第三の手記
一
竹一の予言の、一つは当り、一つは、はずれました。
自分は、わずかに、粗悪な雑誌の、無名の下手な
鎌倉の事件のために、高等学校からは追放せられ、自分は、ヒラメの家の二階の、三
「出ちゃいけませんよ。とにかく、出ないで下さいよ。」
そればかり自分に言っているのでした。
ヒラメは、自分に自殺のおそれありと、にらんでいるらしく、つまり、女の後を追ってまた海へ飛び込んだりする危険があると見てとっているらしく、自分の外出を固く禁じているのでした。けれども、酒も飲めないし、
ヒラメの家は、
ヒラメの家では食事はいつもその小僧がつくり、二階のやっかい者の食事だけは別にお
三月末の或る夕方、ヒラメは思わぬもうけ口にでもありついたのか、または何か
「どうするつもりなんです、いったい、これから。」
自分はそれに答えず、卓上の皿から
自分がこの家へ来てからは、道化を演ずる張合いさえ無く、ただもうヒラメと小僧の
「
ヒラメの話方には、いや、世の中の全部の人の話方には、このようにややこしく、どこか
この時もヒラメが、自分に向って、だいたい次のように簡単に報告すれば、それですむ事だったのを自分は後年に
ヒラメは、その時、ただこう言えばよかったのでした。
「官立でも私立でも、とにかく四月から、どこかの学校へはいりなさい。あなたの生活費は、学校へはいると、くにから、もっと
ずっと後になってわかったのですが、事実は、そのようになっていたのでした。そうして、自分もその言いつけに従ったでしょう。それなのに、ヒラメのいやに用心深く持って廻った言い方のために、妙にこじれ、自分の生きて行く方向もまるで変ってしまったのです。
「
「どんな相談?」
自分には、本当に何も見当がつかなかったのです。
「それは、あなたの胸にある事でしょう?」
「たとえば?」
「たとえばって、あなた自身、これからどうする気なんです。」
「働いたほうが、いいんですか?」
「いや、あなたの気持は、いったいどうなんです。」
「だって、学校へはいるといったって、……」
「そりゃ、お金が
お金は、くにから来る事になっているんだから、となぜ一こと、言わなかったのでしょう。その一言に
「どうですか? 何か、将来の希望、とでもいったものが、あるんですか? いったい、どうも、ひとをひとり世話しているというのは、どれだけむずかしいものだか、世話されているひとには、わかりますまい。」
「すみません。」
「そりゃ実に、心配なものです。私も、いったんあなたの世話を引受けた以上、あなたにも、
「ここの二階に、置いてもらえなかったら、働いて、……」
「本気で、そんな事を言っているのですか? いまのこの世の中に、たとい帝国大学校を出たって、……」
「いいえ、サラリイマンになるんでは無いんです。」
「それじゃ、何です。」
「画家です。」
思い切って、それを言いました。
「へええ?」
自分は、その時の、
そんな事では話にも何もならぬ、ちっとも気持がしっかりしていない、考えなさい、今夜一晩まじめに考えてみなさい、と言われ、自分は追われるように二階に上って、
夕方、間違いなく帰ります。左記の友人の
と、
ヒラメに説教せられたのが、くやしくて逃げたわけではありませんでした。まさしく自分は、ヒラメの言うとおり、気持のしっかりしていない男で、将来の方針も何も自分にはまるで見当がつかず、この上、ヒラメの家のやっかいになっているのは、ヒラメにも気の毒ですし、そのうちに、もし万一、自分にも発奮の気持が起り、志を立てたところで、その更生資金をあの貧乏なヒラメから月々援助せられるのかと思うと、とても心苦しくて、いたたまらない気持になったからでした。
しかし、自分は、
自分はヒラメの家を出て、新宿まで歩き、
堀木。
それこそ、
堀木は、在宅でした。
堀木は、その日、彼の都会人としての新しい一面を自分に見せてくれました。それは、
「お前には、全く
自分は、れいに依って、ごまかしました。いまに、すぐ、堀木に気附かれるに違いないのに、ごまかしました。
「それは、どうにかなるさ。」
「おい、笑いごとじゃ無いぜ。忠告するけど、馬鹿もこのへんでやめるんだな。おれは、きょうは、用事があるんだがね。この
「用事って、どんな?」
「おい、おい、
自分は話をしながら、自分の
堀木の老母が、おしるこを二つお
「あ、これは、」
と堀木は、しんからの孝行息子のように、老母に向って
「すみません、おしるこですか。
と、まんざら
「わるいけど、おれは、きょうは用事があるんでね。」
堀木は立って、
「失敬するぜ、わるいけど。」
その時、堀木に女の訪問者があり、自分の身の上も急転しました。
堀木は、にわかに活気づいて、
「や、すみません。いまね、あなたのほうへお
よほど、あわてているらしく、自分が自分の敷いている座蒲団をはずして裏がえしにして差し出したのを引ったくって、また裏がえしにして、その女のひとにすすめました。部屋には、堀木の座蒲団の
女のひとは
自分は、ぼんやり二人の会話を聞いていました。女は雑誌社のひとのようで、堀木にカットだか、何だかをかねて頼んでいたらしく、それを受取りに来たみたいな具合いでした。
「いそぎますので。」
「出来ています。もうとっくに出来ています。これです、どうぞ。」
電報が来ました。
堀木が、それを読み、上
「ちぇっ! お前、こりゃ、どうしたんだい。」
ヒラメからの電報でした。
「とにかく、すぐに帰ってくれ。おれが、お前を送りとどけるといいんだろうが、おれにはいま、そんなひまは、
「お宅は、どちらなのですか?」
「大久保です。」
ふいと答えてしまいました。
「そんなら、社の近くですから。」
女は、
「あなたは、ずいぶん苦労して育って来たみたいなひとね。よく気がきくわ。
はじめて、男めかけみたいな生活をしました。シヅ子(というのが、その女記者の名前でした)が新宿の雑誌社に勤めに出たあとは、自分とそれからシゲ子という五つの女児と二人、おとなしくお留守番という事になりました。それまでは、母の留守には、シゲ子はアパートの管理人の部屋で遊んでいたようでしたが、「気のきく」おじさんが遊び相手として現われたので、大いに御機嫌がいい様子でした。
一週間ほど、ぼんやり、自分はそこにいました。アパートの窓のすぐ近くの電線に、
「お金が、ほしいな。」
「……いくら位?」
「たくさん。……金の切れ目が、
「ばからしい。そんな、古くさい、……」
「そう? しかし、君には、わからないんだ。このままでは、僕は、逃げる事になるかも知れない。」
「いったい、どっちが
「自分でかせいで、そのお金で、お酒、いや、
このような時、自分の
飲み残した一杯のアブサン。
自分は、その永遠に
「ふふ、どうだか。あなたは、まじめな顔をして
冗談ではないのだ、本当なんだ、ああ、あの絵を見せてやりたい、と空転の
「
その、ごまかしの道化の言葉のほうが、かえってまじめに信ぜられました。
「そうね。私も、実は感心していたの。シゲ子にいつもかいてやっている漫画、つい私まで
その社では、子供相手のあまり名前を知られていない月刊の雑誌を発行していたのでした。
……あなたを見ると、たいていの女のひとは、何かしてあげたくて、たまらなくなる。……いつも、おどおどしていて、それでいて、
シヅ子に、そのほかさまざまの事を言われて、おだてられても、それが
シヅ子の取計らいで、ヒラメ、堀木、それにシヅ子、三人の会談が成立して、自分は、故郷から全く絶縁せられ、そうしてシヅ子と「天下晴れて」
そういう時の自分にとって、
「お父ちゃん。お
自分こそ、そのお祈りをしたいと思いました。
ああ、われに冷き意志を
「うん、そう。シゲちゃんには何でも下さるだろうけれども、お父ちゃんには、
自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の
「どうして、ダメなの?」
「親の言いつけに、そむいたから。」
「そう? お父ちゃんはとてもいいひとだって、みんな言うけどな。」
それは、だましているからだ、このアパートの人たち
「シゲちゃんは、いったい、神様に何をおねだりしたいの?」
自分は、何気無さそうに
「シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの。」
ぎょっとして、くらくら目まいしました。敵。自分がシゲ子の敵なのか、シゲ子が自分の敵なのか、とにかく、ここにも自分をおびやかすおそろしい
シゲ子だけは、と思っていたのに、やはり、この者も、あの「不意に
「
堀木が、また自分のところへたずねて来るようになっていたのです。あの家出の日に、あれほど自分を
「お前の漫画は、なかなか人気が出ているそうじゃないか。アマチュアには、こわいもの知らずの
お
「それを言ってくれるな。ぎゃっという悲鳴が出る。」
堀木は、いよいよ得意そうに、
「
世渡りの才能。……自分には、ほんとうに
堀木は、何せ、(それはシヅ子に押してたのまれてしぶしぶ引受けたに違いないのですが)自分の家出の後仕末に立ち合ったひとなので、まるでもう、自分の
「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな。」
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか。」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を
(それは世間が、ゆるさない。)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から
(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)
「
と言って笑っただけでした。
けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。また、堀木の言葉を借りて言えば、へんにケチになりました。また、シゲ子の言葉を借りて言えば、あまりシゲ子を
無口で、笑わず、毎日毎日、シゲ子のおもりをしながら、「キンタさんとオタさんの冒険」やら、またノンキなトウサンの歴然たる
「見れば見るほど、へんな顔をしているねえ、お前は。ノンキ和尚の顔は、実は、お前の
「あなたの寝顔だって、ずいぶんお
「お前のせいだ。吸い取られたんだ。水の流れと、人の身はあサ。何をくよくよ
「
落ちついていて、まるで相手にしません。
「酒なら飲むがね。水の流れと、人の身はあサ。人の流れと、いや、水の流れえと、水の身はあサ。」
してその
自然また大きな
ゆくてを
上田敏訳のギイ・シャルル・クロオとかいうひとの、こんな詩句を見つけた時、自分はひとりで顔を燃えるくらいに赤くしました。
(それが、自分だ。世間がゆるすも、ゆるさぬもない。葬むるも、葬むらぬもない。自分は、犬よりも
自分の飲酒は、
ここへ来て、あの破れた
「なぜ、お酒を飲むの?」
「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから、だから、……」
「いいひとは、お酒を飲むの?」
「そうでもないけど、……」
「お父ちゃんは、きっと、びっくりするわね。」
「おきらいかも知れない。ほら、ほら、箱から飛び出した。」
「セッカチピンチャンみたいね。」
「そうねえ。」
シヅ子の、しんから幸福そうな低い笑い声が聞えました。
自分が、ドアを細くあけて中をのぞいて見ますと、
(幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を
自分は、そこにうずくまって
そうして、京橋のすぐ近くのスタンド・バアの二階に自分は、またも男めかけの形で、寝そべる事になりました。
世間。どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たような気がしていました。個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ、人間は決して人間に服従しない、
高円寺のアパートを捨て、京橋のスタンド・バアのマダムに、
「わかれて来た。」
それだけ言って、それで
自分は、その店のお客のようでもあり、
自分は世の中に対して、
そうは言っても、やはり人間というものが、まだまだ、自分にはおそろしく、店のお客と
京橋へ来て、こういうくだらない生活を
涙を
まァ一杯いこう
よけいな心づかいなんか忘れっちまいな
不安や恐怖もて人を
死にしものの
よべ 酒
けさ さめて
いぶかし
様変りたる
遠くから
何がなしそいつは不安だ
正義は人生の指針たりとや?
さらば血に
暗殺者の
何の正義か宿れるや?
いずこに指導原理ありや?
いかなる
かよわき人の子は背負切れぬ荷をば負わされ
どうにもできない
善だ悪だ罪だ
どうにもできない只まごつくばかり
どこをどう
ナニ批判 検討 再認識?
ヘッ
エヘッ 酒を忘れたんで みんな
どうだ
此中にポッチリ浮んだ点じゃい
此地球が何んで自転するのか分るもんか
自転 公転 反転も勝手ですわい
至る
あらゆる国にあらゆる民族に
同一の人間性を発見する
我は
みんな聖経をよみ
でなきゃ常識も
いいわ ムスタッファ わたしそんなの 大嫌い
けれども、その
「いけないわ、毎日、お昼から、酔っていらっしゃる。」
バアの向いの、小さい
「なぜ、いけないんだ。どうして悪いんだ。あるだけの酒をのんで、人の子よ、
「わからない。」
「この
「してよ。」
ちっとも悪びれず
「
しかし、ヨシちゃんの表情には、あきらかに
としが明けて厳寒の夜、自分は酔って煙草を買いに出て、その煙草屋の前のマンホールに落ちて、ヨシちゃん、たすけてくれえ、と
「飲みすぎますわよ。」
と笑わずに言いました。
自分は死ぬのは平気なんだけど、
「やめる。あしたから、
「ほんとう?」
「きっと、やめる。やめたら、ヨシちゃん、僕のお
しかし、お嫁の件は
「モチよ。」
モチとは、「
「ようし。ゲンマンしよう。きっとやめる。」
そうして
夕方、ふらふら外へ出て、ヨシちゃんの店の前に立ち、
「ヨシちゃん、ごめんね。飲んじゃった。」
「あら、いやだ。
ハッとしました。酔いもさめた気持でした。
「いや、本当なんだ。本当に飲んだのだよ。酔った振りなんかしてるんじゃない。」
「からかわないでよ。ひとがわるい。」
てんで疑おうとしないのです。
「見ればわかりそうなものだ。きょうも、お昼から飲んだのだ。ゆるしてね。」
「お
「芝居じゃあないよ、馬鹿野郎。キスしてやるぞ。」
「してよ。」
「いや、僕には資格が無い。お嫁にもらうのもあきらめなくちゃならん。顔を見なさい、赤いだろう? 飲んだのだよ。」
「それあ、夕陽が当っているからよ。かつごうたって、だめよ。きのう約束したんですもの。飲む
そうして自分たちは、やがて結婚して、それに
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