第11話

ふと目が覚めて、自分の部屋ではない光景に少しだけ戸惑うが、すぐにそこがどこなのかを理解する。

 この殺風景でシンプルすぎる部屋は、彼女の部屋だ。カーテンの隙間から漏れた月明かりでぼんやり明るい室内をくるりと見渡して、僕は手の感覚に気づく。僕の右手は、小さく細い手に握られていた。

 手を握っているのはこの部屋の主で、彼女は今、ベッドで眠っている。僕は起こさないようにゆっくりと手を離すと、しびれている足に気をつけながら彼女の寝顔を見つめた。

 ミディアムストレートの焦げ茶の髪と人形のように整った顔。見ているだけで吸い込まれそうになるほど奇麗だ。沸き起こる邪な感情を振り払って、僕はそっと彼女の髪を撫でた。それに反応するように、彼女は小さく声を漏らす。起きたわけではない。無意識に反応しているだけだ。

 本来なら、どんなに仲が良くたって、僕が巴月の部屋に泊まることはない。巴月はあまり気にしないようだが、僕が困るからだ。僕だって健康な二十歳の男子。こんなに奇麗で、こんなに無防備な女性を相手に、理性が持つ保証なんてどこにもない。まして、その子に恋愛感情があるとしたら、間違いなんてないわけがない。

こんな状況になったのには、きちんと理由があるのだ。

 先生に言われて以来、僕は大学が終わると骨董店に来て巴月と共に訓練をしているわけだが、今日の昼ごろに突然巴月が倒れた。

 原因はなんとなく分かっていた。

 彼女が戻ってきたのだ(・・・・・・・・・・)。

 倒れた巴月を抱え起こすと、すでにその違いは明らかだった。

『あ、聡ちゃん。私……』

 不安そうな、泣きそうな顔でそう言った。

 僕を『聡ちゃん』と呼ぶのは、央城巴月の本来の人格だ。今、この時の彼女こそ、元々の央城巴月なのだ。

 巴月の欠落は存在。思考から、趣味趣向、彼女を司るあらゆる情報の欠落。しかし、その欠落はあまりに大規模すぎて、欠落ではなく存在の消失、もしくは変換になってしまう。そこで、彼女には妙なルールが科せられているのだ。

 それは、月に一度のペースで、その存在を取り戻すということ。取り戻すことで思い出し、その後の欠落で自分という『存在』の欠落を意識付ける。そうすることで、彼女は永遠に本来の自分を忘れることができず、新しい自分を形成して生きることもできない。消失感と満たされなさを抱いたまま、中途半端なアイデンティティの行き来を彷徨い続ける。『慣れる』と言う人間の性質を見越しての能力が与えたルールなのだ。

 それが、毎月十日前後にくる。時間にして長くて三日、短ければ半日ほど。いつもの無感情で無感動な彼女は一時的に消え去り、喜怒哀楽豊かな十七歳の央城巴月になる。

 彼女たちは、記憶や情報は共有できるが、感情を共有できない。厳密に言うとかなり違うのだが、表面的には二重人格と似た症状に見える。

 一人の人間そのものを否定するほどの欠落は、規模の面でも条件の面でも稀であり、その分彼女の異能も特殊だった。

 それは邪眼。魔眼とも呼ばれる特殊な力を宿す目。しかも、彼女の場合は一つではない。先生の話だと、彼女には四つの邪眼があり、その全てをほぼ自分の意思でコントロールできるらしい。だが、完全ではないため、感情の高ぶりなどでうっかり発動してしまうこともある。そこで、先生は邪眼をコントロールするために、言霊と精神の制約と物理的な枷で三重の鍵をかけた。スイッチと言ってもいいだろう。感情に流されず、冷静に手順を踏むことで、はじめて発動できるように。

 しかも、四つの邪眼のうち、危険な二つは先生が魔法で封じたのだ。そのため普段使えるのは、見つめたものを凍らせる『凍てつく太陽(サロウ)』と、見つめたものの時間を急速に早める『朽ちゆく月(ディスペア)』だ。細かく言えば、その二つにも使うには条件がいる。

 あの楽観主義で自信過剰な先生が、こんな厳しい制約を作ったところを見ると、彼女の異能がどれだけ危険で、どれだけ強力かがわかる。

 まぁ、それはいいとして。話がそれてしまった。

 そんなわけで、彼女は自分を取り戻す時、意識の混濁や記憶の行き違いなどが原因で、寝込むことが多いのだ。

 巴月と知り合ってもう三年。

 僕は、幾度となくこうして倒れる彼女の姿を見てきたが、その度に自分の無力を痛感する。僕には、何もしてやれないのだ。だからせめてこうして、彼女の側で手を握っているくらいしかできない。

「ん……」

 巴月のまぶた僅かに痙攣し、やがてゆっくりと開く。

「やあ、巴月、起きたかい。気分はどう?」

 まだ寝ぼけている様子の彼女に問うと、ぼうっと僕のことを見ていた目に光が灯る。

「聡ちゃん……。あ、やだ、寝起きの顔なんて見ないで」

 彼女は顔を背けた上に、手で覆い隠した。普段の巴月とはまったく違う反応に、わかっていても戸惑ってしまう。

「大丈夫か、巴月」

「うん。気分はいいわ。でも慣れないものね。存在の消失なんて」

 彼女は上体だけを起こして言う。

「慣れさせないためのシステムなんだから、仕方がない」

 僕が言うと、彼女はこちらの顔を覗き込むように見詰めて、

「そんな悲しそうな顔をしないで」

 と言った。

「私は、自分をそれほど不幸だとは思っていないわ。もちろん、平凡な人生に憧れはあるけど、それは私が欠落者にならなくても、手に入らなかったものよ。央城家という絶対のルールに縛られて、そのレールの上を走るだけの道具。そのレールから外れるには、国家クラスの味方をつけるか、死ぬしかない。そう考えると、欠落者になるという選択肢は、それほど悪くないように思うの。おかげで私は勘当されることも、命を狙われることも、央城家に圧力をかけられることもなく、このレールから脱線することができた。ちょっと反則だけど、それは唯一の手段だったのかもしれないわ。そして何より、あなたに逢えた。私が央城家に縛られていたら、たとえ出逢えたとしても、ここまで近付くことはできなかった。それは奇跡のようなことよ」

 いつもに増して思う。央城巴月という少女は、楚々として凛として美しい。確かに、彼女がこの立場に居なければ、僕たちは出逢うことはなかっただろう。僕の恋も、決して届かぬ御伽噺だったはずだ。でも、少なくとも僕は今、彼女の近くに居られる。彼女の側で見守ることができる。それだけで、十分すぎるほどの奇跡だ。

「でもね、その反面申し訳ないと思うの。あなたは本来、通常の理の中で生きるべき人。こちら側に居ても、何一つ良いことなんてないもの。私のため、なんて思えるほど高慢ではないけど、聡ちゃんがこちら側を生きる理由のほんの少しでも私が担っているのなら、それはどう謝っても償いきれないことだわ」

 巴月は視線を落として、物憂げな表情になる。せっかく自分の存在を取り戻している時に、そんな顔はしないで欲しい。

 それに、彼女は勘違いをしている。

 僕があえてこの非日常の世界を、ズレた世界を生きているのには、きちんとした自分の意思があり、理由があるのだ。その一つに、巴月のことを含まれてはいるが、僕は同情や義務や、安っぽい正義感から彼女の側にいるわけではない。

 この世界に生きることでしか、巴月との強い接点を得られないからである。

 彼女の側に居られるのなら、僕はどんな危険な状況にでも飛び込む。

 それが、僕の覚悟だから。

 そして、いずれは欠落者の治療。欠落部分の修復を実現させてみせる。巴月を、元のただの少女に戻してやりたい。それが、僕の生きる目標であり、糧なのだ。

 僕はその為に先生の小間使いをしている。巴月の欠落を治すには、異能をもつ欠落者を専門に研究する魔法使いが絶対不可欠なのだ。

「僕は僕の意思でここにいるんだ。どんなに危険でも、常識の範囲から外れていても、僕にはここに居なくちゃいけない理由がある。ここでなくちゃ生きられない理由があるんだ」

 巴月の手を少し強く握りながら、僕は言った。

「そうだ、明日どこかに出かけないか?」

「どこかって?」

「どこでもいい。一緒にご飯を食べて、散歩をして。デートだよ、デート」

 言ってから、その言葉に恥ずかしくなった。

 戸惑ったような、驚いたような顔をしていた巴月だったが、やがて優しく微笑むと、

「そうね」

 と答えた。

 この約束の意味を、僕たちはよく知っている。

 守られないかもしれない約束。彼女が彼女で居られるのは、最高でも三日。しかし、その殆どが二十四時間を下回る。いつ、どのタイミングで再び欠落するかもわからない。だから、明日の約束など、守られることの方が少ない。

 それでも、僕は巴月と約束をする。

 僅かな間でも良い。ささやかで平凡な日常を取り戻そうとの、願いを込めて。


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