走れメロス

太宰治/カクヨム近代文学館

  

 メロスはげきした。必ず、かのじやぼうぎやくの王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれたこのシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮らしだ。この妹は、村のあるりちな一牧人を、近々、はな婿むことして迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、はなよめしようやらしゆくえんの御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。まず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今はこのシラクスの市で、いしをしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しくわなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もうすでに日も落ちて、まちの暗いのは当たりまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりではなく、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえにこの市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちはにぎやかであったはずだが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いてろうに逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。

 「王様は人を殺します」

 「なぜ殺すのだ」

 「悪心を抱いている、というのですが、だれもそんな、悪心を持ってはおりませぬ」

 「たくさんの人を殺したのか」

 「はい、はじめは王様のいもうと婿むこさまを。それから、御自身のおつぎを。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を」

 「おどろいた。国王は乱心か」

 「いいえ、乱心ではございませぬ。人を信ずる事ができぬ、というのです。このごろは臣下の心をも、お疑いになり、少しくはでな暮らしをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じております。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました」

 聞いて、メロスは激怒した。「あきれた王だ。生かして置けぬ」

 メロスは単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、じゆんけいに捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。

 「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その王の顔はそうはくで、けんしわは、刻み込まれたように深かった。

 「市を暴君の手から救うのだ」とメロスは悪びれずに答えた。

 「おまえがか?」王はびんしようした。「仕方のないやつじゃ。おまえなどには、わしの孤独の心がわからぬ」

 「言うな!」とメロスは、いきり立ってはんぱくした。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑っておられる」

 「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ」暴君は落着いてつぶやき、ほっと溜息をついた。「わたしだって、平和を望んでいるのだが」

 「なんのための平和だ。自分の地位を守るためか」こんどはメロスがちようしようした。「罪の無い人を殺して、何が平和だ」

 「だまれ、せんの者」王は、さっと顔をあげて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹わたの奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、はりつけになってから、泣いてびたって聞かぬぞ」

 「ああ、王は利巧だ。うぬれているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟でいるのに、命乞いなど決してしない。ただ、──」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落とし瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます」

 「ばかな」と暴君は、しわがれた声で低く笑った。「とんでもないうそを言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか」

 「そうです。帰って来るのです」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスといういしがいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮れまで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ。そうして下さい」

 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっとほくそんだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この噓つきにだまされた振りして、放してやるのもおもしろい。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男をたつけいに処してやるのだ。世の中の、正直者とかいうやつぱらにうんと見せつけてやりたいものさ。

 「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ」

 「なに、何をおっしゃる」

 「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心はわかっているぞ」

 メロスはしく、だん踏んだ。ものも言いたくなくなった。

 竹馬の友、セリヌンティウスは深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、き友と佳き友は、二年ぶりであいうた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。

 メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、あくる日の午前、陽はすでに高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労こんぱいの姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。

 「なんでもない」メロスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる、早いほうがよかろう」

 妹はほおをあからめた。

 「うれしいか。れいしようも買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと」

 メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、しゆくえんの席を調ととのえ、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

 眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、はな婿むこの家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらにはまだ何の仕度も出来ていない。どうの季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことはできぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行なわれた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空をおおい、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのもこらえ、陽気に歌をうたい、手をった。メロスも、満面に喜色をたたえ、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちとしようがい暮らして行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものではない。ままならぬ事である。メロスは、わが身にむち打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時がある。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。そのころには、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家にぐずぐずとどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものはある。よいぼうぜん、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、

 「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事はない。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、うそをつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ」

 花嫁は、夢見心地でうなずいた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、

 「仕度のないのはお互いさまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ」

 花婿はみ手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにもしやくして、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスはね起き、さん、寝過ごしたか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑ってはりつけの台に上ってやる。メロスは、ゆうゆうと身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢のごとく走り出た。

 私は、よい、殺される。殺されるために走るのだ。身代りの友を救うために走るのだ。王のかんねい邪智を打ち破るために走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声あげて自身をしかりながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練はない。妹たちは、きっとい夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりもないはずだ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要もない。ゆっくり歩こう、と持ちまえののんさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降っていた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地ははんらんし、濁流とうとうと下流に集まり、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、こつじんはしげたを跳ね飛ばしていた。彼はぼうぜんと、立ちすくんだ。あちこちとながめまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、けいしゆうは残らずなみさらわれて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上がり、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽もすでに真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことができなかったら、あのい友達が、私のために死ぬのです」

 濁流は、メロスの叫びをせせら笑うごとく、ますます激しく躍り狂う。浪は浪をみ、き、あおり立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るよりほかにない。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきときわけ搔きわけ、めくらめっぽうふんじんの人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついにれんびんを垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事ができたのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだにはできない。陽はすでに西に傾むきかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながらとうげをのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。

 「待て」

 「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ」

 「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け」

 「私には、いのちの他には何もない。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ」

 「その、いのちが欲しいのだ」

 「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」

 山賊たちは、ものも言わず一斉にこんぼうを振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥のごとく身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、

 「気の毒だが、正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむすきに、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、さすがに疲労し、折から午後のしやくねつの太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈めまいを感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりとひざを折った。立ち上がる事ができぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒してん、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情けない。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、たいの不信の人間、まさしく王の思うつぼだぞ、と自分をしかってみるのだが、全身えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。ぼうの草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いなくされた根性が、心の隅にった。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんもなかった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒ではない。ああ、できる事なら私の胸をち割って、しんの心臓をお目にかけたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友をあざむいた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定まった運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当にい友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことはなかった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんもなかった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠をけ降りて来たのだ。私だから、できたのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしがない。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事もなく私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切り者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがいない。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家がある。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。──四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

 ふと耳に、せんせん、水の流れる音が聞こえた。そっと頭をもたげ、息をんで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上がって、見ると、岩の裂目からこんこんと、何か小さくささやきながら清水がき出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手ですくって、一くち飲んだ。ほうと長いためいきが出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労かいふくと共に、わずかながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでおび、などと気のいい事は言っておられぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。

 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔のささやききは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ、五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事ができるぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生まれた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。

 路行く人を押しのけ、ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原でしゆえんの、その宴席のまっただ中をけ抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬をとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人とっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、はりつけにかかっているよ」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸もできず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向こうに小さく、シラクスの市のとうろうが見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。

 「ああ、メロス様」うめくような声が、風と共に聞こえた。

 「だれだ」メロスは走りながら尋ねた。

 「フィロストラトスでございます。あなたのお友達セリヌンティウス様の弟子でございます」その若いいしも、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることはできません」

 「いや、まだ陽は沈まぬ」

 「ちょうど今、あのかたが死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

 「いや、まだ陽は沈まぬ」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るよりほかはない。

 「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じておりました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました」

 「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス」

 「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい」

 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽くして、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風のごとく刑場に突入した。間に合った。

 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま帰って来た」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、のどがつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでにはりつけの柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々にり上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群集をきわけ、搔きわけ、

 「私だ。刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついにはりつけだいに昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、かじりついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。

 「セリヌンティウス」メロスは眼に涙を浮かべて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいにほおを殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君とほうようする資格さえないのだ。殴れ」

 セリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頰を殴った。殴ってから優しくほほみ、

 「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頰を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれてはじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」

 メロスは腕にうなりをつけてセリヌンティウスの頰を殴った。

 「ありがとう、友よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた。

 群衆の中からも、歔欷すすりなきの声が聞こえた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

 「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚なもうそうではなかった。どうか、わしも仲間に入れてはくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」

 どっと群衆の間に、歓声が起こった。

 「万歳、王様万歳」

 ひとりの少女がのマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。き友は、気をきかせて教えてやった。

 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなくしいのだ」

 勇者は、ひどく赤面した。

(古伝説と、シルレルの詩から)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

走れメロス 太宰治/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ