抽象画

日乃本 出(ひのもと いずる)

抽象画


 エム新聞といえば、新聞業界の中でも一、二を争うほどの巨大な新聞社である。

 新聞などどれも一緒だと思われがちだが、それがなかなかどうして、各新聞社の新聞には、それぞれの特色というものが色濃く出ているモノなのだ。

 エフ新聞であれば経済面の充実さが売りだし、エル新聞であれば時を煌めく芸能人のすっぱ抜きが有名だ。ではエム新聞の特色は何かというと、それは芸術関係の情報の多さが売りだった。


 そんなわけで、エム新聞の学芸課のデスクは、まさに毎日が激戦地のような様相を呈していた。ひっきりなしにかかってくる電話、バタバタと走り回る記者、飛び交う怒声……。

 今でこそ、猫の手も借りたいような、きりきりまいな状況ではあるが、ほんの数年前まではこうでもなかった。なんでも最近は芸術ブームとかなんとかいって、猫も杓子も芸術芸術なんていう世の中になってしまったのだ。

 新聞とは、大衆が求める情報を供給してこそ新聞である。以前から芸術面に力を入れていたエム新聞は、時流にのって、今まさに最盛期を迎えているといって過言ではなかった。


「はい、こちらエム新聞学芸課」


 若い一人の記者が、デスクの上の電話の受話器をとり、そう応対した。


「はい。はい。はい?! い、いえ、そのようなことはまったく把握しておりませんでしたが……。い、いえ! 忘れていたなど、決してそのようなことはございませんので、あの――――は、はいっ!! ただちに!!」


 受話器を持ったまま、ひたすらぺこぺこと何度も謝り続ける若い記者。それに気づいた編集長が、また何かやらしやがったなと毒づきながら、若い記者のそばへと歩み寄る。


「おい。今度は何をやったんだ?」

「いや、それが……その……」


 しどろもどろの返答をしながら慌ててスケジュール帖のページをめくる記者。そして首をかしげて、


「やっぱり、そんな予定はないはずなんだけどなぁ……」

「おい、一体なんだというのだ。お前の電話での謝りよう、あれはどう考えてもとんでもない失態をおかしたに違いないはずだ。自分の失敗を言いたくない気持ちはわかるが、私は編集長として状況を把握し、場合によっては責任をとらなければならぬ。さあ、何があったのか話してくれ」

「あ、はい……。その前に一つお聞きしておきたいのですが、編集長は最近エックス氏とお会いになる機会とかはありましたか?」

「エックス氏と?」


 編集長は顔をしかめた。エックス氏とは、油絵の抽象画専門の画家として、その名を世界中に轟かせている画家のことだ。

 現代芸術の到達点。人間の深層心理を浮き彫りにする天才。評論家からはそのような歯の浮くような賛辞を受けているが、一般人からすれば何が描かれているのかまったくもって理解のできない難解な絵を描くことで有名である。

 そしてエックス氏が有名なのはもう一つの理由があった。それは、エックス氏の性格であった。高圧的で気分の上下の激しい激情家。それでいて奇行に走ることも多々あり、この間など、空気が汚染されているなどと言って、病院の滅菌室に一週間こもっていたという変人ぶり。天才となんとかは紙一重というが、まさにそれを体現しているかのような人物であった。


「いや、そんな機会はなかったな。そもそもあの人は人間嫌いでもあるから、過去に一度も取材を受けてくれたことがない。もちろん、何度か取材を申し込んだことはあるが、その度に鼓膜が破れるのではないかという大きな声で、芸術を食いものにするクズに話すことなどないとはねのけられたよ」

「ですよねぇ……。やっぱり、おかしいなぁ」

「おいおい、いい加減にしろ。早く何があったのか話せ」

「すみません。実はですね、先ほどの電話はエックス氏からだったのですよ」

「なんだって?」

「エックス氏が言うには、今日は自分の作品の発表会をするはずだったのに、いつまでたっても記者がこないからどうなっているんだと、えらくご立腹の様子でして……」

「エックス氏の作品の発表会だと? それはおかしいな。今までエックス氏が自分から記者を呼び寄せて発表会をすることなど一度もなかったはずだ。だから、もしエックス氏の作品の発表会なんてものがあったとすれば、大騒ぎになってるはずだぞ」

「ええ。ですから僕も変だとは思うんですが、ともかくすごくご立腹なされていることは確かです。……どうしましょう?」

「う~む。ひょっとすると変人なあの人のことだ、発表会を急に思い立ったがそれを素直にこちらに頼むのもプライドが許さないので、それでそんな癇癪かんしゃくを起こしてみせているのかもしれぬ。仕方がない。私がエックス氏の元へと赴くことにしよう」


 そうして編集長は、エックス氏の好物だとされているお菓子を手土産に、エックス氏のアトリエへと向かった。

 都心から離れた閑静な住宅街の中に、エックス氏のアトリエはあった。エックス氏の作品と性格とは裏腹に、アトリエは付近の住宅街に溶け込むような、ごく普通の二階建ての住居だった。こんなところであのエックス氏が創作活動をしているという思うと、編集長はなんだか妙な気分を覚えるような気がした。


 玄関のインターホンのボタンを押す。アトリエの中に、来客を告げるチャイムが鳴り響いているのだが、アトリエからは何の応答もなかった。しかたないのでもう一度押してみる。やはり、返答はない。

 留守なのだろうか。しかし、学芸課に直接電話をして呼びつけておいて、留守にするとは考えにくい。だが、あの変人のエックス氏のことだ、ひょっとするとそれもありうるかもしれない。

 そこで、編集長はもう一度だけボタンを押してみることにした。これで応答がなかったら帰ることにしよう。

 ボタンを押す。アトリエの中にチャイムが鳴り響く。そして、応答はない――はずだった。


「開いているから勝手に入ってくれたまえ!!」


 インターホンのイヤフォンがはじけ飛ぶかのような怒声。思わず耳をおさえる編集長。応答をすべきか少し迷ったが、さっさと入ってこいとのたまう変人をこれ以上刺激しない方がよかろうと考え、言われた通りにアトリエの中へと入ることにした。

 玄関のドアを開けると『靴のままでよろしい』とヘタクソな字で書かれている立て札がまず目に入った。立て札に従い、遠慮なく靴のまま廊下へと進むと、今度は廊下に『ここで靴を脱いでくれたまえ』という立て札と共に、靴入れが廊下の壁に据え付けられていた。そしてその下にはマットとスリッパ。

 どうやら、噂以上の変人らしい。編集長は立て札に従ったのち、スリッパに履き替えて深呼吸をした。人間、何が恐ろしいって、自分の理解の範疇を越えたモノと相対する時が一番恐ろしいものだ。

 廊下を進み、突き当たりの部屋へと入る。テーブルも何もないひらけた広い部屋の真ん中に、木製の粗末な椅子に腰かけて、キャンバスを鬼気迫る表情で睨みつけている初老の男がいた。その横には、様々な種類の油絵具とパレット。件のエックス氏だ。


「お久しぶりでございます。わたくしは――――」


 編集長が当たり障りのないあいさつをしようとすると、


「なぜ私が三回目のインターホンに応じたかわかるかね?!」


 ぐるんっ! と勢いよく編集長へと振り向きながらエックス氏は言った。そんなことを聞かれてもわかるわけがない。変人の考えていることは変人にしかわからない。そして編集長は変人ではなかった。


「さ、さあ……わたくしにはちょっとわかりかねます……」

「なに? わからない? いや、そうだろうそうだろう。わかるわけがない。それがわかってしまえば、君も私と同じ次元にいることになる、それすなわち芸術の権化であり、天才の領域である。凡人などがいかように努力しようとも、決して到達のできぬ領域だ。いいか。なぜ私が三度目のインターホンに応じたかというとだな。君は三顧の礼という言葉を知っているか? うむ。知っているか。つまりは、その三顧の礼を実際に行ったというわけだな。もし、君が二度目のインターホンで帰ってしまったなら、私は二度と君のところの新聞とは付き合わなかった。だが、君は見事に三度目のインターホンを押し、ここに三顧の礼は達成されたというわけである。つまりは、君の誠意を見ていたのだよ、わかるかね?」

「そういうことでしたか。さすがは先生。深い考えをお持ちで」

「うむ。君が理解してくれたところで本題に入ろう。今日の用事は他でもない、私の画家人生の集大成とも言うべき作品が出来上がったゆえ、君のところの新聞からその発表をしてもらおうと思ったのだ」

「それはそれは、当新聞をお選びいただき、まことに光栄でございます」

「恐縮するのは私の作品を見てからだ。さあ、見てくれ。私の画家人生の集大成を!!」


 そう言って、エックス氏はキャンバスを指さした。はたして、今回はどのような難解な絵ができあがっているのだろうか。恐る恐るキャンバスを覗き込む編集長。そして、キャンバスに描かれていた作品を見て、思わず一言。


「……これが、そうでございますか?」

「うむ!! どうだ?! 素晴らしい作品であろう?!」


 感極まるといった様子のエックス氏とは対照的に、編集長は呆気にとられたように立ち尽くしていた。

 それは、エックス氏の作品が、誰がどう見ても、油絵具の試し塗りを塗り重ねただけのようにしか見えなかったからだ。しかし、あのエックス氏のことだ、きっと何かこの絵に妙な仕掛けか意味でもあるに違いない。そう思いなおし、しげしげとエックス氏の作品を見つめる編集長。

 しかし、何度見てもエックス氏の作品は油絵具の試し塗りにしか見えなかった。真っ白のキャンバスの上に、無造作に塗りつけられた様々な色の油絵具。エム新聞の学芸課につとめ、絵画一筋三十年。音楽や演劇にはうといが、絵に関しては誰にも負けぬ慧眼けいがんの持ち主である編集長だが、その慧眼をもってしても、やはりこれは油絵具の試し塗りだという認識しかできなかった。


「あの……先生。これは、その……」


 聞きづらそうに申し訳なさそうな口調で質問しようとする編集長に、エックス氏のすさまじい勢いの講釈が襲い掛かる。


「どうだね!! 私はこの絵で、民衆の心理を表現しているのだよ!! 見たまえ、この塗り重なった様々な色と色!! お互いがお互いを引き立てるどころか、お互いがお互いが塗りつぶしあっているだろう?! これぞ、現代人の在り様だとは思わぬかね?! 口では絆だ協調だなどと綺麗ごとをのたまってはいるが、その実、お互いを出し抜き合おうとしている浅ましい競争社会に生きる人間たち――――!! この絵は、そういう現代人の虚飾の建前を排除し、鮮やかな色彩でもって痛烈な現代の闇を表現しているのだよ!!」


 もっともらしいことを並べ立てるエックス氏。そう言われてみると、確かにそんな気もしないでもない――いやいや、そんなわけはない。これは油絵具の試し塗りに違いないはずだ。どうしたものかと悩む編集長。しかし、エックス氏の話はどんどん先に進んでいく。


「どうやら感動のあまり言葉が出ないとみえる。それも仕方のないことだ。君もいわば、現代人の一員だ。この絵を見た瞬間に、君もこの絵によって虚飾が外されてしまったのだろう。虚飾が外された人間はどういう態度をとるか? それは感動だ!! 虚飾の外された人間にできることは感動することだけがその存在意義となるのだよ!! さあ、早く君の新聞にこの絵の記事をのせたまえ!! 絵のタイトルは、そう――“現代人の虚飾”だ!!」


 この絵の記事を書けだと? とんでもないことをいいやがる。エム新聞は油絵具の試し塗りを芸術だとみなすのかなどと、方々からお叱りを受けるに決まっている。しかし、この場で断るというのも、今後のエックス氏との付き合いに大きな支障をきたしてしまう。さて、どうしたものか……。

 そうだ、ここは一度専門家にこの絵を評価してもらうことにしよう。そうすれば、きっとこの絵の本当の価値を見出してくれるだろうし、実際に油絵具の試し塗りにしか過ぎぬという評価をくだしてもらえたなら、責任を専門家におしつけることができる。うむ、これが上策だ。


「はい、すぐにでもそうしたいところでございますが、なにぶん、わたくしは先生のおっしゃる通り、感動のあまりに、この絵をどのような言葉で表現してよいのかわかりません。なので、ここは絵画の研究家の方にこの絵を見ていただき、研究家の方にしかるべきお言葉をいただこうかと思っているのですが、いかがでございましょうか?」


 この提案にエックス氏がへそを曲げてしまうかと思ったが、意外や意外。エックス氏は素直に、


「うむ。確かにそれがよかろう。ならばすぐにそう手配をしてくれたまえ!!」


 と、あっけなく納得してくれたのだった。ともかく、そうと決まれば思い立ったが吉日。早速、編集長は部下を呼び寄せエックス氏の作品を慎重に梱包し、そのまま絵画の研究家として名高いエス氏のもとへと向かった。

 エス氏が勤めている大学の研究室につくと、エス氏は編集長を笑顔で出迎えてくれた。


「これはこれは、お久しぶりです。今日は、どういったご用件でしょうかな?」

「実は、是非ともエス先生に見ていただきたい作品がございまして……」

「ほう? ということは、今あなたが手に持っておられるものがその作品でございますかな?」

「ええ。実はこの作品はエックス氏の作品でして……」

「エックス氏の?」


 エス氏は顔をしかめた。あの男は確かに天才かもしれぬが、とにかく作品が難解すぎる。

 正直なところを言わせてもらえれば、私はあの男の作品群になんら芸術的価値を見出せぬ。だが、いくら私がそういったところで、事実あの男の作品群は全世界で称賛を浴びているのは確かであるし、そんな男の作品群にケチをつけるというのは、まるで私が芸術を理解できていないように見られてしまうかもしれない。とにかく、触らぬ神にはなんとやらだ、適当な評論をしてお帰り願おう。


「では、拝見いたしましょう」


 梱包を外し、エス氏の前にエックス氏の作品を掲げて見せる編集長。


「これがそうなのですが……」

「こっ、これが、ですか?」


 編集長さんが私をかつごうとでもしているのだろうか? これはどう見ても、油絵具の試し塗りにしか見えぬ。こんなものが作品などとは言語道断だ。


「失礼ですが、本当にこれがエックス氏の作品なのですか?」

「ええ、そうです。なんでもエックス氏が言うには、これで現代人の心理を表現しているそうで……」


 エックス氏がのたまっていたことを、一言一句たがわずにエス氏に伝える編集長。う~む。確かに言われてみれば、そのように見えなくもない――いやいやまてまて、騙されてはならぬ。これはやはりどう見ても油絵具の試し塗りに決まっている。


「いかがでしょう、よろしければエス先生のこの絵に対する評論をいただけないでしょうか? そして、その評論を当新聞の一面記事として、この絵の写真と共に掲載をしたいと思っているのですが」

「ふむ。評論ですか。そうですか。ふむ」


 なんてことを言い出すのだ。こんな油絵具の試し塗りにしかすぎぬ、言うならばどんなウスノロにでも創作できる程度のものに評論などあるはずがない。しかも、この絵を芸術に秀でたエム新聞の一面記事にするなど、とても正気の沙汰とは思えぬ。

 しかし、臆面もなくそう提案してくる編集長を見て、エス氏はいささか不安になってきた。

 ひょっとすると、この絵には本当にそういう価値があるのかもしれぬ。私が今まであの変人の絵の評論を避けてきたせいで、この絵の価値を理解することができないだけなのか? なにせ、あの変人の絵は、今では一枚だけで家が建つほどの価値があるものだ。

 一度そのような疑心が生じてしまっては、さしものエス氏もこの絵がただの油絵具の試し塗りだと断言する自信がなくなってきた。そしてそれは、編集長も同じであった。

 さて、どうしたものか。エス氏は愛用のパイプに火をつけながら、なんとかこの場をしのぐ方法を考えた。そして、一つの案が浮かんできた。言うまでもなく、編集長と同じ案。つまり、責任を他の者におしつけることだ。


「ふむ。さすがはエックス氏の作品。作品の中に織り込まれた現代社会に対するアンチテーゼ、実に深い。現代社会はSNSなどによる繋がりだとか絆だとか言いますが、実際のところはお互いを自己確認のために利用し合う、いわば自己と他者の同一化を表現している。どうです、この絵を一週間後の世界絵画展に出展してみませんか? そして、他の評論家や、絵画展に来た一般の方に実際に目で見て評価していただく、というのがこの絵の価値にふさわしい方法かと思いますが」


 少し難色を示しかけた編集長だが、すぐに思いなおし、エス氏の提案にのることにした。なるほど、それはいい。そうすれば責任は一般人と評論家のお偉方連中に丸投げできる。新聞の記事も、エックス氏の作品が世界絵画展に出展されるということだけを書けばいい。


「ええ、それがいいでしょうね。さすがはエス先生です。では、ちょっとエックス氏に確認をとってみることにいたします」


 エックス氏のアトリエに電話をかける編集長。ふざけるな!! と一喝されるかと思いきや、エックス氏もえらく乗り気で、是非ともそうしてくれたまえと納得してくれた。いったい、どういう風の吹き回しだ。まあ、いい。これで責任は自分がとらなくても済む。


「エックス氏も、是非そうしてほしいとおっしゃっておりました。では、よろしければ、エス先生も御一緒に世界絵画展の会場までまいりませんか? そこでよろしければ絵画展を主宰する評論家の方々にこの絵の魅力を共にお伝え願えませんでしょうか?」

「ええ。いいですよ」


 そうして、編集長とエス氏は世界絵画展の会場となっている美術館へと訪れた。絵画展の準備をしているスタッフに、エックス氏の新作を展示してほしいという旨をつげると、スタッフが奥から何人もの高名な絵画評論家たちを引き連れてきた。その中の一人が編集長に名刺を渡して話しかける。


「これは予想もしなかったサプライズです。まさか、かのエックス氏の新作を、この絵画展にて発表できるとは。先ほどまで、一同で話し合っておったのですよ。今回の絵画展の目玉となる作品をどれにするかとね」

「なるほど、それはまた良いタイミングでございました」

「では、早速で申し訳ないのですが、エックス氏の新作とやらを拝見させてもよろしいでしょうか?」

「はい。こちらです」


 そう言って、エックス氏の作品の梱包をといて掲げる編集長。それを見た絵画評論家たちは声をそろえて、


「こっ、これが、そうなのですか?」

「ええ、そうです。これがエックス氏の新作でございます」

「初めて見た時は、私もみなさんと同じような反応をしてしまいましたが、よくよくみると、なかなかどうして、とても深くて哲学的な作品ですよ」


 エス氏がそう言っても、絵画評論家たちにはエックス氏の作品がどう見てもただの油絵具の試し塗りにしか見えなかった。


「いかがでしょう。エックス氏の新作、展示してはいただけないでしょうか?」


 これを展示しろだと? こいつらは気でも触れたのか。

 絵画評論家たちが、どのようにして展示を断ろうかと考えていると、編集長が、エックス氏によってこの絵に織り込まれたメッセージを一言一句たがわずに絵画評論家たちに伝えた。

 そう言われれば、確かにそのように見えなくもない――いやいや、まてまて、そんなわけはない。やはり、これは誰がどう見ても、油絵具の試し塗りにしか見えぬ。こんなものを世界絵画展に展示するなど、世界絵画展に出展する他の画家に対しても申し訳が立たぬ。

 となれば答えは決まった。丁重にお断りするとしよう。そう決意した絵画評論家たちに、編集長がちょっとしたいきさつをこぼした。


「実は、こエックス氏はこの絵にとても満足している御様子で、この絵こそが自分の画家人生の集大成だと高らかに申しておりました」


 なんだって? あの変人の集大成だって? となれば、これは弱った。もし、この絵の展示を断ってしまえば、あの変人によってどんな攻撃を受けるかわかったものではない。それに、今やあの変人は世界中に名を轟かす、現代美術の第一人者。その人物の作品の展示を断ったと知られれば、世論から受ける批判はすさまじいことになるだろう。

 さて、どうしたものか。絵画評論家たちは、編集長とエス氏に少々お待ちを、と告げて、円陣を組むようにして相談を始めた。そして、やがて一つの結論に達した。


「わかりました。エックス氏の画家人生の集大成とあらば、きっとこの絵には計り知れないほどのメッセージ性がこめられているのでしょう。そのような作品こそ、一般の方に見ていただき、そして評価していただくこそが、最も肝要なことだといえるでしょう。今回の絵画展の目玉作品として、このエックス氏の作品を大々的に紹介させていただくことにいたしましょう」


 もっともらしいことを言っているが、つまるところ、編集長とエス氏と同じ、責任の丸投げ。我々評論家が素晴らしいと言っているのだ、この作品こそ、至高の作品である。それを来場者が理解できないのは、来場者に見る目がないからである。そういう言い分で押し切ろうとする腹積もりなのだ。

 かくして、エックス氏の作品“現代人の虚飾”は、世界絵画展の目玉作品として大々的に宣伝され、展示されることになった。

 会場の一番目立つところに“現代人の虚飾”は飾られることになり、その横にはこの作品が何を表しているかというエックス氏の言葉が掲載され、さらに絵画評論家たちのもっともらしい評論がいくつも載せられた。


 そして、世界絵画展の開催日がやってきた。

 これまで何度か開催されてきた世界絵画展の中でも、今回の世界絵画展の来場者数は、頭一つ抜きんでるほどの大勢の来場者数であった。もちろん、来場者たちの目的は、大々的に宣伝されていた、稀代の天才であり奇才と名高いエックス氏の作品“現代人の虚飾”である。

 一体、どんな作品だろう。あのエックス氏の集大成となれば、それはもう度肝をぬくような作品に違いない。来場者たちは、一様にそのような期待を抱きながら、エックス氏の作品の展示室へと足を運んでいた。


 そして展示室に入り、エックス氏の作品を見て度肝をぬくのである。なんだこれは。落書きか? こんなものが、あのエックス氏の作品か? 馬鹿にしているのか?

 抱く感想は三者三様ながらも、共通しているのはエックス氏の作品が理解できないということだ。

 だが、そんな来場者たちも、エックス氏の作品の横にある作品の説明と評論を見ると、そのような感想を一転させ、知ったふうな顔をしての賛辞の嵐。さすがはエックス氏だ。これぞ現代芸術の到達点。我々などには、思いもつかぬ深い考えをお持ちだ。

 結局、エックス氏の作品“現代人の虚飾”は方々からの圧倒的支持を得ることになり、世界絵画展の終了した後は、国立美術館にて展示されることが、絵画評論家たちの間で決定した。その旨を、絵画評論家たちの代表がエックス氏に電話にて伝える。

 賛辞を交えながら、とくとくとエックス氏に“現代人の虚飾”が国立美術館に展示されることが決まったことを伝える評論家の代表。そんな評論家に、エックス氏は得意気にこう語った。


「そうしてくれたまえ!! 実に素晴らしいことだ!!」

「そう言っていただけると、こちらも嬉しいものです。つきましては、後日、先生にちょっとしたスピーチをお願いしたく……」

「日程が決まり次第、教えてくれたまえ!! すまないが、ここで失礼させてもらうよ。創作の途中なのでな!!」


 そう言って叩きつけるように受話器を置くエックス氏。その表情は不敵なものであった。そして、狂人のように大笑いを始めた。


「芸術のなんたるかも理解のできぬウスノロどもめ!! 私の油絵具の試し塗りを、ついに国立美術館に展示するなど言いおった!! 私が描いたという事実だけに囚われ、真贋を見抜けぬ阿呆共!! まあ、中にはアレがただの油絵具の試し塗りにしか過ぎぬと気づいたものもいることだろう。だが、現実はどうだ?! 誰もそのことを口にすることがなかったではないか!! 奴らは恐れたのだ!! 責任をとることを!! そして流されたのだ!! 事なかれ主義という、もっともくだらぬ思想に!! そして、私の名前という虚構に!! これぞ“現代人の虚飾”といえるだろう!!」


 半狂乱になりながら、エックス氏は真っ白なキャンバスに、でたらめに筆を走らせていく。

 “現代人の虚飾”よりも、もっとひどい色遣いのこの作品の名はなにがよいだろう。そうだ“芸術の落日”なんてのはどうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

抽象画 日乃本 出(ひのもと いずる) @kitakusuo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ