第4話 小悪党の逃走

「クソッ! なんでこんなことになってやがる」


 警察から逃げていたはずの芳村卓也は忌々しさを存分ににじませた言葉を吐き捨てる。


「なんで、俺を協会の猟犬どもが追ってきてんだ……」


 こちらを追いかけているのが協会の猟犬であることがわかったのは少し前のことだ。いまの社会においても、日本の警察は依然として優秀だ。逃げ切るつもりなら、その動向はしっかりと把握しておく必要がある。そうやって目を光らせつつ、逃げてきたのだが――


 ヘマをして警察に捕まりかけたことは別にいい。しょぼくれた悪事をやって生きている者にとってそれはたまに遭遇する事故みたいなものだ。ヘマをしてかした自分が悪いとしかいいようがない。その程度のリスクさえ容認できない奴がこんな生き方などせず、まともに生きていくべきだろう。


 しかし、協会の猟犬どもが動くとなると話は別だ。協会には手を出すな。それは裏社会の大物から自分のように浅瀬で水遊びをしているような小悪党にまで通じる全世界の共通認識である。


 無論、協会に関係のあるような人間をターゲットにしたことも、奴らに喧嘩を売るようなことをした覚えもない。小悪党が日の当たらない世界で生き続けるには、その程度の嗅覚は必須だ。狙う相手は慎重に。それをモットーとして、強きにへつらい、弱者を脅して今日にいたるまで悪事を飯のタネにしてきたのだ。現に、その嗅ぎ分けに失敗し、無残な目に遭った同業者は何人も知っている。たいした価値のない小悪党としてこの世界の浅いところで生き続けてきたのだから、そこにはある程度の自負はあったのだが――


 それにも関わらず、追いかけてきたのが協会の猟犬なのはどういうことなのか? 自分を捕まえるために、協会の連中が動くはずはない。こちらはただの泥棒で二流以下の詐欺師である。そんな奴に対して、わざわざ協会が戦力を派遣するなど――


 考えられるケースはこちらが認識しないところで協会が動きかねないなにかを踏んでしまったことだろう。しっかり嗅ぎ分けをしていたとしても、それは常に完璧であり続けることはできないのである。どれほどうまくやっていたとしても、どれほど優れた人間であっても、人間である以上、いつかどこかで失敗するのは人間の避けられないサガでもある。きっと、今回のこともそういう類のことなのだろう。ついに自分のところにもそういうのがやってくる時期になったのか。


 だからといって、諦めるつもりはなかった。こんなところで死んでたまるか。大きな夢も野望もないが、死にたくない。ただそれだけだ。自分を追っている奴らがどういうのかは不明だが、相手によってはうまく立ち回れるかもしれない。逃げることに関しては、相手の嗅ぎ分け以上に自身がある。この逃走能力があったからこそ、いままで捕まることなく悪事を働き続けることができたのだから――


 まずすべきは、状況の確認だ。もうすでに追いかけられている相手は特定している。奴らの動きがわからなければ、逃げ切ることは不可能だ。できる限り、距離は保ち続けなければならない。奴らに接近されたら、天地がひっくり返ったとしても勝ち目はないと言えるだろう。そうなる前に撒けなければ、そこにあるのは破滅しかない。なんとしても奴らが諦めるまで逃げるしかないが――


 足を止め、芳村は集中する。


 こちらの能力は他人の視界をはじめとした五感を気づかれないようにジャックするというものだ。視界以外はそれほど優れてはいないものの、こと逃げるに関してはかなりのものであるという自負がある。現に、いま追いかけているのが協会の猟犬であることがわかったのもこの力のおかげだ。いままで一度も捕まることがなかったのも、運がよかったこともあるが、この能力があったからだろう。


 間隔をジャックできるのは、人間に限らない。犬や猫や鳥の哺乳類から虫の類まで相手に気づかれることなく利用ができる。無論、人間以外の動物の感覚を借りるのは、それなりに慣れが必要ではあるが、いままで悪事を働いては逃走を続けた結果、身につけた力だ。能力は使い続ければなにかしらの変化を及ぼす。人間以外の動物の五感を借りることができるようになったのも、それが働いた結果であろう。


「……なんだ?」


 足を止めて集中していたにも関わらず、能力が発揮しない。能力が使用できなくなるほど消耗しているわけでもなく、発動しないというのは――


 この周辺に、自分以外の動物がいないことを意味する。


 芳村は集中を解き、あたりを見回す。


 どこにでもあるような風景が広がっていたが、異様なほど静まり返っていた。人間は言うまでもなく、猫や鳥の類までいないというのはどう考えても異常だ。


「なんだってんだよ本当に……」


 能力が使えないとなると、自身の逃走能力の大部分が削がれた状態である。なにからなにまで最悪としか言いようがない。


 まさか、人間どころか生物すらいない場所にまで追い立てられたのか? いや待て。奴らを見た限りでは、そのような素振りは見えなかった。特定の場所に誘導していたのなら、もっと意図が感じられたはずだ。たった一人とはいえ、人間を誘導するのは簡単なことではない。なにより、こんな小悪党をこんなところにまで動かす必要なんてそもそもないはずだ。なにからなにまで、こちらの想定していなかった方向に動いてしまっている。


 どうする?


 芳村は異様な空気に満たされた場所を見渡しながら、恐慌に囚われそうになる精神を抑えて最善の一手を探った。


 周囲に人間どころか生物がまるでいないことをはっきりと認識してしまったせいか、あたりの空気の異様さがさらに増す。


 だが、それでもなお逃走しなければならない。協会の猟犬に捕まることになれば、どのような扱いにされるかわからないのだ。警察に捕まっても死ぬことはまずないが、協会の猟犬だったら話が違う。悪神憑きと戦うような連中が人殺しを躊躇するはずはないのだから。


 本当に最悪だ。どうしてこんなことになったのだろう? 確かにいままでずっと悪事ばかりやってきたが、だからといってこのような目に遭うなんて――


 どうにかして、まずは能力を使用できるところに行かなければ。能力を使わずに、協会の猟犬どもから逃げられるはずもない。そもそも、一度だけでも接近されてしまえばそれで終わりだ。そうなる前に、撒かなければならないが――


 そこまで考えたところで、足を止めずに能力を再度使用する。すると、今度は接続先が確認できた。芳村は瞬時に能力を使用し、やっと見つかった対象に接続。すぐさま自身の視界に離れた場所にいるはずの何者かが見ている光景が映る。


 ざらざらと音を立てて見える光景は古いテレビの映像のよう。しかしそれは、慣れ親しんだものでもある。離れた場所にいる何者かの視界を利用して状況把握をしようとしたそのとき――


 ざらざらと音を立てている視界から強烈な視線が向かってきた。鈍器で頭をぶん殴られたかのような衝撃。見ていたはずの他人の視界は消え、自分のものへと戻った。それが意味するのは――


「……気づかれた」


 芳村の能力にはたいした力はない。ただ他人の視覚をはじめとした感覚を借りて、自分のもののようにできるだけだ。たいした力ではないからこそ、よほどのことがない限り接続した対象に気づかれることはない。気づかれるとすれば、自分の同じようなタイプの能力か、協会の猟犬のような圧倒的な力を持つ神がかりだけだ。


 何故こんな場所にそんなのがいる? やはり、知らぬままなにかとんでもない地雷を踏んでしまったとしか思えなかった。


 本当に、なにがどうなっている? これが受けるべき報いだというのか? ふざけやがって。なにがなんでもここを切り抜けて――


 ぞわり、とした感触は背中を撫でる。背後を振り返るが、そこには誰もいない。広がっているのは、誰の姿もない空虚な空間であった。


 この能力で他人に接続すると、しばらくの間その先との繋がりが残る。


 それは、先ほどこちらの能力の気づいて弾き返した何者かが向かってきているということに他ならない。


 そいつが何者かは不明だが、ヤバい存在であることだけは確実だ。離れた場所からこちらに向けられたものを奴は間違いなくこちらを狙っている。協会の猟犬に匹敵する正体不明のなにかが。


「くそ!」


 芳村は悪態をつく。だが、どれだけ悪態をついたところでいま自分に襲い来る異常などうにかなるはずもない。できることはただ一つ。自分の身を守るために逃げることだけだ。


 芳村は異様な空気に満たされたこの場所から全力で逃げるために、さらに足を速めて動き出した。

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