第6話 恐ろしい獣

 芳村の背後から迫ってくるのは濃密な死の匂いを感じさせる異質な存在。姿も見えず、無音のままこちらへと接近してくるそれは間違いなくこちらに狙いをつけている。


 ヤバい。それは、高校を中退してからいまに至るまで取るに足らない小悪党として生きてきたからこそ、いまこちらへと迫りくるなにかの危険がはっきりと理解できた。


 過去に一度だけ、芳村は心から自身の死を感じさせる出来事に遭遇したことがある。そのときと同じ――いや、それ以上に危険なものが明確にこちらを狙っていると、理解させられた。理解せざるを得なかった。


 そのとき以来、ずっとこのような目に遭わないように、どうしようもない社会不適合者の小悪党なりに生きてきたというのに――何故こんなことになったのか? まったく理解できなかった。わけもわからないまま、理不尽に殺されなければならないほど、悪いことなんてしたことなどないというのに。


 目ではっきりと捉えられる距離にまで近づかれたら、どうあっても助からない。こちらにできるのは他人の五感を借りて見たり聞いたりできるだけだ。戦闘能力は皆無である。いま狙っている存在がどのようなものであったとしても、向けられている気配からすれば確実にこちらを殺傷できる能力を持っているのは確実だ。とにかく、逃げられるところまで逃げなければ。それ以外に、できることはない。


 動けなくなるほどの恐怖に襲われながらも、芳村は死にたくないという一身でその足を全力で回していく。ここを切り抜けたあと、その身体がどうなっても構わない。これから逃げられなければ、間違いなくここで終わる。あれから逃げられるのなら、身体のどこかが壊れるくらい安いものだ。


 ひたすら足を回しながら、芳村は携帯端末を取り出す。


 あれから逃げられるのなら、警察に捕まったほうがマシだ。警察なら、よほどの凶悪な存在でなければ、問答無用で殺害されることはない。それは異能があって当然となった現代においても同じだ。なんでもいい。この状況から逃げられるのなら、どんなことでもやるべきだ。そうしなければ、迫りくる奴からは逃げられない。


「くそっ……どうなってる」


 恐怖に駆られ、全力で走りながら覚束ない手で端末を操作したというのに、何故か端末はどこも繋がらなかった。主要な都市から離れた田舎なので通信状況が悪いのはいい。だが、なにもない山の中でもないのに、どこにも繋がらないなど、通信技術が発達した日本において起こるはずもないのだ。まるで、この場所そのものが隔離されているかのような――


 そこまで考えたところで、芳村は思い至った。はっきりとは知らないし、自身の目で見たこともないが――強力かつ凶悪な悪神憑きによって周囲が汚染されることがあるらしいということに。


 そして、隔離された地区は基本的にその中にあるものを出さないようにしているらしい。それによって隔離された中から外への通信が遮断されたとしてもおかしくはなかった。


 警察から逃げてきたこちらが足を踏み入れてしまったのはそういう場所だったのか? あり得ないとは言い切れない。現にこの場所は、奴と自分以外に誰の姿もなく、なにより追いかけてきているなにかの恐ろしさを考えれば、それが悪神憑きであってもおかしくはなかった。それほど恐ろしい存在など、現代においてそうそうあるものではないのだから。


 警察から逃げた結果、より危険なものに襲われることになるとは。本当についてない。こんなことにならないように、気をつけながら身の丈に合った慎ましい悪事を働いて生きてきたというのに。逃げるときはしっかりとその先も考えておく必要がある。


 背後から迫ってくるなにかの気配はより強まっている。考えるまでもなく、こちらと奴の距離は狭まっていた。それも当然だろう。こちらの身体能力は普通だ。生まれながらにして持っている能力も身体能力が向上するものではなく、協会の猟犬のような訓練を積んでいるわけでもない。


 追いかけてきているのが悪神憑きであったのなら、協会の猟犬のような超人的な身体能力を持っていたとしてもおかしくはなかった。だとすれば、こちらが全力で走り続けたとしても、奴から逃げられる可能性は――


 そこまで考えたところでその考えを否定する。


 駄目だ。そんなことを考えるな。諦めるんじゃない。小悪党なりにいままでだってなんとか切り抜けてきたじゃないか。もしかしたら逃げられるかもしれない。はじめから、できないなんて思っていたら、助かるものも助からなくなってしまう。


 肺と心臓が破裂しそうになるほど、息が苦しくなる。それでもなお助かりたいという一身で足を回し続けていく。


 制御を失ったかのように走り続けるその足に痛みが走る。それは、このまま動かし続ければ足が壊れるという危険信号に他ならない。それでも足は止められなかった。止められるはずもない。止めてしまえば、どうなってしまうのかわかりきっていたから。


 奴がここに封印されていたのなら、隔離されたここから出ることはできないはずだ。その境界線さえ抜けられれば、助かる可能性は高い。どうにかして、そこまで辿り着ければ――


 背後から迫ってくる恐ろしい気配。それは、振り向いてしまったらその瞬間死に呑まれると確信させられる。振り向くな、逃げろと本能が警鐘を鳴らす。ここを切り抜けたいのなら、なによりもまず前に走り続けるのだ――


 とっくの昔に限界を迎えていたが、なおも足を動かし続けている。恐ろしい気配はさらに近づいていた。背中に焼き印を押されているかのような感覚。


 嫌だ。死にたくない。なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ? そりゃ確かによくないことばかりして生きてきたが、こんな目に遭っていいはずも――


 その瞬間、なにかが自身の右腕側を通り抜けていく感覚が広がった。


「あ、ああ……」


 直後に認識したのは自分の右腕が宙を舞っているという現実。遅れていままで感じたことのない激痛に襲われる。芳村は手をつく間もなく硬い地面の上を転がっていく。


 振り返ればはっきりとその姿を認識できるところまで恐ろしいなにかは近づいていた。自分の腕を切断された激痛すら忘れてしまうほどの死の恐怖がその身を焦がしていく。振り向いてそれを見た瞬間、なにもかも終わってしまうと確信させられるほどそれは圧倒的なものであった。


 悲鳴を上げることすらできない恐怖に襲われる。もはや逃げられる術などないとわかりきっているのに、本当のまま少しでも背後にいる恐ろしいものから離れようと身体を這いずっていく。


 どうしてこんなことに? 恐怖以外にあった感情はそれだけであった。嫌だ。死にたくない。誰か――


 数十倍の重力に襲われていたかのように重くなっていた身体が浮きあがった。


「どうも。大丈夫っすか?」


 芳村は抱きかかえられていた。それはここに入り込む少し前に視認した、何故か自分を追いかけていた協会の猟犬の女だ。


「とりあえず、大丈夫そうなところまで離れたらちゃんと止血するんで、もうちょっと頑張ってください。あと、切断された腕はなくなったみたいなんで、これから不自由になるかと思いますけど、どうにかしてくださいね。そこまではわたしの仕事じゃないので」


 女は気安い調子でそう語りかけてくる。はっきりと腕はなくなったと言われたのに落胆は一切なく、助かったという安堵のほうが遥かに大きかった。


「ついでに言っておきますけど、その腕の治療が済んだら警察に引き渡されることになるかと思うんでそこもよろしく。助かったんですし、高い授業料ってことで勘弁していただければ」


 あれだけ嫌だった逮捕という現実すらもどうでもよかった。こんな目に遭ったのに助かったというだけでも充分すぎるくらい収穫があったと言える。


 限界を超えて走り続けた反動と、片腕を切断されたことによる出血、助かったことによる安堵で急速に意識が遠のいていき――


 ほどなくして、芳村の意識はそこで暗転した。

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