第9話

狡猾な青の藍(前)



 少し寂れたドアを、礼儀正しく二回ノックする。五秒待っても何の反応もないので、ドアノブを捻ってみると、案の定鍵が掛かっていた。仕方がないので、僕は合鍵で錠を開け中に侵入する。

 八畳ほどの事務所には、窓が一つしかなく、真昼だというのに丁寧にブラインドが下ろされているため、部屋の中は薄暗い。僕はドア横の蛍光灯のスイッチをオンすると、書類が山積みになったワークデスクと、それに連結されている本が山積みのパソコンデスクと、来客用の低い長テーブル、それを囲むように三人がけのソファが二セット見えた。壁際には本棚があり、室内は窮屈なイメージがある。

現在誰もいないこの部屋は、どんなに掃除しても埃っぽさが消えてくれない。それも、この部屋の主が、僕が掃除する片っ端から書類やゴミや、古書の埃で汚していくからである。

今日も僕の仕事は簡単な部屋の掃除と整理整頓から始まるようだ。

どう見てもただ乱雑に置かれている本や文房具だが、散らかした本人はその所在を全て把握しているらしく、勝手に片付けると何がどこに有るのか分からなくなるそうなので、掃除するにしてもコツがいる。

まずは全ての順番、位置を記憶する。

そして、それらを移動させて掃除する。角を揃えたりはしても大丈夫なので、埃や汚れの掃除以外はそういう整理だけして、重なっていた順番と場所に元通り戻す。

これで完了。

全体のごちゃごちゃ感は変わらないが、小汚さと埃っぽさは消えた。うん、これでいい。あとは窓を開けて換気しながら、お湯を沸かす。コーヒーにしても日本茶にしても、とりあえずお湯は必要だ。

 と、不意にドアがノックされた。

「はい、開いてますよ」

 僕が答えると、きっかり二秒後にノブがガチャリと回される。現れたのは、小柄で無表情な、けれども恐ろしいほどに整った顔の女の子だった。

「ああ、巴月。おはよう、今日は早いね」

「おはよう。何だか早く目が覚めてしまったの。二度目も寝付けなかったから、たまには早く来てみようかと思って」

 特に表情を変えずに、彼女は言った。

 彼女は、もともと央城財閥と言うこの土地では一番の財閥令嬢なのだが、訳あってワンルームマンションで一人暮らしをし、こんな寂れた事務所に出入りしている。何事にも動じない、というか、感情が薄く日常の出来事では表情もほとんど変わらない。俗っぽくなくて、人間っぽくもない。その上百五十五センチという小柄に、非常識なほどの美人とくれば、まさに作られた人形のようだ。自立稼動していなければ、確実に人間のカテゴリーから外れるだろう。

「そうか。先生はまだ来てないよ。昨日は夜遅かったみたいかだから、多分地下で寝てるんだと思う」

 僕が言うと、巴月はコクリと頷いた。リアクションがあるだけ、今日は反応がいいといえる。そのまま彼女は歩いて来て、来客用のソファに腰掛けた。レースをあしらった白いブラウスと黒いスカートは、どちらもヒラヒラがいっぱいで、女の子らしさを通り越して、すでに軽いコスプレにすら見える。ゴシックロリータとかいう特殊な服装の流れも少し感じる。まぁ、中身がいいだけに何着ていても似合うんだろうけど。

「コーヒーがいい?それともお茶?」

「ハンドドリップしないなら、お茶がいいわ」

 わかった、と答えて僕は急須を準備する。部屋の奥は給湯室になっていて、水が使える。ここでコーヒーや茶の準備や洗浄を行うのだ。

「柊、起こしてくる」

 抑揚のない声でそう呟くと、巴月はすっと立ち上がった。

「ああ、じゃあ、よろしく頼むよ。戻るまでにお茶を入れておく」

 彼女はまたコクリと頷いて、パタパタと部屋をあとにする。本当、今日の巴月は、人間らしくて良い。満月が近いからというのはあまり関係がないのかもしれないが、特定の日以外に彼女が央城巴月に戻る良い前兆になれば、幸いだ。

 央城巴月。

僕が、人生で初めて本気で心を奪われた少女。

目が覚めるほどの美人で大金持ちの家の娘で、人殺しで欠落者だ。

 常に感情が著しく希薄な少女は、月に一度、満月の日の前後に普通の人間に戻る。それは、あらゆる感情に始まり、性格、人格的な央城巴月のパーソナリティが戻ってくる。多重人格のようなものだが、それとは根本的に概念が異なる。

 彼女のような人間を、僕らは『欠落者』と呼ぶ。喜怒哀楽の欠落、危機感知能力の欠落、感覚の欠落、その症状は千差万別だが、対価として彼、彼女らは人外の力を得る。人外の力は使用する者の優越を招き、やがて貪欲を引き寄せ、狂気に走る。狂気は人の心を侵食し、ゆくゆくは必ず人間のカテゴリーから除外される。そうなれば、誰かがそれを排除せねばならない。

 人外の有り得ざる力の悪戯な漏出と狂気に走った欠落者への対応が僕の働いている事務所の仕事というわけだ。言ってみれば、警察の特殊部隊と探偵と相談所を足して割った感じだ。

 ふと足音が二つして、次の瞬間案の定ドアが開いた。

「あー、聡介君、来てたのかい。早いな」

 入ってきた男は実にけだるそうな声で言った。

少し長めに整えられたシルバーグレーの髪に青い瞳、それでいて顔立ちは全くの日本人。三十代ほどの見た目だが、雰囲気はどこかそれよりも上に見えるこの男は、一応、名を柊千亮と言って、この事務所の経営者であり責任者で、僕たちの雇い主で、さらには師であったりもする。だから、僕は先生と呼んでいる。

寝起きのはずなのに、パリッと糊の効いたワイシャツとしわ一つないスーツのスラックスといういつもどおりの格好をしているあたり、改めて抜け目のない人間だ。

「おはようございます、先生。緑茶ですけど、飲みますよね?」

 僕が聞くと、「ああ」と答えて、先ほど僕が片付けたワークデスクの前に腰を下ろす。先生の後から静かに入ってきた巴月が、僕に一番近い席に座る。

「夕べは何をしていたんです?」

「調べものだよ。ちょっと古い知り合いから、遠まわしな挨拶をされたものでね。どんな奴だったか、記録を、ね」

 目の前に置かれた湯飲みを啜りながら、先生は言う。

 先生は、正体不明の人間だ。いや、人間かどうかも怪しい。『欠落者』の対応を主とするこんな事務所を開設しているだけでも十分怪しいが、それに加えて、超常的な出来事に関して異常に詳しく、あまつさえ、魔法のようなものまで使える。彼曰く、自分はもともと今で言うドイツあたりの人種で魔法使いで、時限式の転生術をつかって現代に生まれたとか。元来の自分に似せるため、髪を銀に染めているらしいが、目はなんとカラーコンタクトではなく、自前だという。

 いろいろ胡散臭いことだらけな人だが、僕と巴月にとっては偉大な恩人である。こうして曲がりなりにも僕たちが人間らしく生きていけるのは、この人のおかげなのだ。

 概念で成り立つこの世界で、概念から除外された僕たちは、離脱してしまった存在だ。そんな僕たちが生きられるのは、日常でも平凡でもない。除外された世界なのだ。

「それにしても、最近やたらと多いな。佐賀仁美の事件に始まって、この二ヶ月で三件だ」

 机の引き出しから分厚いファイルを取り出して、先生は言う。あのファイルは、うちで扱った『異端者』もしくは『欠落者』に関する事件の資料が綴じられているものだ。

「たしかに、ここのところは妙に多いですね」

 相次ぐ『推定自殺』事件から一月半ほどの間に、この手の事件の依頼は二つあった。いつもは三ヶ月に一回あればいいほうなのに、この数は確かに多い。だが、僕はそれを大して重要には思っていなかった。タイミングが重なっただけだと。

「この世の中に、偶然はなく全ては必然であると、どこかの妖しい美人なお姉さんも言っていただろう?そのとおりさ。この世界に単なる偶然など、万に一つあるかないかくらいさ」

「誰ですか、そのお姉さんって。じゃあ、先生はこれが必然だと?」

「ああ。誰かが意図的に欠落者を作っている」

 その言葉に、僕は思わず眉を顰めた。

「作っているって、そんなことできるんですか?」

「いや、少し語弊があるな。異端者の背中を押す、といった方がいいか。そもそも、人間の常識や良識っていうのは、自我や欲求の制御によってなんとかバランスを保っているものだ。つまり、一見穏やかで安定しているようなごく普通の人間でさえ、もともと不安定な状態で辛うじて静止しているに過ぎない。そのぎりぎりのバランスを横から押したらどうなるか。答えは簡単。崩れる、だ」

 おどけたような表情をしながら、先生は言った。

「けど、その横から押すということがなかなかできないようになっているのが、この世の中のというか、人間社会のうまい仕組みでね。幼い頃から刷り込まれてきたモラルや常識、それらが形成する自制心というものが、一番崩れやすい部分を隠しているんだ。だから、普通に生きていても、そのバランスが崩れることは、思いのほか少ない。その中で、運悪くバランスを崩してしまった者、または崩されてしまったものが異端者となり、異能への憧れや可能性を求め始める。そこに、更なる一押しがあれば、彼らは欠落者となる」

 先生は、いつも言う。正気と狂気の間には、紙一枚ほどの差しかないと。その紙一重のどっちに転ぶかで、大きく違ってくる。

「でも、意図的に欠落者になるように促して、なにをするつもりなんですか?もともと欠落者の類は、自分の欲求に忠実になりすぎた者がほとんどで、他者の言うことを聞いたりはしない連中が多いんでしょう?」

 僕は言った。彼らに組織活動は難しい。個々の主張が強すぎて、組織として纏らないのだ。

「別に直接命令するだけが、操る方法とは限らないさ。何らかの間接的な方法で操るか、それ自体が能力の欠落者なら、十分にあり得る」

 先生の目が酷く冷たいものになる。

 確かに、その可能性はある。

欠落者の能力には、直接戦闘的なものが多く、特に攻撃系のものが非常に多い。それは、人間の本質が争いであり、攻撃性であるということが根底にあるからだ。また、怒りや憎しみ、悲しみから起こる激情には必ずと言っていいほど、対象を傷つける、殺す、あるいは屈服させるという願望が含まれるのも、攻撃的な能力になりやすい要因の一つだ。

 そして、次に多いものが、特別な執着から発現する能力。固執する事柄、性癖、こだわりやトラウマから発生するものがそれで、たとえば、死体を長期間保管する能力や、血を飲むことで身体能力が上がるなど、その執着の仕方によって能力は様々だ。だが、これらはその目的を達成するためだけに特化することが多く、応用の利かないものが殆どらしい。先の『推定自殺』の犯人も、限定解除しか使わなかったという話をきくと、この部類だったといえるだろう。ちなみに限定解除は、能力には入らない。欠落者のいわば副産物のようなものだ。

「でも、他人を支配するような能力、前例はあるんですか?」

 僕は聞いた。

「そうだな。俺は百人以上の欠落者を見ているが、支配系の能力は二人だけ。一人は人間の死体のみを操れる死体愛好家(ネクロフィリア)、もう一人は自分の意識を分裂させて憑依させ無機物を操る人形使い。その二件だけだが、いや、これでも十分に支配系の能力があると断言できる。そもそも、欠落者という存在自体が謎に包まれているのだから、どんな可能性があっても不思議ではないさ。むしろ、己の価値観で決め付けて戦うことの方が危険だ」

 僕の淹れた緑茶を飲みながら、先生は言った。

「憶測でものを話しても意味が無いわ。捕まえて、直接調べればいいのよ」

 ずっと黙っていた巴月が、いつも通りの冷ややかな顔で言い放った。

「捕まえるって、その操っているやつをかい?」

 僕が巴月に言うと、先生が横から割って入った。

「いや、無理だろうね。まだ仮定の段階だが、俺の読みが正しければ、黒幕はこっちと同業だ。それも相当用心深い。遠まわしに遠まわしに仕掛けてくるところをみると、狙いよりも自分の安全を第一に考えているようだ。そいつを見つけ出すのは骨が折れる」

 先生はオーバーリアクションな外人のように両手を左右に開いて方をすくめる。

「じゃあ、どうすれば?」

 不満げにつんとして巴月が言う。

「そう焦るな。向こうにも目的があるはずだ。そして、その目的達成のためには、俺たちのような存在は邪魔なはず。となれば、黙っていても仕掛けてくるさ。俺たちは、ああ、特に君たちは、せいぜい負けないように訓練しておくことだ」

 へらへらとした表情で言っているが、きっと真面目な話だ。

 確かに、巴月の運動神経はプロスポーツ選手並みだし、戦闘センスもずば抜けている。特に制限解除をすれば、常人ではプロの格闘家であってもまったく相手にすらならない。同じ制限解除を使う欠落者を相手にしても、まず負けない。しかし、その相手が魔法使いだとすると、戦闘は未知の領域だ。どんなことが起こるか、何の攻撃をうけるか、その対処法もさっぱりだ。それはいけない。僕たちも何らかの対抗策を身に付けておかなくてはならないだろう。

「相手が魔法使いだとすると、僕たちは不利ですよね」

「ああ、そうだな。君たち二人はね」

 先生は悪巧みをしていそうな嫌な顔で笑った。

「ま、それでも、きちんと魔術を習った魔法使いなら、魔法が満足に使えない弟子に魔法で攻撃は仕掛けてこないはずだ。弟子をやるってことは、師匠に喧嘩を売るってことだからな。しかも一応魔法使いのルール違反にもなる」

 魔法使いには明確なルールがあり、それ以外にも暗黙のルールというものも無数にあるらしい。破ったからどうと言うことはないが、それ相応の報復は覚悟しなければいけないという。それに魔法使いは誇りと美学を大事にするらしいので、そういう意味でもその心配は薄いようだ。いや、だからこそ、なのか。

「そうか。欠落者なら、ルール違反にならない。だから、欠落者を作っているのか」

 先生を見ると、彼は頷いて目を細めた。

「巧妙だろ?で、多分そいつは囁くんだ。力の使い方教える変わりに、一つだけ約束を果たして欲しい、と。接触してくる者は殺せとね。俺たちのような存在は、欠落者にとっても邪魔だからな、利害は一致する。そうすれば、操るのは別に難しいことじゃない。操られている感覚すらない」

 十分に冷めたお茶を一気に飲み干すと、先生は背もたれからずり落ちるようにだらしなく脚を投げ出した。そのまま天井を見上げる。

「つーわけで、聡介君。君は制限解除の訓練だ。そして巴月嬢、君は魔法の種類と対処法を覚えておくといい。もともと君の絶対干渉は、うまく使えば魔法そのものにも対抗できる力だ」

 先生が言い終えるかどうかのうちに、巴月が口を開いた。

「嫌よ。面倒くさい」

 即答だ。

「そういうと思ってね。メニューは極力減らしておいた。聡介君はともかく、巴月ちゃんのやることは一つ。魔法を見る訓練だ」

「魔法を、見る?」

「そう。本来目視できるようなものではないけど、それが見えたなら、君の『朽ちゆく月(ディスペア)』で魔法を無力化できるかもしれない。いや、あくまで仮定の話ではあるがね」

 それを聞いて、巴月は小さな口をきゅっと噤んで考えていた。そして、

「いいわ。それで魔法使いと対等に戦えるなら、面白いわね」

 僕はため息をついた。

 先生の煽りもやめて欲しいが、巴月はもっと女の子らしくしているべきだ。多少おてんばでもいい。でも、血を求めたり、魔法使いと殺し合いを望んだりはしないで欲しいものだ。

 そんな僕の気持ちなど、彼女はきっとこれっぽっちもわかっていないのだろう。いや、それか分かっていても、分からないふりをしているのか。

 そんなことを考えながら、僕はごく偶然にカレンダーを見た。

 十月の十日。

 十日、か。

 僕は視線を巴月へと向けた。そろそろ、彼女が彼女を取り戻す時期だ。

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