夏故の思い出

無価値な存在。

彼の夏と、僕の秋。その後は

 よく晴れた日曜日の昼下がり、新緑が良く映える森の中の、もう人も立ち入らない寂れた広場で写真を撮っていた時だ。シャッターを切ったのでも、風が鳴ったのでもない音がした。音は背後からで、振り返ると男が一人、大きな切り株に立ってこちらを見下ろしている。やあ、と軽く手をあげた男は、僕よりいくらか若く、まだ幼い顔をしていた。僕は彼を知っている。中学の時一番仲が良かった人を忘れるほど、僕は忘れっぽくない。

「写真とは、良い趣味だね。君の趣味は、いつも何かしら文化的と言うか、いよいよ芸術家になるのかい」

 彼は、僕が手にしたカメラを一瞥して言う。そう言われれば、そうかも知れない。

「君だってそうだろう。君の小説と、絵画は……。芸術家と呼ぶべきは君だった」 

 そう言いながら、彼の作品を思い出した。二年間、或いはそれより遥かに長く彼が努力を積み上げた芸術の塔の、僅かながらの発露が、僕には重かった。彼の絵は、いつも静かに佇んでいた。内から外へと力強くなっていく世界に、一つ描かれた静かな意志を湛えたような動物や、花の絵には、確かな強さがあった。

 絵の方は、何度も賞を取っていて、皆が覚えているというのは、その事もある。ただ、絵よりも、僕には彼の小説の方が印象深い。

 彼の小説には繊細さがあり、そのモチーフには何重にも意味があり、繋がっていた。それら全てが彼の心を、その叫びを表現していた。読む度毎に動揺が体を突き抜け、心臓は早鐘のようになった。

「果たしてどうだろうね。僕には上手くできなかったよ」

 そう言って彼は大木の痕から降り、棒切れを拾った。それを指先で弄びながら、辺りを見回す。僕はそんな様子を眺めながら震え気味の声で言う。

「上手く行ってたじゃないか。僕は君の作品に胸を打たれたし、先生だって、君の才能を高く評価していた」

 そう。彼は、名のある作家にまでその文才を認められていて、将来はきっと、小説家として、芸術家として大成できるはずだった。その道を閉ざしたのは、彼自身だった。ある日彼は、全てをぱたりと止めた。何もせず、誰の心も動かせない、そんな存在になってしまった彼を見るのが、僕には何よりの苦痛だった。

「どうして止めてしまったんだよ。あんな、場所で……」

 尻すぼみの言葉は彼に届かず、しかし絶望の色を感じ取ったか、彼はゆっくり僕に近づいて来て言った。

「あの時のことは本当にごめんね。でも、僕にはもうあんなこと出来ないから安心してよ」

 あくまでも軽やか。しかし、その裏で声を震わす申し訳なさが、深く胸に刺さって何も言えなくなった。

 時刻は三時。腕時計の針は、絶えず先へと進んでいる。僕は、もう帰ろうと思った。今日撮った写真も、てんでダメだ。僕の方こそ、もう何もできない。

「今日はもう帰る」

 そう言うと彼は、「一緒に行くよ」と言って、僕と並んで歩き出した。隣に並んでみて、思った。彼はもう、ずっとあの時のままだ。身長は、僕と同じだったのが、いつの間にか僕の方が若干上になっているし、首に付いたロープの痕は今もある。きっと何度も繰り返しているであろう行為を想像して、その苦しみまで想像しようと思ったけど、上手く行かなかった。

 途端に僕の中で、彼の苦しみが理解できないことの後ろめたさ、のようなモノが大きくなって。彼を見るのはやめた。そうしてただ、ざ、ざ、という、土の上で草を倒し踏みしめる音と共に、町の方へと歩いた。


 僕らは結局、終始無言で歩いた。僕の住むアパートに着いた時、ようやく僕の方から話しかけた。

「少し、上がってよ」

 逡巡の後、彼は頷いた。鍵を開け、家に入ると、まだ親が帰ってきていない、無機質な空気に包まれた。部屋に案内して、お茶を淹れに台所へ向かう。ティーパックを入れたカップに沸かしたお湯を注ぐと、たちまち溶けだした葉の色と香りが広がった。この瞬間だけは煩わしい全てを忘れられるので、好きだ。

 いくつか時を刻む音がした後、紅茶の入ったカップを二つ、トレイに乗せて部屋へ戻ると、彼は小さな机に置かれた原稿用紙を前に、ペンを握っていた。しかしその手は一向に動かない。僕が目の前にカップを置くと、ようやくその手が動いた。彼は、手に持っていたペンをゆっくりと机に置き、対面に腰を下ろした僕を見据え、破顔して言った。

「何か書きたい」

 そして首元を触って続けた。

「新しく、何かを書きたいんだ。分かるかい」

 ああ、僕はきっと誰よりも望んでいた。誰よりも待ち望んでいたんだ。

「君がやっと、何かを書こうと思ってくれたことが、嬉しいよ。あんな終わり方、僕は嫌だ」


 ある日のことを思い出した。きっと彼が変わってしまった日だ。


——彼の小説を最後に読んだのは、もう一年も前のことになる。あれは初夏だった。ちょうど今日の様によく晴れた日で、僕達は彼の家で、畳の上に胡坐をかいて、互いが書いた文章を読んでいた。静かな空間に二人の呼吸と、それから紙を捲る音が一定のリズムで刻まれていた。

 半ばまで読んだ頃、僕のリズムが崩れた。珍しく、彼の文章に、棘があって、読むのが苦しかった。胸を締め付ける言葉だけが乱雑に踊り、息が詰まりそうな思いがして、いつしか読む手が止まっていた。恐る恐る彼の方を見ると、目が合った。

 彼は笑っていた。

 嫌味ったらしいような笑いではなく、かと言って、喜びに花開く笑顔でもなかった。僕の顔をじっと見つめるその目は、多量の嘲りと、諦めで出来ていた。

 背中が凍り付くような錯覚をした。おもむろに動き出した唇の間から出てくるであろう言葉が怖かった。紡ぎだされる言葉が、侮蔑、罵倒、そんなものであれば良かった。しかし違った。

「やっぱり、苦しいよね。うん。駄目だった」

 止めなければ、と思った。この言葉を止めなければいけない。

「そんなことな――」

「ある。それ、捨てておいてよ。僕はアイスでも買ってくる。最近暑いね。夏だ」

 そう言うと勢い良く立ち上がって、ベッドに置かれた鞄を取った。そうしてドアが乱雑に閉じられた音が響き、僕は取り残された。


——その後の事は、何だかぼんやりしていて、はっきりと思い出すことができない。でも彼が全てを止めようと思ったのは、きっとあの日のことがあったからで、僕があの時彼を止めていれば、彼が全てを諦めることはなかった。彼が諦めたのは、僕のせいだった。


 現実の音に呼び覚まされて、そういえば目の前に彼がいるのだと言うことを思い出した。今は原稿用紙を見つめているだけだが、きっと数日後には、僕の予想を遥かに超えるような小説とともにまた僕に会いにくるに違いない。そう期待していないと、果てしない罪悪感に押し潰されそうだった。


 僕らはしばらく無言で向かい合い、互いに自分の世界で思考を重ねていたが、やがて彼が「今日のところは帰るよ」と言って、二人で外に出た。未だ明るい住宅街を歩いて大通りまで見送り、僕は家に、部屋に帰った。

 二人分の紅茶が冷めていた。


***


 彼と再会してから二週間後のこと。僕は、汗で背中に張り付くシャツを煩わしく思いながら、橋から夕方の川を見下ろしていた。先日の雨でいつもより少しばかり近い水面に、いくつもの小さな波が立っては、すぐ後ろの波にのまれ消えていく様子が愛らしく、しかし同じ波をどこにも見つけられないのが、少し寂しくて、という気分を繰り返しながらただ時間だけが過ぎていた。

 空を見上げればからっぽな生き物のような、心臓を飛び出そうとする何かを映し出すと分かっていた。

 あれから、彼はどれくらい書いたろうか。僕は、彼の小説を再び読むまでは何もする気になれなかった。彼が少しでも動く瞬間を見ることが、今は僕にとって最も心躍ることで、それまで他のことは考えられなかった。他人から見れば無為な時間を過ごしているのは分かっていた。僕には僕の時間が存在し、それは有限だ。でもこの場合に彼と時間を共有することが、それほど悪いことだとは思えなかった。

 風が吹き、鳥が飛び、風が向きを変え、陽が傾いてようやく、僕は家に帰ることにした。雨が降った後でなお悠々と流れる川を横目に、堤防を歩くのは心地よかった。そうして二十分ほど歩くと、堤防が国道と交差する。そこにも橋がかかっているが、先と比べても随分と車通りが多い。

 誰そ彼の橙と夜の紺の間に立つと、否応なしに僕を追い立てる時間の存在が思い出される。もうすぐ、今日は終わる。そして明日になる。抗うように昼に向かって歩いても、足りない。それでやっぱり、空しくなった。


 家についてもやはり誰もおらず、乾いた音を今にも止まりそうな扇風機と、開け放った窓から入ってくる隣の家の風鈴の音と共に、ベッドに寝転がっている。ぼんやりとした頭で思うのは、昔のことばかりだ。何度も思い出した記憶は、もう擦り切れて靄がかかってさえいる。

—―瞬間。記憶にかかった靄が、僕の目の前にまで現れた。茫然として見ていると、それは集まり、一つの顔のようなものになった。その口が開き、何かを叫んでいるように動いた。目があるであろう場所からは、涙が溢れた。靄は薄く桃色に色づき、次第に生きているかのような質感すら帯びて、もう目の前にあるのは人間の頭だった。そして、絶叫。鼓膜に突き刺さる断末魔の叫びは、脊髄を凍り付かせたかのように思われた。——そして目覚めたのはソファの上で、夏だと言うのに身体中が凍りそうだった。いつからか、何度も見る夢だ。


 僕はさっきの光景を頭から振り払おうと、なんとかベッドから降り、いやにしっかりした足取りで机に向かい、引き出しを開け、中から紙束を取り出した。ホチキスで留められた原稿用紙の、一番上にはこう書いてある。

『厳冬、春閑、快夏、秋生。』

 紙は、上から四分の一ずつ、水色、薄紅梅、白緑、そして亜麻色に分かれていて、一枚めくると、『厳冬』が始まる。僕の記憶は、これが頼りだ。忘れているわけではない。ただ、この小説と共に思い出す世界は、いつもより一層、全てが美しく思われた。

 地べたに座ってホチキス留めをめくっていく。

 雪の音から始まる文章は、僕らの中学時代の交際や情動のその一切が仔細に、或いは大胆な構成で、読む者を引き込むように紡がれている。またそれに終わらず、己の性愛への嫌悪感、そして己を取り囲むセカイに対する抵抗の意識が、そこかしこに散りばめてある。僕の大好きな小説だ。

 一度読み始めれば、確かな実感とともに記憶も脳内をめぐり、さまざまな思い出が甦った。ともすれば僕は、この小説だけを読みながら一生を終えようかとすら思っていた。

 『厳冬』の雲の切れ間から差し込む光は『春閑』を呼び覚まし、熱っぽさを帯びた詞が色彩と共に連れてくるのは、輝くような『快夏』。しかしその情熱が『秋生』に向かうことはない。中途で終わってしまった物語は、


——どうか僕を生かしてください。


 と言う一文を最後に、時間が止まっている。


***


 夏の暑さも身に染みて、蝉の鳴く声が沈黙を作り出すようになってきたある日、僕は再び、彼に再会したあの場で写真を撮っていた。いや、撮るフリをしているだけ、と言った方が正しいのかもしれない。僕は、待っていた。彼の続きを。そして—―乾いた音が跳ねた。

 振り返るまでもなく、彼だという予感に心が躍った。ただ、動くことが出来なかった。木々の温かい息遣いに包まれたまま、膝に伝わる土の感触は、体と同化しそうだった。

「久しぶり。やっぱりここにいた」

 背後から僕に掛けられた声が、ようやく僕を動かした。切り株に乗った、幼い顔の少年と、目が合った。僕と一つ違うであろう顔つきは、やはり一年前と変わらない。不意に首元の、赤紫の痣が目についた。苦しみが存在を叫んでいるかのように目立っている。

「うん。また、ここに現れると思って」

 そういうと彼は微笑んだ。

「ね。小説、書いたよ。まだ完全には出来ていないけど、今までとは違う形に挑戦してるんだ。ほら、最近流れが変わってるから、今までと同じじゃ良くないと思って」

 そういって肩掛け鞄から紙束を取り出して、僕に手招きする。今度は僕が近づいて、それを受け取った。彼の小説を再び読める日が来ようとは思っていなかった。期待で逸る気持ちを抑えながら僕は地面に座り、彼も切り株に腰を下ろした。傍にある花が、そこに色彩を加えていた。


 僕は彼に渡された原稿用紙を一枚めくった。そこにあったのは、いつか僕が見たあの、苦し紛れの言葉が乱雑に跳ね回る文章だった。情景は何一つあの時と変わっていない。あの時彼が捨てようとした小説が、もう一度僕の前に現れたのだ。

 はらり。目の前に広がる世界は紛れもなく、僕の知っているものだった。めくっても、めくっても、どれだけ読み進めても、そこに広がる世界に、僕の知らない物はなかった。何度も現れる自嘲と、消えたいという思いは、今僕に、前よりもはるかに重く圧し掛かってくる。


 秋は、訪れなかった。


「どうだい。ここ数日、身を削るようにして書いていたんだ」

 その言葉に、僕は絶望した。あの夏の日にも、彼は同じことを言っていた。あの時にも、同じ首の痣があって、部屋を出ていく彼を見ることが出来なかったのはそのせいだ。

「何も、書けなかったんだ」

 そういうと彼はぴたりと止まった。そして、姿が揺れ始めた。それはあまりに唐突で、しかし何となく、心の奥ではいつかこうなると分かっていた。そんな気がした。それほどに落ち着いていたことは自分でも不思議だった。

「そんなわけない。長いこと書いていなかったけど、それはもう終わったことなんだ。僕は確かに書いた。何も、だなんてそんなこと」

「君はもう、書けやしないんだろう。もう何も」

 こう言うと彼は首を振った。

「違う。書けなかったのは、何も手につかなくて、動けなくて」

 尚も否定しようとする彼に、現実を確認する。

「あの日君は戻ってこなかった! 僕を置いて行ったきり、君は二度と帰らなかった! こんなに人から離れたところまでやってきて、死ぬなんて……」

 彼の言葉はない。

「どれだけ待っても、君は帰ってこない。それは、本当じゃないか。何度もこの場で繰り返し死に続けているんだろう。その痣は、ここにあった木から下ろされた時についていたものと、全く同じだ」


 彼の自殺は、あの日の夕方に起こったものだった。あの日以来書かれることのなくなった彼の小説を、僕はずっと持っている。続きを、読みたかった。そのために生きているようなものだった。だから、彼の姿を見た時は今までが全て夢だったのだと、そう思おうともした。原稿用紙を前にペンを持った彼を見た時は、いよいよ彼の自殺なんて、なかったのだと信じようともした。

 それでも彼の最期であろう景色の夢は続いた。彼の死は現実の事だった。


 今日は、彼の命日だ。弔いのための花束が、彼を取り囲むようにして置かれている。

「そう、だね。僕はもう死んでいる。全く君の言う通りだ。僕は今も、息絶える瞬間を繰り返しているような、そんな痛みと苦しさに襲われている。叫んでしまいたいほど」

「僕はどうしたらいいんだよ。君の小説が読みたい。君に生きていて欲しかった。君にしかできない表現を読んで、驚かされたかった」

 彼はわざとらしく両腕を広げて立った。

「君が書けばいいじゃないか。僕の表現は、もう過去のものだ。古いのさ」

 そして空を見上げた。直ぐ目の前に、苦しみ続けている人がいるのに、空が青く、綺麗な形の雲が塗られているのはおかしな気分だ。僕に、彼を超える小説など書けるとは思えなかかった。

「古くたって君の小説は素晴らしかった。時代なんてもの、僕には関係ない」

 彼は溜息を吐いて、呆れたように呟いた。それは僕を励ますようでいて、その実自分を嘲っているのだと分かった。

「いいや、君は新しいものが書けて、きっとこれから、もっと多くの人の目に映るようになる。時代が選ぶなら君だ。だから……」

 一拍置いて、彼は僕の目をしっかりと捉えて言う。

「どうかもう、過去の僕にばかり縋らないで、これからの君を生きてよ。僕はもう進めないけど、君までここで止まっていてはだめだ」

 彼がこんなことを言うために僕は過去の輪郭を明かした訳じゃなかった。

「僕はどのみち、もう無理だったんだ。あの時君に読ませた小説は、僕が何ヶ月もかけて書こうとした挙句に諦めるために君に読ませたんだ。あんな役目を君にさせたせいで、今まで苦しめてごめん。それじゃあ、未来を生きてね」


 その言葉を最後に、彼を形作っていた何かは霧散し、二度と彼の形象をとって僕の前に姿を現すことはなかった。もう彼の苦悶の表情が夢に出てくることもなかった。それは決して彼が苦しみから解放されたからではないだろう。きっと今もあの木の跡で苦しみに悶えながら何かを待ち続けているはずだ。

 僕は未だ、彼の言う新しさが何かわからない。でも、彼の言う通り、過去に縋っていてはいけない。それでは新しさどころか、彼のことすらわからないまま終わることになるからだ。

 彼の絵を思い出した。たった一度、僕にだけ見せてくれたと言っていた絵だ。紅葉の中に少年が立っていた。その少年の後ろにある道の脇には、赤子が寝そべっていた。その中で少年は、ただ自分の先にある森の中に、道を見出そうと懸命に歩き回っていた。

 彼に訪れなかった秋生は、僕が引き継いで、これきり過去を終わらせようと思った。

 僕がその広場で最後に押したシャッターは、きっとこれから新しい命の土台となるであろう切り株と、それを祝福するような花束を切り取った。

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