青は藍より出でて藍より青し

小池 宮音

師匠side

第1話

 学生時代の俺は部活動の吹奏楽部に全力を注いでいた。「あなたにとって青春とは?」と聞かれたら「もちろんクラリネットです」と即答できるくらいには、それが全てで俺の世界だった。


『師匠、飲みに行きましょう!』


 高校時代の後輩からそう連絡が入り、断る理由もなかったので、仕事終わりに指定された居酒屋へ向かっていた。残暑厳しい九月の初旬である。陽が沈んだ午後八時だというのに、涼しさの欠片もない。花金だからか、多くのサラリーマンやOLと思しき人たちとすれ違い、そのテンションの高さに翌日の休みを二日酔いで潰そうとしているように見えた。


 あまりの暑さに脱いだスーツのジャケットを腕に掛け、ネクタイを緩めて歩いていると、後ろから「師匠!」と声が聞こえた。振り返ってその人物を確認する。


「おー、今井。久しぶり」


 飲みに誘ってきた後輩だった。襟にフリルの付いたブラウスに黒いスラックスという出で立ちの後輩は、肩まで伸びた茶色い髪を耳に掛けながら「お久しぶりです」と笑った。


 実際彼女に会うのは、高校を卒業して以来だったので、十年ぶりだった。久しぶりだと挨拶を交わすのは別段、おかしなことではない。ただ、学生の時とは明らかに違う雰囲気というか、空気というか、制服でない二人がこうして夜の居酒屋に飲みに行こうとしている時の流れに、違和感を覚えた。


 今井は俺より一学年下で、俺が高校二年生の時に同じ吹奏楽部のクラリネットパートに入ってきた後輩だ。朝も昼も放課後も常にクラリネットを持っていて、練習熱心な子だった。その頃は俺も同じように朝から晩までクラリネットを吹いているような奴だったので、一緒に練習する機会が増え、いつしか「師匠」と呼ばれるようになっていた。尊敬されるのは誇らしいことでもあったので、「おお、弟子よ」なんて言って惜しげもなく技術を伝授したりしたものだ。


「ナマ二つ、お願いします」


 それがこうして一緒にお酒を飲むなんて、俺には想像もしていなかった。お互い二十歳を過ぎた大人なので居酒屋もビールも法的には許されることなのに、俺の中で後輩の今井は高校生のまま思い出として心の中にいたので、警察に捕まったりしないかなんて少しだけ不安になる。一応免許証とか見せてもらった方がいいかな。


「へいナマお待ちー」


 ハチマキを頭に巻いた店員さんが、カウンター席に並んで座る俺たちの前にビールが入ったジョッキを置く。今井は「ありがとうございまーす」と礼を言ってジョッキを掲げた。


「では師匠。乾杯の音頭をお願いします」

「え? あー、では、僭越ながら乾杯の音頭を……って二人だけで音頭なんていらねぇだろ」

「あれぇ? 師匠ってそんなにノリ悪かったでしたっけ? 十年経ってオジサン化しちゃいました?」

「ウルサイ。ほら、乾杯」

「カンパーイ!」


 カチン、と二つのジョッキが合わさって鈍い音を立てた。お互いに口に持っていってゴクゴクと喉を鳴らす。その間言葉を発さない代わりに、周りの喧騒がよく聞こえた。


「ぷはぁっ! あー、やっぱ花金のビールは美味いっすね!」

「お前の方がオジサン化してる気がするけど」

「うわ、師匠、それセクハラですよ。警察突き出しますよ」

「なんでもかんでもハラスメントにすんな。やりづらくてしょうがない」

「冗談じゃないですか。もう、冗談も通じなくなってる」


 今井は十年も経つと変わるんですね、と呟いて手に持ったビールジョッキに視線を落とした。


 そりゃあ十年も経つと色々変わるだろう。というか、今井の方が変わった気がする。高校生から大人になった今井は女子から女性に変身し、純真無垢だった瞳も社会を知ってくすんだように見える。週末にビールを飲んで「ぷはぁっ」なんて息つくなんて、同級生も知らないんじゃないか?


 すみませーん、モモのタレ五本くださーい、と注文する隣の今井が背負っているものを見て、「すごいよな」と呟いていた。


「まさか今井が音大に行ってプロオケの仲間入りするなんて、誰も思ってなかったと思うぞ」


 彼女の背中にはパステルピンクの楽器ケースが下げられていた。所々塗装が剥げ、灰色の下地が見えている。シールで誤魔化している部分もあるが、年季が入っていることを物語っていた。ショルダー型なので谷間がやたらと強調されている。目は、逸らしておいた。


 今井が音大へ行ってプロのオーケストラへ入団したことは、風の噂で知っていた。俺も音大に行きたいという思いはあったが、本気で心の底から行きたいと思っていたわけではなかったのだろう。結局何でもない私立大学に進んだ。音大なんて金もかかるし才能もいる。俺には親に「音大に行きたい」と言えるほど才能なんてなかったし、そもそも音大に行ったからといって今井みたいにプロになれる人なんてほんの一握りだ。俺はその競争に入る勇気も自信もなかった。


「私も自分で信じられませんよ。まさか仕事にしちゃうなんて。まぁ、それもこれも師匠のおかげなんですけどね」

「俺は何もしてない。お前に才能があっただけのことだ。つーか、もう師匠はお前だろ。プロなんだし」


 焼き鳥が目の前に並べられた。今井が「どうぞ」と促してきたので有難く頂戴する。うん、美味い。

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