その五

 次男の病床の口述筆記は、短い割に、多少の飛躍があったようである。けれども、さすがに病床のかゆばらでは、日頃、日本のあらゆる現代作家を冷笑している高慢無礼のきようも、その特異の才能のへんりんを、ちらと見せただけで、思案してまとめて置いたプランの三分の一も言い現わす事が出来ず、へたばってしまった。あたら才能も、の微熱には勝てぬと見える。飛躍が少しはじまりかけたままの姿で、むなしくバトンは次の選手にゆだねられた。次の選手は、これまた生意気な次女である。あっと一驚させずばまぬ態の巧妙心に燃えて、四日目、朝からそわそわしていた。家族そろって朝ごはんの食卓についた時にも、自分だけは、特に、パンと牛乳だけで軽くすませた。家族のひとたちのようにしる、おたくあんなどの現実的なるものを摂取するならばいのも濁って、空想もするに違いないという思惑からでもあろうか。食事をすませてから、応接室に行き、つッ立ったまま、ピアノのキイをたらにたたいた。ショパン、リスト、モオツァルト、メンデルスゾオン、ラベル、滅茶滅茶に思いつき次第、弾いてみた。霊感をあまくだらせようと思っているのだ。この子は、なかなかおおである。霊感を得た、と思った。すました顔をして応接室を出て、それから湯殿に行き靴下を脱いで足を洗った。不思議な行為である。けれども次女は、この行為に依ってみずからをきよくしているつもりなのである。変態のバプテスマである。これでもう、身も心も清浄になったと、次女は充分に満足しておもむろに自分の書斎に引き上げた。書斎のに腰をおろし、アアメン、と呟いた。これは、いかにも突飛である。この次女に、信仰などあるはずはない。ただ、自分のいまの緊張を言いあらわすのに、ちょっと手頃な言葉だと思って、臨時に拝借してみたものらしい。アアメン、なるほど心が落ちつく。次女はもったい振り、足の下の小さい瀬戸の火鉢に、「梅花」というこうを一つべて、すうと深く呼吸して眼を細めた。古代のけいしゆう作家、紫式部の心境がわかるような気がした。春はあけぼの、という文章をちらと思い浮べていい気持であったが、それは清少納言の文章であった事に気附いて少し興覚めた。あわてて机の上の本立から引き出した本は、「ギリシャ神話」である。すなわち異教の神話である。ここに於いて次女のアアメンは、真赤なにせものであったという事は完全に説明される。この本は、彼女の空想の資源であるという。空想力が枯渇すれば、この本をひらく。たちまち花、森、泉、恋、白鳥、王子、ようせいが眼前に氾濫するのだそうであるが、あまりあてにならない。この次女のする事、す事、どうも信用し難い。ショパン、霊感、足のバプテスマ、アアメン、「梅花」、紫式部、春はあけぼの、ギリシャ神話、なんの連関も無いではないか。支離滅裂である。そうして、ただもう気取っている。ギリシャ神話をぱらぱらめくって、全裸のアポロの挿絵を眺め、気味のわるい薄笑いをもらした。ぽんと本を投げ出して、それから机の引出しをあけ、チョコレートの箱と、ドロップの缶を取りだし、実にどうにもな手つきで、──つまり、人さし指と親指と二本だけ使い、あとの三本の指は、ぴんと上に反らせたままの、あの、くすぐったい手つきでチョコレートをつまみ、口に入れるより早くのみくだし、間髪をいれずドロップを口中に投げ込み、ばりばりみ砕いて次は又、チョコレート、瞬時にしてドロップ、飢餓の魔物の如くむさぼり食うのである。朝食の時、胃腑を軽快になさんがため、特にパンと牛乳だけですませて置いた事も、これでは、なんにもならない。この次女は、もともと、よほどの大食いなのである。上品ぶってパンと牛乳で軽くすませてはみたが、それでは足りない。とても、足りるものではない。すなわち、書斎に引きこもり、人目を避けてたちまち大食いの本性を発揮したというわけなのである。とかく、いつわりの多い子である。チョコレート二十、ドロップ十個を嚥下し、けろりとしてトラビヤタのはなうたをはじめた。唄いながら、原稿用紙のちりを吹き払い、Gペンにたっぷりインクを含ませて、だらだらと書きはじめた。すこぶる態度が悪いのである。

 ──あきらめを知らぬ、本能的な女性は、つねに悲劇を起します。という初枝(長女の名)女史の暗示も、ここに於いて多少の混乱にほうちやくしたようでございます。ラプンツェルは魔の森に生れ、かえるやきぐしや毒たけなどを食べて成長し、老婆の盲目的なあいの中でわがまま一ぱいに育てられ、森のからす鹿しかを相手に遊んで来た、いわば野育ちの子でありますから、その趣味に於いても、また感覚に於いても、やはり本能的な野蛮なものがあるだろうという事は首肯できます。また、その本能的な言動が、かえって王子を熱狂させるほどの魅力になっていたのだというのも容易に推察できる事でございます。けれども、果してラプンツェルは、あきらめを知らぬ女性であろうか。本能的な、野蛮な女性であった事は首肯出来ますが、いまのこのいのちの瀬戸際に於けるラプンツェルは、すべてをあきらめているように見えるではないか。死にます、とラプンツェルは言っているのです。死んだほうがよい、と言っているのです。すべてを諦めたひとの言葉ではないでしょうか。けれども初枝女史は、ラプンツェルをあきらめを知らぬ女性として指摘して居ります。軽率にそれに反対したら、叱られます。叱られるのは、いやな事ゆえ、筆者も、とにかく初枝女史の断案に賛意を表することに致します。ラプンツェルは、たしかに、あきらめを知らぬ女性であります。死なせて下さい、などという言葉は、たいへんいじらしい謙虚な響きを持って居りますが、なおよく、考えてみると、これは非常に自分勝手な、うぬれの強い言葉であります。ひとに可愛がられる事ばかり考えているのです。自分が、まだ、ひとに可愛がられる資格があると自惚れることの出来る間は、生きもあり、この世も楽しい。それは当り前の事であります。けれども、もう自分には、ひとに可愛がられる資格が無いという、はっきりした自覚を持っていながらも、ひとは、生きて行かなければならぬのであります。ひとに「愛される資格」が無くっても、ひとを「愛する資格」は、永遠に残されているはずであります。ひとの真の謙虚とは、その、愛するよろこびを知ることだと思います。愛されるよろこびだけを求めているのは、それこそ野蛮な、無智なわざだと思います。ラプンツェルは、いままで王子に、可愛がられる事ばかり考えていました。王子を愛する事を忘れていました。生れ出たわが子を愛する事をさえ、忘れていました。いやいや、わが子にしつをさえ感じていたのです。そうして、自分が、もはや誰にも愛され得ないという事を知った時には、死にたい、いっそひと思いに殺して下さい、などと願うのです。なんという、わがまま者。王子を、もっと愛してあげなければいけません。王子だって、淋しいお子です。ラプンツェルに死なれたら、どんなに力を落すでしょう。ラプンツェルは、王子の愛情に報いなければいけません。生きていたい、なんとかして生きたい。自分が、どんなにつらい目に遭っても、子供のために生きたい。その子を愛して、まるまると丈夫に育てたいと一すじに願う事こそ、まさしく、諦めを知った人間の謙虚な態度ではないでしょうか。自分は醜いから、ひとに愛される事は出来ないが、せめて人を、かげながら、こっそり愛して行こう、誰に知られずともよい、愛する事ほど大いなるよろこびは無いのだと、素直に諦めている女性こそ、まことに神のちようです。そのひとは、よし誰にも愛されずとも、神さまの大きい愛に包まれているはずです。幸福なるかな、なんて、筆者は、おそろしく神妙な事を弁じ立てましたけれども、筆者の本心は、必ずしも以上の陳述のとおりでもないのであります。筆者は、やはり人間は、美しくて、皆に夢中で愛されたら、それに越した事は無いとも思っているのでございますが、でも、以上のように神妙に言い立てなければ、あるいは初枝女史の御不興をこうむるやも計り難いので、おっかな、びっくり、心にも無いゆうえんな事どものみを申し述べました。そもそも初枝女史は、実に筆者の実姉にあたり、かつまた、筆者のフランス語の教師なのでありますから、筆者は、つねにその御識見にそむかざるよう、きつきゆうじよとして、もっぱらおついしようこれ努めなければなりませぬ。長幼、序ありとは言いながら、幼者たるもの、また、つらい哉。さて、ラプンツェルは、以上述べてまいりましたように、あきらめを知らぬ無智な女性でありますから、自分が、もはや、ひとから愛撫される資格を失ったと思うより早く、いっそ死にたいと願っています。生きる事は、王子に愛撫される一事だと思い込んでいる様子なので手がつけられません。

 けれども王子は、いまや懸命であります。人は苦しくなると、神においのりするものでありますが、もっと、ぎゅうぎゅう苦しくなると、悪魔にさえ狂乱の姿で取りすがりたくなるものです。王子は、いま、せっぱ詰まって、魔法使いの汚い老婆に、手を合せんばかりにして頼み込んでいるのであります。

「生かしてやってくれ!」と油汗を流して叫びました。悪魔にひざを屈して頼み込んでしまったのであります。しんから愛している人のいのちを取りとめるためには、自分のプライドも何も、全部捨て売りにしても悔いない王子さま。けなげでもあり、また純真れんな王子さま。老婆は、にやりと笑いました。

「よろしい。ラプンツェルを、末永く生かして置いてあげましょう。わしのような顔になっても、お前さまは、やっぱりラプンツェルを今までどおりに可愛がってあげるのだね?」

 王子は、額の油汗を手のひらで乱暴にぬぐって、

「顔。私には、いまそんな事を考えている余裕がない。丈夫なラプンツェルを、いま一度見たいだけだ。ラプンツェルは、まだ若いのだ。若くて丈夫でさえあったら、どんな顔でも醜いはずは無い。さあ、早くラプンツェルを、もとのように丈夫にしてやっておくれ」と、堂々と言ってのけたが、眼には涙が光っていました。美しいままで死なせるのが、本当の深い愛情なのかも知れぬ、けれども、ああ、死なせたくはない、ラプンツェルのいない世界はまつくらやみだ、のろわれた宿命を背負っている女の子ほど可愛いものは無いのだ、生かして置きたい、生かして、いつまでも自分の傍にいさせたい、どんなに醜い顔になってもかまわぬ、私はラプンツェルを好きなのだ、不思議な花、森の精、らんから生れた女体、いつまでも消えずにいてくれ、と哀愁やられんびんやらあいやら、堪えられぬばかりに苦しくて、目前の老婆さえいなかったら、ラプンツェルのせた胸にしがみつき声を惜しまずに泣いてみたい気持でした。

 老婆は、王子の苦しみの表情を、美しいものでも見るように、うっとり眼を細めて、気持よさそうに眺めていました。やがて、「よいお子じゃ」としわがれた声でつぶやきました。「なかなか正直なよいお子じゃ。ラプンツェル、お前は仕合せな女だね」

「いいえ、あたしは不幸な女です」と病床のラプンツェルは、老婆の呟きの言葉を聞きとってこたえました。「あたしは魔法使いの娘です。王子さまに可愛がられると、それだけ一そう強く、あたしは自分の卑しい生れを思い知らされ、恥ずかしく、つらくって、いつも、ふるさとが懐かしく、森の、あの塔で、星や小鳥と話していた時のほうが、いっそ気楽だったように思われるのです。あたしは、このお城から逃げ出して、あの森の、お婆さんのところへ帰ってしまおうと、これまで幾度、考えたかわかりません。けれども、あたしは王子さまと離れるのが、つらかった。あたしは、王子さまを好きなのです。いのちを十でも差し上げたい。王子さまは、とても優しいいおかたです。あたしは、どうしても王子さまとお別れする事が出来ず、きょうまで愚図愚図、このお城にとどまっていたのです。あたしは、仕合せではなかった。毎日毎日が、あたしにとって地獄でした。お婆さん。女は、しんから好きなおかたと連れ添うものじゃないわ。ちっとも、仕合せではありません。ああ、死なせて下さい。あたしは王子さまと生きておわかれする事は、とても出来そうもありませんから、死んでおわかれするのです。あたしがいま死ぬと、あたしも王子さまも、みんな幸福になれるのです」

「それは、お前のわがままだよ」と老婆は、にやにや笑って言いました。その口調には情の深い母の響きがこもっていました。「王子さまは、お前がどんなに醜い顔になっても、お前を可愛がってあげると約束したのだ。たいへんな熱のあげかたさ。えらいものさ。こんな案配じゃ、王子さまは、お前に死なれたら後を追って死ぬかも知れんよ。まあ、とにかく、王子さまの為にも、もう一度、丈夫になってみるがよい。それからの事は、またその時の事さ。ラプンツェル、お前は、もう赤ちゃんを産んだのだよ。お母ちゃんになったのだよ」

 ラプンツェルは、かすかなためいきをもらして、静かに眼をつぶりました。王子は激情の果、いまはもう、すべての表情を失い、化石のように、ぼんやり立ったままでした。

 眼前に、魔法の祭壇が築かれます。老婆は風のように素早く病室から出たかと思うと、何かをひっさげてまた現われ、現われるかと思うと消えて、さまざまの品が病室に持ち込まれるのでした。祭壇は、四本のけもののあしって支えられ、真紅の布で覆われているのですが、その布は、五百種類の、蛇の舌をなめして作ったもので、その真紅の色も、舌からにじみ出た血の色でした。祭壇の上には、黒牛の皮で作られたおそろしく大きなかまが置かれて、その釜の中には熱湯が、火の気も無いのに、沸々と煮えたぎって吹きこぼれるばかりの勢いでありました。老婆は髪を振り乱しその大釜の周囲を何やらじゆもんをとなえながらけめぐり、駈けめぐりながら、数々の薬草、あるいは世にめずらしい品々をその大釜の熱湯の中に投げ込むのでした。たとえば、太古より消える事のなかった高峯の根雪、きらと光って消えかけた一瞬まえのささの葉の霜、一万年生きた亀の甲、月光の中で一粒ずつ拾い集めた砂金、竜のうろこ、生れて一度も日光に当った事のないどぶねずみの眼玉、ほととぎすの吐き出した水銀、ほたるしりの真珠、おうの青い舌、永遠に散らぬの花、ふくろうみみたぶ、てんとう虫のつめ、きりぎりすの奥歯、海底に咲いた梅の花一輪、その他、とてもこの世で入手でき難いような貴重な品々を、次から次と投げ込んで、およそ三百回ほど釜の周囲を駈けめぐり、釜から立ちのぼる湯気がにじのように七いろの色彩を呈して来た時、老婆は、ぴたりと足をとどめ、「ラプンツェル!」と人が変ったような威厳のある口調で病床のラプンツェルに呼びかけました。「母が一生に一度の、難儀の魔法を行います。お前も、しばらく辛抱して!」と言うより早くラプンツェルに躍りかかり、細長いナイフで、ぐさとラプンツェルの胸を突き刺し、王子が、「あ!」と叫ぶ間もなく、せ衰えて紙ほど軽いラプンツェルのからだを両手で抱きとって眼より高く差し挙げ、どぶんと大釜の中に投げ込みました。一声かすかに、かもめの泣き声に似た声が、釜の中から聞えた切りで、あとは又、お湯の煮えたぎる音と、老婆の低い呪文の声ばかりでありました。

 あまりの事に、王子は声もすぐには出ませんでした。ほとんど呟くような低い声でようやく、

「何をするのだ! 殺せとは、たのまなかった。釜で煮よとは、いいつけなかった。かえしてくれ。私のラプンツェルを返してくれ。おまえは、悪魔だ!」とだけは言ってみたものの、それ以上、老婆に食ってかかる気力もなく、ラプンツェルのからのベッドにからだを投げて、わあ! と大声で、子供のように泣き出しました。

 老婆は、それにおかまいなく、血走った眼で釜を見つめ、額から頰からくびから、だらだら汗を流して一心に呪文をとなえているのでした。ふっと呪文が、とぎれた、と同時に釜の中の沸騰の音も、ぴたりとみましたので、王子は涙を流しながら少し頭を挙げて、不審そうに祭壇を見た時、、「ラプンツェル、出ておいで」という老婆の勝ち誇ったような澄んだ呼び声に応えて、やがて現われた、ラプンツェルの顔。

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