どうしても、もう、とても、生きておられないような心細さ。これが、あの、不安、とかいう感情なのであろうか、胸に苦しいなみが打ち寄せ、それはちょうど、夕立がすんだのちの空を、あわただしく白雲がつぎつぎと走って走り過ぎて行くように、私の心臓をしめつけたり、ゆるめたり、私の脈はけつたいして、呼吸がはくになり、眼のさきがもやもやと暗くなって、全身の力が、手の指の先からふっとけてしまうここがして、編物をつづけてゆく事が出来なくなった。

 このごろは雨がいんに降りつづいて、何をするにも、ものくて、きょうはおしきえんがわとうを持ち出し、ことしの春にいちど編みかけてそのままにしていたセエタを、また編みつづけてみる気になったのである。淡いたんいろのぼやけたような毛糸で、私はそれに、コバルトブルウの糸を足して、セエタにするつもりなのだ。そうして、この淡い牡丹色の毛糸は、いまからもう二十年も前、私がまだ初等科にかよっていた頃、お母さまがこれで私のくびまきを編んで下さった毛糸だった。その頸巻のはしきんになっていて、私はそれをかぶって鏡をのぞいてみたら、おにのようであった。それに、色が、他の学友の頸巻の色と、まるで違っているので、私は、いやでいやで仕様が無かった。関西の多額納税の学友が、「いい頸巻してなはるな」と、おとなびた口調でほめて下さったが、私は、いよいよずかしくなって、もうそれからは、いちどもこの頸巻をした事が無く、永い事うちててあったのだ。それを、ことしの春、死蔵品の復活とやらいう意味で、ときほぐして私のセエタにしようと思ってとりかかってみたのだが、どうも、このぼやけたような色合いが気に入らず、また打ちすて、きょうはあまりに所在ないまま、ふと取り出して、のろのろと編みつづけてみたのだ。けれども、編んでいるうちに、私は、この淡い牡丹色の毛糸と、灰色の雨空と、一つにけ合って、なんとも言えないくらいやわらかくてマイルドな色調を作り出している事に気がついた。私は知らなかったのだ。コスチウムは、空の色との調和を考えなければならぬものだという大事なことを知らなかったのだ。調和って、なんて美しくてばらしい事なんだろうと、いささか驚き、ぼうぜんとした形だった。灰色の雨空と、淡い牡丹色の毛糸と、その二つを組合せると両方が同時にいきいきして来るから不思議である。手に持っている毛糸が急にほっかり暖かく、つめたい雨空もビロウドみたいに柔かく感ぜられる。そうして、モネーのきりの中の寺院の絵を思い出させる。私はこの毛糸の色にって、はじめて「グウ」というものを知らされたような気がした。よいこのみ。そうしてお母さまは、冬の雪空に、この淡い牡丹色が、どんなに美しく調和するかちゃんとっていらしてわざわざ選んで下さったのに、私は鹿でいやがって、けれども、それを子供の私に強制しようともなさらず、私のすきなようにさせて置かれたお母さま。私がこの色の美しさを、本当にわかるまで、二十年間も、この色にいて一言も説明なさらず、黙って、そしらぬ振りして待っていらしたお母さま。しみじみ、いいお母さまだと思うと同時に、こんないいお母さまを、私と直治と二人でいじめて、困らせ弱らせ、いまに死なせてしまうのではなかろうかと、ふうっとたまらないきようと心配の雲が胸にいて、あれこれ思いをめぐらせばめぐらすほど、前途にとてもおそろしい、悪い事ばかり予想せられ、もう、とても、生きておられないくらいに不安になり、指先の力も抜けて、編棒を膝に置き、大きいためいきをついて、顔をあおけ眼をつぶって、

「お母さま。」

 と思わず言った。

 お母さまは、お座敷のすみの机によりかかって、ご本を読んでいらしたのだが、

「はい?」

 と、しんそうに返事をなさった。

 私は、まごつき、それから、ことさらに大声で、

「とうとう薔薇ばらが咲きました。お母さま、ご存じだった? 私は、いま気がついた。とうとう咲いたわ。」

 お座敷のお縁側のすぐ前の薔薇。それは、和田の叔父おじさまが、むかし、フランスだかイギリスだか、ちょっと忘れたけれど、とにかく遠いところからお持帰りになった薔薇で、二、さんげつ前に、叔父さまが、このさんそうの庭に移し植えて下さった薔薇である。けさそれが、やっと一つ咲いたのを、私はちゃんと知っていたのだけれども、てれかくしに、たったいま気づいたみたいに大げさにさわいで見せたのである。花は、むらさきいろで、りんとしたおごりと強さがあった。

「知っていました。」

 とお母さまはしずかにおっしゃって、

「あなたには、そんな事が、とても重大らしいのね。」

「そうかも知れないわ。可哀かわいそう?」

「いいえ、あなたには、そういうところがあるって言っただけなの。お勝手のマッチ箱にルナアルの絵をったり、お人形のハンカチイフを作ってみたり、そういう事が好きなのね。それに、お庭の薔薇のことだって、あなたの言うことを聞いていると、生きている人の事を言っているみたい。」

「子供が無いからよ。」

 自分でも全く思いがけなかった言葉が、口から出た。言ってしまって、はっとして、まの悪い思いでひざの編物をいじっていたら、

 ──二十九だからなあ。

 そうおっしゃる男の人の声が、電話で聞くようなくすぐったいバスで、はっきり聞えたような気がして、私は恥ずかしさで、ほおが焼けるみたいに熱くなった。

 お母さまは、何もおっしゃらず、また、ご本をお読みになる。お母さまは、こないだからガーゼのマスクをおかけになっていらして、そのせいか、このごろめっきり無口になった。そのマスクは、直治の言いつけに従って、おかけになっているのである。直治は、十日ほど前に、南方の島からあおぐろい顔になってかえって来たのだ。

 何のまえれも無く、夏の夕暮、裏の木戸から庭へはいって来て、

「わあ、ひでえ。しゆのわるい家だ。らいらいけん。シュウマイあります、とりふだしろよ。」

 それが私とはじめて顔を合せた時の、直治のあいさつであった。

 その二、三日前からお母さまは、舌をんで寝ていらした。舌の先が、外見はなんの変りも無いのに、うごかすと痛くてならぬとおっしゃって、お食事も、うすいおかゆだけで、お医者さまに見ていただいたら? と言っても、首を振って、

「笑われます。」

 と苦笑いしながら、おっしゃる。ルゴールをってあげたけれども、少しもききめが無いようで、私はみようにいらいらしていた。

 そこへ、直治がかんして来たのだ。

 直治はお母さまのまくらもとすわって、ただいま、と言っておをし、すぐに立ち上って、小さい家の中をあちこちと見てまわり、私がその後をついて歩いて、

「どう? お母さまは、変った?」

「変った、変った。やつれてしまった。早く死にゃいいんだ。こんな世の中に、ママなんて、とても生きて行けやしねえんだ。あまりみじめで、見ちゃおれねえ。」

「私は?」

「げびて来た。男が二三人もあるような顔をしていやがる。酒は? 今夜は飲むぜ。」

 私はこの部落でたったいつけんの宿屋へ行って、おかみさんのお咲さんに、弟が帰還したから、お酒を少しわけて下さい、とたのんでみたけれども、お咲さんは、お酒はあいにく、いま切らしています、というので、帰って直治にそう伝えたら、直治は、見た事も無い他人のような表情の顔になって、ちえっ、こうしよう下手へただからそうなんだ、と言い、私から宿屋のる場所を聞いて、にわをつっかけて外に飛び出し、それっきり、いくら待っても家へ帰って来なかった。私は直治の好きだった焼きりんと、それから、卵のお料理などこしらえて、食堂の電球も明るいのと取りかえ、ずいぶん待って、そのうちに、お咲さんが、お勝手口からひょいと顔を出し、

「もし、もし。大丈夫でしょうか。しようちゆうし上っているのですけど。」

 と、れいのこいの眼のようなまんまるい眼を、さらに強く見はって、一大事のように、低い声で言うのである。

「焼酎って。あの、メチル?」

「いいえ、メチルじゃありませんけど。」

「飲んでも、病気にならないのでしょう?」

「ええ、でも、……」

「飲ませてやって下さい。」

 お咲さんは、つばきを飲み込むようにしてうなずいて帰って行った。

 私はお母さまのところに行って、

「お咲さんのところで、飲んでいるんですって。」

 と申し上げたら、お母さまは、少しお口を曲げてお笑いになって、

「そう。ヘンのほうは、よしたのかしら。あなたは、ごはんをすませなさい。それから今夜は、三人でこの部屋におやすみ。直治のおとんを、まんなかにして。」

 私は、泣きたいような気持になった。

 夜ふけて、直治は、あらい足音をさせて帰って来た。私たちは、おしきに三人、一つのにはいって寝た。

「南方のお話を、お母さまに聞かせてあげたら?」

 と私が寝ながら言うと、

「何も無い。何も無い。忘れてしまった。日本に着いて汽車に乗って、汽車の窓から、水田が、すばらしくれいに見えた。それだけだ。電気を消せよ。眠られやしねえ。」

 私はでんとうを消した。夏の月光がこうずいのように蚊帳の中に満ちあふれた。

 あくる朝、直治はどこはらいになって、煙草たばこを吸いながら、遠く海のほうをながめて、

「舌が痛いんですって?」

 と、はじめてお母さまのお加減の悪いのに気がついたみたいなふうの口のきき方をした。

 お母さまは、ただかすかにお笑いになった。

「そいつあ、きっと、心理的なものなんだ。夜、口をあいておやすみになるんでしょう。だらしがない。マスクをなさい。ガーゼにリバノール液でもひたして、それをマスクの中にいれて置くといい。」

 私はそれを聞いてき出し、

「それは、何りようほうっていうの?」

「美学療法っていうんだ。」

「でも、お母さまは、マスクなんか、きっとおきらいよ。」

 お母さまは、マスクに限らず、眼帯でも、眼鏡めがねでも、お顔にそんなものをける事は大きらいだったはずである。

「ねえ、お母さま。マスクをなさる?」

 と私がおたずねしたら、

「致します。」

 とまじめに低くお答えになったので、私は、はっとした。直治の言う事なら、なんでも信じて従おうと思っていらっしゃるらしい。

 私が朝食の後に、さっき直治が言ったとおりに、ガーゼにリバノール液をひたしなどして、マスクを作り、お母さまのところに持って行ったら、お母さまは、だまって受け取り、おやすみになったままで、マスクのひもを両方のお耳になおにおかけになり、そのさまが、本当にもう幼い童女のようで、私には悲しく思われた。

 お昼すぎに、直治は、東京のお友達や、文学のほうのしようさんなどにわなければならぬと言って背広にえ、お母さまから、二千円もらって東京へ出かけて行ってしまった。それっきり、もう十日ちかくなるのだけれども、直治は、帰って来ないのだ。そうして、お母さまは、毎日マスクをなさって、直治を待っていらっしゃる。

「リバノールって、いい薬なのね。このマスクをかけていると、舌の痛みが消えてしまうのですよ。」

 と、笑いながらおっしゃったけれども、私には、お母さまがうそをついていらっしゃるように思われてならないのだ。もう大丈夫、とおっしゃって、いまは起きていらっしゃるけれども、しよくよくはやっぱりあまり無い御様子だし、口数もめっきり少く、とても私は気がかりで、直治はまあ、東京で何をしているのだろう、あの小説家の上原さんなんかと一緒に東京中を遊びまわって、東京のきよううずに巻き込まれているのにちがいない、と思えば思うほど、苦しくつらくなり、お母さまに、だしぬけに薔薇ばらの事など報告して、そうして、子供が無いからよ、なんて自分にも思いがけなかったへんな事を口走って、いよいよ、いけなくなるばかりで、

「あ。」

 と言って立ち上り、さて、どこへも行くところが無く、身一つをもてあまして、ふらふら階段をのぼって行って、二階の洋間にはいってみた。

 ここは、こんど直治の部屋になる筈で、四、五日前に私が、お母さまと相談して、下の農家の中井さんにお手伝いをたのみ、直治の洋服だんや机や本箱、また、蔵書やノートブックなど一ぱいつまった木の箱五つ六つ、とにかく昔、西片町のおうちの直治のお部屋にあったもの全部を、ここに持ち運び、いまに直治が東京から帰って来たら、直治の好きな位置に、簞笥本箱などそれぞれえる事にして、それまではただ雑然とここに置き放しにしていたほうがよさそうに思われたので、もう、足のみ場も無いくらいに、部屋一ぱい散らかしたままで、私は、何気なく足もとの木の箱から、直治のノートブックを一冊取りあげて見たら、そのノートブックの表紙には、

 夕顔日誌

 と書きしるされ、その中には、次のような事が一ぱい書き散らされていたのである。直治が、あの、やく中毒で苦しんでいた頃の手記のようであった。



 焼け死ぬる思い。苦しくとも、苦しと一言、半句、さけび得ぬ、古来、、人の世はじまって以来、前例も無き、底知れぬごくの気配を、ごまかしなさんな。

 思想? ウソだ。主義? ウソだ。理想? ウソだ。ちつじよ? ウソだ。誠実? 真理? じゆんすい? みなウソだ。うしじまふじは、じゆれい千年、の藤は、数百年ととなえられ、そのすいごときも、前者で最長九尺、後者で五尺余と聞いて、ただその花穂にのみ、心がおどる。

 アレモ人ノ子。生キテイル。

 論理は、しよせん、論理への愛である。生きている人間への愛では無い。

 金と女。論理は、はにかみ、そそくさと歩み去る。

 歴史、てつがく、教育、宗教、法律、政治、経済、社会、そんな学問なんかより、ひとりの処女のしようが尊いというファウスト博士のゆうかんなる実証。

 学問とは、きよえいの別名である。人間が人間でなくなろうとする努力である。


 ゲエテにだってちかって言える。僕は、どんなにでもうまく書けます。いつぺんの構成あやまたず、適度のこつけい、読者の眼のうらを焼くあいしくは、しゆくぜん所謂いわゆるえりを正さしめ、かんぺきのお小説、朗々音読すれば、これすなわち、スクリンの説明か、はずかしくって、書けるかっていうんだ。どだいそんな、けつさく意識が、ケチくさいというんだ。小説を読んで襟を正すなんて、きようじんの所作である。そんなら、いっそ、羽織はかまでせにゃなるまい。よい作品ほど、取りましていないように見えるのだがなあ。僕は友人の心からたのしそうな笑顔を見たいばかりに、一篇の小説、わざとしくじって、下手くそに書いて、しりもちついて頭かきかきげて行く。ああ、その時の、友人のうれしそうな顔ったら!

 文いたらず、人いたらぬぜい、おもちゃのラッパを吹いてお聞かせ申し、ここに日本一の鹿がいます、あなたはまだいいほうですよ、健在なれ! と願う愛情は、これはいったい何でしょう。

 友人、したり顔にて、あれがあいつの悪いくせしいものだ、とじゆつかい。愛されている事を、ご存じ無い。

 不良でない人間があるだろうか。

 味気ない思い。

 金が欲しい。

 さもなくば、

 眠りながらの自然死!


 薬屋に千円ちかき借金あり。きょう、しちの番頭をこっそり家へ連れて来て、僕の部屋へとおして、何かこの部屋に目ぼしい質草ありや、あるなら持って行け、火急に金がる、と申せしに、番頭ろくに部屋の中を見もせず、およしなさい、あなたのお道具でもないのに、とぬかした。よろしい、それならば、僕がいままで、僕のおづかせんで買った品物だけ持って行け、とせいよく言って、かき集めたガラクタ、質草の資格あるしろもの一つも無し。

 まず、片手のせつこうぞう。これは、ヴィナスの右手。ダリヤの花にも似た片手、まっしろい片手、それがただ台上にっているのだ。けれども、これをよく見ると、これはヴィナスが、そのぜんを、男に見られて、あなやの驚き、がんしゆうせんぷう、裸身むざん、うすくれない、残りくまなき、かッかッのほてり、からだをよじってこの手つき、そのようなヴィナスの息もとまるほどの裸身のはじらいが、指先にもんも無く、てのひらに一本の手筋もない純白のこのきゃしゃな右手にって、こちらの胸も苦しくなるくらいにあわれに表情せられているのが、わかるはずだ。けれども、これは、所詮、非実用のガラクタ。番頭、五十銭とみせり。

 その他、パリきんこうの大地図、直径一尺にちかきセルロイドの独楽こま、糸よりも細く字の書ける特製のペン先、いずれもほりだしもののつもりで買った品物ばかりなのだが、番頭笑って、もうおいとま致します、と言う。待て、と制止して、結局また、本を山ほど番頭に背負わせて、金五円なりを受け取る。僕のほんだなの本は、ほとんどれんの文庫本のみにして、しかも古本屋から仕入れしものなるに依って、質の値もおのずから、このように安いのである。

 千円の借銭を解決せんとして、五円也。世の中にける、僕の実力、おおよそかくの如し。笑いごとではない。


 デカダン? しかし、こうでもしなけりゃ生きておれないんだよ。そんな事を言って、僕を非難する人よりは、死ね! と言ってくれる人のほうがありがたい。さっぱりする。けれども人は、めったに、死ね! とは言わないものだ。ケチくさく、用心深いぜん者どもよ。

 正義? 所謂いわゆる階級とうそうの本質は、そんなところにありはせぬ。人道? じようだんじゃない。僕は知っているよ。自分たちの幸福のために、相手を倒す事だ。殺す事だ。死ね! という宣告でなかったら、何だ。ごまかしちゃいけねえ。

 しかし、僕たちの階級にも、ろくなやつがいない。はくゆうれいしゆせん、狂犬、ほら吹き、ゴザイマスル、雲の上から小便。

 死ね! という言葉を与えるのさえ、もったいない。


 戦争。日本の戦争は、ヤケクソだ。

 ヤケクソに巻き込まれて死ぬのは、いや。いっそ、ひとりで死にたいわい。


 人間は、うそをつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。この頃の、指導者たちの、あの、まじめさ。ぷ!


 人から尊敬されようと人たちと遊びたい。

 けれども、そんないい人たちは、僕と遊んでくれやしない。


 僕が早熟をよそおって見せたら、人々は僕を、早熟だとうわさした。僕が、なまけものの振りをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。僕が小説を書けない振りをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。僕が噓つきの振りをしたら、人々は僕を、噓つきだと噂した。僕が金持ちの振りをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。僕がれいたんを装って見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。けれども、僕が本当に苦しくて、思わずうめいた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。

 どうも、くいちがう。


 結局、自殺するよりほか仕様がないのじゃないか。

 このように苦しんでも、ただ、自殺で終るだけなのだ、と思ったら、声を放って泣いてしまった。


 春の朝、二三輪の花の咲きほころびた梅の枝に朝日が当って、その枝にハイデルベルヒの若い学生が、ほっそりとくびれて死んでいたという。


「ママ! 僕をしかって下さい!」

「どういう工合いに?」

「弱虫! って。」

「そう? 弱虫。……もう、いいでしょう?」

 ママには無類のよさがある。ママを思うと、泣きたくなる。ママヘおわびのためにも、死ぬんだ。


 オユルシ下サイ。イマ、イチドダケ、オユルシ下サイ。


 年々や

 めしいのままに

 つるのひな

 育ちゆくらし

 あわれ 太るも   (がんたん試作)


 モルヒネ アトロモール ナルコポン パントポン パビナアル パンオピン アトロピン


 プライドとは何だ、プライドとは。

 人間は、いや、男は、(おれはすぐれている)(おれにはいいところがあるんだ)などと、生きて行く事が出来ぬものか。

 人をきらい、人にきらわれる。

 ちえくらべ。


 げんしゆくほうかん


 とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。


 しやくせん申込みの手紙。

「御返事を。

 御返事を下さい。

 そうして、それがであるように。

 僕はさまざまのくつじよくを思い設けて、ひとりでうめいています。

 しばをしているのではありません。そうではありません。

 お願いいたします。

 僕はずかしさのために死にそうです。

 ちようではないのです。

 毎日毎日、御返事を待って、夜も昼もがたがたふるえているのです。

 僕に、砂をませないで。

 かべからしのび笑いの声が聞えて来て、深夜、とこの中でてんてんしているのです。

 僕を恥ずかしい目にわせないで。

 姉さん!」



 そこまで読んで私は、その夕顔日誌を閉じ、木の箱にかえして、それから窓のほうに歩いて行き、窓を一ぱいにひらいて、白い雨にけむっているお庭を見下しながら、あの頃の事を考えた。

 もう、あれから、六年になる。直治の、このやく中毒が、私の離婚の原因になった、いいえ、そう言ってはいけない、私の離婚は、直治の麻薬中毒がなくっても、べつな何かのきっかけで、いつかは行われているように、そのように、私の生れた時から、さだまっていた事みたいな気もする。直治は、薬屋へのはらいに困って、しばしば私にお金をねだった。私は山木へとついだばかりで、お金などそんなに自由になるわけは無し、また、嫁ぎ先のお金を、里の弟へこっそりゆうずうしてやるなど、たいへんいの悪い事のようにも思われたので、里から私にって来たばあやのおせきさんと相談して、私のうでや、くびかざりや、ドレスを売った。弟は私に、お金を下さい、という手紙を寄こして、そうして、いまは苦しくて恥ずかしくて、姉上と顔を合せる事も、また電話で話する事さえ、とても出来ませんから、お金は、お関に言いつけて、きようばしの×町×丁目のカヤノアパートに住んでいる、姉上も名前だけはご存じのはずの、小説家上原二郎さんのところにとどけさせるよう、上原さんは、悪徳のひとのように世の中から評判されているが、決してそんな人ではないから、安心してお金を上原さんのところへとどけてやって下さい、そうすると、上原さんがすぐに僕に電話で知らせる事になっているのですから、必ずそのようにお願いします、僕はこんどの中毒を、ママにだけは気附かれたくないのです、ママの知らぬうちに、なんとかしてこの中毒をなおしてしまうつもりなのです、僕は、こんど姉上からお金をもらったら、それでもって薬屋への借りを全部支払って、それからしおばらべつそうへでも行って、健康なからだになって帰って来るつもりなのです、本当です、薬屋の借りを全部すましたら、もう僕は、その日から麻薬を用いる事はぴったりよすつもりです、神さまにちかいます、信じて下さい、ママには内緒に、お関をつかってカヤノアパートの上原さんに、たのみます、というような事が、その手紙に書かれていて、私はその指図どおりに、お関さんにお金を持たせて、こっそり上原さんのアパートにとどけさせたものだが、弟の手紙の誓いは、いつも噓で、塩原の別荘にも行かず、薬品中毒はいよいよひどくなるばかりの様子で、お金をねだる手紙の文章も、悲鳴に近い苦しげな調子で、こんどこそ薬をやめると、顔をそむけたいくらいのあいせつな誓いをするので、また噓かも知れぬと思いながらも、ついまた、ブローチなどお関さんに売らせて、そのお金を上原さんのアパートにとどけさせるのだった。

「上原さんって、どんな方?」

がらで顔色の悪い、ぶあいそな人でございます。」

 とお関さんは答える。

「でも、アパートにいらっしゃる事は、めったにございませぬです。たいてい、奥さんと、六つ七つの女のお子さんと、お二人がいらっしゃるだけでございます。この奥さんは、そんなにおれいでもございませぬけれども、おやさしくて、よく出来たお方のようでございます。あの奥さんになら、安心してお金をあずける事が出来ます。」

 その頃の私は、いまの私にくらべて、いいえ、較べものにも何もならぬくらい、まるで違った人みたいに、ぼんやりの、のんき者ではあったが、それでも流石さすがに、つぎつぎと続いてしかも次第に多額のお金をねだられて、たまらなく心配になり、一日、お能からの帰り、自動車を銀座でかえして、それからひとりで歩いて京橋のカヤノアパートを訪ねた。

 上原さんは、お部屋でひとり、新聞を読んでいらした。しまあわせに、こんがすりのお羽織をしていらして、お年寄りのような、お若いような、いままで見た事もないじゆうのような、へんな初印象を私は受取った。

にようぼうはいま、子供と、一緒に、配給物を取りに。」

 すこし鼻声で、とぎれとぎれにそうおっしゃる。私を、奥さんのお友達とでも思いちがいしたらしかった。私が、直治の姉だと言う事を申し上げたら、上原さんは、ふん、と笑った。私は、なぜだか、ひやりとした。

「出ましょうか。」

 そう言って、もう二重まわしをひっかけ、ばこから新しい下駄を取り出しておはきになり、さっさとアパートのろうを先に立って歩かれた。

 外は、初冬の夕暮。風が、つめたかった。すみがわから吹いて来る川風のような感じであった。上原さんは、その川風にさからうように、すこしみぎかたをあげてつきのほうにだまって歩いて行かれる。私は小走りに走りながら、その後を追った。

 東京劇場の裏手のビルの地下室にはいった。四、五組の客が、じゆうじようくらいの細長いお部屋で、それぞれたくをはさんで、ひっそりお酒を飲んでいた。

 上原さんは、コップでお酒をお飲みになった。そうして、私にも別なコップを取り寄せて下さって、お酒をすすめた。私は、そのコップではい飲んだけれども、なんともなかった。

 上原さんは、お酒を飲み、煙草たばこを吸い、そうしていつまでも黙っていた。私も、黙っていた。私はこんなところへ来たのは、生れてはじめての事であったけれども、とても落ちつき、気分がよかった。

「お酒でも飲むといいんだけど。」

「え?」

「いいえ、弟さん。アルコールのほうにてんかんするといいんですよ。僕も昔、麻薬中毒になった事があってね、あれは人がうすわるがってね、アルコールだって同じ様なものなんだが、アルコールのほうは、人は案外ゆるすんだ。弟さんを、酒飲みにしちゃいましょう。いいでしょう?」

「私、いちど、お酒飲みを見た事がありますわ。新年に、私が出掛けようとした時、うちの運転手の知合いの者が、自動車の助手席で、おにのような真赤な顔をして、ぐうぐう大いびきで眠っていましたの。私がおどろいてさけんだら、運転手が、これはお酒飲みで、仕様が無いんです、と言って、自動車からおろしてかたにかついでどこかへ連れて行きましたの。骨が無いみたいにぐったりして、何だかそれでも、ぶつぶつ言っていて、私あの時、はじめてお酒飲みってものを見たのですけど、面白かったわ。」

「僕だって、酒飲みです。」

「あら、だって、違うんでしょう?」

「あなただって、酒飲みです。」

「そんな事は、ありませんわ。私は、お酒飲みを見た事があるんですもの。まるで、違いますわ。」

 上原さんは、はじめて楽しそうにお笑いになって、

「それでは、弟さんも、酒飲みにはなれないかも知れませんが、とにかく、酒を飲む人になったほうがいい。帰りましょう。おそくなると、困るんでしょう?」

「いいえ、かまわないんですの。」

「いや、実は、こっちがきゆうくつでいけねえんだ。ねえさん! 会計!」

「うんと高いのでしょうか。少しなら、私、持っているんですけど。」

「そう。そんなら、会計は、あなただ。」

「足りないかも知れませんわ。」

 私は、バッグの中を見て、お金がいくらあるかを上原さんに教えた。

「それだけあれば、もう二、さんげん飲める。鹿にしてやがる。」

 上原さんは顔をしかめておっしゃって、それから笑った。

「どこかへ、また、飲みにおいでになりますか?」

 と、おたずねしたら、まじめに首を振って、

「いや、もうたくさん。タキシーを拾ってあげますから、お帰りなさい。」

 私たちは、地下室の暗い階段をのぼって行った。一歩さきにのぼって行く上原さんが、階段の中頃で、くるりとこちら向きになり、ばやく私にキスをした。私はくちびるを固く閉じたまま、それを受けた。

 べつに何も、上原さんをすきでなかったのに、それでも、その時から私に、あの「ひめごと」が出来てしまったのだ。かたかたかたと、上原さんは走って階段を上って行って、私は不思議なとうめいな気分で、ゆっくり上って、外へ出たら、川風がほおにとても気持よかった。

 上原さんに、タキシーを拾っていただいて、私たちは黙ってわかれた。

 車にゆられながら、私は世間が急に海のようにひろくなったような気持がした。

「私には、恋人があるの。」

 る日、私は、夫からおこごとをいただいてさびしくなって、ふっとそう言った。

「知っています。細田でしょう? どうしても、思い切る事が出来ないのですか?」

 私は黙っていた。

 その問題が、何か気まずい事の起るたびごとに、私たち夫婦の間に持ち出されるようになった。もうこれは、だめなんだ、と私は思った。ドレスのを間違って裁断した時みたいに、もうその生地はい合せる事も出来ず、全部捨てて、また別の新しい生地の裁断にとりかからなければならぬ。

「まさか、その、おなかの子は。」

 と或る夜、夫に言われた時には、私はあまりおそろしくて、がたがたふるえた。いま思うと、私も夫も、若かったのだ。私は、恋も知らなかった。愛、さえ、わからなかった。私は、細田さまのおかきになる絵に夢中になって、あんなお方の奥さまになったら、どんなに、まあ、美しい日常生活を営むことが出来るでしょう、あんなよいしゆのお方と結婚するのでなければ、結婚なんて無意味だわ、と私はだれにでも言いふらしていたので、そのために、みんなに誤解されて、それでも私は、恋も愛もわからず、平気で細田さまを好きだという事を公言し、取消そうともしなかったので、へんにもつれて、その頃、私のおなかで眠っていた小さい赤ちゃんまで、夫のわくまとになったりして、誰ひとり離婚などあらわに言い出したお方もいなかったのに、いつのまにやら周囲が白々しくなっていって、私はいのお関さんと一緒に里のお母さまのところに帰って、それから、赤ちゃんが死んで生れて、私は病気になって寝込んで、もう、山木との間は、それっきりになってしまったのだ。

 直治は、私が離婚になったという事に、何か責任みたいなものを感じたのか、僕は死ぬよ、と言って、わあわあ声を挙げて、顔がくさってしまうくらいに泣いた。私は弟に、薬屋の借りがいくらになっているのかたずねてみたら、それはおそろしいほどの金額であった。しかも、それは弟が実際の金額を言えなくて、うそをついていたのがあとでわかった。あとで判明した実際の総額は、その時に弟が私に教えた金額の約三倍ちかくあったのである。

「私、上原さんにったわ。いいお方ね。これから、上原さんと一緒にお酒を飲んで遊んだらどう? お酒って、とても安いものじゃないの。お酒のお金くらいだったら、私いつでもあなたにあげるわ。薬屋のはらいの事も、心配しないで。どうにか、なるわよ。」

 私が上原さんと逢って、そうして上原さんをいいお方だと言ったのが、弟を何だかひどく喜ばせたようで、弟は、その夜、私からお金をもらってさつそく、上原さんのところに遊びに行った。

 中毒は、それこそ、精神の病気なのかも知れない。私が上原さんをほめて、そうして弟から上原さんの著書を借りて読んで、えらいお方ねえ、などと言うと、弟は、姉さんなんかにはわかるもんか、と言って、それでも、とてもうれしそうに、じゃあこれを読んでごらん、とまた別の上原さんの著書を私に読ませ、そのうちに私も上原さんの小説を本気に読むようになって、二人であれこれ上原さんのうわさなどして、弟は毎晩のように上原さんのところにおおりで遊びに行き、だんだん上原さんの御計画どおりにアルコールのほうへ転換していったようであった。薬屋の支払いにいて、私がお母さまにこっそり相談したら、お母さまは、片手でお顔をおおいなさって、しばらくじっとしていらっしゃったが、やがてお顔を挙げて淋しそうにお笑いになり、考えたって仕様が無いわね、何年かかるかわからないけど、毎月すこしずつでもかえして行きましょうよ、とおっしゃった。

 あれから、もう、六年になる。

 夕顔。ああ、弟も苦しいのだろう。しかも、みちがふさがって、何をどうすればいいのか、いまだに何もわかっていないのだろう。ただ、毎日、死ぬ気でお酒を飲んでいるのだろう。

 いっそ思い切って、本職の不良になってしまったらどうだろう。そうすると、弟もかえって楽になるのではあるまいか。

 不良でない人間があるだろうか、とあのノートブックに書かれていたけれども、そう言われてみると、私だって不良、叔父おじさまも不良、お母さまだって、不良みたいに思われて来る。不良とは、やさしさの事ではないかしら。

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