第16話

 空を見上げると、それは綺麗な満月だった。

 漆黒のキャンバスに堂々と聳える丸い光は、どこか後ろめたさのような陰りを帯びていて、高潔であっても、潔白は有りきれない様子が、逆に清楚に見えて美しかった。

 巴月は立ち止まり、少しの間、ぼうっと空を見つめていた。

 夜の風は、もう随分と涼しくなって、うっかり薄着で出歩けば肌寒さを感じることになる。

『この季節は、急に寒くなったり、あとは、電車の中の冷房が強すぎることもあるから、羽織れるものを常に持って歩くといいよ』

 この前聡介に言われたことを思い出す。

 その忠告を守って、巴月は薄手のカーディガンを持ち歩いている。そのせいで、バッグも普段より大きめのものを使う羽目になっているのだ。

 巴月はそっと、それを取り出す。

 淡いピンクのニットカーディガン。自分なら、おそらく選ばないであろうその色は、いつか欠落から戻った時に、聡介に買ってもらったものらしい。

 着慣れない色に戸惑いながらも羽織ってみると、それはなんだか、思った以上に暖かかった。

 いつか――。

 いつか自分の欠落が治り、普通の人間に戻ったら、ただの女性として平凡な生活を送るのだろうか。

 間に合う歳なら、進学して、就職して、結婚して、家庭を持って。

 そんな未来も、あるのだろうか。

 巴月は考えてみたが、全く想像できなかった。

 巴月は思う。

 思い起こしてみても、自分にはおおよそ普通の子らと同じ生活などというものが、ほとんどなかった。

 少なくとも、物心着いた時からすでに彼女は、この地を統べる四方院、央城家の長女、家督相続権第一位の央城巴月だったのだ。

 最初から、同じ位に立つ者などいなかった。

 それは家柄であり、血筋であり、才能であり、運命ですらあった。

 私は、いつだって独りだった。

 ふと、気配を感じたのは、その時だ。

 巴月の前方十数メートルほどのところ、その人影は突然現れた。

 街灯の明かりに僅かに照らされているその人物は、恐らく自分と同じ位の歳の男で、背もそれほど高くはない。

 一瞬にして、巴月の体に力がこもり、一気に場の空気に緊張が走る。巴月が構えるのには、理由がある。いくら少しぼうっとしていたとは言え、この夜中の、こんな静かな場所で、目視するまで他人に気づかなことなど、ありえない。音、気配、匂い、気の流れ、どれかに気づくはずなのである。

 それなのに、この少年と言えなくもない男は、突然目の前に現れた。

(こいつ、何者?いつからいたの?)

 巴月はそっとピアスに手をかける。

「あなた、普通の人間じゃあないですよね」

 そう声が聞こえた方向に、巴月は驚いた。その声は、彼女の後ろからしたのだ。ほんの一瞬、背後に気を回したスキに、前方にあった人影はなくなっている。

(瞬間移動?いえ、高速移動というべきかしら?でも――)

 自分が感知すらできない早さなど、そうそうあるものではない、と、巴月は考え、素早く一つの結論に至る。

 彼は、魔法使いではなかろうか。

「推測しているところ悪いですが、多分、あなたの考えは違っていますよ」

巴月の体はこわばる。

 それもそのはず、後ろにいたはずの少年が突然目の前、三メートルと離れていない距離に現れたのだ。

 それは暗闇に光が当たるように、一瞬で、突然に忽然と。

「朽ちゆく月(ディスペア)」

 巴月は唱える。

 この状況は明らかにおかしい。種も仕掛けも、何もかも分からないのだ。ならば、この視界に入る全てのものを攻撃してみるしかない。幸い、『朽ちゆく月』は生物には効かない。この少年を殺さずに能力を殺すことができるかもしれない。

 目を凝らすように力を入れる。

 薄く黄色い視界が広がり、やがて、変化が訪れる。

「……!?」

 巴月は驚いた。

 世界が、溶けたのだ。

 まるで撮影セットの壁に、硫酸でもぶちまけたような、目にしている世界が溶けて、崩れて、朽ち果てたのだ。

「あなたはボクを魔法使いだと思っていますね」

 声の方向は右斜め後ろ。先ほど声が聞こえてきた場所だ。

 巴月は限定解除で、体を翻し、少年と距離を取りつつ向き直る。

「って、あれ?どうしてボクの位置が?ボクが見えているんですか?」

 少年は少し目を大きくて驚くような仕草をしてみせたが、とりわけ動揺しているようには到底見えなかった。

(こいつ、本当に何者?それより、さっきのあの溶けた世界はなに?)

 巴月の『朽ちゆく月』は生物以外の時間を極所的に進めることができるが、だからといって、この世界そのものや、空間そのものの時間を進めることは出来ない。では、先ほどのあれはなにか。

「すごいですね。その黄色い目。そうですか。その目が作用して、ボクの力を無効にしたんですね。邪眼ですか?魔眼ですか?」

 朗らかに笑顔を作りながら、そんなことを言う。この少年のそんな余裕とも言える態度が、巴月は奇妙でならない。

(この男、危険だ)

 巴月の顔つきが変わる。

 足はやや肩幅に開き、少し上体は低めに。視線は鋭く相手を見据え、聴覚をはじめとするあらゆる感知器官を研ぎ澄ます。そして、周囲に放つ、殺気。

 制限解除。

 巴月は自分の肉体が活性化するのを感じる。体内と体外に生まれる時差を感じる。潜在能力が異常に高い巴月の“制限解除”は、際立って強力である。普通の人間や聡介のそれと比べても格段に早く、格段に強い。

 空気との摩擦を感じながら、巴月は走り出す。

 二秒で間合いを詰めて、首に手刀を一撃。狙いは外さない。

 武道だけではなく、人体学にも精通している巴月にとって、一撃で人を気絶させるのは難しいことではない。

 間合いは詰まった、このまますれ違い際に決める。

 そう思い、手を振り抜いた刹那、彼は動いた。

 手刀は空を切り、巴月は目標を見失った。体を反転させ、急いで振り返ると、少年もこちらに向き直るところだった。

「おお、怖い。すごく早い制限解除ですね。普通の人より、全然早いや」

 そんな風に言う彼を巴月は睨みつける。

「あなた、何者なの?」

「ははは、やっとまともに会話してくれた。いやね、ボクは魔法使いじゃない。欠落者ですよ。あなたもそうでしょう?同じですよ。同じ」

 ニコニコとすらしながら言う少年。

 巴月は全く警戒を解かずに対峙する。

「制限解除という名前を知っているという事は、誰かの弟子?」

「それも違います。ほんの少しの間だけ、魔法使いに教えて貰っていただけですよ」

 それを聞いて、巴月はマズいと思った。

 この少年はおそらく言うとおり、魔法使いではない。しかし、彼のバックに魔法使いがつているとなると、いつ干渉してくるかも分からない。もしその魔法近いが、あの柊千亮レベルの魔法使いだったとしたら。そうしたら、私は負けるかもしれない。

 巴月の脳裏にそんな考えがよぎる。

「そんなに警戒しないでくださいよ。今日が初対面で、殺したりなんかしませんから。ただ……」

 相も変わらず穏やかな表情で少年は言うと、すっと何かを投げる動作をした。

「!」

 その感覚。僅かな空気の流れや、風切り音、微かな殺気を感じて、巴月はとっさに体をそらす。それはもう『何か』を本能で感じ取る、反射的な動き。

「痛(つう)っ!」

 鋭い痛みと共に、『何か』が通り過ぎた左腕の外側に、一本線が入る。パックリと割れたカーディガンの袖の奥で、皮膚に赤い筋が入り、やがて真紅の液体が流れる。

 四センチほどの鋭利な刃物傷。もちろん深くはないが、確実に切られたあとである。

 どうやら、躱しきれなかったようだ。

 巴月は考える。

 彼の手には、何も握られてはいなかった。

 しかし、彼は何を投げる仕草をして、その直後、『何か』が迫る感覚がった。そしてそれは、今こうして、自分の左腕に損傷を与えている。

 彼の能力だろうか。見えない何かを扱う能力。例えば、見えない刃物を創りだすような異能だとしよう。だとしたら、慣れるまでは厄介だ。得物の形も長さもわからないとなると、それは避けにくい。しかも、その長さや出現、消失を自在に調整できるとなると、分は更に悪い。

「少し、様子を見たいだけです。あなたの力、どれほどまでの脅威かというところを、ね」

 言いながら、また少年は何かを投げる仕草をする。両手を交差するように振り抜くと、また小さく、風切り音がなった。

 巴月は目を凝らす。

 やはり目視はできない。

 感覚を研ぎ澄ませ、今度は逆方向に大きく避ける。

 大丈夫。今度は回避に成功したようだ。

 斜め後ろで、コンクリートに金属的なものが接触する音がした。刺さったのか、転がったのは、分からないが――これだけはわかる。やつは、刃物か、もくしはそれに準ずるものを投げている。地面に接触する音がしたということは、間違いなく、具現化する異能だろう。でも、おそらくそれだけではないはず。自分の予想もつかない能力を何か持っていそうな予感が、巴月にはあった。

 ならば――、

「凍てつく太陽」

 小声で呟く。見据えている少年の姿が、うっすらを寂しい青色を帯びる。

 この少年は多分強い。そうでなくても、戦い慣れしている。自分の能力の使い方も知っている。欠落もそれなりのものだろう。ということは、狂気もそれ相応ということだ。

 人の道を外れた、人ならざるもの。ならば、報いも仕方なかろう。

 巴月はこの少年を殺すことにしたのだ。

「どうしました?目の色が変わりましたね」

 彼の言葉に巴月は反応しない。代わりに、彼を見つめたまま、軽くフットワークを刻む。攻撃を仕掛ける前準備のフリ。巴月の「凍てつく太陽」は、生物にのみ効果を発揮し、しかも発動から発現までに最低でも十五秒以上を必要とする。戦闘中に連続して十五秒視界にいれ続けるには、中々に慣れとコツとテクニックがいる。

「一つ、聞いておきたい」

「なんですか?」

「お前は、誰の命令で動いている?」

「誰でもないです。ボクはボク自身の意思で動いています」

「目的はなんだ?」

「暇つぶし、のようなものですかね。娯楽の一種です」

 ふざけてた答えだが、彼が欠落者ならば、一番納得のいく答えでもある。

「もう一つ。死ぬ覚悟はあるかしら?」

 巴月が聞くと、少年はクスリと笑った。

「死ぬのに、覚悟なんていりませんよ。ただ訪れる。それが死です。そこには何の意味も、尊厳すらない。ただの現象です」

「そうか」

 巴月がステップを止める。

「おや、どうしたんです?戦意喪失ですか?」

「いや。そうじゃない」

 もう二十秒が経過している。

「もう、終わっているのよ」

 巴月は言った。『凍てつく太陽』はもう発動している。彼は視界に入り、条件は満たされた。巴月の『太陽と月(オッドアイ)』はどちらも絶対干渉の能力。能力自体を防ぐ能力でもない限り、効果は必ず発現する。それが、巴月の異能の強さでもある。

「何が、終わっているんですか?」

 彼の声が、後ろから聞こえた。視界に捉えていた少年は消え、気配は後ろに感じる。振り返ろうとした巴月の左肩に衝撃と激痛が走った。

「ぐっ!」

 無我夢中で飛び退くと、少年の姿が見えた。まただ。さっきまで目の前にいた彼は、瞬間移動で後ろにまわり、巴月を攻撃した。しかも、彼が話すまで後ろに回られたことに気づけないのだ。どんなからくりだろうか。巴月は痛む左肩背面を右手で押える。出血だ。何か鋭利な刃物で刺された傷だ。深さは四センチほど。骨や筋は無事のようだが、自由に動くレベルではない。

(マズい。彼の能力がいまひとつ解析できない。いや、何かぼやけているような、見当違いな憶測をしているような感じ。それに……)

 巴月は眉を顰ませた。もうとっくに、『凍てつく太陽』は発現している時間のはずだ。だが、彼には動きが鈍った様子も、体が凍り始める予兆すらない。時間は十分に条件を満たしているはず。ならば、なせ?巴月の中に焦燥が生まれる。

「残念ですね。もうあなたの『眼』の力は通用しません」

 三度、彼の姿が消えた。激しい衝撃が、延髄を襲った。巴月の意識が遠のく。あまりに早く、正確な手刀だった。膝から力が抜け、巴月の小さな体がその場に倒れ込んだ。

「さようなら、央城巴月さん。また、お会いしましょう」

少年は終始穏やかな表情を崩さなかった。ただ純粋な狂気のみが、彼の周りを取り巻いていた。

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