第6話
手元の写真を見て、私は舌打ちをした。
犯人だと渡された写真は、一週間前に聡介が置いていった写真の少女だった。仁美に似ている長い黒髪と白い肌は、彼女と同一になりたいと願望の現われだったのか。
私はいささか、興奮状態にある。理由は二つ。
一つは聡介が被害にあったこと。
もう一つは、犯人の彼女がなかなかいかれた精神の持ち主であるということ。
大丈夫。もうすぐに、その狂気を食い尽くしてあげる。あなたがいくら常識から外れていても、まだ本物には程遠いということを教えてあげるわ。
書かれた住所に着いてみるとそこには大きな一軒家があった。洋館とも呼べるくらいの屋敷だ。しかも立地が独特で、駅からも住宅街からも離れ、山へと通じる森の入り口付近にぽつんと立っているのだ。
屋敷の部屋はほとんど暗かったが、二、三、明かりのついているところもあった。ということは、居る、ということだ。
私は気配を消して敷地内に入る。訓練や修行レベルで武道を習っていた私は、身体能力や感覚が飛びぬけている。忍者のように気配を消すことはもちろん、相手の気配を感じることも出来る。
そこで、ふと私は考えた。こそこそとする必要はない。そもそも、どうやってこの屋敷に侵入しようというのだ。私は人とは外れているが、鍵師のような専門技術もなければ、ピッキングの方法も知らない。かといって、客を装ってドアを開けてもらうのも少し違う。
手には大きめの金槌。
私はドアの前に立ち、その取っ手を見詰める。カチリ、と頭の中で音がする。視界がうっすらと黄色く寂れる。
「朽ちゆく月(ディスペア)」
私は呟く。
複雑な生物とは違って、物体は能力が利きやすい。
高級そうな銅色のドアノブは、見る見るうちに酸化が進み、やがて見た目だけで分かるほどボロボロに老朽化した。
私は金槌をドアノブ目掛けて振り下ろすと、ドアは鍵ごとあっけなく白旗を揚げた。ガキンという大きな音がしたが、関係ない。
いわば挨拶がわりだ。侵入者が、おまえを倒しにきたと、宣戦布告しているのだ。
屋敷内に入ると、出迎えたのは威圧感だった。さっきの音でこの屋敷の主は気づいたのだろう。その敵意、殺意、伴う威嚇、威圧が、空気に乗ってなんの遠慮もなく伝わってくる。
思わず、口元が緩む。普通の人間には到底出せないこの狂気的な波長には、いつも心が躍る。私ではない私が、このイカレた空気を渇望しているのだ。こういう時、私はよく、吸血鬼のことを考える。ファンタジーマニアではないが、有名な怪物の話はそれなりに知っている。もともとの吸血鬼はどうか知らないが、どうやら世間一般では、吸血鬼の吸血行為は、食事とは少し違う概念を含んでいるように見える。なくては生きて行けないが、それを食事と同一化している話は意外に少ない。普通に食事もした上に生き血も吸う、というのが多いようだ。私はそれに自分の状況を重ねる。
私にとって、この狂気と渡り合う行為は、自分と言う存在の意味を失わないための、生きる糧なのだ。もっというなれば、食欲、性欲、睡眠欲といった、基本的な欲求の一つと化している。
突き刺さるような空気の中、明かりの殆ど無い廊下を歩いていく。
来るなら、どう来るか。慎重に姑息に、狙撃やトラップなどの奇襲作戦でくるのか、それとも、正々堂々と正面対決を挑んでくるか。
感覚を研ぎ澄ます。
人間も制限をはずし、元来の力を解き放てば、犬にも負けない嗅覚がある。建物のにおい、食べ物のにおい、細かいものを上げれば、きりがない。ふと、私は人間の匂いを感じた。知らない匂いだが、人間のものであることは分かる。そして、それはこの一階の奥の方からしている。外からみた明かりの位置もそうだったが、はやり彼女は一階の奥にいるのか。私はそのままさらに感覚を澄ます。うっすらと知った匂いもする。聡介のものだ。まとめて一階にいるようだ。
私は左右と前にある三つのドアから、正面のものを選んだ。かすかに水の音が聞こえるということは、この奥にトイレかバスルームもあるということだ。
ドアをあけると、廊下は更に続いており、部屋が三つあった。一つはおそらくバスルーム、あとの二つは寝室かなにかだろうか。手前のドアからはやはり水の流れる音がする。
ゆっくりとノブを回す。鍵はなかったようで、ドアはすんなり動いた。ほんの少しだけあけると、私は思い切り、ドアを蹴り開けた。こんなところを聡介に見られたら、またうるさく言われるのだろう。女の子がドアを蹴破るなとか、なんとか。
ドンッという小気味の良い音がして、勢いよくドアは壁にぶつかり、反動でいくらか戻ってきた。トラップはない。それを確認しながら入った時、私は内心、小さく息を呑んだ。別にたいしたことではない。きっと驚いたわけでも、動揺したわけでもない。ふと、不意をつかれただけだ。
目の前には、女性が壁にもたれて座っていた。
一糸纏わぬ姿で、右の手首を浴槽につけている。
そう、あの写真のカラーコピーと同じ光景だ。女性の容姿、体系、体勢、何もかもが同じだ。違うのは、バスルームの背景だけだ。
「不法侵入の上に、部屋まで荒らす気?」
私は振り返った。一瞬の虚に、背後を取られるとは不覚だ。
「邪魔はしないでね。その子、もう手遅れだから。今から救急車呼んでも、輸血には間に合わないわ。失血性のショック状態だし」
廊下に佇んでいたのは、少女だった。黒い髪と白い肌。背は低めで美人ではあるが、なんとも妙な感じがする。
表情、目、彼女の周りの空気が、淀んでいる。それは紛れもなく、狂気。
「あら、どんな人がきたのかと思ったら、可愛らしいこと」
私は無言のまま、少女を見詰める。
「聡介はどこだ?」
「聡介?ああ、あの探偵さん?まったく馬鹿よね。なんの力もないくせに、一人でここまで来るなんて」
にやりと少女が笑う。
私の中で、冷たくも強い衝動がこみ上げる。
次の瞬間、体が勝手に動いていた。一歩で素早く間合いを詰め、余裕の笑みを見せる少女の頭を正面から掴む。
しかし、私が掴んだのは、虚空だった。
笑い声がして、廊下の左を見ると、先ほどまでこの場所に居た少女が同じように立っていた。瞬間移動。傍目には、そう見えるかもしれない。だが、違う。
一瞬だけ感じた、気の波動。柊に言わせると「魔法」の波動。とは言っても、移動そのものが魔法ではない。彼女は早く動いただけだ。とてつもなく早く。
「凶暴なのね。もしかして、あの探偵のカノジョ?」
「聡介はどこ?」
「ここの突き当りの奥の部屋よ。あなたのおかげで、手間が増えたわ。死体を二つも処理いなくちゃいけない」
二つ?死体を二つ?
この女は、何を言っているのだ。
「彼の死体と、あなたの死体の二つよ」
ざわざわと、耳鳴りがする。鼓動がうるさい。血流も、呼吸も、感情も、全部がうるさい。その自らの騒音の中で、感覚は異常なほど研ぎ澄まされていく。
私は、頭にきている。いいえ、もう十分にキレてしまってよい状態だ。感情が昂ぶり過ぎて、制御がきかなくなりつつある。駄目だ。本能だけで戦ってはいけない。それは自滅を意味する。
私は少女を見詰めたまま、心中で呪文を唱える。
我は死。
凍て付く静寂。
冷たい沈黙。
侵食する絶望。
或いは、果てに停滞する無。
あなたは誰?
私は誰?
それはきっと、誰でもない。
それはきっと、存在しない。
私は誰?
それでも、誰かであることが必要なら――。
答えよう。
私は、極寒と冥府の女王。
「聡介を、殺したの?」
自分でも怖いくらいに落ち着いた声だ。大丈夫。私はもう、冷静だ。冷静に考え、冷静に行動し、冷静に激憤する。
手には金槌。カジュアルドレスのような格好。おそらく、とてつもなく冷たい表情。きっと無関係の人間が見たら、なんと奇妙な光景だろうか。ある意味では、滑稽な格好とも言える。
「さあね。意識はなくなっていたみたいだけど」
楽しそうに答える少女。
「殺したの?」
またも私は冷静に問う。すると彼女は口を笑いに歪ませながら、
「ええ。思い切り頭を殴ったから……、」
言い終わらないうちに、私は手にしていた金槌をバスルームの方に投げつけた。
肉と骨の潰れるような鈍い音がしたが、私は少女から目を離さない。少女の表情が変わったのは、その時だ。
「あんた、なにやっているのよ!」
私は二メートルほど後ろに下がる。バスルームへの道をわざわざ開けてやったのだ。
「聡介の頭を殴ったのよね?なら、おあいこね」
少女は血相を変えて、バスルームに駆け込む。私がいるのもすでに無視だ。
「きゃあああああああ!!!!!!!仁美、仁美がぁ、仁美の顔がぁぁぁ!」
バスルームの自殺死体、佐賀仁美の頭蓋には、私の投げた金槌がめり込んでいることだろう。確認しなくても分かる。私のコントロールに狂いはない。
死体を傷つけても罪になると言う話を聞いたが、そんなことどうでもいい。多少の違いはあるが、聡介がやられたことを、同じくやってやっただけだ。
「あんた、何してくれてんの!」
半狂乱の少女には、少し前のあの余裕はどこにもなくなっていた。
「ああああ、やっと、やっとこの子を私のものに出来るところだったのに」
泣いているのか、怒っているのか、恐らくそのどちらもであろうが、目の前の少女は完全に取り乱している。
「顔がこんなに、ああ、頭にも」
私は嘆いている少女を、ドアから眺めた。丁度、さっきとは立場を入れ替えて同じ構図だ。佐賀仁美であったはずの死体の額には、酷く陥没したあとがあった。目は無事だったようだが、これではすでに、破損した死体だ。この少女は、おそらく彼女の剥製のようなものを作ろうとしていたようだが、これは致命的だ。大事な顔の部分が、破損してしまったのだから。
「許さない」
鬼のような形相が、私を睨む。更に空気は淀み、少女からは負の波動を感じる。いわば、殺気。
おぞましいはずの気迫だが、私には威嚇の意味すら持たない。この殺気こそが、この狂気こそが、私に生の実感を与えてくれる。存在を欠落した私の存在を、ちらりと垣間見せてくれる。それは存在できるということ、生きていると証明されること。
なんて心地がよいのだろうか。
彼女は「許さない」と言った。なんて身勝手な言い分だろう。無関係の人間を三人殺し、聡介を殺し、愛しいものまで殺した。それなのに、お気に入りの死体を壊されただけで、許さないとは笑ってしまう。私は笑いを堪えるのに苦労した。なんて面白い。なんて低級な笑いだろう。しかし、残念だけど「許さない」のは、私も同じ。「許さない」なんて口にできないほど、私は彼女を許さないのだから。
普通とは違う。狂っている。この世界を生きるために、自分に言い聞かせてきたこと。認識することで自己抑制する。だが、気分が高まると改めて、思う。私は狂ってなどいない。何一つ、間違っても、狂っても、異端ですらない。私にとって、これは純粋に沸き起こる感情、衝動。
この目の前の人間の、恐怖に怯える姿が見たい。そしてそのためなら、同じだけの恐怖を味わってもいい。その程度のリスク、いくらでも背負ってあげる。この子の狂気が、震えて凍えて、許しを請い、絶望する瞬間を見たい。その先にある悲しみと憎しみの絞りカスを奇麗に舐めとってあげる。
少女が立ち上がる。立ち上がると同時に、姿を消す。否、またあの高速移動だ。しかし、見える。油断がなければ、私の動体視力ならば、目で追える。反応も出来る。
ゆえに、彼女の拳は当たらない。それにしても、こんな少女が拳で殴りかかってくるなど、なんとも優雅ではない。美しくない。
私はそんな風に考えながら、身をかわす。かわした瞬間に、飛び掛った体勢から体を斜めに回転させて蹴りがくる。器用なものだ。遺伝子が戦うという本能を覚えているのか、本来なら知り得るはずもない攻撃を繰り出してきている。人の本質にあるのは、争いだ。それは人間が持つ絶対数保存の法則。同属同士で行う人口調整。それが戦いだ。
少女は少し驚いた顔をしたが、すぐに体勢を立て直すため、後ろに飛ぶ。これでまた、さっきと同じだ。私がバスルーム付近へ奥を向き、奥からは少女がこちらを睨む。この狭い廊下で、いったい何をしているのやら。
私はじっと彼女の目を見詰めた。
そのせいか、彼女もうかつに次の攻撃を仕掛けてこない。先ほどの一撃をかわした私に、疑問と危険を感じ、様子を見ているのだ。
戦闘訓練を受けていない素人にしては、聡明な判断だ。本来なら――。
私は、ゆっくりと準備を始める。この力は生物に対しては、やや面倒な制約がある。だが、条件さえ満たしてしまえば、回避不可の絶対干渉。因果を捩じ曲げることすら出来る。この少女を、ただ殺すことは可能だ。格闘能力も経験も、私の方が優れている。だが、それでは駄目だ。彼女が死を認識しないうちに逝ってしまう。大事なのはプロセス。死までのわずかな間にこそ、死の認識があり、そこに死の恐怖がある。生への執着と、渇望がある。
モラルを壊し、良心を無視し、カテゴリー、概念すらも否定した狂気。自己の欲望に忠実で、どこまでも自分勝手で利己主義であった傲慢なる狂気が、全てを奪われ畏怖する瞬間。その瞬こそが、私の存在を実感できる時。
「その狂気、凍らせてあげるわ」
私は静かに目を閉じた。
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