛人である事は知れ渡っていた。下手に手出しは出来ない女だった。だから皆右往左往するばかりだ。

「何があった」

王が聞き返すとやっと手を離した。

「熱がすごいのよ、食事もしないし、このままだと死んじゃうわ」

「わかった、おい、医師の手配をエドワードの天幕に。それから…」

ちらっと王はエディットを見た。ふっと息を吐く。

「お前も見てもらえ。医師ではなく産婆に、だ」

「え」

「私が聞くのもなんだが、月のものはあるのか」

「あれ…」

「太ったんじゃなく、それは妊娠だ。この腹に公式では認められないが、私の孫がいる。大事にしろ。いいな」

「え。嘘」

「嘘なものか、おい」

侍従に声をかける。

「このレディを丁寧にお送りしろ。私は王太子の天幕に行く」

「畏まりました、陛下」

王が去って行く。

「妊娠…私が…そりゃやることやってりゃそうなるわねえ…」

「レディ…」

絶句する騎士を従え、エディットは本心では嫌ではあったが、天幕に戻った。彼女の天幕は小ぶりながら用意されるようになっていた。説得されても彼女は動かなかった。愛人よりも小間使いでいたい、と思っていた。それなのに。

「赤ちゃんがいる…」

愛人なのだ、と思い知らされた。医療修道院へと王太子は送られる事になったと天幕で聞かされた。その医療修道院へエディットも行くことになった。天幕の中を片付けようとしたら、雇われた者たちがその仕事をしていた。

「御方様はどうぞそのまま、お過ごしください」

代表格となった侍女がそういう。ウィリスフィールド家から遣わされた少女だった。年頃も変わらないが、小間使いとしても素養は身に着けていた。


王太子の病は一か月ほどで回復し、カレー包囲網に戻っていた。

「トマス」

「仕方ありません。身重にはここはいい環境ではありませんよ、殿下」

「神に許されない祝福されない…」

「親の愛情はそれには関係ありません、殿下。エディットにお言葉をお送りなさいませ」

「あいつ手紙読めないけど」

「堅苦しい内容はさけて、率直なお言葉を」

「そうする…」

そばにいない方がつらい。けれど、子供が生まれるのだから、仕方ない。割り切れない。父親になるには青年は幼すぎた。自覚がなさ過ぎた。





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花まだき つんたん @tsuntan2

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