桜桃
太宰治/カクヨム近代文学館
桜桃
われ、山にむかいて、目を
──詩篇、第百二十一。
子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を
夏、家族全部
「めし食って大汗かくもげびた事、と
と、ひとりぶつぶつ不平を言い出す。
母は、一歳の次女におっぱいを
「お父さんは、お鼻に一ばん汗をおかきになるようね。いつも、せわしくお鼻を拭いていらっしゃる。」
父は
「それじゃ、お前はどこだ。
「お上品なお父さんですこと。」
「いや、何もお前、医学的な話じゃないか。上品も下品も無い。」
「私はね、」
と母は少しまじめな顔になり、
「この、お乳とお乳のあいだに、……
涙の谷。
父は
私は家庭に
人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。もったいぶって、なかなか笑わぬというのは、善い事であろうか。
つまり、私は、
しかし、それは外見。母が胸をあけると、涙の谷、父の
しかし、その時、涙の谷、と母に言われて父は黙し、何か冗談を言って切りかえそうと思っても、とっさにうまい言葉が
「
と、母の機嫌を損じないように、おっかなびっくり、ひとりごとのようにして
子供が三人。父は家事には全然、無能である。
子供、……七歳の長女も、ことしの春に生れた次女も、少し
父も母も、この長男に
「啞の次男を
こんな新聞の記事もまた、私にヤケ酒を飲ませるのである。
ああ、ただ単に、発育がおくれているというだけの事であってくれたら! この長男が、いまに急に成長し、父母の心配を
母も精一ぱいの努力で生きているのだろうが、父もまた、一生
私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は
はっきり言おう。くどくどと、あちこち持ってまわった書き方をしたが、実はこの小説、夫婦
「涙の谷。」
それが導火線であった。この夫婦は
「涙の谷。」
そう言われて、夫は、ひがんだ。しかし、言い争いは好まない。沈黙した。お前はおれに、いくぶんあてつける気持で、そう言ったのだろうが、しかし、泣いているのはお前だけでない。おれだって、お前に負けず、子供の事は考えている。自分の家庭は大事だと思っている。子供が夜中に、へんな
「誰か、ひとを
と、ひとりごとみたいに、わずかに主張してみた
母も、いったい、無口なほうである。しかし、言うことに、いつも、つめたい自信を持っていた。(この母に限らず、どこの女も、たいていそんなものであるが。)
「でも、なかなか、来てくれるひともありませんから。」
「
「私が、ひとを使うのが下手だとおっしゃるのですか?」
「そんな、……」
父はまた黙した。じつは、そう思っていたのだ。しかし、黙した。
ああ、誰かひとり、雇ってくれたらいい。母が末の子を
「仕事部屋のほうへ、出かけたいんだけど。」
「これからですか?」
「そう。どうしても、今夜のうちに書上げなければならない仕事があるんだ。」
それは、
「今夜は、私、妹のところへ行って来たいと思っているのですけど。」
それも、私は知っていた。妹は重態なのだ。しかし、
「だから、ひとを雇って、……」
言いかけて、私は、よした。女房の身内のひとの事に少しでも、ふれると、ひどく二人の気持がややこしくなる。
生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから
私は
もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうして、酒を飲む場所へまっすぐに行く。
「いらっしゃい。」
「飲もう。きょうはまた、ばかに
「わるくないでしょう? あなたの
「きょうは、
子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。
私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかも知れない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、
桜桃 太宰治/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます