その四
三日目。
元日に、次男は郊外の私の家に遊びに来て、近代の日本の小説を片っ端からこきおろし、ひとりで興奮して、日の暮れる頃、「こりゃ、いけない。熱が出たようだ」と
「いかがです、お加減は」と言って母が部屋へはいって来て、
さかんに
「きょうは一日、寝ていなさい。むやみに起きて歩いてはいけませんよ。ごはんも、ここでおあがり。おかゆを、こしらえて置きました。さと(女中の名)が、いま持って来ますから」
「お母さん。お願いがあるんだけど」すこぶる弱い口調である。「きょうはね、僕の番なのです。書いてもいい?」
「なんです」母には一向わからない。「なんの事です」
「ほら、あの、連作を、またはじめているんですよ。きのう、僕は退屈だったものだから、姉さんに頼んで無理に原稿を見せてもらって、ゆうべ一晩、そのつづきを考えていたのです。今度のは、ちょっと、むずかしい」
「いけません、いけません」母は笑いながら、「文豪でも、風邪をひいている時には、いい考えが浮びません。兄さんに代ってもらったらどう?」
「だめだよ。兄さんなんか、だめだよ。兄さんにはね、才能が、無いんですよ。兄さんが書くと、いつでも、演説みたいになってしまう」
「そんな悪口を言っては、いけません。兄さんの書くものは、いつも、男らしくて立派じゃありませんか。お母さんなら、いつも兄さんのが一ばん好きなんだけどねえ」
「わからん。お母さんには、わからん。どうしたって、今度は僕が書かなくちゃいけないんだ。あの続きは、僕でなくちゃ書けないんだ。お母さんお願い。書いてもいいね?」
「困りますね。あなたは、きょうは、寝ていなくちゃいけませんよ。兄さんに代ってもらいなさい。あなたは、明日でも、あさってでも、からだの調子が本当によくなってから書く事にしたらいいじゃありませんか」
「だめだ。お母さんは、僕たちの遊びを馬鹿にしているんだからなあ」大袈裟に溜息を吐いて、蒲団を頭から、かぶってしまった。
「わかりました」母は笑って、「お母さんが悪かったね。それじゃね、こうしたらどう? あなたが寝ながら、ゆっくり言うのを私が、そのまま書いてあげる。ね、そうしましょう。去年の春に、あなたがやはり熱を出して寝ていた時、なにやらむずかしい学校の論文を、あなたの言うとおりに、お母さんが筆記できたじゃないの。あの時、お母さんは、案外上手だったでしょう?」
病人は、蒲団をかぶったまま、返事もしない。母は、途方に暮れた。女中のさとが、朝食のお
いま、さとは次男の枕元に、お膳をうやうやしく置いて、少し淋しい。次男は蒲団を引きかぶったままである。母堂は、それを、ただ静かに眺めて笑っている。さとは、誰にも相手にされない。ひっそり、そこに坐って、
「よほど、お悪いのでしょうか」
「さあ、どうでしょうかねえ」母は、笑っている。
突然、次男は蒲団をはねのけ、くるりと
「さとは、どう思うかねえ」半熟卵を割りながら、ふいと言い出した。「たとえば、だね、僕がお前と結婚したら、お前は、どんな気がすると思うかね」実に、意外の質問である。
さとよりも、母のほうが十倍も
「ま! なんという、ばかな事を言うのです。冗談にも、そんな、ねえ、さとや、お前をからかっているのです。そんな、乱暴な、冗談にも、そんな」
「たとえば、ですよ」次男は、落ちついている。先刻から、もっぱら小説の筋書ばかり考えているのである。その
「そんな、突拍子ない事を言ったって」母は、ひそかにほっとして、「さとには、わかりませんよ、ねえ、さとや。
「わたくしならば」さとは、次男の役に立つ事なら、なんでも言おうと思った。母堂の当惑そうな眼くばせをも無視して、ここぞと、こぶしを固くして答えた。「わたくしならば、死にます」
「なあんだ」次男は、がっかりした様子である。「つまらない。死んじゃったんでは、つまらないんだよ。ラプンツェルが死んじゃったら、物語も、おしまいだよ。だめだねえ。ああ、むずかしい。どんな事にしたらいいかなあ」しきりに小説の筋書ばかり考えている。さとの必死の答弁も、一向に、役に立たなかった様子である。
さとは大いにしょげて、こそこそとお膳を片附け、てれ隠しにわざと、おほほほと笑いながら、またお膳を捧げて部屋から逃げて出て、廊下を歩きながら、泣いてみたいと思ったが、べつに悲しくなかったので、こんどは心から笑ってしまった。
母は、若い者の無心な淡泊さに、そっとお礼を言いたいような気がしていた。自分の濁った狼狽振りを恥ずかしく思った。信頼していていいのだと思った。
「どう? 考えがまとまりましたか? おやすみになったままで、どんどん言ったらいい。お母さんが、筆記してあげますからね」
次男は、また
「まとまったようです。お願い致します」と言った。母は、ついふき出した。
以下は、その日の、母子協力の口述筆記全文である。
──玉のような子が生れました。男の子でした。城中は喜びに沸きかえりました。けれども産後のラプンツェルは、日一日と衰弱しました。国中の名医が寄り集まり、さまざまに手をつくしてみましたが
「だから、だから」ラプンツェルは、寝床の中で静かに涙を流しながら王子に言いました。「だから、あたしは、子供を産むのは、いやですと申し上げたじゃありませんか。あたしは魔法使いの娘ですから、自分の運命をぼんやり予感する事が出来るのです。あたしが子供を産むと、きっと何か、わるい事が起るような気がしてならなかった。あたしの予感は、いつでも必ず当ります。あたしが、いま死んで、それだけで、わざわいが済むといいのですけれど、なんだか、それだけでは済まないような恐ろしい予感もするのです。神さまというものが、あなたのお教え下さったように、もしいらっしゃるならば、あたしは、その神さまにお祈りしたい気持です。あたしたちは、きっと誰かに憎まれています。あたしたちは、ひどくいけない間違いをして来たのではないでしょうか」
「そんな事は無い。そんな事は無い」と王子は病床の枕もとを、うろうろ歩き廻って、
「死ぬなんてばかな事を言ってはいけない」と大いに不満そうに口を
「私は君を、どんなに愛しているのか、わからないのか」とも言いました。王子は、正直な人でした。でも、正直の美徳だけでは、ラプンツェルの重い病気をなおす事は出来ません。
「生きていてくれ!」と
「ただ、生きて、生きてだけ、いてくれ」と声を落して
「ほんとうかね。生きてさえ居れば、いいのじゃな?」という
「何しに来た!」王子は勇気の故ではなく、あまりの恐怖の故に、思わず大声で叫びました。
「娘を助けに来たのじゃないか」老婆は、平気な口調で答え、それから、にやりと笑いました。「知っていたのだよ。婆さんには、この世で、わからない事は無いのだよ。みんな知っていましたよ。お前さまが、わしの娘をこの城に連れて来て、可愛がっていなさる事は、とうから知っていましたよ。ただ、一時の、もて遊びものになさる気だったら、わしだって黙ってはいなかったのだが、そうでもないらしいので、わしは今まで我慢してやっていたのだよ。わしだって、娘が仕合せに暮していると、少しは
「死なせて下さい」ラプンツェルは、病床で
「生かしてやってくれ!」王子は、こんどは本当の勇気を
「わしが、なんで噓など言うものか。よろしい。そんならば、ラプンツェルを末永く生かして置いてあげよう。どんなに醜い顔になっても、お前さまは、変らずラプンツェルを可愛がってあげますか?」
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