第3話
■
腕時計を見て、時刻を確認する。午後五時を少し回ったところだ。僕が望遠鏡を覗き込むと、丁度そこに一人の女性が見えた。
タイミングはばっちりだ。その女性は、いつものように自宅アパートの左側の道を通って、帰ってくる。ここ一週間で分かったことだが、彼女は必ず五時前後にアパートに一度戻り、それから出かける。調べによると、アルバイトもしているようなので、そのうち何日かはバイトなのだろう。
まったく、仕事とはいえ、他人を覗き見るなど、気分の良いものではない。秘密をさして秘密にしておける僕は、そういったプライベートに土足で踏む込む行為が好きではない。 それなのに、こうして一週間以上も年頃の女の子を監視するなんて、正直罪悪感でいっぱいだ。きっと、巴月にそんなことを愚痴ると、『その子ためにやっていることだもの、あなたが気に病む必要はまったくないわ』と表情一つ変えずに言うのだろう。
それは重々承知なのだが、それでも、だ。
関係者をもう一度確認するため手帳を開く。乱雑に書かれた沢山の人名を見て、僕はため息をついた。人名の数は二十を越え、それも殆どが簡単な殴り書きのメモのため、カタカナで書かれていた。
監視している女性の名前は、サガヒトミ。漢字で書くと佐賀仁美。市内の大学に通う学生で、ついこの前、警察にストーカーの被害届けを出している。しかし、いたずら電話や手紙、盗聴などの実害がなかったことから、簡単な室内の盗聴検査や身辺の調査だけで、打ち切られている。警察は被害妄想や自意識過剰と判断したようだ。実際、ストーカーの届出はそのケースが非常に多い。
今回のことだって、きっとあの写真を見ていなければ、もっと別の角度から調査をしていたに違いない。教授が警察から貰い受けた三枚の写真のカラーコピー。三人の自殺死体の写真。まったく別件で扱われて、直接的な関連性はなく、宗教やインターネットなどから発起した集団自殺という概念からの捜査しかされていない三件の事件。
その三人の外見的特長と、つい先日被害届けを出していた女子大生の特長が酷似していたと知ったのは、偶然だった。
それから、疑惑は少しだけ確信に変わった。
もっと確信がほしくて、巴月に相談してみると、彼女もまた、これは殺人事件だと言った。酷似している自殺方法は、犯人の殺害の手口。そして、理由は分からないが、同じ外見の同じ歳くらいの女子大生だけを狙っている。そして、佐賀仁美に対する実害のないストーカー行為。これは、間違いなく次のターゲットが彼女であることを物語っている。
部屋の明かりがつき、カーテン越しに、彼女のシルエットが映る。それが着替えだと分かって、僕は目をそむけた。
仁美の男関係も少し調べた。直接本人に聞ければ早いのだが、警察ではなく、探偵でもない僕らがこういった事件を追うときの絶対条件は、本人から遠い場所から調べることなので、仕方がない。当事者と真正面から関わって、ろくなことはない。人知れず、暗い闇の中で、影を闇から闇へと移す。それが、僕たちの役割の概要だ。一般では認識されない狂気を、認識される前に消し去ること。柊骨董店は、そのために存在する。
だが、これでも僕には人脈がある。彼女の通う大学に、男女どちらも知り合いがいるので、調べやすかった。現在彼氏はないが、男友達も結構多く、それなりに人気もあるらしい。長い黒髪は目を惹くし、顔も結構な美人だ。ストーカーというのもあり得なくないが、調べた所、怪しい男性はいなかった。大学関係者ほぼ全員、実際に会って話すことが出来たから、間違いはないと思う。
まったく無関係な人間の、一方的かつ過激な片思いの末のストーカー行為なのか。そもそも、本当にこのストーカー被害と件の推定自殺は繋がっているのか。
相次ぐ自殺的他殺。
自殺者と同じ特長を持った女性のストーカー被害。
浮かび上がらないストーカーの人間像。
明確にならない連続殺人の目的。
僕は少し、眉を顰めた。憶測が多いのは仕方ないが、それにしても、何か大事なピースが抜けているような気がする。殺意や狂気に鋭い感覚を持っている央城巴月が出した結論だから、推理の方向性は間違っていないはずだ。では、なにが違うのか。
僕は考えながら、また望遠鏡を覗き込んだ。彼女の部屋は明かりが消されるところで、少し経ってアパートの玄関から出てきた。さして余所行きでもない服装から、アルバイトだろう。
そのまま駅へと向かう彼女を眼で追って、見えなくなるとまたアパートに視線を戻した。
一本道を出れば、夜遅くまで人通りの多い駅前のアーケードが広がっている。もし、彼女を狙っている誰かが何かをするなら、この望遠鏡で見渡せる範囲内でしか不可能なのだ。 それにしても、こんな真向かいのアパートを無料で使えるのも、このアパートが友人の叔父が経営しているものだからである。持つべきものは幅広い人間関係だ。
ふと、望遠鏡が、人影を捉えた。
僕は静かに目を凝らす。
レンズの向こうにいたのは、小柄な女の子だった。辺りをきょろきょろしながら、仁美のアパート周辺をうろうろしている。僕は彼女の顔をズームアップしてみた。見覚えがあった。大学で話を聞いた時に、何人かの友人たちと一緒にいた女子の一人だ。
その外見は、仁美よりいくらか背は小さいが、彼女もまた長い黒髪だった。
僕は望遠レンズで写真を三枚だけ撮って、彼女に接触することにした。長い黒髪は、今もっとも危ない容姿だ。急ぎ足で部屋をあとにする。古びた階段を滑るように駆け降りて、少女の前に僕は姿を現した。
「ちょっと、君」
僕が呼ぶと、彼女はビクッと怯えながら、こちらを向いた。
「ああ、怪しいものじゃない。ほら、この前大学で話を聞かせてもらった、浅岡聡介です」
顔を見て思い出したのか、彼女の表情がふと緩んだ。
「あ、どうも、こんばんは」
「家、この近くなの?」
「いえ、違うんですけど、仁美ちゃん、やっぱり誰かにつけられているって、怖がっているから。私、なんとか犯人を捕まえてやろうと思って」
彼女は言って、深刻そうな顔をした。
「友達想いなんだね。でも、それは危険だから、やめたほうがいい。ストーカーは逆上すると、なにをするか分からなから、君が先に危険な目に合うこともある。仁美さんに近づくものは全て敵って思っているケースが殆どだからね。それに、彼女のストーカーは、長い黒髪に固執している可能性も出てきたんだ。それが当たっていたら、君も狙われる可能性がある。仁美さんのことは、僕と警察に任せて、帰ったほうがいい」
僕はそっと言い聞かせた。
「はい、わかりました。そうですよね、私ひとりに出来ることは、あまりないですよね」
「家はどっち?もう日が落ちているから、送っていくよ」
彼女は遠慮したが、自分の状況を把握したのか頷いた。僕は彼女に背を向けて歩き出す。
「ストーカーって、どこからがストーカーなんでしょうか」
ふいにやや後ろを歩いていた彼女がそう呟く。
「難しいね。警察が動く条件という意味は明確だけど、実際になにがストーカー行為かと聞かれると実にあやふやだ。いじめと同じでね。被害者側がそう感じた時点でそれは成立するのだと思う。例えば、ある独身の、彼氏もいない女の子が、誰かに付きまとわれたとする。その相手が、彼女にとってめちゃくちゃ好みの男性だった場合、名前を聞いても、あとをつけても、ストーカー被害を出すことはまずない。でも、同じ条件で男性が彼女にとって生理的に嫌いなタイプだったら、きっと二、三回故意に鉢合わせた時点でストーカー疑惑を持つだろう。理不尽で不条理だけど、そういうものだからね。ようは、精神的な圧迫を感じるか否かということだ」
彼女はそれに、「そうですね」と答えた。
「じゃあ、何かわかったり、思い出したりしたら、なんでもいいから連絡をくれると助かる」
僕はそう言って、駅の改札で彼女を見送る。
彼女はもう一度お辞儀をして、駅のホームへと通じるエスカレーターへと消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます