走れメロス
太宰治/カクヨム近代文学館
メロスは
「王様は人を殺します」
「なぜ殺すのだ」
「悪心を抱いている、というのですが、
「たくさんの人を殺したのか」
「はい、はじめは王様の
「おどろいた。国王は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を信ずる事ができぬ、というのです。このごろは臣下の心をも、お疑いになり、少しくはでな暮らしをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じております。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました」
聞いて、メロスは激怒した。「
メロスは単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その王の顔は
「市を暴君の手から救うのだ」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は
「言うな!」とメロスは、いきり立って
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ」暴君は落着いて
「なんのための平和だ。自分の地位を守るためか」こんどはメロスが
「だまれ、
「ああ、王は利巧だ。
「ばかな」と暴君は、
「そうです。帰って来るのです」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという
それを聞いて王は、残虐な気持で、そっとほくそ
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ」
「なに、何をおっしゃる」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心はわかっているぞ」
メロスは
竹馬の友、セリヌンティウスは深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、
「なんでもない」メロスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる、早いほうがよかろう」
妹は
「うれしいか。
メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、
眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事はない。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、
花嫁は、夢見心地でうなずいた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、
「仕度のないのはお互いさまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ」
花婿は
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは
私は、
濁流は、メロスの叫びをせせら笑うごとく、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を
「待て」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け」
「私には、いのちの他には何もない。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ」
「その、いのちが欲しいのだ」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」
山賊たちは、ものも言わず一斉に
「気の毒だが、正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ
ふと耳に、
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の
路行く人を押しのけ、
「ああ、メロス様」うめくような声が、風と共に聞こえた。
「
「フィロストラトスでございます。あなたのお友達セリヌンティウス様の弟子でございます」その若い
「いや、まだ陽は沈まぬ」
「ちょうど今、あの
「いや、まだ陽は沈まぬ」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るよりほかはない。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じておりました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい」
言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽くして、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風のごとく刑場に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま帰って来た」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、
「私だ。刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに
「セリヌンティウス」メロスは眼に涙を浮かべて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに
セリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頰を殴った。殴ってから優しく
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頰を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれてはじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」
メロスは腕に
「ありがとう、友よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから
群衆の中からも、
「おまえらの望みは
どっと群衆の間に、歓声が起こった。
「万歳、王様万歳」
ひとりの少女が
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく
勇者は、ひどく赤面した。
(古伝説と、シルレルの詩から)
走れメロス 太宰治/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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