第7話 対獣戦闘

 目の前に立ちはだかるのは見た相手を一瞬で畏怖をさせる人型の獣。狼のように見えるそれは本能的に恐ろしさを想起させる存在であった。多くの人間はあれを自身の視界に映してしまった時点で卒倒しかねないほどの圧力を放っている。


 これが、協会が必ず生きて捕えろと言ったコードFとやらか? これに匹敵する存在が他にいるとは考えられない。間違いなくそのはずであるが――


 芳村を抱えて一花がここから離れていくことを確認する。


 芳村はとりあえず一花に任せておけば大丈夫だろう。警察に引き渡すまで死なないように最低限の処置はやってくれるはずだ。なにより、このレベルの存在に襲われて片腕を失う程度で済んだのは幸運というよりほかにない。長年警察に捕まることなく悪事を働いて生きてきただけのことはある。もしかしたら、奴もそれなりのものを持っているのかもしれなかった。


 現時点で気になるのは二つ。


 まず、切断され宙に舞っていたはずの芳村の腕が完全に消失したことだ。離れていたものの、その瞬間をはっきりと自身の目で捉えていたが、なにがどのように作用して切断して宙に舞っていたはずの腕が消失したのは不明である。恐らく、あれが持つ能力であることは間違いないが――


 切断された部分が消失するとなると、どういう原理によるものかわからない現状で、それを受けるのは危険であるのは言うまでもない。下手をすれば、わずかな傷が致命傷となる可能性もあり得るだろう。


 もう一つは――


 桜の花びらが舞い散り、真昼で日当たりもそれほど悪くないはずの場所が一段階暗くなったように感じられる。恐ろしい姿から放たれる眼光は合わせただけで焼き潰しかねないほどの熱量と圧力を誇っていた。ただ相対しているだけで身体の表面を焼かれるような感覚。滅多に遭遇できないレベルの存在であるが――


 ……あれは、悪神憑きではない。身に纏う空気はいかにも禍々しく、恐ろしい姿をしているが、それだけは確かだ。周囲を汚染するような害毒はまったく放っていない。そもそも、あれが悪神憑きであるのなら生きて捕えろ言うはずもないだろう。協会は様々な思惑をもって動いている連中であるが、悪神憑きを殺さず捕縛しろと言わないことだけは確実だ。


 あれは、ただそこにいるだけで周囲を汚染し続ける存在である。天が焼け、神が墜ち、現代科学では乗り越えられなかった多くを克服したいまの人類にとって唯一と言ってもいい脅威だ。あれにわずかでも汚染されてしまえば、一般人はまず助からない。過去に幾度か悪神憑きを研究対象として捕えた施設がいくつもそれを抑えきれずにその害毒に呑まれていったのだ。それ以降、あれを捕らえるというのは禁忌の一つにもなっている。表向きはそうなっている方針が、今日ここでいきなり変わったとは思えない。


 では、あれは一体なんなのだろう? 考えられるケースはいくつかあるが――


 周囲を焼くような眼光を向けていた獣が動き出す。その姿に相応しい速度と力強さで藤夫に接近。禍々しく鋭利な爪を振り上げるような一撃。


 極めて速く、そしてとてつもなく力強いが、その動きは直線的だ。藤夫はその軌道を見極めて獣が振るった爪を最低限の動きで回避。


 恐らく、芳村の腕を切断したのはこれであることは間違いない。やはり気になるのは斬られた腕が消失してしまったことだ。うまく防御ができたとしても、そのあとに発生したと思われる消失によって、致命的な打撃を受けかねない。


 獣は攻撃を回避されてもすぐにこちらを捉え、追撃を仕掛けてくる。身体のすぐそこを通り抜けていく爪によってじりじりと焦げるような感覚が通り過ぎていった。


 それらは極めて速く鋭く、力強いものであるが、緩急のない連撃であったため、必要以上に恐れなければ捌くのはそれほど難しくないものであった。受ければ容易に人体を壊滅させるそれを踊るように一定のリズムで回避を続けていく。


 回避はそれほど難しくないが、そこに反撃をするとなると一気に難しくなる。相討ちとなったら敗北するのは間違いなくこちらだ。なにより芳村の腕を消滅させた力がなんなのか不明である以上、相打ち覚悟での反撃はあまりにも危険すぎる。


 とはいっても、敵の攻撃を回避し続けているだけでどうにかできるわけでもない。相手が消耗しきるまで体力勝負の我慢比べを続けるのも簡単なことではないのだ。なにかしら判断が誤った瞬間に死ぬ危険を凌ぎ続けるのは想像以上に疲弊する。あの獣がこちらよりも体力が劣っているとは考えにくい。獣というのは人よりも遥かに力強い存在だ。こちらに攻撃を仕掛けている奴も例外ではないと思われる。相手の体力がどれほどか把握できない状況で我慢比べを仕掛けるのは悪手だ。戦闘部隊に配属された新人が最初に教わるのは長期戦は避けろ、である。神が墜ちて異能を得ても人間はそもそもとして非力なものなのだ。


 だが、攻撃を回避し続けても獣には付け入る隙がまるで見えてこない。圧倒的な速さに力強さ、並外れた体力によって攻勢に出続けることによってわずかな隙すら見せてこないのだ。


 どうする?


 獣の攻撃をなんとか捌き続けながら藤夫は考えた。


 いくら獣が力強くとも、その体力には限界があるはずだ。いつまでも全速力で走り続けることはできないのは道理である。しかし、この調子ではそれがいつやってくるのか見当もつかなかった。考えられないほどの体力。これだと、こちらの疲弊が先であってもおかしくはない。


 あの協会が報酬の決定権をこちらに譲り渡すわけだ。こんなのを生きたまま捕らえることができる奴などそうそういるものではない。ましてや真っ向勝負でそれをできそうなのは、見知った相手では一人もいなかった。


 だが、仕事を受けてしまった以上、やる以外ほかに選択肢はなかった。どうにかして奴を生きたまま捕らえる。それが与えられたオーダーなのだ。


 相変わらず、獣の連撃は止まる様子はなかった。その手を勢いも速さも力強さも衰える様子はない。無制限の体力を持っているとしか思えないレベルである。


 いまの手持ちの神石は二つ。これを使えば対抗し得るだけの力は得られるが、当然のことながらその時間には限りがある。それを使ったら勝負を決さなければならない。であれば、それを使うべきときを誤るわけにはいかなかった。もう一つは念のために残しておく必要もある。


 そもそも、こいつはなんだ? 周囲の状況から考えても、この獣が悪神憑きではないことだけは確かである。まるで暴走しているかのようだ。どうにかして、その力を削ぐことができればいいのだが――


 暴風の真っただ中でなんとか凌ぎ続けられるはずもない。一秒でも早く、この状況を脱しなければ求められたオーダーはなし得ないが――


 そこまで考えたところで、ふと気づく。こいつが、悪神憑きではないのなら――


 うまくいくはずである。


 だとしても、無尽蔵に等しい体力で暴れ続ける奴を一瞬でも止めなければ、そもそも実行は不可能であるが、やるしかない。


 獣の連撃を踊るように避け続けながら、藤夫は次に打つべき手を思案した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る