第4話
「師匠!」
三年生追い出しコンパ、通称追いコンの最中、トイレに立った師匠を追いかけて、出てきたところを捕まえた。師匠は「おお、今井」と軽く手を挙げる。
「あの、今までありがとうございました」
「はは、なんだよ改まって。こっちこそありがとな。お前は最高の弟子だったぞ」
弟子。師弟関係なんだから当たり前なのに、最後までそう言われて勝手に傷付いた。もしここで告白したら、師匠はどんな顔をするだろうか。
「あの、師匠。最後にお話がありまして」
「うん。なに?」
「えっと、その、私、師匠のクラの音色が、技術が、本当に好きで、」
「おーい、そこの師弟コンビ! 一人ずつの挨拶が始まるぞ!」
引退する元部長が声を張り上げて私たちを呼んだ。師匠は「了解、今行く!」と返事をしてから「うん」と私に向き直る。私が緊張していることが伝わっているのだろうか、とても優しい目をしていた。『早く』などと急かすことなく、弟子が最後に伝えようとしている言葉を聞き逃すまいと、真っ直ぐ私を見ている。そういう優しさが、私は大好きなのだ。さぁ言え、私。両手でスカートを掴んで力を溜める。好きです、のたった四文字でいい。難しいことじゃない。ほら、待ってくれてるんだから、早く言わないと!
「…………っ」
頭では分かっているのに、口から言葉が出ない。まるで首から下が私の身体ではないような、金縛りにあったような硬直具合で言うことを聞かない。頭だけは冴えているので、告白した後のことを嫌でも想像してしまった。師匠はきっと困る。困るけど、私を傷付けないようにやんわりと断るだろう。『嬉しいよ。俺も弟子として、今井のことは好きだよ』もちろん、『弟子として』の部分を強調して。そうしたら私は、深い傷を負うことになる。分かっていることなのに分かりたくなくて、望み薄なのにどこかで期待したりして、でもやっぱり傷付きたくなくて。
「今井……?」
「本当に、師匠には感謝してます。師匠から教わったことは、一生の宝物です」
「おいおい、大袈裟だな。じゃあ師匠の俺から弟子に一言」
大きな手が頭に置かれた。いつかの温かさと同じで、体の奥底から熱いものが込み上げてくる気配がする。溢れさせたらダメだ。ここで泣いたら、もう元には戻れない。
師匠の瞳に、情けない顔の私が映った。
「今井は、プロになれる」
「……プロ、ですか」
「うん、プロ。音大行って、プロオケの仲間入りできそうな気がする。だって、今井上手いもん」
じゃあそろそろ行こうか、と私の頭を軽くポンポンと叩いた師匠は、背を向けた。
今の言葉はお世辞じゃなかった。真っ直ぐな目をした師匠の言葉は私の胸を射抜き、勇気と希望の光が漏れる。
プロなんて、考えたこともなかった。師匠を差し置いて弟子がプロになる? 私が師匠を、追い越す……もし、本当にプロオケの一員になれたら、師匠への恋心を告げてもいいだろうか。もし、それを私の夢にしたら。
目の前にいる師匠の大きな背中に、私は呼び掛けた。
「師匠」
「ん?」
「……呼んだだけです」
「またそれか!」
どうしようもない奴だと笑った師匠を、もう振り向かせることはしなかった。結局私は自分が傷つくのが怖くて、大事なことが言えなかった。ただ、青かったのだ。そのくせ一人前に後悔して、その後悔を糧にがむしゃらにクラリネットと向き合った。音大に入ってプロオケの一員になって、師匠にギャフンと言わせてやる。それだけを胸に、高みを目指した。
『あ、あと、赤ちゃんできたらしいよ。いわゆるおめでた婚』
友だちから再び受け取ったメッセージを読んで、現実に引き戻された。あちらこちらで音が聞こえる。バイオリンやヴィオラ、ティンパニの音にフルートの音。ああ、そうだ。今は練習の休憩中だった。
そうか、かつて好きだったクラリネットの師匠は赤ちゃんができて結婚するのか。まぁ師匠のことだから、赤ちゃんがいなくても結婚する気だったのだろう。師匠は誠実だし。あ、なんか今ならあの頃言えなかった想いが、スッと口から出てきそう。というか、言いたいな。なんか、すごくムズムズする。あの頃とは違って、言って後悔することなんてないし、傷付くこともない。あの頃の自分に対してそんな考え方するなんてズルい気もするけど。もう大人だから、今の私が許せるならそれでいいか。
そうだ、来週の本番の後に会えないかな。結婚おめでとうって言って、赤ちゃんもおめでとうって言ってそれからそれから。
『師匠、飲みに行きましょう!』
スマホでメッセージを送ったと同時に「よーし、三楽章通そうか」と指揮者が前に出てきた。楽団員たちはいそいそと席に着く。エアコンで冷えた楽器を調整する音が響いた。指揮者が合奏を始める前に注意事項をザっと言う。
「じゃ、始めまーす」
私はスマホをクラリネットに持ち替え、指揮者の振りに合わせて息を吸い込んだ。
END.
青は藍より出でて藍より青し 小池 宮音 @otobuki
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