六
いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私には、
「
戦闘、開始。
もし、私が恋ゆえに、イエスのこの教えをそっくりそのまま必ず守ることを
「きょう、私、東京へ行ってもいい? お友だちのところへ、久し振りで遊びに行ってみたいの。二晩か、三晩、
直治の弱味にすかさず
東京郊外、省線
こがらしの強く吹いている日だった。荻窪駅に降りた頃には、もうあたりが
どうしようか、とまた
「ごめん下さいまし。」
と言い、両手の指先で格子を
「上原さん。」
と小声で
返事は、有った。しかし、それは、女のひとの声であった。
玄関の戸が内からあいて、細おもての古風な
「どちらさまでしょうか。」
とたずねるその言葉の調子には、なんの悪意も
「いいえ、あのう、」
けれども私は、自分の名を言いそびれてしまった。このひとにだけは、私の恋も、
「先生は? いらっしゃいません?」
「はあ。」
と答えて、気の毒そうに私の顔を見て、
「でも、行く先は、たいてい、……」
「遠くへ?」
「いいえ、」
と、
「荻窪ですの。駅の前の、
私は飛び立つ思いで、
「あ、そうですか。」
「あら、おはきものが。」
すすめられて私は、玄関の内へはいり、式台に
「あいにく、電球が二つとも切れてしまいまして、このごろの電球は
などと、しんからのんきそうに笑っておっしゃる。奥さまのうしろには、十二、三歳の眼の大きな、めったに人になつかないような感じのほっそりした女のお子さんが立っている。
敵。私はそう思わないけれども、しかし、この奥さまとお子さんは、いつかは私を敵と思って
「ありがとうございました。」
と、ばか
駅前の白石というおでんやは、すぐに見つかった。けれども、あのひとはいらっしゃらない。
「
駅へ行き、
「たったいまお帰りになりましたが、大勢さんで、これから
私よりも年が若くて、落ちついて、上品で、親切そうな、これがあの、おステさんとかいうあのひとと大あつあつの人なのかしら。
「チドリ? 西荻のどのへん?」
心細くて、涙が出そうになった。自分がいま、気が
「よく存じませんのですけどね、何でも西荻の駅を降りて、南口の、左にはいったところだとか、とにかく、交番でお聞きになったら、わかるんじゃないでしょうか。何せ、
「チドリへ行ってみます。さようなら。」
また、逆もどり。阿佐ケ谷から省線で立川行きに乗り、荻窪、
土間があって、それからすぐ
私は土間に立って、
これが、あの、私の
お嬢さんのひとりが私を見とがめ、目で上原さんに私の来ている事を知らせた。あのひとは坐ったまま細長い首をのばして私のほうを見て、何の表情も無く、
私は
「
としゃがれた声で低く言った。
二つのコップが、力弱く
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と
「じゃ、失敬。」
と言って、よろめきながら帰るひとがあるかと思うと、また、新客がのっそりはいって来て、上原さんにちょっと
「上原さん、あそこのね、上原さん、あそこのね、あああ、というところですがね、あれは、どんな
と乗り出してたずねているひとは、たしかに私もその
「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といったような
と上原さん。
「お金の事ばっかり。」
とお
「二羽の
と若い
「
と別の紳士。
「それに、あいつあ酒飲みだったよ。
ともうひとりの紳士。
「よせ、よせ。ああ、あ、
と上原さん、一ばん若くて美しいお嬢さんと、カチンと強くコップを打ち合せて、ぐっと飲んで、お酒が口角からしたたり落ちて、
私はそっと立って、お隣りの部屋へ行き、病身らしく
「おなかが、おすきになりません?」
と親しそうに笑いながら、
「ええ、でも、私、パンを持ってまいりましたから。」
「何もございませんけど、」
と病身らしいおかみさんは、だるそうに
「この部屋で、お食事をなさいまし。あんな
「おうい、キヌちゃん、お酒が無い。」
とお隣りで紳士が
「はい、はい。」
と返辞して、そのキヌちゃんという三十歳前後の
「ちょっと、」
とおかみさんは呼びとめて、
「ここへも二本。」
と笑いながら言い、
「それからね、キヌちゃん、すまないけど、裏のスズヤさんへ行って、うどんを二つ大いそぎでね。」
私とチエちゃんは長火鉢の
「お
おかみさんは、ご自分のお茶のお
そうして私たち三人は黙って飲んだ。
「みなさん、お強いのね。」
とおかみさんは、なぜだか、しんみりした口調で言った。
がらがらと表の戸のあく音が聞えて、
「先生、持ってまいりました。」
という若い男の声がして、
「何せ、うちの社長ったら、がっちりしていますからね、二万円と言ってねばったのですが、やっと一万円。」
「小切手か?」
と上原さんのしゃがれた声。
「いいえ、現なまですが。すみません。」
「まあ、いいや、受取りを書こう。」
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、の乾杯の歌が、そのあいだも一座に
「直さんは?」
と、おかみさんは
「知らないわ。直さんの番人じゃあるまいし。」
と、チエちゃんは、うろたえて、顔を
「この頃、何か上原さんと、まずい事でもあったんじゃないの? いつも、必ず、一緒だったのに。」
とおかみさんは、落ちついて言う。
「ダンスのほうが、すきになったんですって。ダンサアの恋人でも出来たんでしょうよ。」
「直さんたら、まあ、お酒の上にまた女だから、始末が悪いね。」
「先生のお仕込みですもの。」
「でも、直さんのほうが、たちが悪いよ。あんな
「あの、」
私は
「私、直治の姉なんですの。」
おかみさんは驚いたらしく、私の顔を見直したが、チエちゃんは平気で、
「お顔がよく似ていらっしゃいますもの。あの土間の暗いところにお立ちになっていたのを見て、私、はっと思ったわ。直さんかと。」
「
とおかみさんは語調を改めて、
「こんなむさくるしいところへ、よくまあ。それで? あの、上原さんとは、前から?」
「ええ、六年前にお
言い
「お待ちどおさま。」
女中さんが、おうどんを持って来た。
「
とおかみさんはすすめる。
「いただきます。」
おうどんの湯気に顔をつっ込み、するするとおうどんを
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と低く口ずさみながら、上原さんが私たちの部屋にはいって来て、私の傍にどかりとあぐらをかき、無言でおかみさんに大きい
「これだけで、あとをごまかしちゃだめですよ。」
おかみさんは、封筒の中を見もせずに、それを
「持って来るよ。あとの
「あんな事を。」
一万円。それだけあれば、電球がいくつ買えるだろう。私だって、それだけあれば、一年らくに暮せるのだ。
ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、
「とにかくね、」
と
「これから東京で生活して行くにはだね、コンチワア、という
「その一つも出来やしねえ
と別な紳士が、
「上原二郎にたかって、痛飲。」
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ。
「
と、上原さんは、低い声でひとりごとのようにおっしゃった。
「私?」
私は自身に
「ざこ寝が出来るか。寒いぜ。」
上原さんは、私の
「無理でしょう。」
とおかみさんは、口をはさみ、
「お
ちえっ、と上原さんは舌打ちして、
「そんなら、こんなところへ来なけれあいいんだ。」
私は
「仕様がねえな。福井さんのとこへでも、たのんでみようかな。チエちゃん、連れて行ってくれないか。いや、女だけだと、途中が危険か。やっかいだな。かあさん、このひとのはきものを、こっそりお勝手のほうに
外は深夜の気配だった。風はいくぶんおさまり、空にいっぱい星が光っていた。私たちは、ならんで歩きながら、
「私、ざこ寝でも何でも、出来ますのに。」
上原さんは、眠そうな声で、
「うん。」
とだけ言った。
「二人っきりに、なりたかったのでしょう。そうでしょう。」
私がそう言って笑ったら、上原さんは、
「これだから、いやさ。」
と口をまげて、にが笑いなさった。私は自分がとても
「ずいぶん、お酒を
「そう、毎日。朝からだ。」
「おいしいの? お酒が。」
「まずいよ。」
そう言う上原さんの声に、私はなぜだか、ぞっとした。
「お仕事は?」
「駄目です。何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕様が無いんだ。いのちの
「ユトリロ。」
私は、ほとんど無意識にそれを言った。
「ああ、ユトリロ。まだ生きていやがるらしいね。アルコールの
「ユトリロだけじゃないんでしょう? 他のマイスターたちも全部、……」
「そう、
上原さんは私の
「木の枝って、美しいものですわねえ。」
と思わずひとりごとのように言ったら、
「うん、花と真黒い枝の調和が。」
と少しうろたえたようにしておっしゃった。
「いいえ、私、花も葉も芽も、何もついていない、こんな枝がすき。これでも、ちゃんと生きているのでしょう。
「自然だけは、衰弱せずか。」
そう言って、また
「お
「いや、いや、さにあらず。実はね、これは僕の
「恋は?」
「え?」
「どなたかございますの? 飽和点くらいにすすんでいるお方が。」
「なんだ、ひやかしちゃいけない。女は、みな同じさ。ややこしくていけねえ。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、実は、ひとり、いや、半人くらいある。」
「私の手紙、ごらんになって?」
「見た。」
「ご返事は?」
「僕は貴族は、きらいなんだ。どうしても、どこかに、鼻持ちならない
「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか、
「ツルゲーネフは?」
「あいつは貴族だ。だから、いやなんだ。」
「でも、
「うん、あれだけは、ちょっとうまいね。」
「あれは、農村生活の感傷、……」
「あの野郎は田舎貴族、というところで
「私もいまでは田舎者ですわ。畑を作っていますのよ。田舎の
「今でも、僕をすきなのかい。」
乱暴な口調であった。
「僕の赤ちゃんが欲しいのかい。」
私は答えなかった。
岩が落ちて来るような勢いでそのひとの顔が近づき、
また、二人ならんで歩きながら、
「しくじった。
とそのひとは言って、笑った。
けれども、私は笑う事が出来なかった。
仕方が無い。
言葉で言いあらわすなら、そんな感じのものだった。私は自分が
「しくじった。」
とその男は、また言った。
「行くところまで行くか。」
「キザですわ。」
「この野郎。」
上原さんは私の肩をとんとこぶしで
福井さんとかいうお方のお宅では、みなさんがもうおやすみになっていらっしゃる様子であった。
「電報、電報。福井さん、電報ですよ。」
と大声で言って、上原さんは
「上原か?」
と家の中で男のひとの声がした。
「そのとおり。プリンスとプリンセスと一夜の宿をたのみに来たのだ。どうもこう寒いと、くしゃみばかり出て、せっかくの恋の
玄関の戸が内からひらかれた。もうかなりの、五十歳を
「たのむ。」
と上原さんは一こと言って、マントも
「アトリエは、寒くていけねえ。二階を借りるぜ。おいで。」
私の手をとって、
「お料理屋のお部屋みたいね。」
「うん、成金
ご自分のお
「ここへ寝
だだだだと階段からころげ落ちるように
私はまたスイッチをひねって、
いつのまにか、あのひとが私の傍に寝ていらして、……私は一時間ちかく、必死の無言の
ふと
「こうしなければ、ご安心が出来ないのでしょう?」
「まあ、そんなところだ。」
「あなた、おからだを悪くしていらっしゃるんじゃない?
「どうしてわかるの? 実はこないだ、かなりひどいのをやったのだけど、
「お母さまのお
「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。わびしさだの、
「いいえ。」
「恋だけだね。おめえの手紙のお説のとおりだよ。」
「そう。」
私のその恋は、消えていた。
夜が明けた。
部屋が
私のひと。私の
この世にまたと無いくらいに、とても、とても美しい顔のように思われ、恋があらたによみがえって来たようで胸がときめき、そのひとの
かなしい、かなしい恋の
上原さんは、眼をつぶりながら私をお抱きになって、
「ひがんでいたのさ。僕は百姓の子だから。」
もうこのひとから離れまい。
「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの声が聞えて来ても、私のいまの幸福感は、
上原さんは、ふふ、とお笑いになって、
「でも、もう、おそいなあ。
「朝ですわ。」
弟の直治は、その朝に自殺していた。
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