第2話

推定自殺 (前)

 インターホンが鳴るより先に、ドアの向こうの廊下に響く微かな足音で、私は来客を予知する。五感の中でも、私の聴覚は特に研ぎ澄まされていて鋭敏だ。よく知っている人間なら、足音だけで誰だか分かる。今日の足音もよく知っているもので、ほんの少しだけ、かかとをするような歩き方。それでいて、ここをたずねてくるような人間は、一人しかない。

 私はそそくさと、グレーのフレアスカートを履いた。相手が相手だし、別に私は構わないのだが、その『相手』はだらしない格好には五月蝿いのだ。

「おう、巴月。ご飯は食べた?」

 ドアを開けると案の定、予測どおりの人物が予測どおりの笑顔で、粗方予測どおりの言葉を口にした。

 名前は浅岡聡介(あさおかそうすけ)。

その風貌は、一言で言うと好青年。目つきは少し鋭いが、笑っていればこれ以上ないほどの善人面だ。髪は程よく短く黒色で、それに統一されるかのように黒のシャツとブルーグリーンのジーンズをはいている。色使いは暗いが、彼の人相が、その暗さを感じさせない。

「朝は食べたわ。それに、夜もこれから食べるところよ」

 私は言った。そっけなく聞こえるらしいが、そっけなくないものの言い方というのが、私にはまだよくわからない。

「だめだよ、巴月。朝は食べたっていっても、どうせ機能性食品だろ?カロリーバーとか。エネルギー量は取れるからそれで十分、なんて間違いだよ。バランスが大事なんだ。それに、食事はカロリー摂取以外にも、大事な意味があるんだから」

 彼は言いながら、両手に持っていたスーパーのビニール袋を私のほうに差し出す。

「これは重いから、そっちだけ持って」

 軽いほうだけ私に持たせると、彼は靴を脱いで部屋に上がった。

 そのまま、横のキッチンまで行ってシンク手前の調理スペースに袋を置くと、慣れた手つきで白ワインと生ハムを冷蔵庫に入れる。野菜はすぐ使うつもりなのか、その場に出されていた。

「今日はちゃんと服を着てるんだね、えらいえらい」

 私の格好を見て、彼は言う。

 部屋では、下着の上にTシャツか柔らかく着古したワイシャツ一枚という姿が基本だが、その格好のままで出ると、彼はものすごく怒る。こっちとしては、誰が訪ねてきているかは分かっているわけだし、そんな格好を聡介に見られても、別になんということもないのだから、構わないというのに。私は世間一般の常識には疎いところがあるらしいから、なんともいえないが。

「今日は夏野菜と生ハムのぺペロンチーノを作ります」

 手を洗うとそう宣言して、聡介は包丁やらまな板やらを準備する。ワンルームの八畳のこの部屋で、冷蔵庫の一部と冷凍庫、そしてキッチンは、九十パーセント浅岡聡介が支配権を握っている。  

私は料理をしない。料理をしないということは、調味料から始まって、炊事に必要な全てのものは、私に無関係のものとなる。それでも、あらゆる調味料や料理道具が揃っているのは、こうして毎日のように聡介が食事を作りに来てくれるうちに、彼が少しずつ持ち込んだからだ。今では、まるで自炊しているような錯覚にさえ陥るほどに完備されている。

「巴月は、座ってていいよ……って言っても、もとより手伝う気はないか」

 聡介は苦笑いをしながら、ズッキーニとナスを刻んでいく。その間に大鍋にお湯を沸かしているあたり、手際がいい。

「あ、はい、これ。これで、テーブルだけ拭いておいて」

 まだ立って見ていた私に、彼は台布巾を渡す。これで、部屋の中央にある低い丸テーブルを拭けという。まぁ、それくらいなら、しないでもない。

 私は言われるがままに受けとって、テーブルを拭いた。きちんと隅々まで拭く。きっちり拭かないと、聡介は文句を言う。男の癖に細かいところがあるが、それも彼の個性だ。

 それからしばらく、私は部屋の端に横付けされているベッドにうつぶせになりながら、料理をしている聡介を見ていた。

「ああ、そうだ、巴月。最近この付近で起きている事件、知っている?」

 こちらに背を向けたまま、聡介は話を切り出してきた。言いながらも、フライパンを器用に振って、野菜を炒めている。パスタソースを作っているようだ。コンソメの匂いと白ワインの香りがふわりと立ち込める。

「事件?」

「そう。ほら、浴槽で手首を切って死んでいる事件。この二ヶ月間で三人死んだ、あれさ」

「女子大生の連続自殺でしょう。関係のない一人暮らしの娘が、三人とも同じ死に方で自殺しているという」

 それなら、聞いたことがある。同じことが短期間に三人も続いたんで、気味の悪さを面白がってメディアが挙って取り上げているニュースだ。以前流行った集団自殺とか、宗教的な問題か、なんて論点から関連性が調べられているのは確かだけど、それほど大きな話には、まだなっていない。事件と呼べるかどうかも怪しい。

「君はどう思う?」

 未だに背を向けたまま投げかける聡介。

「どうって、わからないわ」

 私がそう答えると、彼はやっと、意外そうな顔でこちらを見た。

「おや、この件に関しては、興味なしかい?珍しいね」

「だって、自殺なんでしょう?私は自殺に興味はないわ。生きていることが素晴らしいとは思わないけど、死にたいとも思わないもの。ただ、生きているのだから、生きていることの実感が欲しい。存在していることの実感がね。それだけよ。死ぬということそのものに関する興味もあまりないわ」

 私は言った。生きる喜びや何のために生きるのか、なんてことは、正直わからない。生きることそのものにも、それほど執着はない。しかし、だからと言って、死にたいとは思わない。生の苦痛は十分すぎるほどあるが、その解決が死にあるとも思えないのだ。

「そうか。それじゃ、これ、見てみて」

 ひと段落したのか、火を止めてこちらに来る。シャツの胸ポケットから一枚の紙を取り出して、私の前に置いた。

 写真のカラーコピーのようだった。ああ、と私は思い出す。聡介の大学の教授は犯罪心理学の権威で、警察に協力することも良くあるらしく、この手の部外非情報を手にすることが出来る。その教授に絶大な信頼を得ている聡介も事件解決に協力することが多く、結果、極秘の資料を見ることが出来る。妙なコネクションだ。

 バスルーム。赤く染まったバスタブに片腕だけつけてその横に全裸で倒れている女性。おそらく絶命しているのだろうけど、なんというか、それ以上に――。

「奇麗ね。整っている、というべきかしら」

 私は答えた。遺体の写真を見て言うべき感想とはあまりにもかけ離れているのはわかるが、事実私が写真に写っている蒼白な死体から感じるのは、凄惨さや残酷さ、悲壮感などではない。死体は静かに目を瞑り、血の抜けきった白い両足を投げ出すように座しているのだ。表情にも、髪にも乱れはない。これには、ある種の美しさがある。

 私の答えに聡介は、やっぱり、という顔する。

「巴月もそう思うだろう。僕もそう思ったんだ。確かに、自殺だとしたら、生の悩みから開放されるわけだから、穏やかな顔にもなるだろうけど、それとは、また別な気がするんだよね」

 至って爽やかに微笑みながら、聡介は顎に右人差し指をかざす。このポーズは、聡介が考え事をする時の癖だ。

「意図的に、整えられた。奇麗に、殺された?」

 私の呟きに、彼の目が一瞬、鋭く光った。

「そう。その可能性も、否定は出来ない」

「自殺の状況は?」

「お、興味が出てきたみたいだね」

 聡介はそう言うと、身を翻して再度キッチンに向かう。大鍋の湯が沸いたようだ。二人分のパスタを目分量で取り出すと、放射状に鍋に入れる。その後に塩も加えて、軽くかき混ぜた。

「睡眠薬を通常の二倍服用した後、多量のアルコールを摂取、泥酔状態になった後に、手首を切って湯を張ったバスタブにつけ、時間が経って失血死。一見、自殺として穴が無いようにも見えるけど、他殺だとしても穴がない。多少の工作は必要だけど、犯人の大きな目的は殺すことよりも、『何が起きても目覚めない程度に眠らせること』なわけだから、殺すより証拠が残りにくい」

 聡介は鍋をかき混ぜながら、時折パスタを一本掬っては食べてみる。硬さをみているのだ。彼は料理にこだわりがあるらしく、何かと凝ったものを作りたがる。スパゲティのゆで方も、アルデンテとかいう僅かに芯が残る状態がベストというのも、すでに料理の常識らしい。

「他の写真はないの? 他の、自殺者の」

「あるよ。それが一人目。で、こっちが二人目、その下が三人目」

 聡介はまたこちらに来て、ポケットから写真のコピーを二枚取り出した。はじめから三枚とも出さないあたりが、彼らしい。

 私はコピーを受け取り、眺めた。思った通りだ。どの写真の女性も同じ体型、同じ髪型、おそらく背も変わらないだろう。それに、一人目より、二人目の方が、更に小奇麗に死んでいる。三人目は、もっとだ。

 これではっきりした。これは、自殺ではない。

「聡介、これはやっぱり」

 言おうとすると、

「はい、ちょっとタイム。出来たよ、パスタ」

 そう言って、皿を二つ運んできた。夏野菜のなんたら、が出来上がったようだ。フォークとグラスも並べられて、聡介は冷蔵庫から白ワインを取り出す。先ほど料理にも使ったので、口はあいていた。ワインをグラスに半分くらい注ぐと、「はい、召し上がれ」と彼は微笑んで言った。

「どうかな、結構自信作だけど」

 彼は私が食べるのを待っているようで、自分の皿にはまだ手をつけようとしない。私は「いただきます」を言って、フォークを持った。手際よくパスタを巻きつけ、口に運ぶ。聡介曰く、『優雅に暮らしていた』時の記憶はほとんど無いが、体に染み付いた作法などは自然と出るものだ。

「おいしい」

 そう言うと、聡介は「良かった」と笑い、やっと自らも食べ始めた。

「それで、なんだっけ?」

 私はふと首を傾げたが、それが先ほどの会話の続きなのだとすぐにわかった。自分から会話を中断しておいて、また自分から始める。自分で気づいていないが、彼は結構そういう勝手なところがある。

「これ、やっぱり殺人事件みたい」

 私の結論に、彼も「だろう?」と言って頷いた。頷いた拍子に、巻きつけていたパスタがスルリと抜けて、皿に出戻った。彼はあまり、フォークの使い方がうまくは無い。巻きつけるのにも時間が掛かるし、巻き付け方も下手だ。だから、少しの衝撃や角度で絡めたパスタはすぐ落ちる。その代わりと言ってはなんだが、箸の使い方はとても美味い。豆だろうが里芋だろうが、卵だって、殻のまま箸で掴むことが出来る。

「でも、別に憎くて殺しているっていうわけでも無さそう」

「そうだね。だけど、以前外国で流行った、同じ容姿の人間ばかり狙う連続殺人のようなものとも、僕は違う気がする。もっと、なんていうかな……」

 聡介は言い淀んだ。きっと、しっくり来る言葉を探しているのだ。

「殺意がない。殺すことを楽しんでいるようにも見えない。でも、自分の意思で殺しているのは、きっと間違いない」

 この写真の死体の違和感は、おそらく九割以上が、それなのだ。事象には、必ずと言っていいほど、思念が残る。それが、命のやり取りがあったような場合なら、なおさらだ。自殺や事故には最後の意志が残り、怨恨殺人には殺意が、快楽殺人には狂気が残留する。人はそれを、少なかれ多かれ、感知する。この死体たちを見て、誰も自殺と疑わなかったのは、そこに一欠片も殺意や狂気が残っていなかったからであろう。

 だが、こうして現場の写真を冷静に見ると、何か違和感がある。とはいえ、その些細な違和感を捉えられる人間自体少ない。大抵は自殺とされた結論に、疑問は抱かないものだ。

 しかし、私は違う。どういうわけか、私には直感やら予感やらという第六、第七感という未知の感覚があるらしい。霊感とも、少し違う。私のはそんなにぼんやりしていない。詳しいことは、私にもわからない。しかし、確かなのは、私が決してどこにでもいる普通の人間のカテゴリーには入らない、ということ。私は、この世界からズレている。

「殺意が無いっていうのはぴったりだね。じゃあ、なんで殺したりしたのかな。何かどうしても殺さなくてはいけない理由があった?犯人もやりたくてやったんではないのかも」

 真面目な顔でそう言う聡介。誰でも悪人とは決め付けない彼の考え方は、偉大だと思うが、同時にどこまでお人よしなのか、と心配を通り越して苛立ちさえする。私は、ティッシュで口元を拭うと、グラスに口をつけた。甘くフルーティで、さっぱりした飲み心地。ワインのことはよくわからないけど、これはおいしいと思った。

「それは違うわ、聡介。殺意を抱かない人間は、本来人を殺せない。殺人とはいかなる場合であっても衝動を伴うものだから。事故でも過失でもない人殺しに殺意がないということは、ある意味それこそが異常であることを証明しているわ。殺意が無い……、この犯人はこれを殺人だとすら思っていないということよ。なんの目的があるかは知らないけど、人を死に至らしめる行為に何の躊躇いも感情も持っていない。人を殺す、ということに、恐ろしく無感動で無関心なの。少なくとも、この無関係の女性たちの死に関してはね。だからこの写真は自殺にしか見えない。そして、事実上は犯人どころか、殺人の要素すら尻尾を出さない。つまり暫定的、もしくは推定的に自殺となってしまう」

 私は言った。

「推定的な自殺、ね。自殺であるからではなくて、自殺を否定できないから、自殺ってわけか」

 聡介は納得したように頷いた。この緊迫感のなさも、彼の独特の雰囲気の一つだ。

 私には、だんだん見えてきた。この事件の異常性が。三人も人を殺しているのに、殺すことには無関心。では、犯人は何をしているのだろうか。

 と、そこまで考えて、

「でも、聡介。もしこれで、犯人の目的がわかったところで、どうするつもり? 警察は、もう自殺で解決しているのでしょう」

 そうなのだ。この事件を調べなおしたところで、それを警察がまともに取り合うとも思えない。もともと、感覚に依存する情報が多いのだ。

「大丈夫。ここからは、柊骨董店が介入するから。それに、実はもう調べ始めているんだ」

 聡介はにやりとした。この男、見た目は善人で、多分中身も善人で、一般常識と良識の模範のような部分があるのに、たまに非常識を通り越した突飛でもない行動をすることがある。この善人面の為、人脈もあり、信頼もある。このせいで、あらゆるコネクションがあるわけだが、そのコネクションを惜しげもなく使うと、警察と探偵を足して二で割ったような情報力がある。

それに加えて『柊骨董店』だ。

この店の表向きは古びた骨董店だが、専門に扱うのは魔術や魔法に関する世界のアイテムで、裏では探偵まがいのことも請け負っている。その骨董店のアシスタントというのが、聡介の本職なのだから、始末が悪い。私の認識する浅岡聡介という人間は、もっと堅気の、平凡だが着実な仕事に着いているイメージがあるのだが、それがなんともギャップだ。

「そしたら、丁度気になる被害届けが出ていてね。ストーカー被害だって。市内の大学に通う女子大生から。どんな子かと思ってみたら、これ」

 聡介はまた、ポケットから写真コピーを取り出す。いったい、彼の胸ポケットには何枚の写真が入っているのだろうか。

「これは……」

 受け取って見てみて、私は驚いた。

 長い黒髪に、細身で色白な女性。そう、今までの死体と特長が似通っていた。

「なるほど。そういうこと」

「ああ。問題はそのストーカーなんだけど、それに関する情報が貰えなくてね。いや、むこうにも実際にないのかもしれないんだけど。だから、とりあえずその子から調べてみようと思ってね。運がよければ、一発で犯人を釣れるかもしれない」

 聡介は、何食わぬ顔で言う。まったく、自分がしようとしていることが、どれほど危険なのか、彼はきっとわかっていない。彼には確かに人脈もあるし、機転もきく。観察力や洞察力も高いし、武道をいくつもやっていたらしいので、格闘能力も低くはないだろう。しかしそれでも、むしろ、そんなことは関係ないくらいに土俵が違うということを、理解していない。いや、理解しているのに、それに関わろうとするのだ。

 これは、狂気の世界だ。

 狂気の前で、正気は何の役にも立たない。そして、どう頑張ったところで、浅岡聡介に狂気はない。彼には、狂気から己を守る術が無い。

 本当なら、あまり深入りしてほしくないのが、本音だ。

「大丈夫だよ。これでも、僕は柊千介の助手なんだから」

 私が心配すると、そんな風に言う。

 それこそが心配なのだ。店のオーナーの柊(ひいらぎ) 千(せん)介(すけ)は、頼りになるが得体の知れない怪しい男だ。別に信頼していないわけではないが、自分ならまだしも、聡介のような男が関わるべき人間ではないと思う。

「と、いうわけで、また何か分ったら、連絡するよ。気が向いたら店にも顔をだしてよ。ああ、それと、一人で勝手に捜査したりしちゃだめだよ。危険なんだから」

 保護者のような彼の言葉に、私はため息が出た。

 だから、心配しているのは私の方だ。彼は所詮、『人間』のカテゴリーからは一歩も出ない。大抵の人間がそうであるように、至極真っ当な『正直』の中を生きている。それでは、『彼ら』とは渡り合えない。

「最後の言葉、そっくりそのままあなたに返すわ」

 すると聡介は、フッと笑った。

「大丈夫。本当の本当にやばくなったら、何とかなるように出来ているから」

 やれやれな言葉だ。

 本当の本当にやばくなったら、それでおしまいだ。私が偶然、助けられればいいが、そうばかりとは限らない。彼のその根拠の無い自信はどこから来るのだろうか。

 私はまた、ため息をついた。

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