ヤマトナデシコ決戦式～小鳥遊怜の下着事情～

第弐話

　そう納得（なっとく）しかけた刹那（せつな）、新たな懸念（けねん）が頭をよぎりました。

　千載一遇（せんざいいちぐう）、やっと取り付けた風間（かざま）君とのデートの機会（きかい）。

　もしもの時のための用心（ようじん）だというのなら、やはり年相応（としそうおう）の物よりも、大人っぽいものを身に付けておいたほうが好印象（こういんしょう）ではないのでしょうか？

　幸（さいわ）い母（はは）の身長（しんちょう）はわたしとほぼ同じ。

　残念（ざんねん）なことに、胸（むね）のサイズは合（あ）いませんが、パッドを重（かさ）ねれば問題ないでしょう。たぶん。

　夜勤明（やきんあ）けの母（はは）はいつもぐだぐだで、自分（じぶん）の下着（したぎ）の数（かず）に頓着（とんじゃく）する余裕（よゆう）はないはず。

　ならば、一枚くらい拝借（はいしゃく）しても――

　姿見（すがたみ）を前に下着（したぎ）をあて、科（しな）を作（つく）っていたわたしは、玄関（げんかん）のほうから聞こえる微（かす）かな物音（ものおと）に身（み）を竦（すく）めました。

　気のせいではありません。玄関（げんかん）のドアの開く気配（けはい）に慌（あわ）てて引き出しを閉め、廊下（ろうか）の角（かど）から顔を覗（のぞ）かせ様子（ようす）を伺（うかが）ってみました。

「あら、怜（れい）。起きてたの？」

「お、おかえりなさい。ちょっとのどが渇（かわ）いたから水を飲みに来ただけです。今日は早かったですね」

　帰りがけにどこかで呑んできたのでしょか。

　台所（だいどころ）にむかい水を注（そそ）いだコップを手渡（てわた）すと、すこし出来上（できあ）がっている母は一息（ひといき）で飲（の）み干（ほ）しました。

「ちょっとねー。先方のミスで納品（のうひん）が遅（おく）れて時間（じかん）が空（あ）いたから、ちょっとでも横（よこ）になっておこうかと思って」

「いつもお勤（つと）めお疲（つか）れ様（さま）です。なにか作りましょうか？」

「あなた明日（あした）……もう今日（きょう）か、出掛（でか）けるって言ってなかった？　いいから早く寝なさい」

「はい。お休みなさい」

　お休みのあいさつをすると、わたしは廊下（ろうか）の角（かど）に隠しておいた下着（したぎ）を回収（かいしゅう）し、自室（じしつ）に戻りました。

　虎尾春氷（こびしゅんぴょう）！　実（じつ）に危（あぶ）ないところでした。

　調子（ちょうし）に乗（の）って母（はは）の寝室（しんしつ）でファッションショーを始めていたら、いまごろ心に深（ふか）い傷（きず）を刻（きざ）むイベントが起こっているところでした。

「これ、どうしましょうか……」

　黒（くろ）、紫（むらさき）、紺（こん）。

　色とりどりの下着（したぎ）に幻惑（げんわく）されていたわたしは、母の急な帰宅（きたく）に取（と）り乱（みだ）し、咄嗟（とっさ）にその一枚を掴（つか）んだまま廊下（ろうか）へ出てしまっていたのです。

　紅（くれない）。情熱（じょうねつ）の赤（あか）。

　風間（かざま）君に見せはずもないものなのに、深夜（しんや）テンションに「もしも」「たら」「れば」を重（かさ）ね、無意識（むいしき）に掴（つか）み取（と）った一枚。

　この場になければ明日（あす）はパステルピンクの上下（じょうげ）で決まりだと納得（なっとく）できたものを、紅（あか）いランジェリーは確（たし）かにわたしの手の中に存在（そんざい）します。

「ちょっと、あててみるだけ……」

　姿見（すがたみ）の前に立ち、丸まった赤い薄布（うすぬの）を広げるとそこには――

「これ幸運（こううん）の赤（あか）パンツやないかい！！」

　だいぶ昔（むかし）に流行（はや）った、開運効果（かいうんこうか）だか温熱作用（おんねつさよう）だかがあると謳（うた）われた代物（しろもの）。

　ご丁寧（ていねい）に金糸（きんし）で“福（ふく）”の字が刺繍（ししゅう）された、へそまで覆（おお）うおばちゃんパンツです。

　母（はは）も持っていたのですね。

「なに……お姉（ねえ）ちゃん、パン……ツ？」

「ごめん、なんでもないよ」

　勢（いきお）いよく畳（たたみ）にパンツを叩（たた）きつけた音に、寝（ね）ぼけまなこの凛（りん）が顔を覗（のぞ）かせます。

　あまりの肩透（かたす）かしっぷりに、深夜（しんや）だというのに自重（じちょう）せず大きな声をあげてしまいました。

　わたしは起こしてしまった事を凛（りん）に謝（あやま）り、隣（となり）に横（よこ）になり寝（ね）かしつけながら、でも、ほんとうに幸運（こううん）が舞（ま）い込（こむ）むのなら、ありかなしで言えばありよりのなしかななどと、埒（らち）もないことをぼんやりと考えていました。

「――ぇちゃん！　怜（れい）お姉（ねえ）ちゃん！　ほんとに起きなくていいの？」

「むにゃむにゃ……やっぱりな……し！？」

　肩（かた）を揺（ゆ）する凛（りん）の声に目を開けると、障子（しょうじ）ごしに差し込む朝日（あさひ）がわたしを照（て）らしていました。

「ご飯（はん）できてるよ！」

　南無三宝（なむさんぽう）！　凛（りん）を寝かしつけるつもりが、そのまま隣（となり）で眠（ねむ）り込（こ）んでしまったようです！

　とっくに着替（きがえ）えを済（す）ませた凛（りん）が、呆（あき）れた顔で私を見下ろしています。髪（かみ）の逆立（さかだ）つ思いでスマホを確認（かくにん）すると、予定していた電車（でんしゃ）の時刻（じこく）まであと20分！

　シャワーや朝ごはんどころか、最低限（さいていげん）の身支度（みじたく）の時間（じかん）さえ怪（あや）しいところです！

「お母（かあ）さん！　どうして起こしてくれなかったんですか！？」

「起こしましたー。私（わたし）も凛（りん）も、何回（なんかい）も。ねー」

「ねー」

　母娘（おやこ）仲良（なかよ）く首（くび）を傾（かし）げる二人に構（かま）うことなく、手早（てばや）く着替（きが）え身支度（みじたく）を整（ととの）えると、わたしは玄関（げんかん）から駆（か）け出（だ）し、MTB（愛馬）に飛（と）び乗（の）りました。

「征（い）ってきます！」

「玄関（げんかん）！　閉（し）めていきなさいー！」

「駆（か）け込（こ）み乗車はお止（や）めくださーい！」

　出がけは母に、ホームでは駅員（えきいん）さんに注意（ちゅうい）されながらも、なんとか予定（よてい）の電車（でんしゃ）には間に合いました。僥倖（ぎょうこう）！

「す、座（す）んなよ……ねえちゃん」

　息（いき）を荒（あら）げ、滝（たき）のように汗（あせ）を滴（したた）らせるわたしを見かねてか、座席（ざせき）の端（はし）に座（すわ）っていたおじさんが、引（ひ）き攣（つ）った表情（ひょうじょう）を浮（う）かべ、詰（つ）めて席（せき）を開けてくれました。

「あ……ありがと……ござ……ます」

　ハンカチで汗（あせ）を抑（おさ）え、大量（たいりょう）のウェットティッシュでどうにか身を整（ととの）えたわたしは、恥（は）ずかしさもあって目を閉じ心を鎮（しず）めます。

　明鏡止水（めいきょうしすい）。ばたばたしましたが、ちゃんと間に合いました。何も問題（もんだい）はありません！

　見知らぬおじさんへの体面（たいめん）を思うより、今は風間（かざま）君との逢瀬（おうせ）に備（そな）える時です。

　暫（しば）し瞑目（めいもく）するうち、降（お）りるべき駅名（えきめい）のアナウンスが耳に響（ひび）きました。

　さあ、決戦（けっせん）だ。明目張胆（めいもくちょうたん）！　発奮興起（はっぷんこうき）！

　ホームに降（お）りた瞬間（しゅんかん）、わたしは何ともいえない違和感（いわかん）を覚えました。

　何か、何かがおかしい。

　承〇郎様（じょう○ろうさま）も新手（あらて）のスタンド使いの攻撃（こうげき）を受けたとき、このような感覚（かんかく）に襲われるのではないでしょうか……

　ふと、ホームに備（そな）え付（つ）けられた時計（とけい）や、次（つぎ）の電車（でんしゃ）の案内（あんない）が、揃（そろ）って一時間ばかり先の時刻（じこく）を示（しめ）していることに気付（きづ）きました！

「……まさか……」

　恐（おそ）るおそる取り出したスマホも、同じ時刻（じこく）を示しています。

　おかしかったのは、わたしの時間認識（じかんにんしき）のほう。

　溜（た）まりに溜（た）まった数十件（すうじゅっけん）の着信（ちゃくしん）やLEINの通知（つうち）が、冷然（せいぜん）と現状把握（げんじょうはあく）を迫（せま）るべく追（お）い打（う）ちをかけます。

「寝過（ねす）ごして周回（しゅうかい）しちゃいました！？」

　初（はつ）デートでの――いや、まだデートじゃないですしデートに持（も）ち込（こ）める可能性（かのうせい）もガタ落ちですけど――許（ゆる）される遅刻（ちこく）の限度（げんど）はどのくらいなんでしょう。

　やらかしの大きさにめまいを禁（きん）じ得（え）ません。赤いパンツの開運効果（かいうんこうか）に頼（たよ）っておくべきでしたか！？

　いえ、まだです。まだこれからです！　死中求活（しちゅうきゅうかつ）！

　息（いき）を弾（はず）ませホームを駆（か）けながら、わたしは風間（かざま）君に返信（へんしん）すべくスマホ画面（がめん）をタップしました。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　了（りょう）