弟子side

第3話

笹山ささやま先輩、結婚するんだって!』


 高校時代、同じ吹奏楽部だった友だちからそう連絡が来た時、胸の辺りがザワザワした。そっか、師匠ももう二十八歳だもんね、いい人くらいいるよね、と冷静に受け止めようとするのに、心の奥底では十年前の後悔がフツフツと湧いてきて、割とショックを受けている自分に呆れる。師匠と会うことがなくなって十年が経っているというのに、私は未練があるというのか。


 師匠が高校を卒業してから十年会ってないけれど、三年前に一度だけ連絡をくれた。


『プロ入りおめでとう。弟子が活躍してると思うと、俺も頑張れるよ』


 私が音大を卒業し、プロのオーケストラに入団したことをどこからか聞きつけたらしい。私は思わずそのメッセージをスクショした。


 そもそも師匠と会っていなかったら、こうしてクラリネットを吹き続けていなかっただろう。中学で吹奏楽部だったからという理由で高校でも入部したら、運命の出会いがあった。それが師匠——笹山先輩だった。


 一目惚れだったというわけではない。最初は吹奏楽部のクラリネットパートに男子って珍しいな、くらいにしか思ってなかったけど、先輩が奏でる音に魅了された。基礎練から飛び抜けて上手かったのだ。ロングトーンは出だしから羊羹みたいに真っ直ぐな音でブレがなく、音の処理はブツ切りになることなく気持ちのいい余韻を残して終わる。息継ぎも嫌らしくなく自然で、息のスピードは最初から最後まで衰えることなく一貫している。一瞬で心を奪われ、『私もこんなに上手に吹きたい』と強く思った。


「笹山先輩、クラリネット教えてください」

「クラ? 俺でよかったら」


 憧れと尊敬から始まった関係だった。


 憧れが恋愛感情に変わったのはいつだっただろうか。多分、あの夏のコンクールだったと思う。高校に入って初めてのコンクール。コンクールに出られるのは五十五人が限度なのに対し、私の通う高校の吹奏楽部は六十人を超える大所帯だった。選出方法はオーディション。


 未熟だった私はそれに落ちて舞台には上がれなかった。それはまぁ下手くそだったんだから仕方がない。クラリネットだけでも十人はいたのだ。規定がある限り受かったり落ちたりするのは当たり前だった。分かっていたのに、憧れの先輩と同じ舞台に立てないんだと思うと、すごく悔しかった。まだ一年目だから来年もあると頭では分かっていても、その年の課題曲と自由曲はその年だけのものだ。それに再来年には先輩はもういない。生まれたのがあともう一年早ければ。もしくは先輩が生まれるのがもう一年遅かったら。どうしようもないタラレバが頭を駆け巡った。会えただけでも奇跡なのに、未熟だった私はただ涙を流した。


「悔しいよな。俺も去年、オーディション落ちてコンクール出られなかったんだ。それが悔しくて死ぬほど練習した。大丈夫、今井は俺と一緒で努力家だから、あっという間に上手くなる」


 慰めるために頭に置かれた手が優しくて温かくて、私は余計に泣いた。泣き止むまで付き合ってくれた先輩を意識し始めたのはこの時からだ。今まで校内で見かけなかった先輩の姿を頻繁に見るようになったり、部室に行って真っ先に先輩の席を確認したり、声だけで先輩だと認識したり、とにかく何をしていても先輩が頭から離れない。もし先輩と付き合えたら手を繋いで一緒に帰ったり、テスト期間は勉強を教えてもらったり、休日は水族館にデートに行ったり……妄想が止まらないほど、私は先輩のことを好きになっていた。


 ただ、先輩はクラリネットに恋しているようだった。学校から借りている楽器に『サヨ子』と名前を付けて、「サヨ子、今日もよろしくな」と挨拶から始め、朝から夜まで一緒に過ごし、丁寧な手入れをしてケースに仕舞う。最後は「今日もありがとう、サヨ子」で締めるほど、先輩の頭の中はサヨ子でいっぱいだった。そんなサヨ子に私はなりたかったが、どう考えても敵いっこない。このままただの先輩後輩だと見向きもしてもらえないと思った私は、先輩に弟子入りすることにした。師弟関係の方が近付けると思ったのだ。今思えばアホな考えだとツッコめるが、その頃の私はとにかく笹山先輩の隣にいたくて仕方がなかった。


「先輩、弟子にしてください!」

「おお、今井。いいぞ、俺に付いて来い!」


 鈍感な先輩は、簡単に私の師匠となった。惜しげもなく私に技術を伝授し、懇切丁寧に教えてくれる様は完全に師弟関係で、色恋沙汰など無縁の空間だった。そんな中でも告白するタイミングなんて、たくさんあった。あまりにも毎日一緒にいるので想いが溢れそうになることが数多くあり、黙っておくのが苦しいので言ってしまおうかと何度思ったことか。それでも言えなかったのは、望み薄だったしこの関係が崩れるのが死ぬほど嫌だったからで、「師匠」と呼んで振り向かせた後に「呼んだだけです」と可愛げのないことを言ったりもした。


 告白の最大のチャンスは、師匠の引退の時だった。


 その年の夏のコンクールはオーディションに受かり、師匠と一緒の舞台に立つことができた。惜しくも十月の全国大会へは出場できない結果となってしまったが、師匠の隣でその年だけの課題曲と自由曲を一緒に吹けたことが、私にとっては何よりも嬉しいことだった。


 しかし、同時に三年の先輩方の引退が決まったという意味でもあった。それに気付いた時、崖から突き落とされたようなショックを受けた。もう一緒に吹くことができないんだと、もう隣で技術を教えてもらえることができないんだと頭で理解すると同時に、自分の気持ちを伝えなければならないという使命感を抱いた。この機会を逃せば一生後悔する。そんな気持ちがぺったんこな胸に去来し、今しかないと大きく膨らんだ。

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