せんとう、開始。

 いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私には、とも、戦いとらなければならぬものがあった。新しいりん。いいえ、そう言ってもぜんめく。恋。それだけだ。ローザが新しい経済学にたよらなければ生きておられなかったように、私はいま、恋一つにすがらなければ、生きて行けないのだ。イエスが、この世の宗教家、道徳家、学者、けん者の偽善をあばき、神の真の愛情というものを少しもちゆうちよするところなくありのままに人々に告げあらわさんがために、その十二弟子をも諸方にけんなさろうとするに当って、弟子たちに教え聞かせたお言葉は、私のこの場合にも全然、無関係でないように思われた。

おびのなかにきんぎんまたはぜにつな。たびふくろも、まいしたも、くつも、つえつな。よ、われなんじらをつかわすは、ひつじおおかみのなかにるるがごとし。このゆえへびのごとくさとく、鴿はとのごとくなおなれ。ひとびとこころせよ、それはなんじらをしゆうしよわたし、かいどうにてむちうたん。またなんじわがゆえによりて、つかさたちおうたちのまえかれん。かれらなんじらをわたさば、如何いかになにをわんとおもわずらうな、うべきことは、そのときさずけらるべし。これうものはなんじにあらず、うちにありていたまうなんじらのちちれいなり。またなんじらのためにすべてのひとにくまれん。されどおわりまでしのぶものはすくわるべし。このまちにて、めらるるときは、かのまちのがれよ。まことなんじらにぐ、なんじらイスラエルのまちまちめぐつくさぬうちにひときたるべし。

 ころしてたましいをころしものどもをおそるな、たましいとをゲヘナにてほろぼものをおそれよ。われへいとうぜんためにきたれりとおもうな、へいにあらず、かえってつるぎとうぜんためきたれり。それきたれるはひとをそのちちより、むすめをそのははより、よめをそのしゆうとよりわかたんためなり。ひとあだは、そのいえものなるべし。われよりもちちまたはははあいするものは、われ相応ふさわしからず。われよりも息子むすこまたはむすめあいするものは、われふさしからず。またおのがじゆうをとりてわれしたがわぬものは、われ相応ふさわしからず。生命いのちものは、これをうしない、がために生命いのちうしなものは、これをべし。」

 戦闘、開始。

 もし、私が恋ゆえに、イエスのこの教えをそっくりそのまま必ず守ることをちかったら、イエスさまはおしかりになるかしら。なぜ、「恋」がわるくて、「愛」がいいのか、私にはわからない。同じもののような気がしてならない。何だかわからぬ愛のために、恋のために、その悲しさのために、たましいとをゲヘナにてほろぼもの、ああ、私は自分こそ、それだと言い張りたいのだ。

 叔父おじさまたちのお世話で、お母さまのみつそうを伊豆で行い、本葬は東京ですまして、それからまた直治と私は、伊豆のさんそうで、お互い顔を合せても口をきかぬような、理由のわからぬ気まずい生活をして、直治は出版業の資本金と称して、お母さまの宝石類を全部持ち出し、東京で飲みつかれると、伊豆の山荘へ大病人のようなまつさおな顔をしてふらふら帰って来て、寝て、る時、若いダンサアふうのひとを連れて来て、さすがに直治も少し間が悪そうにしているので、

「きょう、私、東京へ行ってもいい? お友だちのところへ、久し振りで遊びに行ってみたいの。二晩か、三晩、とまって来ますから、あなた留守番してね。おすいは、あのかたに、たのむといいわ。」

 直治の弱味にすかさずけ込み、わば蛇のごとくさとく、私はバッグにおしよう品やパンなどめ込んで、きわめて自然に、あのひとといに上京する事が出来た。

 東京郊外、省線おぎくぼえきの北口に下車すると、そこから二十分くらいで、あのひとの大戦後の新しいお住居すまいに行き着けるらしいという事は、直治から前にそれとなく聞いていたのである。

 こがらしの強く吹いている日だった。荻窪駅に降りた頃には、もうあたりがうすぐらく、私は往来のひとをつかまえては、あのひとのところ番地を告げて、その方角を教えてもらって、一時間ちかく暗い郊外の路地をうろついて、あまり心細くて、涙が出て、そのうちにじや道の石につまずいてはながぷつんと切れて、どうしようかと立ちすくんで、ふと右手のけん長屋のうちの一軒の家の表札が、夜目にも白くぼんやりうかんで、それに上原と書かれているような気がして、片足は足袋たびはだしのまま、その家のげんかんに走り寄って、なおよく表札を見ると、たしかに上原二郎としたためられていたが、家の中は暗かった。

 どうしようか、とまたしゆん立ちすくみ、それから、身を投げる気持で、玄関のこうに倒れかかるようにひたと寄りい、

「ごめん下さいまし。」

 と言い、両手の指先で格子をでながら、

「上原さん。」

 と小声でささやいてみた。

 返事は、有った。しかし、それは、女のひとの声であった。

 玄関の戸が内からあいて、細おもての古風なにおいのする、私より三つ四つ年上のような女のひとが、玄関のくらやみの中でちらと笑い、

「どちらさまでしょうか。」

 とたずねるその言葉の調子には、なんの悪意もけいかいも無かった。

「いいえ、あのう、」

 けれども私は、自分の名を言いそびれてしまった。このひとにだけは、私の恋も、みようにうしろめたく思われた。おどおどと、ほとんどくつに、

「先生は? いらっしゃいません?」

「はあ。」

 と答えて、気の毒そうに私の顔を見て、

「でも、行く先は、たいてい、……」

「遠くへ?」

「いいえ、」

 と、可笑おかしそうに片手をお口に当てられて、

「荻窪ですの。駅の前の、しらいしというおでんやさんへおいでになれば、たいてい、行く先がおわかりかと思います。」

 私は飛び立つ思いで、

「あ、そうですか。」

「あら、おはきものが。」

 すすめられて私は、玄関の内へはいり、式台にすわらせてもらい、奥さまから、軽便鼻緒とでもいうのかしら、鼻緒の切れた時に手軽につくろうことの出来るかわかけひもをいただいて、下駄を直して、そのあいだに奥さまは、ろうそくをともして玄関に持って来て下さったりしながら、

「あいにく、電球が二つとも切れてしまいまして、このごろの電球は鹿高い上に切れやすくていけませんわね、主人がいると買ってもらえるんですけど、ゆうべも、おとといの晩も帰ってまいりませんので、私どもは、これで三晩、無一文の早寝ですのよ。」

 などと、しんからのんきそうに笑っておっしゃる。奥さまのうしろには、十二、三歳の眼の大きな、めったに人になつかないような感じのほっそりした女のお子さんが立っている。

 敵。私はそう思わないけれども、しかし、この奥さまとお子さんは、いつかは私を敵と思ってにくむ事があるに違いないのだ。それを考えたら、私の恋も、一時にさめ果てたような気持になって、下駄の鼻緒をすげかえ、立ってはたはたと手を打ち合せて両手のよごれをはらい落しながら、わびしさがもうぜんと身のまわりに押し寄せて来る気配にこらえかね、おしきけ上って、まっくら闇の中で奥さまのお手をつかんで泣こうかしらと、ぐらぐらはげしくどうようしたけれども、ふと、その後の自分のしらじらしい何とも形のつかぬ味気無い姿を考え、いやになり、

「ありがとうございました。」

 と、ばかていねいなおをして、外へ出て、こがらしに吹かれ、せんとう、開始、恋する、すき、こがれる、本当に恋する、本当にすき、本当にこがれる、いしいのだから仕様が無い、すきなのだから仕様が無い、こがれているのだから仕様が無い、あの奥さまはたしかにめずらしくいいお方、あのおじようさんもおれいだ、けれども私は、神のしんぱんの台に立たされたって、少しも自分をやましいとは思わぬ、人間は、恋と革命のために生れて来たのだ、神もばつたもはずが無い、私はみじんも悪くない、本当にすきなのだからおおり、あのひとに一目お逢いするまで、二晩でも三晩でも野宿しても、必ず。

 駅前の白石というおでんやは、すぐに見つかった。けれども、あのひとはいらっしゃらない。

ですよ、きっと。阿佐ケ谷駅の北口をまっすぐにいらして、そうですね、一丁半かな? 金物屋さんがありますからね、そこから右へはいって、半丁かな? 柳やという小料理屋がありますからね、先生、このごろは柳やのおステさんと大あつあつで、いりびたりだ、かなわねえ。」

 駅へ行き、きつを買い、東京行きの省線に乗り、阿佐ケ谷で降りて、北口、約一丁半、金物屋さんのところから右へ曲って半丁、柳やは、ひっそりしていた。

「たったいまお帰りになりましたが、大勢さんで、これから西にしおぎのチドリのおばさんのところへ行って夜明しで飲むんだ、とかおっしゃっていましたよ。」

 私よりも年が若くて、落ちついて、上品で、親切そうな、これがあの、おステさんとかいうあのひとと大あつあつの人なのかしら。

「チドリ? 西荻のどのへん?」

 心細くて、涙が出そうになった。自分がいま、気がくるっているのではないかしら、とふと思った。

「よく存じませんのですけどね、何でも西荻の駅を降りて、南口の、左にはいったところだとか、とにかく、交番でお聞きになったら、わかるんじゃないでしょうか。何せ、いつけんではおさまらないひとで、チドリに行く前にまたどこかにひっかかっているかも知れませんですよ。」

「チドリへ行ってみます。さようなら。」

 また、逆もどり。阿佐ケ谷から省線で立川行きに乗り、荻窪、西にしおぎくぼ、駅の南口で降りて、こがらしに吹かれてうろつき、交番を見つけて、チドリの方角をたずねて、それから、教えられたとおりの夜道を走るようにして行って、チドリの青いとうろうを見つけて、ためらわずこうをあけた。

 土間があって、それからすぐろくじようくらいの部屋があって、たばこのけむりもうもうとして、十人ばかりの人間が、部屋の大きなたくをかこんで、わあっわあっとひどくさわがしいお酒盛りをしていた。私より若いくらいのお嬢さんも三人まじって、たばこを吸い、お酒を飲んでいた。

 私は土間に立って、わたし、見つけた。そうして、夢見るような気持ちになった。ちがうのだ。六年。まるっきり、もう、違ったひとになっているのだ。

 これが、あの、私のにじ、M・C、私の生き甲斐がいの、あのひとであろうか。六年。ほうはつは昔のままだけれどもあわれに赤茶けてうすくなっており、顔は黄色くむくんで、眼のふちが赤くただれて、前歯が抜け落ち、絶えず口をもぐもぐさせて、一匹のろうえんが背中を丸くして部屋のかたすみすわっている感じであった。

 お嬢さんのひとりが私を見とがめ、目で上原さんに私の来ている事を知らせた。あのひとは坐ったまま細長い首をのばして私のほうを見て、何の表情も無く、あごであがれという合図をした。一座は、私に何の関心も無さそうに、わいわいの大騒ぎをつづけ、それでも少しずつ席をめて、上原さんのすぐみぎどなりに私の席をつくってくれた。

 私はだまって坐った。上原さんは、私のコップにお酒をなみなみといっぱいいでくれて、それからご自分のコップにもお酒を注ぎ足して、

かんぱい。」

 としゃがれた声で低く言った。

 二つのコップが、力弱くれ合って、カチと悲しい音がした。

 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、とだれかが言って、それに応じてまたひとりが、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と言い、カチンと音高くコップを打ち合せてぐいと飲む。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、とあちこちから、そのたらみたいな歌が起って、さかんにコップを打ち合せて乾杯をしている。そんなふざけ切ったリズムでもってはずみをつけて、無理にお酒をのどに流し込んでいる様子であった。

「じゃ、失敬。」

 と言って、よろめきながら帰るひとがあるかと思うと、また、新客がのっそりはいって来て、上原さんにちょっとしやくしただけで、一座に割り込む。

「上原さん、あそこのね、上原さん、あそこのね、あああ、というところですがね、あれは、どんないに言ったらいいんですか? あ、あ、あ、ですか? ああ、あ、ですか?」

 と乗り出してたずねているひとは、たしかに私もそのたいがおに見覚えのある新劇俳優の藤田である。

「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といったようなあんばいだね。」

 と上原さん。

「お金の事ばっかり。」

 とおじようさん。

「二羽のすずめは一銭、とは、ありゃ高いんですか? 安いんですか?」

 と若いしん

いちりんも残りなくつぐなわずば、という言葉もあるし、ある者には五タラント、或者には二タラント、或者には一タラントなんて、ひどくややこしいたとえばなしもあるし、キリストもかんじようはなかなかこまかいんだ。」

 と別の紳士。

「それに、あいつあ酒飲みだったよ。みようにバイブルには酒の譬話が多いと思っていたら、果せるかなだ、よ、酒を好む人、と非難されたとバイブルにしるされてある。酒を飲む人でなくて、酒を好む人というんだから、相当な飲み手だったに違いねえのさ。まず、いつしよう飲みかね。」

 ともうひとりの紳士。

「よせ、よせ。ああ、あ、なんじらは道徳におびえて、イエスをダシに使わんとす。チエちゃん、飲もう。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ。」

 と上原さん、一ばん若くて美しいお嬢さんと、カチンと強くコップを打ち合せて、ぐっと飲んで、お酒が口角からしたたり落ちて、あごれて、それをやけくそみたいに乱暴にてのひらぬぐって、それから大きいくしゃみを五つも六つも続けてなさった。

 私はそっと立って、お隣りの部屋へ行き、病身らしくあおじろせたおかみさんに、お手洗いをたずね、また帰りにその部屋をとおると、さっきの一ばんきれいで若いチエちゃんとかいうお嬢さんが、私を待っていたようなかつこうで立っていて、

「おなかが、おすきになりません?」

 と親しそうに笑いながら、たずねた。

「ええ、でも、私、パンを持ってまいりましたから。」

「何もございませんけど、」

 と病身らしいおかみさんは、だるそうによこずわりに坐ってながばちに寄りかかったままで言う。

「この部屋で、お食事をなさいまし。あんなんべえさんたちの相手をしていたら、一晩中なにも食べられやしません。お坐りなさい、ここへ。チエ子さんも一緒に。」

「おうい、キヌちゃん、お酒が無い。」

 とお隣りで紳士がさけぶ。

「はい、はい。」

 と返辞して、そのキヌちゃんという三十歳前後のいきしまの着物を着た女中さんが、おちようをおぼんに十本ばかりせて、お勝手からあらわれる。

「ちょっと、」

 とおかみさんは呼びとめて、

「ここへも二本。」

 と笑いながら言い、

「それからね、キヌちゃん、すまないけど、裏のスズヤさんへ行って、うどんを二つ大いそぎでね。」

 私とチエちゃんは長火鉢のそばにならんで坐って、手をあぶっていた。

「おとんをおあてなさい。寒くなりましたね。お飲みになりませんか。」

 おかみさんは、ご自分のお茶のおちやわんにお銚子のお酒をついで、それから別の二つのお茶碗にもお酒をいだ。

 そうして私たち三人は黙って飲んだ。

「みなさん、お強いのね。」

 とおかみさんは、なぜだか、しんみりした口調で言った。

 がらがらと表の戸のあく音が聞えて、

「先生、持ってまいりました。」

 という若い男の声がして、

「何せ、うちの社長ったら、がっちりしていますからね、二万円と言ってねばったのですが、やっと一万円。」

「小切手か?」

 と上原さんのしゃがれた声。

「いいえ、現なまですが。すみません。」

「まあ、いいや、受取りを書こう。」

 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、の乾杯の歌が、そのあいだも一座にいて絶える事無くつづいている。

「直さんは?」

 と、おかみさんは真面目まじめな顔をしてチエちゃんに尋ねる。私は、どきりとした。

「知らないわ。直さんの番人じゃあるまいし。」

 と、チエちゃんは、うろたえて、顔をれんに赤くなさった。

「この頃、何か上原さんと、まずい事でもあったんじゃないの? いつも、必ず、一緒だったのに。」

 とおかみさんは、落ちついて言う。

「ダンスのほうが、すきになったんですって。ダンサアの恋人でも出来たんでしょうよ。」

「直さんたら、まあ、お酒の上にまた女だから、始末が悪いね。」

「先生のお仕込みですもの。」

「でも、直さんのほうが、たちが悪いよ。あんなぼつちゃんくずれは、……」

「あの、」

 私は微笑ほほえんで口をはさんだ。黙っていては、かえってこのお二人に失礼なことになりそうだと思ったのだ。

「私、直治の姉なんですの。」

 おかみさんは驚いたらしく、私の顔を見直したが、チエちゃんは平気で、

「お顔がよく似ていらっしゃいますもの。あの土間の暗いところにお立ちになっていたのを見て、私、はっと思ったわ。直さんかと。」

ようでございますか。」

 とおかみさんは語調を改めて、

「こんなむさくるしいところへ、よくまあ。それで? あの、上原さんとは、前から?」

「ええ、六年前においして、……」

 言いよどみ、うつむき、涙が出そうになった。

「お待ちどおさま。」

 女中さんが、おうどんを持って来た。

し上れ。熱いうちに。」

 とおかみさんはすすめる。

「いただきます。」

 おうどんの湯気に顔をつっ込み、するするとおうどんをすすって、私は、いまこそ生きている事のびしさの、極限を味わっているような気がした。

 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と低く口ずさみながら、上原さんが私たちの部屋にはいって来て、私の傍にどかりとあぐらをかき、無言でおかみさんに大きいふうとうわたした。

「これだけで、あとをごまかしちゃだめですよ。」

 おかみさんは、封筒の中を見もせずに、それをながばちの引出しにい込んで笑いながら言う。

「持って来るよ。あとのはらいは、来年だ。」

「あんな事を。」

 一万円。それだけあれば、電球がいくつ買えるだろう。私だって、それだけあれば、一年らくに暮せるのだ。

 ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、にくむべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。

「とにかくね、」

 とりんしつしんがおっしゃる。

「これから東京で生活して行くにはだね、コンチワア、というけいはくきわまるあいさつが平気で出来るようでなければ、とてもだね。いまのわれらに、じゆうこうだの、誠実だの、そんな美徳を要求するのは、首くくりの足を引っぱるようなものだ。重厚? 誠実? ペッ、プッだ。生きて行けやしねえじゃないか。もしもだね、コンチワアを軽く言えなかったら、あとは、道が三つしか無いんだ、一つは帰農だ、一つは自殺、もう一つは女のヒモさ。」

「その一つも出来やしねえわいそうな野郎には、せめて最後のゆいいつの手段、」

 と別な紳士が、

「上原二郎にたかって、痛飲。」

 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ。

とまるところが、ねえんだろ。」

 と、上原さんは、低い声でひとりごとのようにおっしゃった。

「私?」

 私は自身にかまくびをもたげたへびを意識した。敵意。それにちかい感情で、私は自分のからだを固くしたのである。

「ざこ寝が出来るか。寒いぜ。」

 上原さんは、私のいかりにとんちやくなくつぶやく。

「無理でしょう。」

 とおかみさんは、口をはさみ、

「お可哀かわいそうよ。」

 ちえっ、と上原さんは舌打ちして、

「そんなら、こんなところへ来なけれあいいんだ。」

 私はだまっていた。このひとは、たしかに、私のあの手紙を読んだ。そうして、だれよりも私を愛している、と、私はそのひとの言葉のふんからばやく察した。

「仕様がねえな。福井さんのとこへでも、たのんでみようかな。チエちゃん、連れて行ってくれないか。いや、女だけだと、途中が危険か。やっかいだな。かあさん、このひとのはきものを、こっそりお勝手のほうにまわして置いてくれ。僕が送りとどけて来るから。」

 外は深夜の気配だった。風はいくぶんおさまり、空にいっぱい星が光っていた。私たちは、ならんで歩きながら、

「私、ざこ寝でも何でも、出来ますのに。」

 上原さんは、眠そうな声で、

「うん。」

 とだけ言った。

「二人っきりに、なりたかったのでしょう。そうでしょう。」

 私がそう言って笑ったら、上原さんは、

「これだから、いやさ。」

 と口をまげて、にが笑いなさった。私は自分がとても可愛かわいがられている事を、身にしみて意識した。

「ずいぶん、お酒をし上りますのね。毎晩ですの?」

「そう、毎日。朝からだ。」

「おいしいの? お酒が。」

「まずいよ。」

 そう言う上原さんの声に、私はなぜだか、ぞっとした。

「お仕事は?」

「駄目です。何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕様が無いんだ。いのちの黄昏たそがれ。芸術の黄昏。人類の黄昏。それも、キザだね。」

「ユトリロ。」

 私は、ほとんど無意識にそれを言った。

「ああ、ユトリロ。まだ生きていやがるらしいね。アルコールのもうじやがいだね。最近十年間のあいつの絵は、へんに俗っぽくて、みな駄目。」

「ユトリロだけじゃないんでしょう? 他のマイスターたちも全部、……」

「そう、すいじやく。しかし、新しい芽も、芽のままで衰弱しているのです。しも。フロスト。世界中に時ならぬ霜が降りたみたいなのです。」

 上原さんは私のかたを軽く抱いて、私のからだは上原さんの二重廻しのそでで包まれたような形になったが、私はきよせず、かえってぴったり寄りそってゆっくり歩いた。

 ぼうの樹木の枝。葉の一枚もいていない枝、ほそく鋭く夜空を突きしていて、

「木の枝って、美しいものですわねえ。」

 と思わずひとりごとのように言ったら、

「うん、花と真黒い枝の調和が。」

 と少しうろたえたようにしておっしゃった。

「いいえ、私、花も葉も芽も、何もついていない、こんな枝がすき。これでも、ちゃんと生きているのでしょう。かれえだとちがいますわ。」

「自然だけは、衰弱せずか。」

 そう言って、またはげしいくしゃみをいくつもいくつも続けてなさった。

「お風邪かぜじゃございませんの?」

「いや、いや、さにあらず。実はね、これは僕のへきでね、お酒のいがほう点に達すると、たちまちこんなあいのくしゃみが出るんです。酔いのバロメーターみたいなものだね。」

「恋は?」

「え?」

「どなたかございますの? 飽和点くらいにすすんでいるお方が。」

「なんだ、ひやかしちゃいけない。女は、みな同じさ。ややこしくていけねえ。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、実は、ひとり、いや、半人くらいある。」

「私の手紙、ごらんになって?」

「見た。」

「ご返事は?」

「僕は貴族は、きらいなんだ。どうしても、どこかに、鼻持ちならないごうまんなところがある。あなたの弟の直さんも、貴族としては、大出来の男なんだが、時々、ふっと、とても附き合い切れない小生意気なところを見せる。僕は田舎いなかひやくしよう息子むすこでね、こんな小川のそばをとおると必ず、子供のころ、故郷の小川でふなった事や、めだかをすくった事を思い出してたまらない気持になる。」

 くらやみの底でかすかに音立てて流れている小川に、沿ったみちを私たちは歩いていた。

「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか、けいべつしている。」

「ツルゲーネフは?」

「あいつは貴族だ。だから、いやなんだ。」

「でも、りようじんにつ、……」

「うん、あれだけは、ちょっとうまいね。」

「あれは、農村生活の感傷、……」

「あの野郎は田舎貴族、というところできようしようか。」

「私もいまでは田舎者ですわ。畑を作っていますのよ。田舎のびんぼう人。」

「今でも、僕をすきなのかい。」

 乱暴な口調であった。

「僕の赤ちゃんが欲しいのかい。」

 私は答えなかった。

 岩が落ちて来るような勢いでそのひとの顔が近づき、しや私はキスされた。せいよくのにおいのするキスだった。私はそれを受けながら、涙を流した。くつじよくの、くやし涙に似ているにがい涙であった。涙はいくらでも眼からあふれ出て、流れた。

 また、二人ならんで歩きながら、

「しくじった。れちゃった。」

 とそのひとは言って、笑った。

 けれども、私は笑う事が出来なかった。まゆをひそめて、口をすぼめた。

 仕方が無い。

 言葉で言いあらわすなら、そんな感じのものだった。私は自分がを引きずってすさんだ歩き方をしているのに気がついた。

「しくじった。」

 とその男は、また言った。

「行くところまで行くか。」

「キザですわ。」

「この野郎。」

 上原さんは私の肩をとんとこぶしでたたいて、また大きいくしゃみをなさった。

 福井さんとかいうお方のお宅では、みなさんがもうおやすみになっていらっしゃる様子であった。

「電報、電報。福井さん、電報ですよ。」

 と大声で言って、上原さんはげんかんの戸をたたいた。

「上原か?」

 と家の中で男のひとの声がした。

「そのとおり。プリンスとプリンセスと一夜の宿をたのみに来たのだ。どうもこう寒いと、くしゃみばかり出て、せっかくの恋のみちゆきもコメディになってしまう。」

 玄関の戸が内からひらかれた。もうかなりの、五十歳をしたくらいの、頭の禿げたがらなおじさんが、派手なパジャマを着て、へんな、はにかむような笑顔で私たちをむかえた。

「たのむ。」

 と上原さんは一こと言って、マントもがずにさっさと家の中へはいって、

「アトリエは、寒くていけねえ。二階を借りるぜ。おいで。」

 私の手をとって、ろうをとおり突き当りの階段をのぼって、暗いおしきにはいり、部屋のすみのスイッチをパチとひねった。

「お料理屋のお部屋みたいね。」

「うん、成金しゆさ。でも、あんなヘボ画かきにはもったいない。悪運が強くてさいも、しやがらねえ。利用せざるべからずさ。さあ、寝よう、寝よう。」

 ご自分のおうちみたいに、勝手に押入れをあけておとんを出していて、

「ここへ寝たまえ。僕は帰る。あしたの朝、迎えに来ます。便所は、階段を降りて、すぐ右だ。」

 だだだだと階段からころげ落ちるようにそうぞうしく下へ降りて行って、それっきり、しんとなった。

 私はまたスイッチをひねって、でんとうを消し、お父上の外国土産みやげで作ったビロードのコートを脱ぎ、帯だけほどいて着物のままでおとこへはいった。つかれている上に、お酒を飲んだせいか、からだがだるく、すぐにうとうとまどろんだ。

 いつのまにか、あのひとが私の傍に寝ていらして、……私は一時間ちかく、必死の無言のていこうをした。

 ふと可哀かわいそうになって、ほうした。

「こうしなければ、ご安心が出来ないのでしょう?」

「まあ、そんなところだ。」

「あなた、おからだを悪くしていらっしゃるんじゃない? かつけつなさったでしょう。」

「どうしてわかるの? 実はこないだ、かなりひどいのをやったのだけど、だれにも知らせていないんだ。」

「お母さまのおくなりになる前と、おんなじにおいがするんですもの。」

「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。わびしさだの、さびしさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。いんくさい、なげきのためいきが四方のかべから聞えている時、自分たちだけの幸福なんてあるはずは無いじゃないか。自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、ひとは、どんな気持になるものかね。努力。そんなものは、ただ、じゆうじきになるだけだ。みじめな人が多すぎるよ。キザかね。」

「いいえ。」

「恋だけだね。おめえの手紙のお説のとおりだよ。」

「そう。」

 私のその恋は、消えていた。

 夜が明けた。

 部屋がうすあかるくなって、私は、傍で眠っているそのひとの寝顔をつくづくながめた。ちかく死ぬひとのような顔をしていた。疲れはてているお顔だった。

 せいしやの顔。貴い犠牲者。

 私のひと。私のにじ。マイ、チャイルド。にくいひと。ずるいひと。

 この世にまたと無いくらいに、とても、とても美しい顔のように思われ、恋があらたによみがえって来たようで胸がときめき、そのひとのかみでながら、私のほうからキスをした。

 かなしい、かなしい恋のじようじゆ

 上原さんは、眼をつぶりながら私をお抱きになって、

「ひがんでいたのさ。僕は百姓の子だから。」

 もうこのひとから離れまい。

「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの声が聞えて来ても、私のいまの幸福感は、ほう点よ。くしゃみが出るくらい幸福だわ。」

 上原さんは、ふふ、とお笑いになって、

「でも、もう、おそいなあ。黄昏たそがれだ。」

「朝ですわ。」

 弟の直治は、その朝に自殺していた。

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