花まだき

つんたん

第1話

どかっと音がした。気が付くと青年が転がっている。

「おまえ、もう少しそっと動けないのか」

商人の妻が普段着にする衣服を身に着けた女が振り向いた。肩にチェスト、肩脇に布をまとめて抱えている。テントの床にへたり込んだ青年が首を振る。女にどつかれたと言ってもいい。

「無理。農婦に何期待してんのよ、王子様は」

ばっさばっさと動きながら、その荷物を置いていく。

「ところで、配置はどうよ」

「配置、ね」

身体から埃を払いながら、青年は立ち上がった。

「あたしはこれで動きやすいんだけどね」

天幕の中にチェスト、ベッドなどを置いたのは彼女らしい。

「いいんじゃないのか」

「一間なんてこんなもんでしょ」

「男手なしで、これか…逞しいもんだな」

「あたしは特殊。みんなにバカ力のカティって言われているから」

エディット・カティと名乗るが、コタンタン半島の農民の娘。戦線の中、逃げそびれた彼女は悲惨な目にあっていた。母親をフランス軍兵士に殺された彼女はイングランド軍の騎士に拾われた。ウィリスフィールドの偽名を使っている。拾った騎士は彼女に「王子様」と呼ばれている。野営地のテントの中。「王子様」は若い。まだ少年と言ってもいいほどだ。

「おまえ、年いくつだ」

「あんたより一つ上」

「そうか」

答えながらも彼女はテントの中の片づけに勤しんでいた。

「湯あみどうする、するなら桶持ってくるけど」

「桶は頼め。あまり荷物係刺激するなよ」

「そうね、湯沸かしてくる、外にいるのにいえばいいのよね」

「そうだ」

最初は男装させていた。が、ウォリック伯に反対されて女物を用意した。彼女の髪は短い。男装するために自分で切ってしまった。今も下半身を覆うタイツは男物だ。いざというとき、スカートを脱ぎ捨てて逃げられるように用意しているらしい。

「まだ、男物か、下」

「そうよ、戦場だもん、スカート動きにくいのよ」

実用的な考え方をする。その言葉を後に、彼女はテントの外に出た。大鍋抱えて戻ってきたが。

「それも頼め。みんなへこむから」

「えーめんどくさい」

「空だからいいけどな」

「水は頼んだわよ、さすがに」

溜息をつくしかない。彼女は鍋を急ごしらえの炉にかけ、下働きの男たちが水を運び入れた。

「失礼しました」

男たちはそう言って去って行く。桶も届いた。彼女はハーブの束を鍋に入れた。

「入浴剤か」

「疲れとりよ、ばあちゃんに教わったの」

温まった湯を桶に彼女は入れ、湯加減を見るとうなずいた。

「じゃ、私、外すわね。伯爵さまんとこいるわ」

「わかった」

「身支度するなら呼んで」

「ああ」



「殿下は湯あみか」

「そんなとこ」

ウォリック伯爵のテントで彼女は夕食を食べている。

「もう少し品よく食べられないのか」

「無理じゃね」

簡素にそう言った女。その顔を見た時はみんな驚いた。エドワード王はまだ見てないらしいが、伯爵は苦笑するだけだった。荷物係や下働きの元にやればいいのだが、彼女は所謂「王子様」のそばにとどまり続けていた。戦場に女がいるとすれば雑用の者たちだけなのだが、それも遠征となれば数も知れているし、ほとんどいないも同然であった。

「馬も覚えたほうがいいな、お前も」

「そうね」

そこに王がやってきた。慌てて立ち上がり、伯爵は跪いた。が、女は…食事をやめなかった。

「おまえ、な」

注意したが、平気な顔をしている。

「そろそろお呼びがかかるのよ、礼儀だのなんだの言ってたら王子様が風邪ひいちゃうでしょ、なんのためにあたし、いるのかわかんなくなるわ」

そう言った女の顔を見て、王が絶句した。

「なんで、イングランドの騎士さんたちはみんな驚くのよ」

「そりゃ無理もない」

ウォリック伯爵が言う。

「なんで、王子様も教えてくれない」

「私が教えよう、私のいとこの姫に似ているんだよ」

王がそう告げた。

「へ」

「いとこ。あれ、伯爵さま、この人、誰」

「イングランド国王だ」

「国王のいとこってすっげー美人という噂のケントのレディ」

「知ってたのか」

伯爵が言う。

「そりゃ噂くらいは」

「そのケントのレディに似ているんだよ、君は」

「うっそー。まー姫様にはそばかすはないわね、それと…甲冑一式持ち上げられるってのはない…」

「殿下のテント、またおまえ」

「そうよ、それがどうかしたの」

「荷物係がへこむからやめてくれと言っただろうが」

国王はまだ唖然としている。

「エドワードはこの者に世話を頼んでいるのか」

「違います、私が勝手にしているだけです」

その時、声がかかった。

「ごめんなさい、呼ばれた、いってくるー」

バタバタと彼女は去って行く。

「何があった、ウォリック」

「はい、あの者が殿下の用具一式全てテントに運び込んで…」

「女性が持てるものか」

「バカ力ですよ、あの人は。甲冑一式一人で持ち運びしましたよ、肩にかついだり、脇に抱えたりして」

「バカな」

王は息子のテントに行ってみた。

「じゃあ、この湯、使うわよ」

「待て待て、そんなに一度にもっていくな。またあいつらがへこむだろが」

「えー…」

桶を抱えて女は文句を言う。

「淑やかにしろとは言わん、想像を絶することはするな」

そこに王が声をかけた。

「エドワード」

「父上」

「ホントに女か」

国王は水の入った桶、かなり大きいものを抱えた彼女を見て驚嘆していた。彼女は仕方なく桶を置いた。かなり重いはずだ。

「女です。バカ力なのは認めますけど、見ますか」

「やめろ、恥じらいはないのか、おまえ」

王子が注意する。

「今更。あんたにはみんな見られたじゃん」

彼は溜息をついた。

「まさか生きてるとは思わなかったな」

「そうー生きてるからいいじゃん」

「村に戻る気は」

「ないわよ、どうせ、壊滅してるわ、イングランド軍に降伏したって噂でやってきたフランス騎士の連中が疑ったおかげで生きちゃいないわね」

「そうか」

「だったらあんたの世話して今のところはなんとかするから」

「恩義感じることはないぞ、エディット」

「農婦の若い娘なんかみんなやられちゃってるもの、あたしは運がいい方だわ」

「ん、意味が」

王が言葉をはさんだ。

「レイプってことよ、若い女なんてそんなもんよ」

「な…」

「おかげであたしも処女じゃないしね。売春婦にでもなるしかないところをこの王子様がね」

「そういうことか」

国王は溜息をついた。

「なんであたしを助けたのかわかんないけどね」

「そりゃあ、助けるだろうな…」

王はそう言った。

「へ」

「まあ、いい、好きにしろ、エディットとやら」

「ああ、はい、王様」

王は去って行こうとしたが、やめた。そして女に質問した。

「ところで、おまえ、どこで寝ているんだ」

エディットはその答えに戸惑った。

「朝、気づいたら王子様の隣にいるから…ここかしら」

「なんだとーっっっ」

王が叫んでいた。

「声大きいな…」

彼女がぼやく。

「仕方ないだろう、仮にも女が床で寝るな。それもその恰好そのままで」

王子様が言う。

「王子様、まさか」

「床で転がってるおまえをベッドに入れただけだ。そのあとのことは私も記憶がない」

そのあとはみんなで絶句するしかない。

「王様…」

「ああ、教えるの忘れてた、陛下、だ。エディット」

「それはどうでもいい、あのな…」

肝心な事を聞きたい王。

「…二人とも着の身着のままですよ、父上」

王が沈黙していた。頭の中でうちの息子は男としてどうなのか、と変な考えが渦巻いてしまっていた。

「そういえば、なんで手出ししないの、王子様」

「殿下だよ、エディット」

「…あーそういえば、それ、言った方がよかったのね、伯爵さまもそう言いたそうだったし」

「手出しも何も…ぶっ飛ばされたら顔がゆがみそうだろ、お前の拳じゃ」

「へ」

「それに疲れ果ててぐっすりだぞ、おまえ。抱え上げてベッドに入れても起きないじゃないか」

「寝つきはいい方なのよ」

「そこじゃない、互いに好意も何もあったもんじゃないしな」

「あら、私、殿下、好きだわよ」

「友人としてだろが」

「…そういえばそうね。婚約者いたの忘れてたわ、私」

「いたのか」

「多分死んでると思う、親が決めたの、隣のジャン、多分死んだか、徴兵食らったか、どっちかね」

「あっさりしてるな」

「めんどくさい」

「…おまえな」

「好きかと言えば嫌いだったわね、あいつの嫁なんて嫌だなって思ってた」

「ちょっと待たんか、お前たち」

王がやっと止めた。そして女を見た。まだ少女と言ってもいい年頃だ。

「父上」

「お前の従者はどうした」

「いますよ、ですが…彼女の方が使えるんです、荷物担当の者はへこんでますけどね」

「だがな」

「王様、私は追い出されても構いませんが」

彼女がそう言いだした。

「それは私個人の感情ではあるが、出来ないな」

「この顔のせいですか」

「それはある。が、何よりエドワードが気に入ってる、お前の事」

彼女はふっと息をついた。そして。

「荷物係のとこ、行こうか、あたし」

「いや、いい。ここにいろ」

「どうしてよ」

「うちには女はおらん。専門の娼婦らはついてきているが、問題起こされてはかなわん」

「じゃあ、せめて殿下、あんた、ちゃんとベッドで寝なさいよ、あたしは床で十分」

「バカ言え、お前を床なんて冗談じゃない、寝覚めが悪いわ」

「もしかして」

「その顔で床に転がられるのはたまらん。イングランドに帰った時が怖いわ」

「どういう関係なのよ、又従妹の御姫様って」

「幼馴染で怖いんだよ」

「あ、そ…」

王は溜息をついた。

「色気がないな」

王がしみじみと告げた。

「へ」

「お前はジョアンと違って女らしさもないし淑やかさもない」

「そりゃ農婦だもん」

「さばさばしすぎだ」

くっくっと彼が笑う。

「ああ、そうそう、作戦会議をする。あとで私の天幕に来い、いいな、エドワード」

「はい、父上」

王が去って行く。彼女はチェストの中身を見た。

「着替える、殿下」

「いや、いい、行ってくる、従士に聞いて、甲冑、用意しておいてくれ」

「あ、はい」

「それと、だ、明日も剣の稽古はするぞ、支度しておけ」

「わかった」

彼女の村からかなり離れた位置だ。ソンム川も近い。水先案内人が雇えたらしく、キャンプ地はどこかざわついていた。

ざわめきは夜になっても収まらず、王子は天幕のベッドの中で目をあけた。隣には彼女がいた。もぞっと彼女が動いてその手が彼に当たりそうになった。咄嗟に避けると彼女が気づいた。

「あれ、王子様、起きてるの」

「なんだか眠れなくて」

「あたしは一度目が覚めたんだけど、無理に目つぶってた」

「よく出て行かなかったな」

「起こしちゃ悪いと思ったのよ」

「眠れないのか、あのさ」

彼が寝返りを打って腹ばいになった。そして肘をついて半身を起こした。

「子守歌でも歌うか」

「やめてよ、あんた、音痴じゃん」

「悪かったな、今、エノー縁の子守歌…思い出してた」

「それなら、これでしょ」

彼女が歌詞なしで今でいうハミングでメロディを口ずさむ。

「そう、それ、よく私の鼻歌から拾えたな」

「時々トンチンカンになるとこ、治しただけよ」

「続けて…なんか眠れそう…」

「え」

ラララ、とか適当に歌うと彼はバタッと寝てしまった。

「エノー、縁のって何、ま、あとで伯爵さまにでも聞くか」

ふあ、と彼女はあくび一つして、ベッドにもぐりこんだ。二人とも着の身着のままであった。夜襲を恐れてみなそうしていた。朝になると王子は王の天幕に出かけていた。彼女は身支度を整えると外に出て、待ち構えていたチャンドスの元に駆け寄った。

「ごめんなさい、つき合わせちゃって」

「構わん。殿下のご命令だからな」

片手に剣、片手に盾をつけ、チャンドスと稽古を開始する。どう見ても幼い少年兵を鍛えているかのように見えた。

「しかし…相変わらずすごい力だな」

一撃が重い。しかも敏捷だ。惜しいな、女でなければ、とチャンドスも思う。

「惜しいな」

「え、何が」

「男だったら即座に従士に取り立てるのだがな、殿下付きの」

「言っては難だけど、騎士様、あたしはこれで十分。贅沢したいとも思わないし…騎士様のお勤めするより小麦刈り取るほうがいいわ」

「そうか」

「農婦は農婦よ、騎士様」

「そんなものか」

「自分を殺したくないだけ。農婦は結構自由だわよ、小麦と羊の世話さえしてりゃいいんだもの」

「面白い考え方するな」

「麦刈りする農民いなけりゃパン食べられないわよ、騎士様」

「ほう…」

面白い。役目を心得ている感じに見えた。

「だが、何故ここにいる」

「死んでもおかしくない状態だったの、王子様が助けてくれたの、どうせならあの人のそばで死のうと思っただけ」

チャンドスはその言葉にうなずいた。

「よくお仕えしてくれ」

「はい、騎士様」

ウォリック伯が通りかかった。

「あ、伯爵さま、聞きたいことあるんだけど」

「なんだ」

「エノー縁のって王子様よく言うんだけど、何」

「ああ、母君の王妃陛下がエノー伯爵家の御出身なんだ」

「ああ、お母様の実家、ね」

エノー伯爵家は現フランス北部を領していた一家だった。

「おまえ、何も知らんのだな」

チャンドスが言う。

「そりゃ無学の農婦だもん」

「まあ、いいだろう、殿下も気に入っておられることだし」

小競り合いはある。が、少し離れていれば、その騒ぎは聞こえていない。大抵の小競り合いは騎士が率いる小隊で済んでいた。たまには腕慣らしのため、王子も出動していくこともあった。フランス軍の主力戦隊はまだ近くには来ていない。



「まだフランス軍は遠いらしい。大軍を集めているのだろう、おそらくは」

王はそう言った。斥候の報告もそう告げている。

「問題はこの先の川だ」

小競り合いはあったが、大したことは起きていなかった。フランス軍の守備隊は少しの諍いで逃走してしまっていた。まだ少年に近い王子も参戦はしていたが、大した活躍はしていない。その小競り合いの中で拾ってしまったのが、あの女。彼女は小間使いと従士を兼ねる働きをしてくれている。本来なら追い返したいところだが、そばかすと少し団子鼻ぽい鼻、髪と目の色を除けば、イングランドの王の一番年若い従妹の姫によく似ていた。エディットという女の髪は金髪と言っても赤みがかっており、瞳はグレーだった。それよりも川の事で王は頭がいっぱいになっていた。

「父上」

「案内人もよく知らんというのだ」

「それは困りましたね」

「明日になっても情報が入らぬとなれば…仕方あるまい、川を避ける方法も考えよう」

作戦というほどでもないことだ。この時代には地図はない。一度王子は自分のテントに戻った。

「おい」

明日の稽古用の物を彼女は手入れしていた。

「あら、お帰りなさい」

「この先の川、知ってるか」

「ソンムでしょ、も少し北にいけば、ブランシェタックって浅瀬があるのよ、そこなら渡れるわよ、伯母の家がそこの近くにあるんでよく使ったわ、子供の頃。ブランシェタックって言えばわかるんじゃないの、引き潮がいいわよ、すごく浅いから。農民や商人はよく使うのよ、橋のど真ん中でお貴族様にでもあったら面倒だから」

「なんだって」

父王のテントに駆け戻り、王子は告げた。

「父上、ブランシェタックという言葉、ご存じですか」

「あ、ソンムの河口の、そうか、そこがあったか」

「やはり…ご存じでしたか」

「ただ軍勢が渡れるとは思えん」

「女子供でも渡渉可能だとか。引き潮ならばなおの事」

「どこでそれ」

「エディットが子供の頃渡ったことがあるとか、親戚の家に行ったときに」

「そうか…もしかすると使えるかもしれんな」

「荷馬車も通れるらしいですよ、あいつの伯母は羊毛商人の妻だそうです」

「あいつ、な」

苦笑する。奇妙に仲がいい。又従妹の姫とは違って愉快なほどだが、生憎と戦争中の上、若い女を連れているのはあまりよろしくはない。キャンプ地を離れるときは彼女は男装し、荷馬車の上にいた。御者の隣で補佐をしている。髪を切り、男物のチュニック、腰には剣まで下げている。平穏が続いた時だけ、女性に戻っていた。

「そろそろ女の恰好はやめさせろ、それと…」

「護衛は断られましたよ、代わりに剣の稽古は付けました。ぶん回して相手の頭ぶんなぐれと教えました」

「…おまえ」

「農婦を姫君扱いするなというんです」

「本当はどこかの修道院にでも預けられればいいがな」

「変な事を言うんです」

「え」

「死ぬなら王子様の横で死なせてくれ、と」

「そうか…」

「ダメと言ったらぶんなぐられそうです」

「無礼だろうが」

「あいつに礼儀作法は通じませんよ、父上、それに…テント設営のたびにどつかれて、あいつのバカ力ぶりには凝りてますから」

「どつかれる…」

「ざっばで女とは思えない怪力で…」

「おまえ、気に入ってるみたいだな」

「話しやすいんです、何故か知らないけれど」

もしかすると、これは、と王は思ったが、黙っていた。だが、噂は広まっているらしい。中には王太子殿下に春が来た、と言って祝杯を開けた騎士がいるとかいないとか聞いて、王は苦笑していた。それもどうやらチャンドスらしい。それは言わないでおこう、王はそう思った。ブランシェタックの事は女から聞いたというより、奇跡扱いにしよう、王はそう思った。利用できる情報。それを神の思し召しに変えるのも秘策だ。抜け目ない王ならではの事だ。

「引き潮の刻限か…」

彼女は剣の稽古をしている。少年兵としか見えない格好だ。甲冑は身に着けてはいないが、女とは思えない。先遣部隊は川の様子を見に行っている。川向こうのフランス軍は別動隊がすでに撃破していた。弓矢隊の長弓が効果を上げており、ノーザンプトン伯爵の部隊が試しに移動を開始していた。

「引き始めました」

「よし、全軍移動開始だ」

ブランシェタックは狭い場所とは言えなかった。一番浅いところは荷馬車が通り、騎馬騎士達は川の中に入っていったが、馬の膝まで水が達することはなかった。女子供でも渡れると言った彼女の言葉に間違いはなかった。その彼女は荷車の御者を務めていた。腰に剣、片腕に小さめの盾。そして男物の帽子に男物のチュニック、タイツ、靴。馬に乗ることはさほど上手くはないが、御者は勤められるようだ。荷車は騎馬騎士のそばをごとごとと通り過ぎていく。対岸に着くとそこにはもうイングランド軍の大半が渡り切っていた。イングランド軍の渡渉が終わると間もなく潮は満ち始め、もう白い岩石は見えなくなっていた。後の時代にカオリナイトだと判明した白い粘土。遠い東洋の世界ではその白い粘土で器が作られていたことを彼らは知らない。


荷車の荷物をほどき、野営の準備をする。クレシーの森と呼ばれる森の中。

「父上の命令で溝の掘削と杭を…と、エディット」

もう手にスコップを持っている。

「お前も掘る気か」

「当然」

「止めても無駄か」

「うん」

「そうそう、川の浅瀬については感謝している」

なぜかわからないが、彼女を引き寄せて彼は口づけをしていた。カッとなった彼女が手を振り上げる。

「待て待て、拳は勘弁してくれ、平手打ちなら我慢する」

パシンっ。平手打ち。無礼な、とは言えなかった。彼女は男に弄ばれた身の上の女だ。傷ついている女性だ。バカ力でも。

「も少し、力抜いてくれるとありがたい」

頬に手をやる。様子を見ていた騎士達が彼女を咎めようとしたが、彼が制していた。チャンドスが歩み寄った。

「やはり、春でしたか」

「どーゆー意味だ」

「深く考えない方が身のためよ、王子様」

溜息一つついて、彼女は去って行った。スコップは手にしていた。

「溝を掘る気満々だな、あいつ」

「殿下、楽しそうですな」

チャンドスがそう言った。

「え、まさか」

「いやあ、祝杯あげた甲斐ありましたな」

「おまえら…」

やはり意味を考えてしまうが、王子は彼女を追いかけた。

「おまえはいい、それなら私が掘る」

その声に騎士たちがはた、となった。彼は彼女のスコップを取り上げて、溝堀を始めた。

「殿下がなさるなら、われらも」

「あれ…」

手にみんな掘削道具を持ち、騎士たちも示された位置に駆け寄って行った。

「さすがね、王子様」

「とにかく荷馬車のところに行っててくれ、おまえは」

「でも…そういう作業慣れてるわよ、私」

「荷物番でもしてろ、危ないから」

「でもお」

「いいから」

王子が言う。

「お言葉に甘えてくれ、エディット」

ウォリック伯爵がそう声をかけてきた。

「伯爵さま」

「理由は聞くな。いいから荷物番していてくれ」

何か不満そうな彼女だったが、渋々荷車の元に行った。気になるのか、見に来てはいたが。


天幕に彼、王子が戻ってきた。

「湯あみするの」

「いや…前衛部隊任された」

「それっていいことなの」

「どうなのかな、今日は女物か」

「伯爵さまに着てろって言われたのよ。その恰好なら戦場に引っ張り出されないからって」

「その被り物はどうしたんだ」

「伯爵さまがくれたの」

「そうか、気づかなかった、すまない」

「まだ子供なあんたに女物気遣われるわけないじゃない」

「子供じゃないって言い返せないな、ちょっといいか」

「ん」

「そこに立っていてくれ」

彼は静かに跪いた。

「何してんの」

「儀式だよ、伝説の騎士ごっこだ、エディット」

「ごっこって」

「明日は、レディ、貴女の為に戦います。どうぞ、口づけをお許しください」

彼女の手を取る。

「騎士は貴婦人の為に戦うものなのさ、ここにはそんな人はいない。遊びに付き合ってくれ」

「ねえ、半分本気でしょ」

「うん」

彼女の手に口づけする。

「なんて言えばいいのよ」

「好きに言っていいよ」

「じゃあ、何が何でも生きて帰って来て。勝利よりも何よりも生きていてよ」

「承知いたしました、わが貴婦人よ」

すっと立ち上がる。

「変なことになったら、その顔、めっちゃくちゃにしてやるからね」

「そりゃ恐ろしい」

彼女を引き寄せ、抱きしめた。

「お前には助けられているんだよ、感謝している」

「おバカな農婦なのに」

「おまえはそれでいいんだよ、その方が好きだ」

従士を呼ぶ。

「なんでしょうか、殿下」

「甲冑はこの者が着付ける、お前は手伝いをせよ」

「は、それは」

「そうしてくれ」

「畏まりました、殿下」

彼女は甲冑を並べ始めた。いつも見ていたせいか、位置をきちんと覚えている。

「殿下」

チェーンメイルを彼女は手に取った。

「相変わらずバカ力だな」

苦笑しながら順番通りに着付け、ベルトの締め付けは従士が確認した。そして着付け終わると従士が全て点検をした。そうするようにと王子が命じたのだ。

「ああ、そうだ、これ、借りるよ」

彼女に初めて贈った髪飾りを彼は額に巻き付け、それから兜を手にした。

「なんで」

「おまじないさ」

「そうなんだ」

「ホントは下着とか袖なんだよ、だけどお前のものは私のお古だろ」

「あーそういえばそうね」

彼女にはこの意味は理解できていない。従士が密かに笑っていた。


夕方になっても王子は甲冑は脱がなかった。そんな時、動きがあった。

「始まったか」

彼は戦場にいた。彼女はクレシーの森の中、荷車のそばにいた。

「ちゃんと帰ってきてよ…」

殿下なら心配いらない、とは誰も言わなかった。フランス軍の総数をみんな知っていた。祈りの仕方は覚束ない。村の教会にいた僧侶の言うことは僧侶の言葉が不明瞭なせいでさっぱり訳がわからなかった。だから知らないも同然だった。

「ねえ、お祈りってどうやるの」

荷物係の男に聞いた。

「十字を切って、手を組む、それから神に感謝し願い事を言う、かな」

「なんでもいいから、王子様が無事でいますように」

率直な願い。戦のざわめきが聞こえる。馬のいななき、蹄の音。それが遠くから聞こえている。それが何時間も続いた。

「ついでに伯爵さまも無事でいますように」

ついで、って…。荷物係は苦笑する。あのウォリック伯爵閣下もこの小娘にかかってはどうしようもないらしい。地響きのような戦の音は絶え間なく続いていた。やがて日は落ち、あたりは暗くなった。天幕に騎士たちが帰還してきていた。その騎士たちの間を彼女は走り回った。が、彼の姿は見えなかった。

「いない、やだっ、どういうことよっ」

その声を聞きつけた人がいた。

「殿下ならご無事だ、案ずるな」

「伯爵さまっ」

思わず泣き声が出た。

「しっかりしろ、ご無事だ、すぐ戻られる。湯あみの支度を頼む」

「は、はい」

「サー・チャンドスと戻られる。まずはお召し変えの用意を」

「はい、伯爵さま」

「涙はぬぐっておけ、すごい顔だぞ」

ごしごしと袖で拭う。

「まー今更淑やかにしろとは言わんが、顔が赤くなるぞ、そのやり方は」

「う、うん…」

貴婦人には程遠い田舎の小娘だけれども、目の前で女が泣くのをただ黙って見ているほどウォリック伯爵は薄情な男ではなかった。

「安心したのか、おまえ。何があっても殿下はお守りする」

「そ、それはわかってる、でも、伯爵さまも死んだらいやだ」

「おまえ…」

くすっと彼は笑った。

「ありがたいことだな、エディット」

「だって…」

「支度を頼む。殿下はお前の事、ことのほかお気に召しているようだ」

「お気に召して…」

「好きだ、と言うことだ」

「まっさか、私みたいな田舎の…」

「おい、何している、着替えるぞ、手伝え」

突然声がした。あの王子が彼女の後ろに立っていた。

「あ、お帰りなさい…」

涙はまたあふれていた。

「なんだよ、何泣いてる」

「無事なら、いいの、顔見たら安心しただけ」

「そうか、そうだ、これ、返す」

額からあのリボンを外した。

「髪伸びてないから…」

「使ってろ、いちおー女に見えるぞ」

ポンと彼女の背中を軽くたたき、天幕へと促した。

「湯あみしたい、頼めるか」

「うん」

そのやりとりを聞きながら、ウォリック伯爵は穏やかに微笑んでいた。日常を取り戻せる事がありがたい。それを道端で拾った田舎娘が与えてくれている。


天幕に戻ったウォリック伯爵のところにエディットがやってきた。

「甲冑の汚れと洗濯は従士がするっていうの、食事、ここでいいかしら」

「構わんぞ」

「ありがとう、いつも無茶言ってごめんなさい」

「気持ち悪い」

「ずいぶん英語も覚えたなあ…ウィリスフィールドって名乗れって王子様が言い出したの」

「騎士の家系だな、それは。ここには来ていないが」

伯爵はテーブルで手紙を書いていたが、片づけてエディットに食事のスペースを与えた。

「奥方様に書いてたの」

「そうだよ」

天幕のベッドに伯爵は腰を下ろした。テーブルセットは少人数用ではあったが、狭かった。ウォリック伯爵は大柄な男で、通常サイズの物は小さく見え、天幕用の椅子は座りにくそうに見えた。折り畳み式の簡素なものだったが。

「これ、伯爵さまのよね」

「そうだが、限度があるんだよ、持ち運びが優先だ」

「それもそうね」

スープとパンだけの簡素な食事。

「殿下はもう召し上がったかな」

「じゃないかな。湯あみの後、従士の人が持って行ったから」

「それはしないのか」

「普通は王子様の食事の世話は私がすべきよね、戦時なんだから構うなって言われちゃったの、他の御用があるってチャンドス卿にも言われちゃった」

「なるほどな…」

食事がすむと彼女は即座に立ち上がった。食器をもって去って行く。テーブルは片付いている。そこに手紙を置き、伯爵は書き始めた。妻への手紙はフランスに渡ってから何度も書いた。幼い少年の頃に結婚させられた相手だったが、大事にしてきた。後見人を務めたマーチ伯爵はあからさまにウォリック伯爵家を配下にすべく狙っていた。娘を嫁がせて操ろうとしたが、ビーチャム一族の横槍でそれはうまくはいかなかった。二歳という幼さで伯爵家の主となった子供は見くびられた。トマスの母親は王家の忠誠厚い女だった。まだ子供ながら、トマスは王太子の位にあった今の王と対面し、臣従礼をとった。それから王となったエドワード三世に尽くしてきた。今はその王太子の軍事指導者として、副官としてそばにいる。王家よりも財産があり、侮りがたい、と思われているが、伯爵トマス本人は王家への忠誠は厚かった。戦の熱は収まっていない。ナイフをとり、妻の手紙には物騒すぎる文言をトマスは削り、ペンを執った。

「心配させては不味いな」

キャサリンとの間には何人も子がいる。最終的に彼は全部で十五人の子持ちとなったが、夭折もあったし、末子は僧院に入れる予定でいる。子供たちはほとんどがウォリックの城で生まれた。キャサリンは父親が処刑された時は本当に子供だった。泣きじゃくる彼女を何度も抱きしめてきた。罪人の娘となり、恥をかき、終いには修道院に行くと言い出した彼女を引き留め、妻として守ってきた。そんな記憶をたどり、王太子はフランスの田舎娘をどうするつもりなのか、とふと、思った。


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