三
どうしても、もう、とても、生きておられないような心細さ。これが、あの、不安、とかいう感情なのであろうか、胸に苦しい
このごろは雨が
「お母さま。」
と思わず言った。
お母さまは、お座敷の
「はい?」
と、
私は、まごつき、それから、ことさらに大声で、
「とうとう
お座敷のお縁側のすぐ前の薔薇。それは、和田の
「知っていました。」
とお母さまはしずかにおっしゃって、
「あなたには、そんな事が、とても重大らしいのね。」
「そうかも知れないわ。
「いいえ、あなたには、そういうところがあるって言っただけなの。お勝手のマッチ箱にルナアルの絵を
「子供が無いからよ。」
自分でも全く思いがけなかった言葉が、口から出た。言ってしまって、はっとして、まの悪い思いで
──二十九だからなあ。
そうおっしゃる男の人の声が、電話で聞くようなくすぐったいバスで、はっきり聞えたような気がして、私は恥ずかしさで、
お母さまは、何もおっしゃらず、また、ご本をお読みになる。お母さまは、こないだからガーゼのマスクをおかけになっていらして、そのせいか、このごろめっきり無口になった。そのマスクは、直治の言いつけに従って、おかけになっているのである。直治は、十日ほど前に、南方の島から
何の
「わあ、ひでえ。
それが私とはじめて顔を合せた時の、直治の
その二、三日前からお母さまは、舌を
「笑われます。」
と苦笑いしながら、おっしゃる。ルゴールを
そこへ、直治が
直治はお母さまの
「どう? お母さまは、変った?」
「変った、変った。やつれてしまった。早く死にゃいいんだ。こんな世の中に、ママなんて、とても生きて行けやしねえんだ。あまりみじめで、見ちゃおれねえ。」
「私は?」
「げびて来た。男が二三人もあるような顔をしていやがる。酒は? 今夜は飲むぜ。」
私はこの部落でたった
「もし、もし。大丈夫でしょうか。
と、れいの
「焼酎って。あの、メチル?」
「いいえ、メチルじゃありませんけど。」
「飲んでも、病気にならないのでしょう?」
「ええ、でも、……」
「飲ませてやって下さい。」
お咲さんは、つばきを飲み込むようにしてうなずいて帰って行った。
私はお母さまのところに行って、
「お咲さんのところで、飲んでいるんですって。」
と申し上げたら、お母さまは、少しお口を曲げてお笑いになって、
「そう。
私は、泣きたいような気持になった。
夜ふけて、直治は、
「南方のお話を、お母さまに聞かせてあげたら?」
と私が寝ながら言うと、
「何も無い。何も無い。忘れてしまった。日本に着いて汽車に乗って、汽車の窓から、水田が、すばらしく
私は
あくる朝、直治は
「舌が痛いんですって?」
と、はじめてお母さまのお加減の悪いのに気がついたみたいなふうの口のきき方をした。
お母さまは、ただ
「そいつあ、きっと、心理的なものなんだ。夜、口をあいておやすみになるんでしょう。だらしがない。マスクをなさい。ガーゼにリバノール液でもひたして、それをマスクの中にいれて置くといい。」
私はそれを聞いて
「それは、何
「美学療法っていうんだ。」
「でも、お母さまは、マスクなんか、きっとおきらいよ。」
お母さまは、マスクに限らず、眼帯でも、
「ねえ、お母さま。マスクをなさる?」
と私がおたずねしたら、
「致します。」
とまじめに低くお答えになったので、私は、はっとした。直治の言う事なら、なんでも信じて従おうと思っていらっしゃるらしい。
私が朝食の後に、さっき直治が言ったとおりに、ガーゼにリバノール液をひたしなどして、マスクを作り、お母さまのところに持って行ったら、お母さまは、
お昼すぎに、直治は、東京のお友達や、文学のほうの
「リバノールって、いい薬なのね。このマスクをかけていると、舌の痛みが消えてしまうのですよ。」
と、笑いながらおっしゃったけれども、私には、お母さまが
「あ。」
と言って立ち上り、さて、どこへも行くところが無く、身一つをもてあまして、ふらふら階段をのぼって行って、二階の洋間にはいってみた。
ここは、こんど直治の部屋になる筈で、四、五日前に私が、お母さまと相談して、下の農家の中井さんにお手伝いをたのみ、直治の洋服
夕顔日誌
と書きしるされ、その中には、次のような事が一ぱい書き散らされていたのである。直治が、あの、
焼け死ぬる思い。苦しくとも、苦しと一言、半句、
思想? ウソだ。主義? ウソだ。理想? ウソだ。
アレモ人ノ子。生キテイル。
論理は、
金と女。論理は、はにかみ、そそくさと歩み去る。
歴史、
学問とは、
ゲエテにだって
文いたらず、人いたらぬ
友人、したり顔にて、あれがあいつの悪い
不良でない人間があるだろうか。
味気ない思い。
金が欲しい。
さもなくば、
眠りながらの自然死!
薬屋に千円ちかき借金あり。きょう、
まず、片手の
その他、パリ
千円の借銭を解決せんとして、五円也。世の中に
デカダン? しかし、こうでもしなけりゃ生きておれないんだよ。そんな事を言って、僕を非難する人よりは、死ね! と言ってくれる人のほうがありがたい。さっぱりする。けれども人は、めったに、死ね! とは言わないものだ。ケチくさく、用心深い
正義?
しかし、僕たちの階級にも、ろくな
死ね! という言葉を与えるのさえ、もったいない。
戦争。日本の戦争は、ヤケクソだ。
ヤケクソに巻き込まれて死ぬのは、いや。いっそ、ひとりで死にたいわい。
人間は、
人から尊敬されようと思わぬ人たちと遊びたい。
けれども、そんないい人たちは、僕と遊んでくれやしない。
僕が早熟を
どうも、くいちがう。
結局、自殺するよりほか仕様がないのじゃないか。
このように苦しんでも、ただ、自殺で終るだけなのだ、と思ったら、声を放って泣いてしまった。
春の朝、二三輪の花の咲きほころびた梅の枝に朝日が当って、その枝にハイデルベルヒの若い学生が、ほっそりと
「ママ! 僕を
「どういう工合いに?」
「弱虫! って。」
「そう? 弱虫。……もう、いいでしょう?」
ママには無類のよさがある。ママを思うと、泣きたくなる。ママヘおわびのためにも、死ぬんだ。
オユルシ下サイ。イマ、イチドダケ、オユルシ下サイ。
年々や
めしいのままに
育ちゆくらし
あわれ 太るも (
モルヒネ アトロモール ナルコポン パントポン パビナアル パンオピン アトロピン
プライドとは何だ、プライドとは。
人間は、いや、男は、(おれはすぐれている)(おれにはいいところがあるんだ)などと思わずに、生きて行く事が出来ぬものか。
人をきらい、人にきらわれる。
ちえくらべ。
とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。
「御返事を。
御返事を下さい。
そうして、それが必ず快報であるように。
僕はさまざまの
お願いいたします。
僕は
毎日毎日、御返事を待って、夜も昼もがたがたふるえているのです。
僕に、砂を
僕を恥ずかしい目に
姉さん!」
そこまで読んで私は、その夕顔日誌を閉じ、木の箱にかえして、それから窓のほうに歩いて行き、窓を一ぱいにひらいて、白い雨に
もう、あれから、六年になる。直治の、この
「上原さんって、どんな方?」
「
とお関さんは答える。
「でも、アパートにいらっしゃる事は、めったにございませぬです。たいてい、奥さんと、六つ七つの女のお子さんと、お二人がいらっしゃるだけでございます。この奥さんは、そんなにお
その頃の私は、いまの私に
上原さんは、お部屋でひとり、新聞を読んでいらした。
「
すこし鼻声で、とぎれとぎれにそうおっしゃる。私を、奥さんのお友達とでも思いちがいしたらしかった。私が、直治の姉だと言う事を申し上げたら、上原さんは、ふん、と笑った。私は、なぜだか、ひやりとした。
「出ましょうか。」
そう言って、もう二重
外は、初冬の夕暮。風が、つめたかった。
東京劇場の裏手のビルの地下室にはいった。四、五組の客が、
上原さんは、コップでお酒をお飲みになった。そうして、私にも別なコップを取り寄せて下さって、お酒をすすめた。私は、そのコップで
上原さんは、お酒を飲み、
「お酒でも飲むといいんだけど。」
「え?」
「いいえ、弟さん。アルコールのほうに
「私、いちど、お酒飲みを見た事がありますわ。新年に、私が出掛けようとした時、うちの運転手の知合いの者が、自動車の助手席で、
「僕だって、酒飲みです。」
「あら、だって、違うんでしょう?」
「あなただって、酒飲みです。」
「そんな事は、ありませんわ。私は、お酒飲みを見た事があるんですもの。まるで、違いますわ。」
上原さんは、はじめて楽しそうにお笑いになって、
「それでは、弟さんも、酒飲みにはなれないかも知れませんが、とにかく、酒を飲む人になったほうがいい。帰りましょう。おそくなると、困るんでしょう?」
「いいえ、かまわないんですの。」
「いや、実は、こっちが
「うんと高いのでしょうか。少しなら、私、持っているんですけど。」
「そう。そんなら、会計は、あなただ。」
「足りないかも知れませんわ。」
私は、バッグの中を見て、お金がいくらあるかを上原さんに教えた。
「それだけあれば、もう二、
上原さんは顔をしかめておっしゃって、それから笑った。
「どこかへ、また、飲みにおいでになりますか?」
と、おたずねしたら、まじめに首を振って、
「いや、もうたくさん。タキシーを拾ってあげますから、お帰りなさい。」
私たちは、地下室の暗い階段をのぼって行った。一歩さきにのぼって行く上原さんが、階段の中頃で、くるりとこちら向きになり、
べつに何も、上原さんをすきでなかったのに、それでも、その時から私に、あの「ひめごと」が出来てしまったのだ。かたかたかたと、上原さんは走って階段を上って行って、私は不思議な
上原さんに、タキシーを拾っていただいて、私たちは黙ってわかれた。
車にゆられながら、私は世間が急に海のようにひろくなったような気持がした。
「私には、恋人があるの。」
「知っています。細田でしょう? どうしても、思い切る事が出来ないのですか?」
私は黙っていた。
その問題が、何か気まずい事の起る
「まさか、その、おなかの子は。」
と或る夜、夫に言われた時には、私はあまりおそろしくて、がたがた
直治は、私が離婚になったという事に、何か責任みたいなものを感じたのか、僕は死ぬよ、と言って、わあわあ声を挙げて、顔が
「私、上原さんに
私が上原さんと逢って、そうして上原さんをいいお方だと言ったのが、弟を何だかひどく喜ばせたようで、弟は、その夜、私からお金をもらって
中毒は、それこそ、精神の病気なのかも知れない。私が上原さんをほめて、そうして弟から上原さんの著書を借りて読んで、
あれから、もう、六年になる。
夕顔。ああ、弟も苦しいのだろう。しかも、
いっそ思い切って、本職の不良になってしまったらどうだろう。そうすると、弟もかえって楽になるのではあるまいか。
不良でない人間があるだろうか、とあのノートブックに書かれていたけれども、そう言われてみると、私だって不良、
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