四
お手紙、書こうか、どうしようか、ずいぶん迷っていました。けれども、けさ、
直治が、こないだまたお
あなたに、御相談してみたい事があるのです。
私のこの相談は、これまでの「女大学」の立場から見ると、非常にずるくて、けがらわしくて、悪質の犯罪でさえあるかも知れませんが、けれども私は、いいえ、私たちは、いまのままでは、とても生きて行けそうもありませんので、弟の直治がこの世で一ばん尊敬しているらしいあなたに、私のいつわらぬ気持を聞いていただき、お指図をお願いするつもりなのです。
私には、いまの生活が、たまらないのです。すき、きらいどころではなく、とても、このままでは私たち親子三人、生きて行けそうもないのです。
昨日も、くるしくて、からだも熱っぽく、息ぐるしくて、自分をもてあましていましたら、お昼すこしすぎ、雨の中を下の農家の娘さんが、お米を背負って持って来ました。そうして私のほうから、約束どおりの衣類を差し上げました。娘さんは、食堂で私と向い合って
「あなた、ものを売って、これから先、どのくらい生活して行けるの?」
と言いました。
「
と私は答えました。そうして、右手で半分ばかり顔をかくして、
「眠いの。眠くて、仕方がないの。」
と言いました。
「
「そうでしょうね。」
涙が出そうで、ふと私の胸の中に、リアリズムという言葉と、ロマンチシズムという言葉が
それで、私、あなたに、相談いたします。
私は、いま、お母さまや弟に、はっきり宣言したいのです。私が前から、
M・Cには、あなたと同じ様に、奥さまもお子さまもございます。また、私より、もっと
けれども、かんじんのM・Cのほうで、私をどう思っていらっしゃるか。それを考えると、しょげてしまいます。
それなら、私も、私の虹を消してしまわなければなりません。けれども、私の生命をさきに消さなければ、私の胸の虹は消えそうもございません。
御返事を、祈っています。
上原二郎様(私のチェホフ。マイ、チェホフ。M・C)
私は、このごろ、少しずつ、太って行きます。動物的な女になってゆくというよりは、ひとらしくなったのだと思っています。この夏は、ロレンスの小説を、一つだけ読みました。
御返事が無いので、もういちどお手紙を差し上げます。こないだ差し上げた手紙は、とても、ずるい、
「こいかしら。」
私は、はしゃいで言いました。
「お母さまを、すきなのね。」
けれども、お母さまは落ちついて、
「いいえ。
とひとりごとのように、おっしゃいました。芸術家を尊敬するのは、私どもの家の家風のようでございます。
その師匠さんが、先年奥さまをなくなさったとかで、和田の
「お断りしてもいいのでしょう?」
「そりゃもう。……私も、無理な話だと思っていたわ。」
その頃、師匠さんは
お母さまは、お加減がわるいので、私が御相手に出て、
「あの、お断りの手紙、いまごろ軽井沢のほうに着いている事と存じます。私、よく考えましたのですけど。」
と申し上げました。
「そうですか。」
とせかせかした調子でおっしゃって、
「でも、それは、もう一度、よくお考えになってみて下さい。私は、あなたを、何と言ったらいいか、
「お言葉の、その、幸福というのが、私にはよくわかりません。生意気を申し上げるようですけど、ごめんなさい。チェホフの妻への手紙に、子供を生んでおくれ、私たちの子供を生んでおくれ、って書いてございましたわね。ニイチェだかのエッセイの中にも、子供を生ませたいと思う女、という言葉がございましたわ。私、子供がほしいのです。幸福なんて、そんなものは、どうだっていいのですの。お金もほしいけど、子供を育てて行けるだけのお金があったら、それでたくさんですわ。」
師匠さんは、へんな笑い方をなさって、
「あなたは、
と、おとしに似合わず、ちょっと
「私に、恋のこころが無くてもいいのでしょうか?」
と私は少し笑っておたずねしたら、師匠さんはまじめに、
「女のかたは、それでいいんです。女のひとは、ぼんやりしていて、いいんですよ。」
とおっしゃいます。
「でも、私みたいな女は、やっぱり、恋のこころが無くては、結婚を考えられないのです。私、もう、大人なんですもの。来年は、もう、三十。」
と言って、思わず口を
三十。女には、二十九までは
「あなたは、恋をなさっては、いけません。あなたは、恋をしたら、不幸になります。恋を、なさるなら、もっと、大きくなってからになさい。三十になってからになさい。」
けれども、そう言われても私は、きょとんとしていました。三十になってからの事など、その頃の私には、想像も何も出来ないことでした。
「このお
師匠さんは、意地わるそうな表情で、ふいとそうおっしゃいました。
私は笑いました。
「ごめんなさい。桜の
師匠さんは、さすがに
私がいま、あなたに求めているものは、ロパーヒンではございません。それは、はっきり言えるんです。ただ、中年の女の押しかけを、引受けて下さい。
私がはじめて、あなたとお
もっとずっと前に、あなたがまだおひとりの時、そうして私もまだ山木へ行かない時に、お逢いして、二人が結婚していたら、私もいまみたいに苦しまずにすんだのかも知れませんが、私はもうあなたとの結婚は出来ないものとあきらめています。あなたの奥さまを押しのけるなど、それはあさましい暴力みたいで、私はいやなんです。私は、おメカケ、(この言葉、言いたくなくて、たまらないのですけど、でも、愛人、と言ってみたところで、俗に言えば、おメカケに違いないのですから、はっきり、言うわ)それだって、かまわないんです。でも、世間普通のお
問題は、あなたの御返事だけです。私を、すきなのか、きらいなのか、それとも、なんともないのか、その御返事、とてもおそろしいのだけれども、でも、
いまふっと思った事でございますが、あなたは、小説ではずいぶん恋の
雨があがって、風が吹き出しました。いま午後三時です。これから、一級酒(六合)の配給を
こちらに、いらっしゃいません?
M・C様
きょうも雨降りになりました。目に見えないような
さっき私がお縁側に立って、
「ミルクを
とお母さまが食堂のほうからお呼びになりました。
「寒いから、うんと熱くしてみたの。」
私たちは、食堂で湯気の立っている熱いミルクをいただきながら、先日の師匠さんの事を話合いました。
「あの方と、私とは、どだい何も似合いませんでしょう?」
お母さまは平気で、
「似合わない。」
とおっしゃいました。
「私、こんなにわがままだし、それに芸術家というものをきらいじゃないし、おまけに、あの方にはたくさんの収入があるらしいし、あんな方と結婚したら、そりゃいいと思うわ。だけど、ダメなの。」
お母さまは、お笑いになって、
「かず子は、いけない子ね。そんなに、ダメでいながら、こないだあの方と、ゆっくり何かとたのしそうにお話をしていたでしょう。あなたの気持が、わからない。」
「あら、だって、面白かったんですもの。もっと、いろいろ話をしてみたかったわ。私、たしなみが無いのね。」
「いいえ、べったりしているのよ。かず子べったり。」
お母さまは、きょうは、とてもお元気。
そうして、きのうはじめてアップにした私の
「アップはね、髪の毛の少いひとがするといいのよ。あなたのアップは立派すぎて、
「かず子がっかり。だって、お母さまはいつだったか、かず子は
「そんな事だけは、覚えているのね。」
「少しでもほめられた事は、一生わすれません。覚えていたほうが、たのしいもの。」
「こないだ、あの方からも、何かとほめられたのでしょう。」
「そうよ。それで、べったりになっちゃったの。私と一緒にいると
「直治の師匠さんは、どんなひとなの?」
私は、ひやりとしました。
「よくわからないけど、どうせ直治の師匠さんですもの、
「札つき?」
と、お母さまは、楽しそうな眼つきをなさって
「面白い言葉ね。札つきなら、かえって安全でいいじゃないの。
「そうかしら。」
うれしくて、うれしくて、すうっとからだが
いちど、本当に、こちらへ遊びにいらっしゃいません? 私から直治に、あなたをお連れして来るように、って言いつけるのも、何だか不自然で、へんですから、あなたご自身の
私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく
さいしょに差し上げた手紙に、私の胸にかかっている
もう一度お逢いして、その時、いやならハッキリ言って下さい。私のこの胸の炎は、あなたが点火したのですから、あなたが消して行って下さい。私ひとりの力では、とても消す事が出来ないのです。とにかく逢ったら、逢ったら、私が助かります。
このような手紙を、もし
困った女。しかし、この問題で一ばん苦しんでいるのは私なのです。この問題に
世間でよいと言われ、尊敬されているひとたちは、みな
おわかりになりまして?
こいに理由はございません。すこし
待つ。ああ、人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを
はばむ道徳を、押しのけられませんか?
M・C(マイ、チェホフのイニシャルではないんです。私は、作家にこいしているのではございません。マイ、チャイルド)
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