ふたなり姉妹
灰村
第1話
ふたなり姉妹
「おねえちゃーん」
妹が泣いていた。
今日の妹は雪うさぎみたいに白くてふわふわのブラウスに、りんごのアップリケがついたギンガムチェックのスカートのお人形さんみたいな格好をしている。
どこをとっても可愛らしい、私の妹。
その妹が泣いていた。
ぎゅっと皺になるほどやわらかいスカート生地を、ちいさな拳で握りしめている。悔しくて悔しくてたまらない。妹は全身からそう訴えていた。
泣きはらした瞳は鬼灯のような色。かわいそうに。しかし気の強い妹は、そう思われることすら全力で拒否している。
スカートから覗く華奢な足は震えている。妹はそれでも前を向いていた。それが立ったまま枯れてしまった花のようで、ひどく痛々しかった。
「ねぇ、どうしてあたしたちはほかの子とちがうの?」
かわいそうな妹。また幼稚園で何か言われたのだろう。私は妹を抱きしめた。
「なんでだろうね」
私たちには、色んなモノがついている。だから私、
1
平日の朝だった。
生まれたときから元号が一度変わって、私たちは高校生になっていた。
「ついにふたなり人口が世界で三億人突破だって」
妹がスマホをスワイプしながら何気なくそう言った。それを母が軽くたしなめる。
「
「はぁい」
妹が素直にスマホをテーブルに伏せる。私はそれを横目で見ながらワカメの味噌汁を飲み干して、ご飯茶碗と汁椀を重ねた。
「ごちそうさま」
午前七時半。そろそろ家を出なければ。
「あら、もういいの?」
母がそう訊ねた。私は静かに頷く。
「うん。おなかいっぱい」
油断すると体重計の針は簡単に適正体重を通り過ぎる。まるでシンデレラに出てくる時計の、十二時の針のように。
ただでさえふたなりは肉がつきやすいのだ。母や祖母はよく「もっと食べなさい」と言うが、私の場合は腹五分目くらいでちょうど良い。
食器をキッチンのシンクに置き、軽く水をかけた。水栓の水は、まだすこし冷たい。
「百代、あとでまとめて洗うからいいわよ。それより、バスの時間は大丈夫?」
うん、と頷きながら私は悠然と朝食を頬ばる妹の千世を見た。私と妹の千世は同じ高校だ。
当然バスの路線も一緒だが、妹はあまり早く学校に行きたがらない。いつも遅刻ぎりぎりに家を出る。校門で行われる服装検査が嫌なのだ。だったらちゃんと制服を着れば良いのに、と思うが、妹いわく膝下のスカートなんて絶対にムリらしい。逆にスカートをわざわざ巻き上げたことがない私には、その気持ちはわからなかった。
はぁ、と白いため息が出る。
千世はきれいな子だ。
ソフトボールくらいしかない頭に、こぼれ落ちそうなほど大きな目。すらりとした手足はマネキンのようで、うっとりするほど長い。うちの古ぼけたダイニングテーブルで朝ご飯を食べているだけで絵になる、奇跡のような子。だからこそ、妹は不憫でもあった。
「千世、早く食べないと遅刻するよ」
「えー、待っておねーちゃん」
丹精込めて作られた人形のような妹は、可愛らしい声でそう言った。
それが言葉だけの物であることを知っている私は、妹を置いて家を出た。バス停までは徒歩十分、高校まではバスで三十分だ。
2
世界で同時多発的にふたなりが生まれるようになってから、十八年あまりが経った。
生まれたふたなりの数は地球上で今日で三億人を越え、日本では未成年のうちおおよそ一割を占めている。
『それ』が発見された当初、科学者たちは困惑した。新生児の股間についた、男性器と女性器。それが意味するところはつまり、男でも女でもあるということ。
医師たちは好奇心に目を輝かせ、母親たちは戸惑った。当然である。これまでの人類の歴史のなかで完全に男女両方の性器を有したうえ生殖能力まで備えていた例はほんのわずかしかなく、それも『かなり特殊な例』だったからだ。
両性具有や半陰陽、アンドロギュノスという言葉はあれど、一般人からすれば一生見ることはない隣の銀河の話のように遠い存在。おとぎ話の世界だ。
しかしその日生まれた子どもたちは、みんな完全な両性具有者だった。
いわゆる、ふたなり。
それが突如として、人類の目の前に現れた。男でもあり、女でもある存在。男性器と女性器が両立した体は異様なほど自然で、見た者に恐怖を与えた。
母親たちは思った。果たして生まれたわが子は男なのか? 女なのか? 出生届にはどちらの性を書けばいいのか? 名前はどうすれば?
先生、検診のときについてるから男の子ですね、って言ってたじゃない!
そんな叫びが世界中にこだました。
最初に生まれた『初代ふたなり』は早速その日の夕方のニュースに取り上げられ、その後も続々と世界中から同じような報道が続いた。その数、三日で二十件。いくらなんでも異常である。その後もふたなりは増え続けた。そして人類は気付いたのだ。
これはただごとではないぞ、と。
すぐさま男女のふたつの性を基準にした社会は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
人類は神の怒りに触れたのだと嘆く宗教もあれば、これは人類が性別を超越した新たなフェーズへ移行したのだと主張する研究者もいた。
ある国では生まれたふたなりは激しく弾圧された。
不吉だとして嬰児殺しが多発し、またある国ではふたなりにはガンを治す効果があると言われ子どもの誘拐が相次いだ。ふたなりを神の子だと崇める者もいれば、化け物だと嫌う者もいた。
――果たしてふたなりは本当に神の子なのか、化け物なのか。
議論の答えは出ないままふたなりの数は減るどころか年々増え続け、新生児の一割近くになるころには社会もふたなりを受け入れ始めた。
そして、現在。
ようやく日本でも各学校にふたなり用トイレやふたなり用更衣室が用意され、『第三の性』であるふたなりへの偏見がなくなったかのように見えた。
それでもまだまだ人々の心は完全にふたなりを受け入れたとは言えない。
吐き出すタイミングを逃したチューインガムのように、この世界はいつまでも味がしない『男』と『女』という規範を引きずり、それを彼ら(または彼女ら)に当てはめようとしてくる。
そんなもの、吐き出して捨ててしまえばいいのに。
『ふたなり第一世代』の私はそう思う。
男か女かなんて、くだらない。
どっちでもいいことじゃない。
実際どちらでも『ある』のだから、そういうものとして扱えばいいのに。
――それができたら苦労しないのだ。
ライオンを見たことがなかった江戸時代の絵師が文献から想像して描いた獅子の絵がなんだか猫のようなケモノの奇妙な姿をしているように、非ふたなりがふたなりのことを一生懸命想像してふたなりが幸福に生きられる社会。そのなんと滑稽なことか。
男と女がわかりあえないように、ふたなりも性をひとつしか持たない者とは、心からわかりあえないのだと百代は思う。
百代が通う高校の生徒手帳にも、『ふたなりは原則として女子制服を着用すること。ただし本人が男子制服を希望する場合はこの限りではない』という馬鹿馬鹿しい一文が載っていた。
それを読んでわかる通り、したり顔でふたなりに理解があるようなことを言う大人はみんな碌なものじゃなかった。
乳房と子宮があって生理が来るんだから着せるなら女子の制服だろう、とか。
いやいやそういう考え方は時代遅れだから両方選べるようにしよう、とか。
どこかの会議室で、勝手にオジサンたちがそんな話し合いがあったのだろうというのが容易に想像できるのだ。その制服を着る当人たちに、是非を聞くこともなく。
実際、ふたなりは『ペニスのある女子』扱いされることが多かった。身体的特徴としてまず胸が膨らんで、声変わりすることもなく、精通より先に生理が来るからだ。思春期になると体全体がまるみを帯び、女性らしいラインができる。しかしその一方でで、ちゃんと男性器も機能する。
生物として、完全体である。完璧過ぎて、ふたなりだけで単為生殖すら可能なのではないかと言われていた。
だからこそ、ふたなりは好奇の目を向けられた。決して表立って言われることはなかったが、ふたなりであるというのはそういうことだ。
バスが学校へ着いた。
進学率も就職率も取り立てて特徴の無い県立高校は、県庁所在地まで約六十キロメートルというこの田舎町で唯一の普通高校である。
とりあえず高校受験のときに大学でも専門学校でも進学する意志があれば、ここへ行く。私の両親もこの学校出身だし、裕福な農家の長女だった祖母もそうだ。
その土地に根付いている学校と言えば聞こえが良いが、うちの母の卒業アルバムに今と全く同じ制服が写っていた。私はそれを見てぞっとした。なんと日付は二十五年前の物である。それなのに、この学校は校舎も制服も何ひとつ変わっていない。まるで代々この学校に通っている我が家みたいではないか。
知らず知らずのうちに母とそっくり同じ道を辿ってきた娘。
それが私なのか?
私は自分の意志でこの学校を選んだはずなのに。しかしそれも含めて抗えない運命のような力で、私達はこの土地に縛られている。そんな気さえした。
先祖が辿って来た道を同じように歩まざるをえないように。母が、祖母がそうだったように。この土地でずっと生きていかなければいけないのではないか。
(ばかばかしい)
この令和の時代に、そんなことあるわけないと思った。あるとしたら、私が自分で自分を縛っている思い込みの枷だけである。私は自由なはずだ。きっと。
「おはよう、ももちゃん」
「おはよう」
自習室から教室に戻ると、おはようの洪水に迎えられた。
私のいる文系の進学クラスは、女子が多い。みんな明るくてとても利発だ。それぞれ中学では『できる子』だった女の子たち。みんな親の期待と愛情を受けて、このクラスに入学してくる。受験時にクラス分けをされるので、入学時に進学クラスに入ったというだけで親は鼻が高いらしい。
「どうしたの? 浮かない顔して。風邪でもひいた?」
「ううん、そうじゃないよ」
隣の席のクラスメイトにそう言って、私はひざ掛けを自分のひざの上に掛けた。教科書やノートを整然と机に並べる。暖房の効きがいまいちな鉄筋コンクリートの校舎は、早朝はまだ息が白くなるほど寒かった。だから始業前に登校してくる生徒のために自習室だけは真っ先に暖房が入れられていて、それを知っている生徒はまず自分の教室ではなく自習室へ行くのだ。私もそのひとりだ。
勉強は朝が一番効率が良い。
スポンジケーキにフルーツソースが染みていくみたいに、頭の中に英単語や数式が入っていく。だから始業時間ぎりぎりに登校してくるクラスメイトと顔を合わせるのはいつもこの時間だった。
「おーい、出席を取るぞー」
始業のチャイムが鳴った。出席簿を抱えた担任が、気怠げに教室に入ってくる。波が引くように静かになる教室。私は自分の名前が呼ばれるまで、じっと机の上の教科書の表紙を凝視した。
ホームルームが始まると、そこから昼休みまではあっという間に感じるのはなぜだろう。まるでコマ撮りアニメのように、一時間目、二時間目と画面が変わり映えしないからだろうか。
私という定点カメラで捉えられた、授業という日常。積み重なって壮大な物語になるかと言えば、そうではない。しかし知識と時間は地層のように積み重なって、授業はいつも先へ進んでいく。
だから私は勉強が好きだった。
学問は大河へ漕ぎ出す船のように、決して逆戻りすることはない。ひとつひとつの知識は砂粒のように細かくても、集まればやがて砂漠のように広大になる。その大きさを知ればいかに自分がちっぽけな存在か、わかる気がする。
一時間目は国語。私は教科書を机の上に待機させて、その時を待った。
3
その日のお昼休み、購買へ行くと妹の千世とすれ違った。
「えー、それやばぁ」
「うけるんですけど」
千世と同じように制服を着崩した一年生たちと一緒だ。
何がおかしいのか、大げさな笑い声が聞こえてくる。まるでこの世界に、自分たちよりも尊いものはないとでも言うように。彼女たちはスクールカーストの上位者たちだ。
妹はその輪の中心にいた。妹は美しかった。
長い髪をゆるく波打たせ、ただでさえ短いスカートをさらにたくし上げ、廊下の真ん中を闊歩している。その姿はまるでこの学校の女王のように不遜で、勇壮。その立ち姿が眩しくて私は目を細めた。
「うけるー」
「もう! やめてよぉ」
かん高い笑い声。何も後ろめたいことはないのに、なんだかいたたまれない気持ちになった。あの妹の姉が、こんなに地味だからだろうか。それとも、私には昼休みに連れ立ってお昼ご飯を買いに行く友達のひとりすらいないからだろうか。
(私の場合は、友達がいないのではなく作ろうとしていないだけだけれど)
私は購買で買ったパンとパックのミルクティーを胸の前で押さえ、その一団を足早にやり過ごすことにした。
妹には気付かないふりをして、すれ違う。千世もこちらを見なかった。ただ、すれ違う瞬間にふわりと香ったシャンプーの匂いに私は彼女が敢えて私に声を掛けなかったのだなと察した。
(まぁ姉妹だからって学校で会ったら話しかけないといけないわけじゃないし)
そう思って廊下を曲がると、「ってかさー」と声が聞こえた。
「今の、千世のお姉ちゃんじゃね?」
どきりとする。なんだ、ばれているじゃないか。私はカッと顔が熱くなった。
「え、じゃあ今の人もアレなの?」
今度は、サーッと潮が引くように手足が冷えていくのが分かった。口の中が乾く。舌が歯の裏に張り付いた。息ができない。苦しい。心臓がドキドキする。
「『ついてる』んでしょぉ? なんから全然そんな感じしなかったね」
声はだんだんと消え入るように遠ざかっていく。完全に聞こえなくなるまで、私はその場から動けなかった。
そう、私にも『ついて』いる。
ふたなりなのだから当然だ。私は歩き出した。自然と私の足は早くなった。気付けば廊下を駆け出していた。
腫れ物扱いも嫌だが、好奇心に晒されるのも嫌だ。
『全然そんな感じしなかったね』
その言葉に、妹の千世が何と答えたのかはわからない。
けれど私は【そんな感じがしない】の一言に、胸のあたりが重くなった。息が詰まる。
私の心の男でも女でも無いあたりが、掻きむしられるように悲鳴を上げた。
――千世しか知らないなら、ふたなりはみんな「ああ」なんだと思うだろうよ。
ソフトボールみたいに頭がちっちゃくて、星空みたいにキラキラした黒目がちの瞳で、肌だって雪みたいに真っ白で。
でもふたなりは千世のようにみんながみんな美少女でも天使でもない。普通の人間だ。毛穴だってあるしニキビだってできる。髪だって跳ねるし、十人並みの容姿しかない。それなのに。それなのに……。
私は教室へ戻ると、自分の席でも猛然とパンをミルクティーで流し込んだ。
腹が膨れると、多少気が紛れた。時計の針を確認すると、まだ少し時間があった。教科書を出して、ぱらぱらとめくる。マーカーで線を引いた。頭を空っぽにしたいときは、勉強に集中するに限る。そうすれば余計なことは考えなくて済むし、時間もあっという間に過ぎる。成績も上がって、いい事ずくめだ。
完全な逃避だが、限りなく優等生な方法を私は選ぶ。生きていくには、優等生の方が楽だからだ。
4
「おねぇーちゃーん、聞いてよ聞いて」
ソファに寝転んだ妹が、スマホを弄りながらだらけている。部屋着にしているふわふわのホットパンツからは長い足が飛び出し、頭にはおそろいのヘアバンドが巻かれていた。
(雑誌からそのまま抜け出てきたみたい)
ティーン向け雑誌の、読者モデルの部屋着公開します! みたいな企画のそのまんま。対して私はチェックのパジャマ姿だ。
姉妹にしてこの落差よ。
「最近できた彼氏がさぁ」
「うん」
その上彼氏までできたのか。初耳だったが、私はまるで『そんなのとっくに知っていましたけど』みたいな態度を装う。悲しい見栄だった。
「すっごい天パなんだけどね、それ気にしてストパーかけたの。でもあんまりにも似合わなくてさ、その上からまたパーマかけたの」
「なにそれ」
うける。
妹が、我が意を得たり、とばかりにニヤリと笑った。
「見る?」
「うん」
「ほら」
私のスマホに画像を私はおお、と目を見開いてしまった。スマホのインカメラで撮れたツーショットは、妹の美貌と隣の男との対比を鮮明に映し出している。
「これ、彼氏?」
「うん」
語尾を仔猫のしっぽのように弾ませて、嬉しそうに妹は頷いた。
「可愛いでしょ。昨日家に行ったんだけどね、おんなじ顔した弟もいるんだよ」
家に行ったのか。そして弟にも会ったのか。妹がどんどん先を行く感覚に、私はくらくらした。
「待って、この彼氏どこの高校? うちの高校じゃないよね?」
「うん。他校。友達が同中でね、紹介してって言われて……」
ははあ、なるほど。友達の紹介で彼氏が出きるなどというイベントが本当に起こるのだなぁと、私は妙なところで感心した。多分私の身には一生起こり得ないだろう事象の説明を、まるでよその国の天気予報を聞くみたいに聞き続けた。
「でね、その弟くんが気を遣って『ごゆっくり』って言って出ていってくれてね」
その後も妹は出来たばかりの彼氏の話をし続けた。珍しく饒舌である。先日、姉と無言ですれ違ったときとは別人みたいだ。
最近新しくできた彼氏の話を聞いて欲しくて仕方なかったのだろう。千世の頬は薔薇色に染まり、興奮で瞳が宝石みたいにキラキラしていた。
ずっと天然パーマの上からストレートパーマをかけ、さらにパーマをかけた彼の話だ。いわく、妹に『ベタ惚れ』の状態らしい。
私は妹に送ってもらった画像を脳裏に思い浮かべる。妹と並ぶと頭の大きさが倍ほどもあり、ちょっと顎がしゃくれた感じの、どこにでもいそうな男の子。
私は心の中で彼に『パーマネントくん』という名前をつけた。
パーマネントくんは妹とのデート代を捻出するためにバイトを始めたらしい。なんとも健気な話である。きっとこれから妹はそのパーマネントくんとキスをしたり喧嘩したりして愛を深めていくのだろう。優しいみたいだし。
そう思った。そのときは。
5
妹が泣きながら帰ってきたのはそれから数日後のことである。
普段ならば一番遅い二十時のバスで帰ってくる妹が、まだ日も暮れないうちに帰宅した。
私は妹の顔を見るなり、ぎょっとした。
「うう〜っ」
妹の顔はひどいものだった。
化粧は崩れ、髪は乱れ、目は充血して腫れている。きっと帰り道でもずっと泣いていたのだろう。
「ど、どうしたの」
母もまだパートから帰ってきていない。家には私だけである。
妹は右往左往する私を無視して洗面所に直行し、バシャバシャと雑に顔を洗った。そのまま洗面所の床に崩れ落ちる。
「ひぐっ、うぅ、っ、ぐす」
私はそっとティッシュを箱ごと渡した。妹はそれを奪うように受け取ると、二、三枚まとめて取って鼻をかむ。ぢーん。顔に似合わず、おっさんみたいな音だった。
「なんかあった……?」
恐る恐るそう尋ねると、妹は「あっち行って」と言った。
「ももちゃんには関係ない」
重症のようだ。すっかりお姉ちゃん呼びが定着した妹の「ももちゃん」という幼い呼び方に、彼女の心の傷の深さを知る。そういえば、昔はこういうことが山ほどあった。
ふたなりであること。
飛び抜けた美貌であること。
妹は生まれついての美少女だったので、私がしなかったような苦労もいっぱいしている。
『ねぇ、どうしてあたしたちはほかの子たちとちがうの?』
あれは幼稚園のころだったろうか。
身体的な特徴をからかわれ、男子からも女子からも爪弾きにされた妹はよく泣きながらそう言っていた。決して負けたわけではなく、むしろこの世界の不条理に挑むように。
私の妹は強いのだ。
こんなことで負けたりはしない。ただ時折こうして傷ついてしまう。深く傷つき、そして傷が癒えたらもっと強くなる。
それは傷んで剪定された枝の切り口から新しい花が芽吹くように、切られた梅が翌年はもっと綺麗な花を咲かせるように。
私は幼いころに妹の頭を撫でた。丁寧に手入れされた髪は極上の触り心地で、微かに甘いシャンプーの匂いがした。
「よし、よし」
「うざい」
「ほら、顔拭きなよ」
またティッシュを数枚。
妹は毛を逆立てた猫のように『寄るな、近づくな、構うな』というオーラを全開にしていた。
「いいよ、言いたくなかったら。もう子供じゃないんだし」
「!」
千世はその言葉に、驚いたようだった。そうだ、もう私たちは子供ではない。泣けば構ってもらえるのは、子供だけだ。
「どうしてよぉ」
「なにが」
「おねえちゃんは、いつもそう。そうやって、あたしのこと、なんでもわかってる、みたいな顔して」
「だって」
お姉ちゃんだもん。そう言うと妹は納得したようだった。
「彼氏のこと?」
「うん。今度こそって思ったのに」
「今度こそって?」
「あたしがふ、ふたなりだって知っても受け入れてくれるって思ったのに」
「え、知らずに付き合ってたの?」
「うん。ってか、イマドキべつにいちいち『あなたはふたなりですか?』なんて確認しないっしょ」
そうなのか。そういうものなのか。知らなかった。
「なんか友達のSNSであたしのこと見て向こうから惚れてきたくせにさ、いざ自分と同じ物が付いてるってわかると怖気づくってどうなの?」
そんなんばっか、と妹は吐き捨てた。
「でもふたなりだって知ってて近づいてくるのは碌なのがいないし」
それはそうだろう。わざわざふたなり『だから』狙ってくる者は男でも女でもどこか屈折している。そしてふたなり同士で恋愛関係になれるほどこの国にはまだふたなりがいない。とくにこんな田舎の町でふたなりが自然とふたなりと知り合う確率なんて、惑星直列並みに低いのだ。我が家のように、二人もふたなりがいるのはかなり珍しい部類だ。
「仕方ないよ」
「何それ、諦め? うちらみたいなのがまともに彼氏なんかできるわけないって? 腹立つんですけど」
「ううん。千世みたいな子にそんな男は不相応だからやめて正解ってこと。あんたの良さが分かんないなんて、別れて正解」
私の最強で最高の妹は、それを聞いて一瞬目を見開いたあと、にゅっと口角を上げて言った。
「あったりまえでしょー」
妹はうっとりするほど長い足で立ち上がった。
「あー、なんかお腹空いちゃった。ティラミスとか冷蔵庫にない? ないなら買ってきてよ」
「ダイエットはどうしたの」
「え、ダイエットなんてしたことないけど」
「はぁ!? それでその細さとか、信じられないんですけど」
私たちはひとしきりくだらないことを言い合い、洗面所をあとにした。私は優しいお姉ちゃんなので、自転車に乗って数キロ先のコンビニでティラミスを買ってくるだろう。妹がもしまだ一人で泣きたいなら、泣けるように。
私たちには、色んなモノがついている。だから私、結城百代は思うのだ。私たちは、強くならなければならないと。
ふたなり姉妹 灰村 @haimura_z
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