第2話

「で、どうした? 何か相談?」


 突然今井が「飲みに行こう」と言ってくるなんて、誰にも言えないことを俺に相談したいのかと思っての発言だったが、今井は大きく首を振って「違いますよ」と苦笑した。


「いやぁ、弟子として師匠をお祝いしないといけない気がしまして」

「お祝い? 何の?」

「とぼけないでくださいよ。聞きましたよ、ご結婚されるって」

「あぁ、なんだ、そのことか」

「さらにはおめでたですって? ダブルでおめでとうございます!」


 今井は足踏みをしてトントンと音を立てた。うん、その行為が拍手だってことは吹奏楽やオーケストラをやってる人には分かるけど、周りの人たちが一斉に今井の足元に視線を向けたからやめて欲しい。「あぁ、失敬」気付いた今井は足音を止めて、文字通り拍手してくれた。


 どこから情報を仕入れたのかは知らないが、確かに俺は結婚が決まっていた。相手は同じ会社で他部署の同期。お腹に子どももいる。いわゆるデキ婚だが、順番がどうであれ元々結婚するつもりだったから、何を言われても動じない。


「どんな人なんですか? どこを好きになったんですか? なんて呼び合ってるんですか?」

「質問攻めがすごいな……そんなの聞いてどうすんだよ」

「決まってるじゃないですか! 師匠の幸せを吸い取って私の養分にするんですよ」

「いや、もう意味分かんねぇよ……」


 こいつ、こんなにテンションがおかしい奴だったか? 一旦ビールを飲んで話を途切れさせる。今井はまだ一杯目の半分も飲んでいない。もしかして酒に弱いのか? でも顔は赤くないし大丈夫か……


「師匠。私、高校の時、師匠のこと好きだったんですよ。異性として」

「ぶはっ!」


 突然のカミングアウトにむせた。え、え、え? 今井が俺を好きだった? 思わず隣にいる今井の顔を凝視するが、彼女は真っ直ぐ前を向いていて、俺と目を合わせようとはしなかった。戸惑っている俺に対して、今井は淡々と続ける。


「最初は師匠のクラの技術に惚れていました。なんてキレイな音を出すんだろう、どうしてそんなに早く指が動くんだろう、私も師匠みたいなクラ奏者になりたいって、憧れてました。でも、一緒に練習するうちに、師匠の内面に惹かれてしまって。優しいからそんなにキレイな音が出るんだって分かったし、人一倍練習してる努力家だから指回しが上手なんだって気付いたんです。気付いたらもっと師匠に近付きたいって思ったんですけど、先輩後輩の関係だと進展しないと思って、弟子入りを志願しました」


 喧騒が遠のいて、今井のハッキリした声だけがよく聞こえた。


 あの頃の俺は本当にクラリネットしか見えてなくて、そんなこと全く気付かずに向上心のあるすごい後輩だな、と感心するだけだった。教えればすぐに自分のものにして、それ以上の技術を身に着けてあっという間に俺を追い越していく後輩に、嫉妬すらしたものだ。まさかそんな下心があって師弟関係を続けていたなんて。


「すまん、マジで全然気付かなかった」

「いいんですよ、バレないように隠してたんで。まぁ何人かには気付かれてましたけど」

「うわぁ……なんか本当に申し訳ないことをした気がする」


 こればっかりは誰が悪いとか悪くないとかの問題ではないことくらい分かっているが、あの頃は家族よりも長い時間一緒にいた中で今井の気持ちに一ミリも気付けなかったことは、ものすごく罪深いことのような気がした。


「私、真っ黒だったのに師匠は真っ青でしたもんね。本当にクラしか見えてなかった」

「うん。高校時代はクラが全てで俺の世界だったから」

「そういう鈍感で真っ直ぐなところもよかったんですよ。これで気付くような人だったら多分惚れてません」

「……言うねぇ」


 酒が入っているからだろうか、今井の発言が大胆になってきた。それとももうヤケなのだろうか。悲観的でない横顔から、今井の気持ちを汲み取るのは難しい。彼女はジョッキをグイっと傾けて飲み干し、二杯目を注文した。


「あ、でも今は違いますよ。私、恋人いますし」

「え、そうなの? 楽団の人?」


 食い気味で訊ねると、今井はいたずらっ子のようにニヤリと笑い、背中のケースをコツコツと叩いた。


「紹介します。ジョナサンです。付き合ってもう五年になります」


 楽器に名前を付けるのは音楽家あるあるだ。それにしてもジョナサン……また安直な名前を付けたな。高校の時は確か『カピタナーテ』とか謎のカタカナ名にしてたような気がするが、まぁ別にいいか。


「今井はまだ青春中なんだな」

「はい。師匠と違って若いんで」

「一つしか違わねぇだろうが」

「お、やっと師匠らしい返しをしてくれましたね」

「もうその師匠呼びやめろ。お前の方が師匠だから」


 俺も残りのビールをグイっと飲み干して二杯目を注文する。食べ終えた焼き鳥の串を串入れに入れると、カランと乾いた音を立てた。温いクーラーの風を感じたと同時に、今井が呟いた。


「青は藍より出でて藍より青し、でしたか」


 ん? 何? 青は藍より……?


 意味が分からなかったが、青々言うくらいあの頃の師匠は青かったですね、と言いたいんだろう。適当に「そうそう、青かったんだよ」と答えると、今井は満足そうに頷いた。


「じゃあここは先輩の奢りってことで」

「なんで? 結婚祝いじゃねぇの?」

「いやいや、逆に『あの頃は青くてごめんなさいアンド弟子卒業おめでとう会』でしょ?」

「なんでだよ。誘ってきたのそっちだろ。ほら、マイケルも今井が奢れって言ってるぞ」

「マイケルって誰ですか。ジョナサンですよ。私の恋人の名前間違えないでください」


 カウンター席で並んでギャースカ言い合う大人二人。周りの喧騒も大きいので、俺たち二人が騒いだところで誰も気に留めないだろう。


 もうどうしたってあの頃には戻れないけど、もし教えてあげることができるなら伝えたいと思う。こうして十年経っても先輩後輩の仲が壊れないのは、俺が青すぎたからだ、と。


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