第2話

 私は困惑していた。けれどもそれは、他人が困惑と呼べるほどの大きな感情の起伏でもなく、あくまでも冷静だったのだが。

 それでも、後から考えてみれば、はやはり私にとって衝撃的な出来事だったのだろう。

 教室を出て、帰ろうと昇降口に着いたとき、自分の下駄箱の前でひとつの影が動いていた。何だろう、と覗いて、私は息を呑んだ。

 クラスメイトの桐谷きりやさんが、私の下駄箱に手を突っ込み、そこから一通の手紙を取り出していたのだ。

 「えっと……。桐谷さん?」

 私が声をかけるまで、桐谷さんは私の存在に気付かずに、下駄箱から抜いた手紙を凝視していた。名前を呼ばれると、はっとしたように顔を上げる。

 「……石川さん」

 「えっと……。何かあった?」

 桐谷さんは明らかに動揺していた。遠回しな尋ね方になったのは、彼女の蒼白な表情に少し気落とされたからだった。桐谷さんはクラスメイトだが、話したことはあまりない。初めて話すシチュエーションがこんな風だなんて、変な感じだな、とぼんやりと私は思った。

 見たところ、桐谷さんが今持っている手紙は、桐谷さん自身が下駄箱に入れたものではなく、他の誰かが入れたものらしい。彼女が手紙を取り出す一部始終は、最初から見えていた。

 となると、疑問はいくつかある。誰が手紙を入れたのか。そして、なぜ桐谷さんはそれを取ろうとしたのか。

 下駄箱に手紙なんて、ラブレターがぱっと思いつくものだが、ここは女子校だ。いや、女子同士の恋愛も別にあり得るか。だとしたら可能性はゼロではないが、それを桐谷さんが気にするのはなぜだろう。

 あとは、イタズラだろうか。イタズラなら、華がやりそうだ。でも今彼女は部活中ではなかったっけ。部活があっても、下駄箱に手紙を入れることくらい、いつでもできるか。でも、手紙だなんて、彼女にしては少し手が込み過ぎているような。

 私はそんなことを頭で考えながら、とりあえず桐谷さんに聞く。

 「それ、何て書いてあるの?」

 「……何も書いてない。宛名だけで、あとは何も」

 そう言って桐谷さんは手紙を私に差し出した。私はそれを受け取る。

 あっ、と慌てて桐谷さんは言う。申し訳なさそうに私に謝った。

 「ごめんなさい、勝手に見ちゃって……。私、何か悪い手紙だったら、破り捨てようと思って……」

 いいよ、と私は軽く答える。

 手紙はA4サイズの白いコピー用紙で、上部に小さく『石川さんへ』と書いてあった。

 裏に返しても、何も書いてない。筆跡からするに、華の仕業ではないと分かったが、これでは差出人も分からない。

 「桐谷さんは、これを私の下駄箱に入れるところを見たの?」

 あ、いや、まあ、と桐谷さんは私よりずっと困惑した様子で答える。

 「見たよ……」

 誰が、と言うのを、彼女は一瞬ためらったようだったが、私が先回りして言った。

 「もしかして、行野さんじゃない?」

 「えっ、どうしてそれを」

 桐谷さんは驚いている。それから俯いて、ぽつりと言った。

 「行野さん、すごく深刻そうな顔だったよ……」

 やっぱり、と私は思った。

 まあ、他に心当たりがなかっただけだ。今まで話したことすらなかったのに、突然私に話しかけ、何も言わずに去っていった行野さん。今思えば、少し思いつめたような様子だった気もする。

 ほとんど何も書かれていない、もはや手紙とすら呼べないような紙切れを見下ろして、私は考える。

 何も書かれていないのだから、強烈な悪意があって、という訳ではないだろう。とりあえずその点にほっとするが、少し不気味な気もする。私に対して何か思うところがあるのなら(心当たりは全くないけれど)、早いうちに解決しないと。私に何か言いたいことがあるのだろうか……。何にせよ、彼女とは一度話してみないと、分からない。

 まあ、桐谷さんがその手紙を取って見ていたのは、心配してくれていたとはいえ、少しお節介な気もしないではないが……。見られても困るものでもなかったようだし、別にそこは気にしない。

 手紙を折ってポケットに入れ、私はそのまま帰ろうとする。すると、「待って」と桐谷さんの声が制した。

 振り返ると、桐谷さんは真っすぐに私を見ていた。

 ああ、お礼を言うのを忘れていたな、と遅く気づいて言おうとしたとき、それより先に彼女が口を開いた。

 「どうして、そんなに冷静なの?」

 え、と思わず声が漏れた。

 何のことを聞かれているのか、一瞬分からなかった。

 桐谷さんは、私の目を、じっと見ている。

 硬直している私に、桐谷さんは続ける。

 「どうしてそんなに冷静なの、普通、もっと動揺したりするんじゃないの? だって下駄箱にイタズラなんて、いじめとか考えないの?」

 私は、ぽかんとしてしまう。それでも少し考えて納得した。

 いじめ、は少し大袈裟だけれど……。でも普段話さない人がいきなり手紙を下駄箱に入れたら(それも深刻な表情で)、何か悪い予感がするのも分からなくない。桐谷さんは実際、それを『破り捨てよう』とまで考えたみたいだし。

 確かに、自分は少し冷静すぎたかもしれない、と私は自覚した。

 ぽつり、と桐谷さんは漏らす。

 「どうしてそんな無感情なの……」

 「……」

 私は答えられない。

 分からなかった。


 家に帰り、私は制服のまま自室のベッドに仰向けになった。

 ぼうっと天井を見つめる。そこから起き上がる気力すらなかった。

 今日は色々なことがあったなあ。

 思い出し、思わず顔をしかめる。あまり良い一日ではなかった。

「無感情、ねえ……」

 一人で呟いてみる。

 私には、感情がないのだろうか。

 ふざけてだろうけど、華にも『ロボット』と言われてしまったし。

 でも、感情がないというのも、何だかしっくりこない。テストで良い点数を取ったとき、先生に褒められたとき、私は確かに嬉しかった。

 じゃあ、下駄箱で桐谷さんに出会ったときは? 少し驚いた気がする。でも、それだけだ。別に取り乱したりはしなかった。

 やけに冷静でいた、ような気はする。

 そうやって振り返ると、なぜか後味の悪い気持ちになってしまった。

 考えないようにしよう。

 これは私の癖だ。何か悲しいこと、つらいこと、大変なことがあったときは、考えるのをやめて、そこから逃げる。それが良いときと悪いときがあるのだろうが、私は多分、そうやって精神を保っているのだ。

 今日のことは、とりあえず忘れよう。

 意を決し、勢いよくベッドから起き上がる。

 スカート、しわになっちゃってるかな。私は慌てて制服をハンガーにかけた。

 

 次の日、朝一番に、私の席にやってきたクラスメイトがいた。

 行野さんだ。

 彼女は教室にやってきた途端、真っすぐ私のもとへ走ってきた。ドタバタと音を立てて、私と向きあった途端、勢いよく頭を下げた。

 「ごめんなさい!!」

 開口一番に大声でそう言ったので、クラスの視線が一瞬こちらに集まった。私は慌てて彼女に言う。

 「ちょ、とりあえず、顔を上げて」

 行野さんは、それでも顔を上げようとしない。

 肩が小刻みに震えている。

 謝りに来てくれたのだな、とわかった。

 私は怒っていなかった。

 でも、とりあえず理由は聞きたい。

 怒りはなくとも、少し不思議には思ったから。

「理由を、聞いてもいい?」

 私が言うと、行野さんは顔を上げて、ぽつぽつと話し始めた。

 ―この日、私は自分が無感情なロボットなんかではないと、思い知ることになる。

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青春なんて、いなくなれ。 各務あやめ @ao1tsuki

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