第二の手記
海の、
その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い
生れてはじめて、
自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも
もはや、自分の正体を完全に
その日、体操の時間に、その生徒(
「ワザ。ワザ。」
自分は
それからの日々の、自分の不安と恐怖。
表面は相変らず
自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に
その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、
「耳が痛い。」
竹一は、立ったままでそう言いました。
「雨に
自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。
「これは、いけない。痛いだろう。」
と自分は
「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね。」
と女の言葉みたいな言葉を
「お前は、きっと、女に
と自分の膝枕で寝ながら、
しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしい
竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという
自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また
女は引き寄せて、つっ放す、
女は、男よりも
自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はその
「
「いいえ。」
と
「きょうね、学校でね、コンボウという地理の先生がね、」
とするする口から流れ出るものは、心にも無い
「葉ちゃん、眼鏡をかけてごらん。」
或る晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせた
「なぜ?」
「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡を借りなさい。」
いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。道化師は、
「そっくり。ロイドに、そっくり。」
当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。
自分は立って片手を
「諸君、」
と言い、
「このたび、日本のファンの
と一場の
また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の
「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、
などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして
「何か
と言いました。
自分は
「ごちそうさま。」
アネサは、
また、妹
しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現では
竹一は、また、自分にもう一つ、重大な
「お化けの絵だよ。」
いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
おや? と思いました。その
「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら。」
自分は本棚から、モジリアニの画集を出し、焼けた
「すげえなあ、」
竹一は
「
「やっぱり、お化けかね。」
「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ。」
あまりに人間を
「僕も
と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。
自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。けれども、自分のかいた絵は、自分の
自分でも、ぎょっとしたほど、
また、学校の図画の時間にも、自分はあの「お化け式手法」は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しく
自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を平気で見せていましたし、こんどの自画像も安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、
「お前は、
という予言を得たのでした。
自分は、美術学校にはいりたかったのですが、父は、前から自分を高等学校にいれて、末は
父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しかその家に
自分は、やがて画塾で、
その画学生は、
「五円、貸してくれないか。」
お
「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう。」
自分は
「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような
堀木は、色が浅黒く
自分は
「僕は、美術学校にはいろうと思っていたんですけど、……」
「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対するパアトス!」
しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり、自分はその時、生れてはじめて、ほんものの都会の
ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として
しかし、はじめは、この男を好人物、まれに見る好人物とばかり思い込み、さすが人間
それが、堀木に
さらにまた、堀木と附合って救われるのは、堀木が聞き手の
酒、煙草、淫売婦、それは
自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、
しかし、自分は、人間への恐怖からのがれ、
堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうが、しかし、自分にも、重苦しく思い当る事があり、たとえば、
堀木は、また、その
好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結ばれた親愛感では無かったのです。
非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、
また、犯人意識、という言葉もあります。自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に苦しめられながらも、しかし、それは自分の
父は、桜木町の
父の議員の任期もそろそろ満期に近づき、いろいろ理由のあった事に違いありませんが、もうこれきり選挙に出る意志も無い様子で、それに、故郷に
それまで、父から月々、きまった額の
それが急に、下宿のひとり住いになり、何もかも、月々の定額の送金で間に合わせなければならなくなって、自分は、まごつきました。送金は、やはり、二、三日で消えてしまい、自分は
学校は欠席するし、学科の勉強も、すこしもしなかったのに、それでも、妙に試験の答案に要領のいいところがあるようで、どうやらそれまでは、故郷の肉親をあざむき通して来たのですが、しかし、もうそろそろ、出席日数の不足など、学校のほうから内密に故郷の父へ報告が行っているらしく、父の代理として
その
「ごめんなさい。下では、妹や弟がうるさくて、ゆっくり手紙も書けないのです。」
と言って、何やら自分の机に向って一時間以上も書いているのです。
自分もまた、知らん振りをして寝ておればいいのに、いかにもその娘が何か自分に言ってもらいたげの様子なので、れいの受け身の
「女から来たラヴ・レターで、
「あら、いやだ。あなたでしょう?」
「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです。」
「光栄だわ、飲んでよ。」
早くこのひと、帰らねえかなあ、手紙だなんて、見えすいているのに。へへののもへじでも書いているのに違いないんです。
「見せてよ。」
と死んでも見たくない思いでそう言えば、あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、そのうれしがる事、ひどくみっともなく、興が覚めるばかりなのです。そこで自分は、用事でも言いつけてやれ、と思うんです。
「すまないけどね、電車通りの薬屋に行って、カルモチンを買って来てくれない? あんまり疲れすぎて、顔がほてって、かえって眠れないんだ。すまないね。お金は、……」
「いいわよ、お金なんか。」
よろこんで立ちます。用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。
もうひとりは、女子高等
「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ。」
そのキザに
「そのつもりでいるんです。」
と、
下宿屋の娘と言い、またこの「同志」と言い、どうしたって毎日、顔を合せなければならぬ具合になっていますので、これまでの、さまざまの女のひとのように、うまく
同じ頃また自分は、銀座の或る大カフエの女給から、思いがけぬ恩を受け、たったいちど
「十円しか無いんだからね、そのつもりで。」
と言いました。
「心配
どこかに関西の
自分は、お酒を飲みました。そのひとに安心しているので、かえってお道化など演じる気持も起らず、自分の
「こんなの、おすきか?」
女は、さまざまの料理を自分の前に並べました。自分は首を
「お酒だけか? うちも飲もう。」
秋の、寒い夜でした。自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、
自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の
あの
しかし、ただ一夜でした。朝、
「金の切れめが
たしか、そんなふうの
それから、ひとつき、自分は、その夜の恩人とは逢いませんでした。別れて、日が
十一月の末、自分は、堀木と神田の屋台で安酒を飲み、この悪友は、その屋台を出てからも、さらにどこかで飲もうと主張し、もう自分たちにはお金が無いのに、それでも、飲もう、飲もうよ、とねばるのです。その時、自分は、
「よし、そんなら、夢の国に連れて行く。おどろくな、酒池肉林という、……」
「カフエか?」
「そう。」
「行こう!」
というような事になって二人、市電に乗り、堀木は、はしゃいで、
「おれは、今夜は、女に
自分は、堀木がそんな
「いいか。キスするぜ。おれの傍に
「かまわんだろう。」
「ありがたい! おれは女に飢え渇いているんだ。」
銀座四丁目で降りて、その
自分は、人間のいざこざに出来るだけ
自分の眼の前で、堀木の
しかし、事態は、実に思いがけなく、もっと悪く展開せられました。
「やめた!」
と堀木は、口をゆがめて言い、
「さすがのおれも、こんな
閉口し切ったように、
「お酒を。お金は無い。」
自分は、小声でツネ子に言いました。それこそ、
眼が覚めたら、
「金の切れめが縁の切れめ、なんておっしゃって、
「だめ。」
それから、女も休んで、夜明けがた、女の口から「死」という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中への
けれども、その時にはまだ、実感としての「死のう」という
その日の午前、二人は浅草の六区をさまよっていました。
「あなた、
自分は立って、
自分がまごついているので、女も立って、自分のがま口をのぞいて、
「あら、たったそれだけ?」
無心の声でしたが、これがまた、じんと骨身にこたえるほどに痛かったのです。はじめて自分が、恋したひとの声だけに、痛かったのです。それだけも、これだけもない、銅銭三枚は、どだいお金でありません。それは、自分が
その夜、自分たちは、
女のひとは、死にました。そうして、自分だけ助かりました。
自分が高等学校の生徒ではあり、また父の名にもいくらか、所謂ニュウス・ヴァリュがあったのか、新聞にもかなり大きな問題として取り上げられたようでした。
自分は海辺の病院に収容せられ、故郷から
下宿の娘から、短歌を五十も書きつらねた長い手紙が来ました。「生きくれよ」というへんな言葉ではじまる短歌ばかり、五十でした。また、自分の病室に、看護婦たちが陽気に笑いながら遊びに来て、自分の手をきゅっと
自分の左肺に故障のあるのを、その病院で発見せられ、これがたいへん自分に
深夜、保護室の
「おい!」
と自分に声をかけ、
「寒いだろう。こっちへ来て、あたれ。」
と言いました。
自分は、わざとしおしおと宿直室にはいって行き、
「やはり、死んだ女が恋いしいだろう。」
「はい。」
ことさらに、消え入るような細い声で返事しました。
「そこが、やはり人情というものだ。」
彼は
「はじめ、女と関係を結んだのは、どこだ。」
ほとんど裁判官の
「うん、それでだいたいわかった。何でも正直に答えると、わしらのほうでも、そこは手心を加える。」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」
ほとんど入神の演技でした。そうして、自分のためには、何も、一つも、とくにならない力演なのです。
夜が明けて、自分は署長に呼び出されました。こんどは、本式の取調べなのです。
ドアをあけて、署長室にはいったとたんに、
「おう、いい男だ。これあ、お前が悪いんじゃない。こんな、いい男に産んだお前のおふくろが悪いんだ。」
色の浅黒い、大学出みたいな感じのまだ若い署長でした。いきなりそう言われて自分は、自分の顔の半面にべったり
この
「からだを
と言いました。
その朝、へんに
「はい。」
と、
署長は書類を書き終えて、
「
父の東京の
自分は警察の電話帳を借りて、ヒラメの家の電話番号を
「おい、その電話機、すぐ消毒したほうがいいぜ。何せ、血痰が出ているんだから。」
自分が、また保護室に引き上げてから、お巡りたちにそう言いつけている署長の大きな声が、保護室に
お昼すぎ、自分は、細い
けれども、自分には少しの不安も無く、あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、
しかし、その時期のなつかしい思い出の中にも、たった一つ、
「ほんとうかい?」
ものしずかな
自分は起訴
背後の高い窓から夕焼けの空が見え、
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