二
堀木と自分。
自分があの京橋のスタンド・バアのマダムの
「よう!
と言いかけて、急に声をひそめ、お勝手でお茶の
「かまわない。何を言ってもいい。」
と自分は落ちついて答えました。
じっさい、ヨシ子は、信頼の天才と言いたいくらい、京橋のバアのマダムとの間はもとより、自分が鎌倉で起した事件を知らせてやっても、ツネ子との間を疑わず、それは自分が
「相変らず、しょっていやがる。なに、たいした事じゃないがね、たまには、高円寺のほうへも遊びに来てくれっていう
忘れかけると、
「飲もうか。」
と自分。
「よし。」
と堀木。
自分と堀木。形は、ふたり似ていました。そっくりの人間のような気がする事もありました。もちろんそれは、安い酒をあちこち飲み歩いている時だけの事でしたが、とにかく、ふたり顔を合せると、みるみる同じ形の同じ毛並の犬に変り降雪のちまたを
その日以来、自分たちは再び旧交をあたためたという形になり、京橋のあの小さいバアにも
忘れも、しません。むし暑い夏の夜でした。堀木は日暮頃、よれよれの
自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。これは、自分の発明した
「いいかい?
と自分が問います。
「トラ。(
と堀木が言下に答えます。
「薬は?」
「粉薬かい? 丸薬かい?」
「注射。」
「トラ。」
「そうかな? ホルモン注射もあるしねえ。」
「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラじゃないか。」
「よし、負けて置こう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ(
「コメ。牧師も
「大出来。そうして、生はトラだなあ。」
「ちがう。それも、コメ。」
「いや、それでは、何でもかでも
「トラ、トラ。大悲劇名詞!」
「なんだ、大トラは君のほうだぜ。」
こんな、下手な
またもう一つ、これに似た遊戯を当時、自分は発明していました。それは、
「花のアントは?」
と自分が問うと、堀木は口を曲げて考え、
「ええっと、花月という料理屋があったから、月だ。」
「いや、それはアントになっていない。むしろ、
「わかった、それはね、
「ハチ?」
「
「なあんだ、それは
「わかった! 花にむら雲、……」
「月にむら雲だろう。」
「そう、そう。花に風。風だ。花のアントは、風。」
「まずいなあ、それは
「いや、
「なおいけない。花のアントはね、……およそこの世で最も花らしくないもの、それをこそ
「だから、その、……待てよ、なあんだ、女か。」
「ついでに、女のシノニムは?」
「
「君は、どうも、
「牛乳。」
「これは、ちょっとうまいな。その調子でもう一つ。恥。オントのアント。」
「恥知らずさ。流行漫画家上司幾太。」
「堀木正雄は?」
この辺から二人だんだん笑えなくなって、焼酎の
「生意気言うな。おれはまだお前のように、
ぎょっとしました。堀木は内心、自分を、真人間あつかいにしていなかったのだ、自分をただ、死にぞこないの、恥知らずの、
「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ。」
と何気無さそうな表情を
「法律さ。」
堀木が平然とそう答えましたので、自分は堀木の顔を見直しました。近くのビルの
「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう。」
罪の対義語が、法律とは! しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に考えて、
「それじゃあ、なんだい、神か? お前には、どこかヤソ
「まあそんなに、軽く片づけるなよ。も少し、二人で考えて見よう。これはでも、
「まさか。……罪のアントは、善さ。善良なる市民。つまり、おれみたいなものさ。」
「
「悪と罪とは
「違う、と思う。善悪の
「うるせえなあ。それじゃ、やっぱり、神だろう。神、神。なんでも、神にして置けば間違いない。腹がへったなあ。」
「いま、したでヨシ子がそら豆を
「ありがてえ。好物だ。」
両手を頭のうしろに組んで、
「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね。」
「そりゃそうさ。お前のように、罪人では無いんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ。」
死なせたのではない、巻き上げたのではない、と心の
自分には、どうしても、正面切っての議論が出来ません。
「しかし、
「ツミの対語は、ミツさ。
「君が持って来たらいいじゃないか!」
ほとんど生れてはじめてと言っていいくらいの、
「ようし、それじゃ、したへ行って、ヨシちゃんと二人で罪を
ほとんど、ろれつの
「勝手にしろ。どこかへ行っちまえ!」
「罪と空腹、空腹とそら豆、いや、これはシノニムか。」
罪と
「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」
堀木の声も顔色も変っています。堀木は、たったいまふらふら起きてしたへ行った、かと思うとまた引返して来たのです。
「なんだ。」
異様に殺気立ち、ふたり、屋上から二階へ降り、二階から、さらに階下の自分の部屋へ降りる階段の
「見ろ!」
と小声で言って指差します。
自分の部屋の上の小窓があいていて、そこから部屋の中が見えます。電気がついたままで、二
自分は、ぐらぐら目まいしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事は無い、など
堀木は、大きい
「同情はするが、しかし、お前もこれで、少しは思い知ったろう。もう、おれは、二度とここへは来ないよ。まるで、
気まずい場所に、
自分は起き上って、ひとりで焼酎を飲み、それから、おいおい声を放って泣きました。いくらでも、いくらでも泣けるのでした。
いつのまにか、背後に、ヨシ子が、そら豆を山盛りにしたお皿を持ってぼんやり立っていました。
「なんにも、しないからって言って、……」
「いい。何も言うな。お前は、ひとを疑う事を知らなかったんだ。お
並んで坐って豆を食べました。
さすがにその商人は、その後やっては来ませんでしたが、自分には、どうしてだか、その商人に対する
ゆるすも、ゆるさぬもありません。ヨシ子は信頼の天才なのです。ひとを疑う事を知らなかったのです。しかし、それゆえの
神に問う。信頼は罪なりや。
ヨシ子が汚されたという事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたという事が、自分にとってそののち永く、生きておられないほどの苦悩の種になりました。自分のような、いやらしくおどおどして、ひとの顔いろばかり
「おい。」
と呼ぶと、ぴくっとして、もう
果して、無垢の信頼心は、罪の原泉なりや。
自分は、人妻の
無垢の信頼心は、罪なりや。
その年の暮、自分は夜おそく
ジアール。自分はその頃もっぱら焼酎で、
自分は、音を立てないようにそっとコップに水を満たし、それから、ゆっくり箱の封を切って、全部、一気に口の中にほうり、コップの水を落ちついて飲みほし、電灯を消してそのまま寝ました。
三昼夜、自分は死んだようになっていたそうです。医者は過失と見なして、警察にとどけるのを
「このまえも、年の暮の事でしてね、お
ヒラメの話の聞き手になっているのは、京橋のバアのマダムでした。
「マダム。」
と自分は呼びました。
「うん、何? 気がついた?」
マダムは笑い顔を自分の顔の上にかぶせるようにして言いました。
自分は、ぽろぽろ
「ヨシ子とわかれさせて。」
自分でも思いがけなかった言葉が出ました。
マダムは身を起し、
それから自分は、これもまた実に思いがけない
「僕は、女のいないところに行くんだ。」
うわっはっは、とまず、ヒラメが大声を
「うん、そのほうがいい。」
とヒラメは、いつまでもだらし無く笑いながら、
「女のいないところに行ったほうがよい。女がいると、どうもいけない。女のいないところとは、いい思いつきです。」
女のいないところ。しかし、この自分の阿呆くさいうわごとは、のちに
ヨシ子は、何か、自分がヨシ子の身代りになって毒を飲んだとでも思い込んでいるらしく、以前よりも
東京に大雪の降った夜でした。自分は酔って銀座裏を、ここはお国を何百里、ここはお国を何百里、と小声で
こうこは、どうこの細道じゃ?
こうこは、どうこの細道じゃ?
自分は立って、取り
それっきり、一言も口をきかずに、自分はその薬屋から出て、よろめいてアパートに帰り、ヨシ子に塩水を作らせて飲み、
「お酒をおよしにならなければ。」
自分たちは、肉身のようでした。
「アル中になっているかも知れないんです。いまでも飲みたい。」
「いけません。私の主人も、テーベのくせに、
「不安でいけないんです。こわくて、とても、だめなんです。」
「お薬を差し上げます。お酒だけは、およしなさい。」
奥さん(未亡人で、男の子がひとり、それは千葉だかどこだかの医大にはいって、間もなく父と同じ病いにかかり、休学入院中で、家には中風の
これは、造血
これは、ヴィタミンの注射液。注射器は、これ。
これは、カルシウムの
これは、何。これは、何、と五、六種の薬品の説明を愛情こめてしてくれたのですが、しかし、この不幸な奥さんの愛情もまた、自分にとって深すぎました。最後に奥さんが、これは、どうしても、なんとしてもお酒を飲みたくて、たまらなくなった時のお薬、と言って素早く紙に包んだ小箱。
モルヒネの注射液でした。
酒よりは、害にならぬと奥さんも言い、自分もそれを信じて、また一つには、酒の酔いもさすがに不潔に感ぜられて来た矢先でもあったし、久し振りにアルコールというサタンからのがれる事の出来る喜びもあり、何の
一日一本のつもりが、二本になり、四本になった
「いけませんよ、中毒になったら、そりゃもう、たいへんです。」
薬屋の奥さんにそう言われると、自分はもう
「たのむ! もう一箱。
「勘定なんて、いつでもかまいませんけど、警察のほうが、うるさいのでねえ。」
ああ、いつでも自分の周囲には、何やら、
「そこを何とか、ごまかして、たのむよ、奥さん。キスしてあげよう。」
奥さんは、顔を赤らめます。
自分は、いよいよつけ込み、
「薬が無いと仕事がちっとも、はかどらないんだよ。僕には、あれは強精剤みたいなものなんだ。」
「それじゃ、いっそ、ホルモン注射がいいでしょう。」
「ばかにしちゃいけません。お酒か、そうでなければ、あの薬か、どっちかで無ければ仕事が出来ないんだ。」
「お酒は、いけません。」
「そうでしょう? 僕はね、あの薬を使うようになってから、お酒は一
奥さんは笑い出し、
「困るわねえ。中毒になっても知りませんよ。」
コトコトと松葉杖の音をさせて、その薬品を棚から取り出し、
「一箱は、あげられませんよ。すぐ使ってしまうのだもの。半分ね。」
「ケチだなあ、まあ、仕方が無いや。」
家へ帰って、すぐに一本、注射をします。
「痛くないんですか?」
ヨシ子は、おどおど自分にたずねます。
「それあ痛いさ。でも、仕事の能率をあげるためには、いやでもこれをやらなければいけないんだ。僕はこの頃、とても元気だろう? さあ、仕事だ。仕事、仕事。」
とはしゃぐのです。
深夜、薬屋の戸をたたいた事もありました。寝巻姿で、コトコト松葉杖をついて出て来た奥さんに、いきなり
奥さんは、黙って自分に一箱、
薬品もまた、
死にたい、いっそ、死にたい、もう取返しがつかないんだ、どんな事をしても、何をしても、
いくら仕事をしても、薬の使用量もしたがってふえているので、薬代の借りがおそろしいほどの額にのぼり、奥さんは、自分の顔を見ると
この地獄からのがれるための最後の手段、これが失敗したら、あとはもう首をくくるばかりだ、という神の存在を
しかし、結果は一そう悪く、待てど暮せど何の返事も無く、自分はその
今夜、十本、一気に注射し、そうして大川に飛び込もうと、ひそかに
「お前は、
堀木は、自分の前にあぐらをかいてそう言い、いままで見た事も無いくらいに
自分は自動車に乗せられました。とにかく入院しなければならぬ、あとは自分たちにまかせなさい、とヒラメも、しんみりした口調で、(それは
サナトリアムとばかり思っていました。
自分は若い医師のいやに物やわらかな、
「まあ、しばらくここで静養するんですね。」
と、まるで、はにかむように微笑して言い、ヒラメと堀木とヨシ子は、自分ひとりを置いて帰ることになりましたが、ヨシ子は
「いや、もう
実に、
けれども、自分はそれからすぐに、あのはにかむような微笑をする若い医師に案内せられ、
女のいないところへ行くという、あのジアールを飲んだ時の自分の
いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて自分は
神に問う。
堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車に乗り、そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。
ここへ来たのは初夏の
故郷の山河が眼前に見えるような気がして来て、自分は
まさに廃人。
父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ
長兄は自分に対する約束を正確に実行してくれました。自分の生れて育った町から汽車で四、五時間、南下したところに、東北には珍らしいほど暖かい海辺の温泉地があって、その村はずれの、間数は五つもあるのですが、かなり古い家らしく
それから三年と少し
自分は
「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という、」
と言いかけて、うふふふと笑ってしまいました。「廃人」は、どうやらこれは、喜劇名詞のようです。眠ろうとして下剤を飲み、しかも、その下剤の名前は、ヘノモチン。
いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分はことし、二十七になります。
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