21グラムが零れたあとに残ったもの。


部活が終わった。一ヶ月後に大会を控えていることもあり、終わる予定であったはずの時間をすっかり越してしまった長針から視線を外す。寄り道して帰ろうぜと肩を組んで来る暑苦しい友人に笑いながら、学校を出た。



「あー、あっちぃ」

「ま、夏だからな」



アイスバーを咥え、汗を拭う友人をちらりと見やる。 際限なく広がっていた青は、すっかりオレンジに覆い隠されてしまった。鮮やかなオレンジが広がるような時間であると言うのに、額には汗が浮かぶ。夏だなぁと、ぼんやり思う。吹く風が汗を冷やしていく。あぁ、夏風邪には気を付けなければ。風邪を引いたら、部活に出られない。休むのがたった一日だったとしても、自分がいないうちに一日練習を重ねた周囲との差を詰めるには大きな努力が必要だ。ただでさえ自分は、周囲より劣っているのに。……気を抜いた瞬間、マイナス方向へ向かおうとする思考を振り払うように頭を振った。「うお、なんだよ」なんて友人の声を笑ってやり過ごしながら、彼女を思う。


臆病で、優しくて、可愛い彼女。


いつも柔らかく笑みを浮かべている彼女は、周囲から人気がある。本人が、それを自覚しているかどうかは知らない。しかし彼女はその、周囲から向けられる視線が得意ではないようだった。いつも、いつも、自分のことは後回し。周囲のことばかり気にしている。そんな彼女が自分には心を許してくれていることでちっぽけな優越感に浸っていたことに、あの女は気付いていたのだろうか。真壁の、大切な幼馴染。あの女の名前が彼女の口から出るたびに、腑が煮えくりかえるような感覚がしたのだ。彼女はそれに気付いていなかったようだが、きっとあの女は。



「なんかあったみたいだな」

「え?」



不意に、隣から聞こえた声に意識を引っ張り上げた。首を傾げる自分に、彼は気付いてなかったのかよと呆れたように目を細め、そして指を伸ばす。その指が指す方へ視線を移せば、確かに何かがあったのだろう。パトカーや救急車、それに野次馬で溢れかえっていた。狭く、普段は人通りの少ない踏切前。何があったのだろう。首を傾げながらも、集まった人々のように首を突っ込む趣味はない。俺らも気を付けないとな、なんて他人事のように通り過ぎようと、して________________


地面に転がった、ひとつのマスコットキーホルダーに視線がとまった。お世辞にも可愛いと言えないそれは、彼女の鞄に付けられたものと良く似ている。嫌な予感が胸を過ぎった。つい足を止めた俺に、友人は訝しげに口を開く。彼の唇は動き、何か言葉を紡いでいるはずなのに、しかし何も聞こえなかった。正確には聞こえているのだが、全て頭が理解する前に耳から出ていく。何も、分からない。これが、真壁のものであるとは限らないのだ。きっと彼女以外にもこのキャラクターを好きな人はいるだろう。そう、無理矢理に自分を納得させて、この場から逃げ出そうとしたんだ。ただ、頭が悪い方向へ考えてしまっているだけ。そうに違いないと必死に自分に言い聞かせている途中で、ふと視線を捉えたそれに思考が止まる。


転がっている鞄からはみ出ている教科書に自分の名前が書かれているのを見て、一瞬死んでしまったのは自分だったのかもしれないなんて馬鹿げたことを考えた。しかし、自分の腕はしっかりと友人に掴まれている。自分は生きている。では、あの教科書は?



「ごめん、化学の教科書忘れちゃって。貸して欲しいな」



ぶわりと汗が滲んだ。あれは、今日彼女に貸した教科書だ。持って帰ってしまっていたと、彼女が言った教科書。それを理解するのと同時に、足が動いていた。自分の名前を呼ぶ友人の手を振り解いて、野次馬の中へ身体を捻り込む。真壁、真壁と彼女の名前を呼びながら、手を伸ばして、ようやく一番前まで来た俺はそれを目にした。コンクリートに広がった、赤と言うには黒くなりすぎたそれはきっと血液だろう。五月蝿いほどに聞こえていた周囲の音が消える。今、この空間に自分しかいないような錯覚を覚えた。



「おい、まじお前急にどうしたんだよ!」

「すみません、ここで何があったんですか」

「あぁ、なんか女の子が刺されたみたいだよ」



まるで他人事______声をかけた男にとっては他人事だろう______のように返された言葉。それに被せるように、隣の女が「真壁さん家の子だ」と言った。指先から身体は冷えていくのに、頭はかっと熱くなるような感覚がした。違うと否定したい。違うと否定して欲しい。今、すぐそばから彼女が声をかけてくれれば、これがただの考えすぎだと分かるのに。しかし、そんなことは起こらない。ただ、コンクリートに吸い込まれた赤黒い液体が、彼女のものであると言う現実だけが目の前に転がっていた。



***



彼女が死んだ。既に、救急車で運ばれる時点で息がなかったらしい、とは母が噂話が好きな近所のおばちゃんから聞いて来た話だ。それを、どう言う意図で自分に聞かせたのかは分からなかったが、ああうん、なんて適当な返事をしたことは覚えている。


どうして死んでしまったのだろうか。


悲しくて堪らないのに、涙は出なかった。泣けない。彼女が亡くなって、数日が経つのに、涙が出てこない。美しい顔のまま、瞼を閉じ横たわっている彼女に泣きすがっているのは、真壁の母親だ。彼女に良く似た、清廉さを感じさせるその顔は悲しみに歪んでいる。その肩はしっかりと彼女の父親に抱かれていて……こんなことを考えている場面でないことは分かっているのに。どうしようもなく彼女の母親が妬ましかった。みんな、自分の悲しみだけで精一杯なのだ。誰も、恋人を亡くして傷付いた心に寄り添ってくれることはないのに。娘を亡くして泣く彼女には、寄り添ってくれる人間がいる。寄り添ってくれたところで、その傷が癒えることなどないのだけれど。彼女がいなくなったことで、自分の醜い心が剥き出しにされたような気分だった。



「臣くん」



会場の隅で、悲しむ人々をぼんやりと眺めている自分の名が呼ばれる。それは知っている声だった。顔を動かして、真壁に良く似た彼の名を呼ぶ。春、それが彼の名前だ。秋に生まれたから「秋」と名付けられた彼女と同じように、春に生まれたから「春」と名付けられた彼。豊穣の季節を名前に持っているのに、それが一切似合わない姉弟だった。悲しみの滲んだ顔を見詰めていると、まるで真壁がそこにいるようなそんな錯覚を起こしそうになる。それが嫌で、視線を外した。



「……姉ちゃん、寝てるみたいなのにな」



涙の混じった、声。中学に上がり、すっかり低くなってしまった声に、まだ少しだけ慣れない。俺は小さく頷いた。お別れの言葉だけでも言ってやってよ、と無理矢理に作られた笑顔とも呼べないそれを、見ることが出来ない。曖昧に笑って、誤魔化した。弱い自分を許して欲しいとは思わない。これを逃したら、もう二度と彼女の顔を見られないことだって分かっている。それでも、まだ死んでしまったことを認めたくないのだ。だって、つい先日までは生きて、笑っていたのに。春くんはそんな自分の気持ちを察したのか、何も言わずに去って行った。呆れられてしまったかもしれない。しかし、それでも良かった。



窓が、閉じられる。



真っ白な、美しい顔が隠される。火葬炉に棺が納められる。彼女を喰らってしまおうと大きな口を開く火葬炉が恨めしくて仕方なかった。ずっと、ずっと。閉じてしまった扉を眺めていた。自分も、同じように喰らってくれたら。そんなことを考えたところで何も変わらないことなど知っている。やがて、彼女は小さな欠片となって、外に出て来た。小さな、白い欠片。人間は、こんなにも小さくなってしまえるものなのかと、感心すると同時にひどく悲しくなった。死んでしまったことを、否応なしに理解させられる。彼女は、彼女ではなくなってしまったのだ。そう、思うのと同時に酸っぱいものが食道を上がった。吐き気がする。胃の中のものが、上へと迫り上がってくるような感覚。う、と小さく呻いた自分に、隣にいた女性がこちらを向く。心配そうに口を開く彼女に応える余裕すらなかった。部屋を飛び出て、手洗いへ駆け込む。個室の鍵を閉めることも出来ず、吐く。口の中が酸っぱい。吐いて、吐いて、やがて吐くものが何もなくなった。元々、大した量も食べていなかったのだ。それでも、無理矢理に吐いた。びちゃびちゃ、汚い水音と共に黄色い胃液が吐き出される。嫌な臭いがして、鼻の奥がつんと痛くなった。


涙が一粒、頬を落ちた。

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21グラムを零した日。 有栖川苺 @Blumenblatt_

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