第二の手記

  

 海の、なみうちぎわ、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒いはだの山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、かつしよくのねばっこいようなわかと共に、青い海を背景にして、そのけんらんたる花をひらき、やがて、はな吹雪ふぶきの時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面をちりばめてただよい、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学のせいぼうしようにも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられていていました。

 その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠いしんせきに当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼のかねの鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなりたいな中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。

 生れてはじめて、わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこにはくべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかもろくしんけんぞく全部そろってすわっている一部屋の中にっては、いかな名優も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどのくせものが、他郷に出て、万が一にも演じそこねるなどという事は無いわけでした。

 自分の人間恐怖は、それは以前にまさるともおとらぬくらいはげしく胸の底でぜんどうしていましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスはおおさえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉ではたんじながら、手で口をおおって笑っていました。自分は、あのかみなりごとばんせいを張り上げる配属将校をさえ、実に容易にき出させる事が出来たのです。

 もはや、自分の正体を完全にいんぺいし得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後からされました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最もひんじやくな肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかにけいのお古と思われるそでしようとくたいの袖みたいに長すぎるうわを着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学というはくに似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。

 その日、体操の時間に、その生徒(せいはいまおくしていませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいにって見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけげんしゆくな顔をして、鉄棒めがけて、えいっとさけんで飛び、そのままはばびのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンとしりもちをつきました。すべて、計画的な失敗でした。果してみなの大笑いになり、自分もしようしながら起き上ってズボンの砂をはらっていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこうささやきました。

「ワザ。ワザ。」

 自分はしんかんしました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いもけない事でした。自分は、世界がいつしゆんにして地獄のごうに包まれて燃え上るのを眼前に見るようなここがして、わあっ! とさけんではつきようしそうな気配を必死の力でおさえました。

 それからの日々の、自分の不安と恐怖。

 表面は相変らずかなしいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しいためいきが出て、何をしたってすべて竹一にみじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっとだれかれとなく、それを言いふらして歩くにちがいないのだ、と考えると、額にじっとりあぶらあせがわいて来て、狂人みたいにみようつきで、あたりをキョロキョロむなしくまわしたりしました。できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一のそばからはなれず彼が秘密を口走らないようにかんしていたい気持でした。そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂いわゆる「ワザ」では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死をいのるより他は無い、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでのしようがいいて、人に殺されたいと願望した事はいくとなくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福をあたえるだけの事だと考えていたからです。

 自分は、彼を手なずけるため、まず、顔ににせクリスチャンのような「やさしい」しようたたえ、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽くき、そうしてねこで声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしばさそいましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、だまっていました。しかし、自分は、る日の放課後、たしか初夏のころの事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふとばこのかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、かさを貸してあげる、と言い、おくする竹一の手を引っぱって、いつしよに夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母おばさんにかわかしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。

 その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡めがねをかけて、病身らしい背の高い姉むすめ(この娘は、いちどよそへおよめに行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校を卒業したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、ぶんぼうやら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六むねの長屋の家賃のようでした。

「耳が痛い。」

 竹一は、立ったままでそう言いました。

「雨にれたら、痛くなったよ。」

 自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。うみが、いまにもかくの外に流れ出ようとしていました。

「これは、いけない。痛いだろう。」

 と自分はおおにおどろいて見せて、

「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね。」

 と女の言葉みたいな言葉をつかって「優しく」謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって来て、竹一を自分のひざまくらにしてかせ、念入りに耳のそうをしてやりました。竹一も、さすがに、これがぜんの悪計であることにはかなかったようで、

「お前は、きっと、女にれられるよ。」

 と自分の膝枕で寝ながら、なお世辞を言ったくらいでした。

 しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしいあくの予言のようなものだったという事を、自分は後年にいたって思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「げんしゆく」の場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみるゆううつらんほうかいし、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などというぞくでなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、あながち憂鬱の伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、みようなものだと思います。

 竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、かすかに思い当るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というようなな言葉に依って生じるやにさがったふんに対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど落語のわかだんのせりふにさえならぬくらい、おろかしいかんかいを示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」わけでは無いのです。

 自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、またしんせきにも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、はくひようむ思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。ほとんど、まるで見当が、つかないのです。ちゆうで、そうして時たま、とらを踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受けるむちとちがって、内出血みたいに極度に不快にないこうして、なかなかがたい傷でした。

 女は引き寄せて、つっ放す、あるいはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、じやけんにし、誰もいなくなると、ひしときしめる、女は死んだように深くねむる、女は眠るために生きているのではないかしら、そのほか、女にいてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。

 女は、男よりもさらに、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいにほおる事が出来るようです。

 自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はそのたびごとに飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、

勉強?」

「いいえ。」

 としようして本を閉じ、

「きょうね、学校でね、コンボウという地理の先生がね、」

 とするする口から流れ出るものは、心にも無いこつけいばなしでした。

「葉ちゃん、眼鏡をかけてごらん。」

 或る晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせたあげの果に、そんな事を言い出しました。

「なぜ?」

「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡を借りなさい。」

 いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。道化師は、なおにアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。

「そっくり。ロイドに、そっくり。」

 当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。

 自分は立って片手をげ、

「諸君、」

 と言い、

「このたび、日本のファンのみなさまがたに、……」

 と一場のあいさつを試み、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。

 また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分のかけとんの上にたおれて泣き、

「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、いつしよに出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて。」

 などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さしておどろかず、かえってそのちん、無内容に興が覚めたここで、そっと蒲団からけ出し、机の上のかきをむいて、その一きれをアネサにわたしてやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、

「何かおもしろい本が無い? 貸してよ。」

 と言いました。

 自分はそうせきの「わがはいねこである」という本を、ほんだなから選んであげました。

「ごちそうさま。」

 アネサは、ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓みみずの思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、うすの悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べてげんを直すという事だけは、幼い時から、自分の経験にって知っていました。

 また、妹むすめのセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。

 しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現ではだ決して無かったのでした。つまり、自分は、日本の東北のハロルド・ロイドに過ぎなかったのです。竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉なけいぼうていするようになったのは、更にそれから、数年った後の事でありました。

 竹一は、また、自分にもう一つ、重大なおくり物をしていました。

「お化けの絵だよ。」

 いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。

 おや? と思いました。そのしゆんかん、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の自画像に過ぎないのを知っていました。自分たちの少年のころには、日本ではフランスの所謂印象派のが大流行していて、洋画かんしようの第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵は、田舎いなかの中学生でも、たいていその写真版を見て知っていたのでした。自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん見て、タッチの面白さ、色彩のあざやかさにきようしゆを覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が無かったのでした。

「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら。」

 自分は本棚から、モジリアニの画集を出し、焼けたしやくどうのようなはだの、れいのの像を竹一に見せました。

「すげえなあ、」

 竹一はを丸くしてかんたんしました。

ごくの馬みたい。」

「やっぱり、お化けかね。」

「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ。」

 あまりに人間をきようしている人たちは、かえって、もっともっと、おそろしいようかいを確実にこので見たいと願望するにいたる心理、神経質な、ものにおびえやすい人ほど、暴風雨の更に強からん事をいのる心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物にいためつけられ、おびやかされたあげの果、ついにげんえいを信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかもかれは、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、かんぜんと「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、なみだが出たほどに興奮し、

「僕もくよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ。」

 と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。

 自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。けれども、自分のかいた絵は、自分のつづり方ほどには、周囲の評判が、よくありませんでした。自分は、どだい人間の言葉を一向に信用していませんでしたので、綴り方などは、自分にとって、ただお道化の挨拶みたいなもので、小学校、中学校、と続いて先生たちをきようさせて来ましたが、しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、(まんなどは別ですけれども)その対象の表現に、幼い我流ながら、多少の苦心をはらっていました。学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全くたらにさまざまの表現法を自分でふうして試みなければならないのでした。中学校へはいって、自分は油絵の道具もひとそろい持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、印象派の画風に求めても、自分の画いたものは、まるで千代紙細工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分のそれまでの絵画に対する心構えが、まるでちがっていた事に気がきました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、あるいはみにくいものにおうをもよおしながらも、それに対する興味をかくさず、表現のよろこびにひたっている、つまり、人のおもわくに少しもたよっていないらしいという、画法のプリミチヴなとらの巻を、竹一から、さずけられて、れいの女の来客たちには隠して、少しずつ、自画像の制作に取りかかってみました。

 自分でも、ぎょっとしたほど、いんさんな絵が出来上りました。しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑せているけれども、実は、こんないんうつな心を自分は持っているのだ、仕方が無い、とひそかにこうていし、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがにだれにも見せませんでした。自分のお道化の底の陰惨を見破られ、急にケチくさくけいかいせられるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも知れぬというねんもあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの奥深くしまい込みました。

 また、学校の図画の時間にも、自分はあの「お化け式手法」は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しくく式のぼんようなタッチで画いていました。

 自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を平気で見せていましたし、こんどの自画像も安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、

「お前は、えらい絵画きになる。」

 という予言を得たのでした。

 れられるという予言と、偉い絵画きになるという予言と、この二つの予言を鹿の竹一に依って額に刻印せられて、やがて、自分は東京へ出て来ました。

 自分は、美術学校にはいりたかったのですが、父は、前から自分を高等学校にいれて、末はかんにするつもりで、自分にもそれを言いわたしてあったので、くちごたえ一つ出来ないたちの自分は、ぼんやりそれに従ったのでした。四年から受けて見よ、と言われたので、自分も桜と海の中学はもういい加減あきていましたし、五年に進級せず、四年しゆうりようのままで、東京の高等学校に受験して合格し、すぐにりよう生活にはいりましたが、その不潔とぼうへきえきして、道化どころではなく、医師に肺しんじゆんしんだんしよを書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父のべつそうに移りました。自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。それにまた、青春の感激だとか、若人わこうどほこりだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール・スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。教室も寮も、ゆがめられたせいよくの、はきだめみたいな気さえして、自分のかんぺきに近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。

 父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しかその家にたいざいしていませんでしたので、父の留守の時は、かなり広いその家に、別荘番の老ふうと自分と三人だけで、自分は、ちょいちょい学校を休んで、さりとて東京見物などをする気も起らず(自分はとうとう、めいじんぐうも、くすのきまさしげの銅像も、せんがくの四十七士の墓も見ずに終りそうです)家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしていました。父が上京して来ると、自分は、毎朝そそくさと登校するのでしたが、しかし、ほんごうせんちようの洋画家、安田新太郎氏のじゆくに行き、三時間も四時間も、デッサンの練習をしている事もあったのです。高等学校の寮からけたら、学校の授業に出ても、自分はまるでちようこうせいみたいな特別の位置にいるような、それは自分のひがみかもしれなかったのですが、何とも自分自身で白々しい気持がして来て、いっそう学校へ行くのが、おっくうになったのでした。自分には、小学校、中学校、高等学校を通じて、ついに愛校心というものが理解できずに終りました。校歌などというものも、いちども覚えようとした事がありません。

 自分は、やがて画塾で、る画学生から、酒と煙草たばこいんばいと質屋とよく思想とを知らされました。みような取合せでしたが、しかし、それは事実でした。

 その画学生は、ほりまさといって、東京の下町に生れ、自分より六つ年長者で、私立の美術学校を卒業して、家にアトリエが無いので、この画塾に通い、洋画の勉強をつづけているのだそうです。

「五円、貸してくれないか。」

 おただいただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話合った事が無かったのです。自分は、へどもどして五円差し出しました。

「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう。」

 自分はきよし切れず、その画塾の近くの、ほうらいちようのカフエに引っぱって行かれたのが、彼との交友のはじまりでした。

「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむようなしよう、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、かんぱい! キヌさん、こいつは美男子だろう? れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった。」

 堀木は、色が浅黒くたんせいな顔をしていて、画学生にはめずらしく、ちゃんとした背広を着て、ネクタイの好みも地味で、そうしてとうはつもポマードをつけてまん中からぺったりとわけていました。

 自分はれぬ場所でもあり、ただもうおそろしく、うでを組んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビイルを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放せられたような軽さを感じて来たのです。

「僕は、美術学校にはいろうと思っていたんですけど、……」

「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対するパアトス!」

 しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり、自分はその時、生れてはじめて、ほんものの都会のものを見たのでした。それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全にゆうしてしまって、戸迷いしている点にいてだけは、たしかに同類なのでした。そうして、彼はそのお道化を意識せずに行い、しかも、そのお道化の悲惨に全く気がついていないのが、自分と本質的に異色のところでした。

 ただ遊ぶだけだ、遊びの相手としてつきっているだけだ、とつねに彼をけいべつし、時には彼との交友をずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って歩いているうちに、結局、自分は、この男にさえ打ち破られました。

 しかし、はじめは、この男を好人物、まれに見る好人物とばかり思い込み、さすが人間きようの自分も全く油断をして、東京のよい案内者が出来た、くらいに思っていました。自分は、実は、ひとりでは、電車に乗るとしやしようがおそろしく、へはいりたくても、あの正面げんかんじゆうたんかれてある階段の両側に並んで立っているあんないじようたちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、ことにもかんじようはらう時、ああ、ぎごちない自分の手つき、自分は買い物をしてお金を手渡す時には、りんしよくゆえでなく、あまりのきんちよう、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真暗になり、ほとんどはんきようらんの気持になってしまって、値切るどころか、おつりを受け取るのを忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを忘れた事さえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで東京のまちを歩けず、それで仕方なく、一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという内情もあったのでした。

 それが、堀木にさいを渡していつしよに歩くと、堀木は大いに値切って、しかも遊び上手というのか、わずかなお金で最大の効果のあるような支払いりを発揮し、また、高い円タクは敬遠して、電車、バス、ポンポン蒸気など、それぞれ利用し分けて、最短時間で目的地へ着くというしゆわんをも示し、淫売婦のところから朝帰る途中には、何々というりようていに立ち寄ってあさへはいり、どうで軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、そのほか、屋台の牛めし焼とりの安価にしてように富むものたる事を説き、いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、とにかくその勘定にいては自分に、一つも不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。

 さらにまた、堀木と附合って救われるのは、堀木が聞き手のおもわくなどをてんで無視して、その所謂いわゆる情熱パトスふんしゆつするがままに、(あるいは、情熱とは、相手の立場を無視する事かも知れませんが)四六時中、くだらないおしゃべりを続け、あの、二人で歩いてつかれ、気まずいちんもくにおちいるが、全く無いという事でした。人に接し、あのおそろしい沈黙がその場にあらわれる事をけいかいして、もともと口の重い自分が、ここをせんと必死のお道化を言って来たものですが、いまこの堀木の馬鹿が、意識せずに、そのお道化役をみずからすすんでやってくれているので、自分は、返事もろくにせずに、ただ聞き流し、時折、まさか、などと言って笑っておれば、いいのでした。

 酒、煙草、淫売婦、それはみな、人間恐怖を、たとい一時でも、まぎらす事の出来るずいぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかって来ました。それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部をばいきやくしてもいない気持さえ、いだくようになりました。

 自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、はくか狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすりねむる事が出来ました。みんな、かなしいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、きゆうくつでない程度の自然の好意を示されました。何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。

 しかし、自分は、人間への恐怖からのがれ、かすかな一夜の休養を求めるために、そこへ行き、それこそ自分と「同類」の淫売婦たちと遊んでいるうちに、いつのまにやら無意識の、或るいまわしいふんを身辺にいつもただよわせるようになった様子で、これは自分にも全く思い設けなかった所謂「おまけのろく」でしたが、だいにその「附録」が、せんめいに表面にき上って来て、堀木にそれをてきせられ、がくぜんとして、そうして、いやな気がいたしました。はたから見て、ぞくな言い方をすれば、自分は、淫売婦にって女のしゆぎようをして、しかも、最近めっきり腕をあげ、女の修行は、淫売婦に依るのが一ばんきびしく、またそれだけに効果のあがるものだそうで、すでに自分には、あの、「女達者」というにおいがつきまとい、女性は、(淫売婦に限らず)本能に依ってそれをぎ当て寄りって来る、そのような、わいめいな雰囲気を、「おまけの附録」としてもらって、そうしてそのほうが、自分の休養などよりも、ひどく目立ってしまっているらしいのでした。

 堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうが、しかし、自分にも、重苦しく思い当る事があり、たとえば、きつてんの女からせつな手紙をもらった覚えもあるし、桜木町の家のとなりの将軍のはたちくらいのむすめが、毎朝、自分の登校の時刻には、用も無さそうなのに、ご自分の家の門をうすしようして出たりはいったりしていたし、牛肉を食いに行くと、自分がだまっていても、そこの女中が、……また、いつも買いつけの煙草たばこの娘からわたされた煙草の箱の中に、……また、歌舞伎を見に行って隣りの席のひとに、……また、深夜の市電で自分が酔って眠っていて、……また、思いがけなく故郷のしんせきの娘から、思いつめたような手紙が来て、……また、だれかわからぬ娘が、自分の留守中にお手製らしい人形を、……自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの話で、ただだんぺん、それ以上の進展は一つもありませんでしたが、何か女に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかにつきまとっている事は、それは、のろけだの何だのといういい加減なじようだんでなく、否定できないのでありました。自分は、それを堀木ごとき者に指摘せられ、くつじよくに似たにがさを感ずると共に、淫売婦と遊ぶ事にも、にわかに興が覚めました。

 堀木は、また、そのぼうのモダニティから、(堀木の場合、それ以外の理由は、自分には今もって考えられませんのですが)る日、自分を共産主義の読書会とかいう(R・Sとかいっていたか、おくがはっきり致しません)そんな、秘密の研究会に連れて行きました。堀木などという人物にとっては、共産主義の秘密会合も、れいの「東京案内」の一つくらいのものだったのかも知れません。自分は所謂「同志」にしようかいせられ、パンフレットを一部買わされ、そうして上座のひどいみにくい顔の青年から、マルクス経済学の講義を受けました。しかし、自分には、それはわかり切っている事のように思われました。それは、そうにちがいないだろうけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。よく、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんにかいだんじみたものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている自分には、所謂ゆいぶつろんを、水の低きに流れるように自然にこうていしながらも、しかし、それに依って、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向ってをひらき、希望のよろこびを感ずるなどという事は出来ないのでした。けれども、自分は、いちども欠席せずに、そのR・S(と言ったかと思いますが、間違っているかも知れません)なるものに出席し、「同志」たちが、いやに一大事のごとく、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術めいた理論の研究にふけっているのがこつけいに見えてたまらず、れいの自分のお道化で、会合をくつろがせる事に努め、そのためか、次第に研究会の窮屈な気配もほぐれ、自分はその会合に無くてかなわぬ人気者という形にさえなって来たようでした。この、単純そうな人たちは、自分の事を、やはりこの人たちと同じ様に単純で、そうして、楽天的なおどけ者の「同志」くらいに考えていたかも知れませんが、もし、そうだったら、自分は、この人たちを一から十まで、あざむいていたわけです。自分は、同志では無かったんです。けれども、その会合に、いつも欠かさず出席して、皆にお道化のサーヴィスをして来ました。

 好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結ばれた親愛感では無かったのです。

 非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、ごこがよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋にはすわっておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死にいたるほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。

 かげもの、という言葉があります。人間の世にいて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分をのような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されているほどのひととうと、自分は、必ず、やさしい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。

 また、犯人意識、という言葉もあります。自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に苦しめられながらも、しかし、それは自分のそうこうの妻の如きこうはんりよで、そいつと二人きりでびしく遊びたわむれているというのも、自分の生きている姿勢の一つだったかも知れないし、また、俗に、すねに傷持つ身、という言葉もあるようですが、その傷は、自分の赤んぼうの時から、自然に片方の脛にあらわれて、長ずるにおよんでするどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで達し、夜々の痛苦はせんぺんばんごくとは言いながら、しかし、(これは、たいへんみような言い方ですけど)その傷は、次第に自分の親しくなり、その傷の痛みは、すなわち傷の生きている感情、または愛情のささやきのようにさえ思われる、そんな男にとって、れいの地下運動のグルウプの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運動の本来の目的よりも、その運動のはだが、自分に合った感じなのでした。堀木の場合は、ただもうほうのひやかしで、いちど自分を紹介しにその会合へ行ったきりで、マルキシストは、生産面の研究と同時に、消費面の視察も必要だなどと下手な洒落しやれを言って、その会合には寄りつかず、とかく自分を、その消費面の視察のほうにばかりさそいたがるのでした。思えば、当時は、さまざまの型のマルキシストがいたものです。堀木のように、きよえいのモダニティから、それをしようする者もあり、また自分のように、ただ非合法のにおいが気にいって、そこに坐り込んでいる者もあり、もしもこれらの実体が、マルキシズムの真のしんぽう者に見破られたら、堀木も自分も、れつの如くおこられ、れつなる裏切者として、たちどころに追いはらわれた事でしょう。しかし、自分も、また、堀木でさえも、なかなか除名の処分にわず、ことにも自分は、その非合法の世界に於いては、合法のしんたちの世界に於けるよりも、かえってのびのびと、所謂いわゆる「健康」にふるう事が出来ましたので、見込みのある「同志」として、き出したくなるほど過度に秘密めかした、さまざまの用事をたのまれるほどになったのです。また、事実、自分は、そんな用事をいちども断ったことは無く、平気でなんでも引受け、へんにぎくしゃくして、犬(同志は、ポリスをそう呼んでいました)にあやしまれしんじんもんなどを受けてしくじるような事も無かったし、笑いながら、また、ひとを笑わせながら、そのあぶない(その運動の連中は、一大事の如くきんちようし、たんてい小説の下手なみたいな事までして、極度のけいかいを用い、そうして自分にたのむ仕事は、まことに、あっけにとられるくらい、つまらないものでしたが、それでも、かれは、その用事を、さかんに、あぶながって力んでいるのでした)と、彼等の称する仕事を、とにかく正確にやってのけていました。自分のその当時の気持としては、党員になってとらえられ、たとい終身、けいしよで暮すようになったとしても、平気だったのです。世の中の人間の「実生活」というものを恐怖しながら、毎夜のみんの地獄でうめいているよりは、いっそろうのほうが、楽かも知れないとさえ考えていました。

 父は、桜木町のべつそうでは、来客やら外出やら、同じ家にいても、三日も四日も自分と顔を合せる事が無いほどでしたが、しかし、どうにも、父がけむったく、おそろしく、この家を出て、どこか下宿でも、と考えながらもそれを言い出せずにいた矢先に、父がその家を売払うつもりらしいという事を別荘番のろうから聞きました。

 父の議員の任期もそろそろ満期に近づき、いろいろ理由のあった事に違いありませんが、もうこれきり選挙に出る意志も無い様子で、それに、故郷にひとむねいんきよじよなど建てたりして、東京に未練も無いらしく、たかが、高等学校の一生徒に過ぎない自分のために、ていたくめし使つかいを提供して置くのも、むだな事だとでも考えたのか、(父の心もまた、世間の人たちの気持ちと同様に、自分にはよくわかりません)とにかく、その家は、間も無く人手にわたり、自分は、本郷森川町のせんゆうかんという古い下宿の、うすぐらい部屋にひつして、そうして、たちまち金に困りました。

 それまで、父から月々、きまった額のづかいをわたされ、それはもう、二、三日で無くなっても、しかし、煙草たばこも、酒も、チイズも、くだものも、いつでも家にあったし、本やぶんぼうやその他、服装に関するものなどいつさい、いつでも、近所の店から所謂「ツケ」で求められたし、堀木におそばかてんどんなどをごちそうしても、父のひいきの町内の店だったら、自分はだまってその店を出てもかまわなかったのでした。

 それが急に、下宿のひとり住いになり、何もかも、月々の定額の送金で間に合わせなければならなくなって、自分は、まごつきました。送金は、やはり、二、三日で消えてしまい、自分はりつぜんとし、心細さのためにくるうようになり、父、兄、姉などへこうにお金をたのむ電報と、イサイフミの手紙(その手紙に於いてうつたえている事情は、ことごとく、お道化の虚構でした。人にものを頼むのに、まず、その人を笑わせるのが上策と考えていたのです)を連発する一方、また、堀木に教えられ、せっせとしちがよいをはじめ、それでも、いつもお金に不自由をしていました。

 しよせん、自分には、何のえんも無い下宿に、ひとりで「生活」して行く能力が無かったのです。自分は、下宿のその部屋に、ひとりでじっとしているのが、おそろしく、いまにもだれかにおそわれ、いちげきせられるような気がして来て、街に飛び出しては、れいの運動の手伝いをしたり、あるいは堀木といつしよに安い酒を飲みまわったりして、ほとんど学業も、またの勉強もほうし、高等学校へ入学して、二年目の十一月、自分より年上の有夫の婦人と情死事件などを起し、自分の身の上は、一変しました。

 学校は欠席するし、学科の勉強も、すこしもしなかったのに、それでも、妙に試験の答案に要領のいいところがあるようで、どうやらそれまでは、故郷の肉親をあざむき通して来たのですが、しかし、もうそろそろ、出席日数の不足など、学校のほうから内密に故郷の父へ報告が行っているらしく、父の代理としてちようけいが、いかめしい文章の長い手紙を、自分に寄こすようになっていたのでした。けれども、それよりも、自分の直接の苦痛は、金の無い事と、それから、れいの運動の用事が、とても遊び半分の気持では出来ないくらい、はげしく、いそがしくなって来た事でした。中央地区と言ったか、何地区と言ったか、とにかく本郷、いしかわしたかん、あの辺の学校全部の、マルクス学生の行動隊々長というものに、自分はなっていたのでした。そうほう、と聞き、小さいナイフを買い(いま思えば、それは鉛筆をけずるにも足りない、きゃしゃなナイフでした)それを、レンコオトのポケットにいれ、あちこち飛び廻って、所謂「れんらく」をつけるのでした。お酒を飲んで、ぐっすりねむりたい、しかし、お金がありません。しかも、P(党の事を、そういういんで呼んでいたとおくしていますが、或いは、ちがっているかも知れません)のほうからは、次々といきをつくひまも無いくらい、用事のらいがまいります。自分の病弱のからだでは、とても勤まりそうも無くなりました。もともと、非合法の興味だけから、そのグルウプの手伝いをしていたのですし、こんなに、それこそじようだんからこまが出たように、いやにいそがしくなって来ると、自分は、ひそかにPのひとたちに、それはおかどちがいでしょう、あなたたちの直系のものたちにやらせたらどうですか、というようないまいましい感をいだくのを禁ずる事が出来ず、逃げました。逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。

 そのころ、自分に特別の好意を寄せている女が、三人いました。ひとりは、自分の下宿している仙遊館のむすめでした。この娘は、自分がれいの運動の手伝いでへとへとになって帰り、ごはんも食べずにてしまってから、必ずようせんと万年筆を持って自分の部屋にやって来て、

「ごめんなさい。下では、妹や弟がうるさくて、ゆっくり手紙も書けないのです。」

 と言って、何やら自分の机に向って一時間以上も書いているのです。

 自分もまた、知らん振りをして寝ておればいいのに、いかにもその娘が何か自分に言ってもらいたげの様子なので、れいの受け身のほうの精神を発揮して、実に一言も口をききたくない気持なのだけれども、くたくたにつかれ切っているからだに、ウムと気合いをかけてはらいになり、煙草たばこを吸い、

「女から来たラヴ・レターで、をわかしてはいった男があるそうですよ。」

「あら、いやだ。あなたでしょう?」

「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです。」

「光栄だわ、飲んでよ。」

 早くこのひと、帰らねえかなあ、手紙だなんて、見えすいているのに。へへののもへじでも書いているのに違いないんです。

「見せてよ。」

 と死んでも見たくない思いでそう言えば、あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、そのうれしがる事、ひどくみっともなく、興が覚めるばかりなのです。そこで自分は、用事でも言いつけてやれ、と思うんです。

「すまないけどね、電車通りの薬屋に行って、カルモチンを買って来てくれない? あんまり疲れすぎて、顔がほてって、かえって眠れないんだ。すまないね。お金は、……」

「いいわよ、お金なんか。」

 よろこんで立ちます。用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。

 もうひとりは、女子高等はんの文科生の所謂いわゆる「同志」でした。このひととは、れいの運動の用事で、いやでも毎日、顔を合せなければならなかったのです。打ち合せがすんでからも、その女は、いつまでも自分について歩いて、そうして、やたらに自分に、ものを買ってくれるのでした。

「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ。」

 そのキザにぶるいしながら、自分は、

「そのつもりでいるんです。」

 と、うれえをふくんだしようの表情を作って答えます。とにかく、おこらせては、こわい、何とかして、ごまかさなければならぬ、という思い一つのために、自分はいよいよそのみにくい、いやな女に奉仕をして、そうして、ものを買ってもらっては、(その買い物は、実にしゆの悪い品ばかりで、自分はたいてい、すぐにそれを、焼きとり屋のおやなどにやってしまいました)うれしそうな顔をして、冗談を言っては笑わせ、る夏の夜、どうしてもはなれないので、街の暗いところで、そのひとに帰ってもらいたいばかりに、キスをしてやりましたら、あさましくきようらんごとく興奮し、自動車を呼んで、そのひとたちの運動のために秘密に借りてあるらしいビルの事務所みたいなせまい洋室に連れて行き、朝までおおさわぎという事になり、とんでもない姉だ、と自分はひそかに苦笑しました。

 下宿屋の娘と言い、またこの「同志」と言い、どうしたって毎日、顔を合せなければならぬ具合になっていますので、これまでの、さまざまの女のひとのように、うまくけられず、つい、ずるずるに、れいの不安の心から、この二人のごげんをただけんめいに取り結び、もはや自分は、かなしばり同様の形になっていました。

 同じ頃また自分は、銀座の或る大カフエの女給から、思いがけぬ恩を受け、たったいちどっただけなのに、それでも、その恩にこだわり、やはり身動き出来ないほどの、心配やら、そらおそろしさを感じていたのでした。その頃になると、自分も、えて堀木の案内にたよらずとも、ひとりで電車にも乗れるし、また、にも行けるし、または、かすりの着物を着て、カフエにだってはいれるくらいの、多少のずうずうしさをよそおえるようになっていたのです。心では、相変らず、人間の自信と暴力とをあやしみ、おそれ、なやみながら、うわべだけは、少しずつ、他人と真顔のあいさつ、いや、ちがう、自分はやはり敗北のお道化の苦しい笑いをともなわずには、挨拶できないたちなのですが、とにかく、ちゆうのへどもどの挨拶でも、どうやら出来るくらいの「りよう」を、れいの運動で走り廻ったおかげ? または、女の? または、酒? けれども、おもに金銭の不自由のおかげで修得しかけていたのです。どこにいても、おそろしく、かえって大カフエでたくさんのすいきやくまたは女給、ボーイたちにもまれ、まぎれ込む事が出来たら、自分のこの絶えず追われているような心も落ちつくのではなかろうか、と十円持って、銀座のその大カフエに、ひとりではいって、笑いながら相手の女給に、

「十円しか無いんだからね、そのつもりで。」

 と言いました。

「心配りません。」

 どこかに関西のなまりがありました。そうして、その一言が、みように自分の、震えおののいている心をしずめてくれました。いいえ、お金の心配が要らなくなったからではありません。そのひとのそばにいる事に心配が要らないような気がしたのです。

 自分は、お酒を飲みました。そのひとに安心しているので、かえってお道化など演じる気持も起らず、自分のがねの無口でいんさんなところをかくさず見せて、だまってお酒を飲みました。

「こんなの、おすきか?」

 女は、さまざまの料理を自分の前に並べました。自分は首をりました。

「お酒だけか? うちも飲もう。」

 秋の、寒い夜でした。自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、おくうすれ、たしかではありません。情死の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです)に言いつけられたとおりに、銀座裏の、或る屋台のおすしやで、少しもおいしくない鮨を食べながら、(そのひとの名前は忘れても、その時の鮨のまずさだけは、どうした事か、はっきり記憶に残っています。そうして、青大将の顔に似た顔つきの、まるぼうのおやじが、首を振り振り、いかにも上手みたいにごまかしながら鮨をにぎっている様も、眼前に見るようにせんめいに思い出され、後年、電車などで、はて見た顔だ、といろいろ考え、なんだ、あの時の鮨やの親爺に似ているんだ、と気がき苦笑した事も再三あったほどでした。あのひとの名前も、また、顔かたちさえ記憶から遠ざかっている現在なお、あの鮨やの親爺の顔だけは絵にかけるほど正確に覚えているとは、よっぽどあの時の鮨がまずく、自分に寒さと苦痛をあたえたものと思われます。もともと、自分は、うまい鮨を食わせる店というところに、ひとに連れられて行って食っても、うまいと思った事は、いちどもありませんでした。大き過ぎるのです。親指くらいの大きさにキチッと握れないものかしら、といつも考えていました)そのひとを、待っていました。

 ほんじよの大工さんの二階を、そのひとが借りていました。自分は、その二階で、日頃の自分のいんうつな心を少しもかくさず、ひどい歯痛におそわれてでもいるように、片手でほおをおさえながら、お茶を飲みました。そうして、自分のそんな姿態が、かえって、そのひとには、気にいったようでした。そのひとも、身のまわりに冷たいがらしがいて、落葉だけがくるい、完全にりつしている感じの女でした。

 いつしよにやすみながらそのひとは、自分より二つ年上であること、故郷は広島、あたしには主人があるのよ、広島でとこさんをしていたの、昨年の春、一緒に東京へ家出してげて来たのだけれども、主人は、東京で、まともな仕事をせずそのうちにざいに問われ、けいしよにいるのよ、あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、刑務所へかよっていたのだけれども、あすから、やめます、などと物語るのでしたが、自分は、どういうものか、女の身の上ばなしというものには、少しも興味を持てないたちで、それは女の語り方の下手なせいか、つまり、話の重点の置き方をちがっているせいなのか、とにかく、自分には、つねに、とうふうなのでありました。

 びしい。

 自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言のつぶやきのほうに、共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、ついにいちども自分は、その言葉を聞いた事がないのを、かいとも不思議とも感じております。けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、からだのがいかくに、いつすんくらいのはばの気流みたいに持っていて、そのひとに寄りうと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流とほどよくけ合い、「水底の岩に落ち附くかれ」のように、わが身は、きようからも不安からも、離れる事が出来るのでした。

 あのはくいんばいたちのふところの中で、安心してぐっすりねむる思いとは、また、全く異って、(だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でした)その詐欺罪の犯人の妻と過した一夜は、自分にとって、幸福な(こんな大それた言葉を、なんのちゆうちよも無く、こうていして使用する事は、自分のこの全手記にいて、再び無いつもりです)解放せられた夜でした。

 しかし、ただ一夜でした。朝、が覚めて、はね起き、自分はもとのけいはくな、よそおえるお道化者になっていました。弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿でをするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化のえんまくを張りめぐらすのでした。

「金の切れめがえんの切れめ、ってのはね、あれはね、かいしやくが逆なんだ。金が無くなると女にふられるって意味、じゃあ無いんだ。男に金が無くなると、男は、ただおのずから意気しようちんして、ダメになり、笑う声にも力が無く、そうして、妙にひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、はんきようらんになって振って振って振りくという意味なんだね、金沢大辞林という本に依ればね、可哀かわいそうに。僕にも、その気持わかるがね。」

 たしか、そんなふうの鹿げた事を言って、ツネ子をき出させたような記憶があります。長居は無用、おそれありと、顔も洗わずにばやく引上げたのですが、その時の自分の、「金の切れめが縁の切れめ」というたらの放言が、のちにいたって、意外のひっかかりを生じたのです。

 それから、ひとつき、自分は、その夜の恩人とは逢いませんでした。別れて、日がつにつれて、よろこびは薄れ、かりそめの恩を受けた事がかえってそらおそろしく、自分勝手にひどいそくばくを感じて来て、あのカフエのおかんじようを、あの時、全部ツネ子のたんにさせてしまったというぞくさえ、だいに気になりはじめて、ツネ子もやはり、下宿のむすめや、あの女子高等はんと同じく、自分をきようはくするだけの女のように思われ、遠く離れていながらも、絶えずツネ子におびえていて、その上に自分は、一緒に休んだ事のある女に、また逢うと、その時にいきなり何かれつごとおこられそうな気がしてたまらず、逢うのにすごぶるおっくうがる性質でしたので、いよいよ、銀座は敬遠の形でしたが、しかし、そのおっくうがるという性質は、決して自分のこうかつさではなく、女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との間に、一つの、ちりほどの、つながりをも持たせず、完全のぼうきやくごとく、見事に二つの世界を切断させて生きているという不思議な現象を、まだよくみこんでいなかったからなのでした。

 十一月の末、自分は、堀木と神田の屋台で安酒を飲み、この悪友は、その屋台を出てからも、さらにどこかで飲もうと主張し、もう自分たちにはお金が無いのに、それでも、飲もう、飲もうよ、とねばるのです。その時、自分は、ってだいたんになっているからでもありましたが、

「よし、そんなら、夢の国に連れて行く。おどろくな、酒池肉林という、……」

「カフエか?」

「そう。」

「行こう!」

 というような事になって二人、市電に乗り、堀木は、はしゃいで、

「おれは、今夜は、女にかわいているんだ。女給にキスしてもいいか」

 自分は、堀木がそんなすいたいを演じる事を、あまり好んでいないのでした。堀木も、それを知っているので、自分にそんな念を押すのでした。

「いいか。キスするぜ。おれの傍にすわった女給に、きっとキスして見せる。いいか。」

「かまわんだろう。」

「ありがたい! おれは女に飢え渇いているんだ。」

 銀座四丁目で降りて、その所謂いわゆる酒池肉林の大カフエに、ツネ子をたのみのつなとしてほとんど無一文ではいり、あいているボックスに堀木と向い合ってこしをおろしたとたんに、ツネ子ともう一人の女給が走り寄って来て、そのもう一人の女給が自分のかたわらに、そうしてツネ子は、堀木の傍に、ドサンと腰かけたので、自分は、ハッとしました。ツネ子は、いまにキスされる。

 しいという気持ではありませんでした。自分には、もともと所有よくというものはうすく、また、たまにかすかに惜しむ気持はあっても、その所有権をかんぜんと主張し、人と争うほどの気力が無いのでした。のちに、自分は、自分の内縁の妻がおかされるのを、だまって見ていた事さえあったほどなのです。

 自分は、人間のいざこざに出来るだけさわりたくないのでした。そのうずに巻き込まれるのが、おそろしいのでした。ツネ子と自分とは、一夜だけのあいだがらです。ツネ子は、自分のものではありません。惜しい、など思い上った慾は、自分に持てるはずはありません。けれども、自分は、ハッとしました。

 自分の眼の前で、堀木のもうれつなキスを受ける、そのツネ子の身の上を、ふびんに思ったからでした。堀木によごされたツネ子は、自分とわかれなければならなくなるだろう、しかも自分にも、ツネ子を引き留める程のポジティヴな熱は無い、ああ、もう、これでおしまいなのだ、とツネ子の不幸にいつしゆんハッとしたものの、すぐに自分は水のようになおにあきらめ、堀木とツネ子の顔をくらべ、にやにやと笑いました。

 しかし、事態は、実に思いがけなく、もっと悪く展開せられました。

「やめた!」

 と堀木は、口をゆがめて言い、

「さすがのおれも、こんなびんぼうくさい女には、……」

 閉口し切ったように、うでみしてツネ子をじろじろながめ、苦笑するのでした。

「お酒を。お金は無い。」

 自分は、小声でツネ子に言いました。それこそ、びるほど飲んでみたい気持でした。所謂俗物の眼から見ると、ツネ子は酔漢のキスにもあたいしない、ただ、みすぼらしい、貧乏くさい女だったのでした。案外とも、意外とも、自分にはへきれきちくだかれた思いでした。自分は、これまで例の無かったほど、いくらでも、いくらでも、お酒を飲み、ぐらぐら酔って、ツネ子と顔を見合せ、かなしくほほみ合い、いかにもそう言われてみると、こいつはへんにつかれて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時に、金の無い者どうしの親和(貧富の不和は、ちんのようでも、やはりドラマの永遠のテーマの一つだと自分は今では思っていますが)そいつが、その親和感が、胸に込み上げて来て、ツネ子がいとしく、生れてこの時はじめて、われから積極的に、じやくながらこいの心の動くのを自覚しました。きました。前後不覚になりました。お酒を飲んで、こんなに我を失うほど酔ったのも、その時がはじめてでした。

 眼が覚めたら、まくらもとにツネ子が坐っていました。本所の大工さんの二階の部屋に寝ていたのでした。

「金の切れめが縁の切れめ、なんておっしゃって、じようだんかと思うていたら、本気か。来てくれないのだもの。ややこしい切れめやな。うちが、かせいであげても、だめか。」

「だめ。」

 それから、女も休んで、夜明けがた、女の口から「死」という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中へのきよう、わずらわしさ、金、れいの運動、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きて行けそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました。

 けれども、その時にはまだ、実感としての「死のう」というかくは、出来ていなかったのです。どこかに「遊び」がひそんでいました。

 その日の午前、二人は浅草の六区をさまよっていました。きつてんにはいり、牛乳を飲みました。

「あなた、はろうて置いて。」

 自分は立って、たもとからがま口を出し、ひらくと、銅銭が三枚、しゆうよりもせいさんの思いにおそわれ、たちまちのううかぶものは、仙遊館の自分の部屋、制服ととんだけが残されてあるきりで、あとはもう、質草になりそうなものの一つも無いこうりようたる部屋、ほかには自分のいま着て歩いているかすりの着物と、マント、これが自分の現実なのだ、生きて行けない、とはっきり思い知りました。

 自分がまごついているので、女も立って、自分のがま口をのぞいて、

「あら、たったそれだけ?」

 無心の声でしたが、これがまた、じんと骨身にこたえるほどに痛かったのです。はじめて自分が、恋したひとの声だけに、痛かったのです。それだけも、これだけもない、銅銭三枚は、どだいお金でありません。それは、自分がいまだかつて味わった事の無いみようくつじよくでした。とても生きておられない屈辱でした。しよせんそのころの自分は、まだお金持ちの坊ちゃんという種属から脱し切っていなかったのでしょう。その時、自分は、みずからすすんでも死のうと、決意したのです。

 その夜、自分たちは、かまくらの海に飛び込みました。女は、この帯はお店のお友達から借りている帯やから、と言って、帯をほどき、たたんで岩の上に置き、自分もマントをぎ、同じ所に置いて、いつしよじゆすいしました。

 女のひとは、死にました。そうして、自分だけ助かりました。

 自分が高等学校の生徒ではあり、また父の名にもいくらか、所謂ニュウス・ヴァリュがあったのか、新聞にもかなり大きな問題として取り上げられたようでした。

 自分は海辺の病院に収容せられ、故郷からしんせきの者がひとりけつけ、さまざまの始末をしてくれて、そうして、くにの父をはじめ一家中がげきしているから、これっきり生家とは義絶になるかも知れぬ、と自分に申しわたして帰りました。けれども自分は、そんな事より、死んだツネ子が恋いしく、めそめそ泣いてばかりいました。本当に、いままでのひとの中で、あの貧乏くさいツネ子だけを、すきだったのですから。

 下宿の娘から、短歌を五十も書きつらねた長い手紙が来ました。「生きくれよ」というへんな言葉ではじまる短歌ばかり、五十でした。また、自分の病室に、看護婦たちが陽気に笑いながら遊びに来て、自分の手をきゅっとにぎって帰る看護婦もいました。

 自分の左肺に故障のあるのを、その病院で発見せられ、これがたいへん自分にこうごうな事になり、やがて自分がさつほうじよざいという罪名で病院から警察に連れて行かれましたが、警察では、自分を病人あつかいにしてくれて、特に保護室に収容しました。

 深夜、保護室のとなりの宿直室で、ずの番をしていた年寄りのおまわりが、間のドアをそっとあけ、

「おい!」

 と自分に声をかけ、

「寒いだろう。こっちへ来て、あたれ。」

 と言いました。

 自分は、わざとしおしおと宿直室にはいって行き、こしかけてばちにあたりました。

「やはり、死んだ女が恋いしいだろう。」

「はい。」

 ことさらに、消え入るような細い声で返事しました。

「そこが、やはり人情というものだ。」

 彼はだいに、大きく構えて来ました。

「はじめ、女と関係を結んだのは、どこだ。」

 ほとんど裁判官のごとく、もったいぶってたずねるのでした。彼は、自分を子供とあなどり、秋の夜のつれづれに、あたかも彼自身が取調べの主任でもあるかのように装い、自分からわいだんめいたじゆつかいを引き出そうというこんたんのようでした。自分は素早くそれを察し、き出したいのをこらえるのに骨を折りました。そんなお巡りの「非公式なじんもん」には、いっさい答をきよしてもかまわないのだという事は、自分も知っていましたが、しかし、秋の夜ながに興をえるため、自分は、あくまでもしんみように、そのお巡りこそ取調べの主任であって、けいばつの軽重の決定もそのお巡りのおぼしし一つにるのだ、という事を固く信じて疑わないような所謂いわゆる誠意をおもてにあらわし、彼の助平の好奇心を、やや満足させる程度のいい加減な「陳述」をするのでした。

「うん、それでだいたいわかった。何でも正直に答えると、わしらのほうでも、そこは手心を加える。」

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」

 ほとんど入神の演技でした。そうして、自分のためには、何も、一つも、とくにならない力演なのです。

 夜が明けて、自分は署長に呼び出されました。こんどは、本式の取調べなのです。

 ドアをあけて、署長室にはいったとたんに、

「おう、いい男だ。これあ、お前が悪いんじゃない。こんな、いい男に産んだお前のおふくろが悪いんだ。」

 色の浅黒い、大学出みたいな感じのまだ若い署長でした。いきなりそう言われて自分は、自分の顔の半面にべったりあかあざでもあるような、みにくい不具者のような、みじめな気がしました。

 このじゆうどうか剣道の選手のような署長の取調べは、実にあっさりしていて、あの深夜のろうじゆんのひそかな、しつようきわまる好色の「取調べ」とは、うんでいの差がありました。訊問がすんで、署長は、検事局に送る書類をしたためながら、

「からだをじようにしなけれゃ、いかんね。けつたんが出ているようじゃないか。」

 と言いました。

 その朝、へんにせきが出て、自分は咳の出るたびに、ハンケチで口をおおっていたのですが、そのハンケチに赤いあられが降ったみたいに血がついていたのです。けれども、それは、のどから出た血ではなく、昨夜、耳の下に出来た小さいおできをいじって、そのおできから出た血なのでした。しかし、自分は、それを言い明さないほうが、便べんな事もあるような気がふっとしたものですから、ただ、

「はい。」

 と、ふしになり、しゆしようげに答えて置きました。

 署長は書類を書き終えて、

になるかどうか、それは検事殿どのがきめることだが、お前の身元引受人に、電報か電話で、きょう横浜の検事局に来てもらうように、たのんだほうがいいな、だれか、あるだろう、お前の保護者とか保証人とかいうものが。」

 父の東京のべつそうに出入りしていたしよこつとうしようしぶという、自分たちと同郷人で、父のたいこ持ちみたいな役も勤めていたずんぐりした独身の四十男が、自分の学校の保証人になっているのを、自分は思い出しました。その男の顔が、ことつきが、ヒラメに似ているというので、父はいつもその男をヒラメと呼び、自分も、そう呼びなれていました。

 自分は警察の電話帳を借りて、ヒラメの家の電話番号をさがし、見つかったので、ヒラメに電話して、横浜の検事局に来てくれるように頼みましたら、ヒラメは人が変ったみたいなった口調で、それでも、とにかく引受けてくれました。

「おい、その電話機、すぐ消毒したほうがいいぜ。何せ、血痰が出ているんだから。」

 自分が、また保護室に引き上げてから、お巡りたちにそう言いつけている署長の大きな声が、保護室にすわっている自分の耳にまで、とどきました。

 お昼すぎ、自分は、細いあさなわどうしばられ、それはマントでかくすことを許されましたが、その麻縄のはしを若いお巡りが、しっかり握っていて、二人一緒に電車で横浜に向いました。

 けれども、自分には少しの不安も無く、あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、嗚呼ああ、自分はどうしてこうなのでしょう、罪人として縛られると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ちついて、その時のついおくを、いま書くに当っても、本当にのびのびした楽しい気持になるのです。

 しかし、その時期の思い出の中にも、たった一つ、ひやあせさんの、しようがいわすれられぬさんなしくじりがあったのです。自分は、検事局のうすぐらい一室で、検事の簡単な取調べを受けました。検事は四十歳前後の物静かな、(もし自分がぼうだったとしても、それは謂わばじやいんの美貌だったにちがいありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、そうめいせいひつの気配を持っていました)コセコセしないひとがらのようでしたので、自分も全くけいかいせず、ぼんやりちんじゆつしていたのですが、とつぜん、れいの咳が出て来て、自分はたもとからハンケチを出し、ふとその血を見て、この咳もまた何かの役に立つかも知れぬとあさましいかけきの心を起し、ゴホン、ゴホンと二つばかり、おまけのにせの咳をおおけ加えて、ハンケチで口を覆ったまま検事の顔をちらと見た、かんいつぱつ

「ほんとうかい?」

 ものしずかなしようでした。冷汗三斗、いいえ、いま思い出しても、きりきりいをしたくなります。中学時代に、あの鹿の竹一から、ワザ、ワザ、と言われてなかかれ、ごくおとされた、その時の思い以上と言っても、決して過言では無い気持です。あれと、これと、二つ、自分の生涯にける演技の大失敗の記録です。検事のあんな物静かなべつうよりは、いっそ自分は十年の刑を言い渡されたほうが、ましだったと思う事さえ、時たまあるほどなのです。

 自分は起訴ゆうになりました。けれども一向にうれしくなく、世にもみじめな気持で、検事局のひかえしつのベンチに腰かけ、引取り人のヒラメが来るのを待っていました。

 背後の高い窓から夕焼けの空が見え、かもめが、「女」という字みたいな形で飛んでいました。

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