21グラムを零した日。

有栖川苺

零れるものは掬い取れない。


また明日ね、大きく手を振りながらそう言った友人が、曲がり角に消えていく。わたしは、それを眺めていた。週の真ん中、まだ日曜が終わって三日しか経っていないことが腹立たしく、あと二日も学校へ行かねばならないと思うと頭痛がしてくるような気分だった。また明日なんて約束に、なんの意味があるのだろうか。わたしは心の中で吐き捨てる。別になんの意味もないのだ。ただ、それが決まりであるかのように口にするだけ。わたしは別に、明日もあなたに会いたいとは思えないのに。口をついて出て来ようとする言葉を呑み込んで、頷いた。手を振り返して、もちろんだと笑顔を浮かべる。また明日もこんなことを繰り返さねばならないのだと思うと、溜息が出てしまいそうだ。ちらりと揺れて消えたスカートの裾に、頭のどこかで暑いなぁとどうでもいいことを考えた。


じりじり。五月蝿いほど大きな蝉の声が響いている。


友人のローファーが地面を蹴る音が聞こえなくなって、ようやく曲がり角から視線を外した。笑みを浮かべていた頬が痛い。額に浮かんでいた汗が肌をつたって落ちていく感覚が気持ち悪くて、早く帰ろうと踵を返した。吹く風が、ねっとりと肌に纏わりついて、過ぎていく。それに攫われた髪を耳にかけて、わたしは深く息を吐いた。


人は、他人に何かを求めるものである…と思う。それはただの持論で、証明するようなものはないけれど。休み時間、授業中、放課後、果ては家でまでも、人は他人にとって都合の良い自分の姿を求められていると思うのだ。例えば、わたしは思考を回す。そうだ、同じクラスのあの子は、いつも正しい選択をすることを求められている。勉強も、友人も、進路も。そんなの、全部個人の自由なのだから選ばせてあげればいいのにね。目の前を通っていく黒い猫に笑いかける。金色の瞳がわたしをちらりと見上げて、そして何の興味もないとばかりにどこかへ走って行ってしまった。あぁ、あわよくば撫でられないかなと思っていたのに。遠く見えなくなった黒から視線を外す。


同じ部活のあの子は、明るく笑っていることを求められている。体調が悪くても、何か辛いことがあっても。あなたらしくない、なんて一言で済ませられてしまうなんて、どれだけ苦しいことだろうか。もちろんそれは、わたしに関係のないことだけど。隣の席の彼も、前の席に座る彼女だって、みんなみんな………そして、わたしも。馬鹿らしいけれど、生きていくには仕方なのないことだ。今、わたしが友人と帰路を共にする為だけに、学校への道を引き返させられているのも、学校で孤立しない為に必要なことだから。……なんだか、途方もなく虚しくなってしまって、またひとつ息を吐いた。



かんかんかんかん、高い音と共に降りて来る遮断棒に足を止めた。黒と黄色の、目がチカチカするようなそれがゆっくり近付いて来るのを眺める。甲高い音に眉を寄せたとき、ポケットの中でスマホが小さく震えた。取り出してみれば、それは恋人からの連絡を通知するメッセージ。臣くんだ、自然に笑みが溢れる。部活中ではないのだろうか、そう首を傾げながらメッセージをスライドし画面を開けば、今日の五限に貸してもらった化学の教科書についてであった。机の上に置いておいて貰えればいいから、と書かれたそれに、そう言えばと思い出す。貸してもらった教科書、どうしたっけ。返そうと避けておいたはずだけど……過去の行動を思い返して、薄く唇が開く。何を思ったのか、自分の荷物と一緒に鞄に詰め込んでしまったことを思い出したのだ。わたしは急いで謝罪のメッセージを打ち込んだ。臣くんはまた明日でいいと言うが、しかし授業で出された課題は明日までのはずだ。学校へ戻らなくては、踏切の向こうへ小さく見える校舎へ視線を上げる。それと同時に、聞き覚えのある声がわたしの名前を呼んだ。



「秋」



そんなに熱心に画面を見てどうしたの、優しい表情で首を傾げるその姿に、頬が緩む。



「要」



名前を呼んだ。可愛らしく浮かべられた笑顔に、スマホの電源を消す。画面の暗くなったそれをポケットに滑り込ませ抱き着けば、暑いよなんて言葉が笑い声と共に落とされる。それにつられて、笑った。


久し振りに顔を合わせた彼女は、最後に会ったあの日より随分変わったように見えた。それは、色の明るくなった髪のせいだろうか。黒かった髪は明るい茶色へと染められて、風に揺られている。さらり、指の間から擦り抜けてしまうそれから視線を外せば、彼女の顔が淡く桃色に染まっているように見えた。暑いのだろうか。鞄の中から水筒を出して手渡せば、はにかみが浮かべられる。



「ありがと」

「要が熱中症で倒れちゃったら困るもの」



大切な幼馴染だから。そう告げたわたしに、彼女の表情が強張ったように思えた。どうしたのと唇を開きかけて、閉じる。水筒の蓋を閉めて、こちらへ返した彼女の顔は先程までと寸分変わらない柔らかなものだったから。ただの気のせいなら、それでいいのだ。そう、気のせいなら。



遠くから電車が近づいて来るのが見えた。この電車が通り過ぎたら、要と別れなければならない。学校への道は真っ直ぐだが、彼女が家に帰るためには渡った先の道を曲がらなければならないから。折角、久し振りに会えたのにすぐさよならなんて寂しい。そんな小さな呟きは、遮断機の甲高い音と電車の音に掻き消されて要の耳には届かなかったようだった。彼女は少しだけ眉を顰めて、顔を寄せた。わたしはもう一度同じことを言おうと口を開く。「要に会えて、」そこまで唇を動かして、嫌な光を放つ銀色に視線を取られた。


頭上には全てを吸い込んでしまいそうな青が広がっている。太陽の光を遮る雲はひとつもない。光を反射して、ぎらりと鈍く輝くハサミにわたしは顔を上げた。どうしてこんなものを握り締めているの。見上げた先にある彼女の顔から、笑顔が消えていた。冷たく、わたしを見下ろす瞳に冷たい汗が落ちる。手が、伸ばされる。ハサミを持っていない方の手だ。白魚のような美しい手が伸びて、私の腹部をなぞる。ぞくりと、肌が粟立った。そんな触れ方、知らない。誰にもされたことがない。一瞬で、わたしの知らない誰かになってしまったようで、恐ろしくなった。逃げるように、一歩後退りをする。同時に、彼女の顔が強張った。



「どうして」



その質問の真意が掴めなくて、戸惑う。どうしてと訊ねたいのはこちらの方だ。どうして、どうしてハサミなんて握り締めているの。そんな、色欲を孕んだ手でわたしに触れるの。動揺のあまり、鼻の奥が痛む。じわりと滲む視界を隠すように顔を逸らし______________


どん、鈍い衝撃と共に走った鋭い痛みに眼を見開いた。大きな音を立てて、電車が隣を走り抜ける。五月蝿いほど聞こえていた蝉の声が一瞬だけ聞こえなくなった。わたしは視線を腹部へ落とす。彼女の手に握られていたハサミが、途中で途切れている。自分の腹部に埋められて、銀色が姿を消している。理解が追い付かなかった。ただ、痛みだけを脳が拾っていく。冷たい金属が、肉に触れている感覚がする。呼吸をしようと開いた口から、空気が押し出さた。酸素が吸えない。なんで、そう声を出したいのに、口から溢れるのは空気と意味を持てなかった単語ばかりだった。経験したこともない強烈な痛みに視界が揺らぐ。彼女はそんなわたしに追い討ちをかけるよう、刃を開いた。傷口を無理矢理に開かれて、裂かれる。ぶちぶち、イヤな音と共に「ああ」なんて情けない声が漏れた。


開いた刃が、閉じる。閉じて、向きを変えるように動いたそれがまた開いた。ぐちゃ、と嫌な音が聞こえる。真っ白な制服が鮮やかな赤に染まっていくのを視界に入れると同時に、膝から力が抜けた。折れた膝を硬いコンクリートに打ちつける。膝から広がる小さな痛みなんて気にしていられないほど、刺された部位が痛む。身体の中から抜けていった銀色には、わたしの赤と、小さな肉片が付いていた。痛みと、それに胃の中から何かが込み上げてくるような感覚がする。おぇ、と開いたままの口から汚い音が漏れたが、胃の中のものが出てくることはなかった。


どくどくと、身体の中で動く心臓の音が耳元で響いている。血液が流れ、抜け落ちていく。人間は、体内に流れる血液のうちの三分の一を失ったら死んでしまうらしい。なら、今、わたしの身体の中にはどれだけの血液が残っているのだろうか。制服だけでは飽き足らず、コンクリートまで赤く染めようと溢れていく赤を見て考える。止血しなくては。頭に残ったのは、死にたくないと言う感情だけであった。死にたくない。ただそれだけで必死に傷口を押さえる。ぼたぼた、落ちていく血液を体内に留めておくように強く押さえ付けて、傷口が布と擦れる痛みに涙が落ちて行く。痛い。痛い。痛みは、どうしようもない悲しみへと姿を変えていく。どうして、こんなことをするの。霞む視界で見上げた彼女の顔は、暗くて上手く見えなかった。ただ、銀色の輝きを受けてギラギラと異様な光を放つ瞳だけがわたしを捉えている。


……嫌われていたのかな。


ずっと、好きだった。好かれていると思っていた。親友だと、思っていたのに。そんなわたしの思考を見透かしたように、彼女は口を開いた。



「秋を友達だと思ったことなんてない」



頭を鈍器で殴られたような気分だった。刺された腹部だけでなく、頭までズキズキと痛む。溢れた涙が止まらなくて、どうしてと考えるより先に強くなった痛みに顔を伏せた。コンクリートに、額を擦り付ける。気絶してしまったほうが楽だろうに、それを許されない。ふぐぅ、と意味を持たない言葉が口から溢れた。


だめだ、こぼれていく。


口から出たのは、臣くんの名前だった。臣くん、それはきちんと音になっていたかしら。わたしを振り向いて、笑ってくれる臣くんが瞼の裏に映る。もう、死んでしまうなら。それなら最後に臣くんに会いたい。学校の窓からわたしを見付けて、駆け付けてくれないかしら。そんな馬鹿みたいなことを考えて、乾いた笑いを溢した。校舎からこんな場所、見えるわけ、が__________刹那、背中が燃えるような痛みに呻いた。熱い。太陽に照らされる暑さとは違う。痛みを通り越して熱さを感じるようなそれに、絶叫した。一切、声にならない絶叫だった。


助けて欲しかった。誰でもいいから。こんな痛みから解放して。死にたくない。なんでわたしが。やだ、なんで、どうして!感情がぐちゃぐちゃだ。何を思っているかすら、分からなくなる。そのうちに視界が霞んで、なんだか眠たくなってきた。眠たい。このまま、寝てしまえばい楽になれるだろうか。そんなことを考えながらわたしは、ただ景色が真っ赤になって行くのを見ていた。鮮やかであった全てが赤く染まって行く。ようやく、全てが赤になってしまう頃には、痛みも何も感じられなくなってしまった。ただ、身体が凍えてしまうほど寒いことに気が付いて、そっと空気を吐き出す。ひゅうと鳴ったのが喉なのか、はたまた風邪なのか分からないまま。そっと近付く影に「臣くん」と笑う。やっぱりわたしには、君しかいなかったみたい。ひとりは寂しいから、早く迎えに来て________________



世界が暗転した。




***




ぴくぴく、小さな痙攣を繰り返していた彼女が、まるで糸が切れてしまったかのように動かなくなった。彼女の清らかさを象徴するかのように白かった制服は、まるで元々その色であったかのように赤く染まってしまっている。それを染めた血液は、制服だけでは飽き足らずコンクリートまでもを染めてゆく。あたしは、小さく彼女の名前を呼んだ。もちろん、返答はない。彼女は死んでしまったのだから。


右手に握り締めていたハサミを、捨てた。


からん、と乾いた音を立てて地面に叩き付けられたそれに、一瞬で興味を失う。目の前で伏せ、動かない彼女のそばに屈み込む。



「痛かった?」



呼吸はない。生命体としての機能をすっかり失ってしまった彼女を、抱き上げる。力が抜けて、すっかり重くなってしまった彼女をやっとの思いで抱き上げたあたしは、皮膚がめくれ肉の覗く額に呟いた。コンクリートに打ち付けたりなんてするからだ。そんな言葉は届かない。涙の跡がくっきりと残った頬を撫でる手に伝わる温もりに、泣きたくなった。



秋は、あたしに裏切られたと言わんばかりの表情をしたけど、裏切られたのはあたしのほうだ。だって彼女は、あたしのことを好きだと言ったのに。ずっと一緒にいようと約束してくれたのに。そんなの忘れてアイツを選んだのだ。中学で同じクラスになった、あの男。好きな色だって、好きなものだって、髪の色さえも同じにしたのに。秋はあたしを見てくれない。……許せなかった。そんなの、許せるわけがなかった。そうだ、許せるわけがない。だって、だってだってだって!秋があたしの全てだったのだ。あたしには秋しかいなかったのに。



「……秋は、そうじゃなかったんだよね」



それならいらないと思った。あたしだけを見てくれる秋でないなら、いらない。あたしだけを必要としてくれる秋でないなら、いらない。あたしが秋を思うように、秋があたしを思ってくれないのなら。ハサミを刺すのに躊躇いなんてなかった。ただ、これで秋が自分のものになるのだと思うと嬉しくて仕方がなかった。……あとに残ったのは虚しさだけだ。結局、最後まで彼女の心の中にいたのはあの男だった。あたしの名前は呼んでくれなかった。瞳の中に映った恐怖を思い出すと涙が溢れる。あたしは、ただ、秋が好きだっただけなのに。秋と、一緒にいたかっただけなのに。


残酷だった。ずっと、友達でいてねなんて、そんな言葉。大切な幼馴染だからなんてそんな言葉。あたしは女だから、秋の友達以上にはなれない。それでもいいと、諦められなかった。あたしを置いて幸せになろうとする秋を、どうにかして繋ぎ止めようとして、失敗したのだ。



「馬鹿みたいね、あたし。こんなことしたのに、また秋に名前を呼んで欲しいと思ってる」



あたしのものにならなくたっていいから、幸せに生きていて欲しかったと思ってしまった。もう何もかもが遅いのに。


後ろに落ちた、ハサミを手に取る。べっとりと付着した血液と肉片が、銀色を隠してしまった。あたしは刃を自分の方に向けて、そして力一杯____________



「秋もこんなに痛かったんだね」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る