第7話 鍵穴くんの憧れ

 勉強会当日、僕の部屋には、まるでかいちゃんの性格を真っ直ぐに表したみたいな、明るい朝日が差し込んでいた。


 僕は部屋の中を片付けながら、鍵穴くんと話していた。


「あー、緊張するー……」


 僕はコロコロでカーペットのゴミをとりながら言う。


「大丈夫だって! ただの勉強会だよ! 何も怖くないって!」


 この一週間で、自分の中の学校に対する怖さは薄れていき、前みたいに人と話すことができるようになった。


 だけど、そのことと勉強会とでは話が別だ。クラスメイトを自室に招き入れるなんて、今まで想像したことがなかった。そんなこと、かなり親しい関係でないと絶対にできない。


 僕にとってかいちゃんは、親友と呼べる人なのかもしれない。少なくとも、僕の家で勉強会をしたいと言うくらいなのだから、かいちゃんにとっては、僕は親友なのかもしれない。


 だから、僕はかいちゃんのことを親友だと思えるようになりたい。

 今まで何かをされる立場だった自分が、かいちゃんに何かをしてあげたいのだ。


 一通り片付けを終えると、僕は二人で勉強する時のことを想像した。


「テーブル置くスペースはないからなー。あ、一階から椅子持ってこよう」


 そう言って、僕は階段を降りて、リビングに向かった。二人で机に向かい合う感じでならできるかもしれない。


 リビングではお母さんは朝食に使った食器を洗っていた。


「ねえねえ、このちっちゃい椅子上に持って行っていい?」


 僕は、部屋の隅っこで食器棚の前に寂しそうに置いてある木製の椅子を指差した。


「いいけど、何に使うの?」

「今日、と、友達と勉強会するから、椅子が必要で……」


 僕はかいちゃんのことを友達と言うのを少し躊躇ってしまった。


「え、そうなの⁉︎」


 お母さんはそう言って、慌てて蛇口を閉め、ゴム手袋を外した。そして、冷蔵庫をがさごそ探り始めた。


「もー、そう言うことは早く言ってね。えーっと、あ、柿がある。これにしよ」


 お母さんは中からビニール袋に入った数個の柿を、冷蔵庫から取り出した。


 そうか、かいちゃんのために用意をしているのか。そのことに気づいて、本当に僕は人に対しての礼儀みたいな、そういうものを全く知らないなと思った。


「で、何時に来るの? お友達」

「あ、お昼に。一時くらいから」

「一人?」

「うん」


 そういう基本的なことを話していないことに、僕は恥ずかしくなった。


 柿を冷蔵庫に戻し、お母さんはまた皿洗いを再開した。


 僕は椅子を持って二階に上がった。



 

 午後一時、インターホンが鳴って、かいちゃんが約束通り家にやって来た。


 玄関を開けると、かいちゃんは上着を着て、教科書などを入れているのであろうバックを背負い、ショルダーバッグを肩にかけていた。少し涼しい季節になったのかなと、僕はかいちゃんの服装を見て思った。


「よっ」


 かいちゃんは片手を上げてそう言う。かいちゃんにとってはそれだけで挨拶になっているのだろう。


「よ……?」


 僕は中途半端に手を上げて返した。


「あ、令斗のお友達?」


 お母さんがリビングから出てきてそう言った。

「はい、こんにちは」


 かいちゃんはお母さんに向けて軽く頭を下げて、行儀よくそう言った。


「どうぞどうぞ、あがって~」


 お母さんがにこにこと階段の方に手を広げる。


「失礼します」

 かいちゃんは明るい声で返す。

 かいちゃんは靴を脱いでそろえ、僕の方に来て、

「部屋は?」

 と尋ねた。


「あ、こっち」

 僕はそう言って、階段の方に向かう。かいちゃんもそれについてくる。


「後で、柿持ってくるからねー」

 階段に差し掛かったところで、後ろでお母さんがそう言った。


「はーい」

「ありがとうございます」

 僕たちは振り向いてそう返した。


 階段を上がって二階の廊下に着くと、かいちゃんは僕に言った。


「優しそうなお母さんだねー」

「うん、まあ」


 正直、そういうことを言われると返事に困ってしまう自分がいた。僕はほかの家庭の親を知らないから、僕のお母さんは一般的に見てどうなのか、よくわからない。


 でも、それが分からないということは、僕はとても恵まれた環境にいるのだろうと思う。でも、僕から見るに、僕のお母さんは少し優しすぎるような気がする。


 僕は自室のドアを開けた。中では鍵穴くんがベッドの上で、立ちながら昼寝をしていた。口を開けて涎を垂らしながらぐっすり眠っている。すごい寝方……。


 これだったら、ややこしい事態にはならないだろうと、僕は思った。


「ん? どこ見てんの?」

 かいちゃんが後ろからそう訊いた。

「あ、いや、何でもないよ。座って」


 僕は朝に持ってきた木製の椅子に座り、かいちゃんに勉強机の椅子に座るように促した。


「ぷっ、普通座る椅子逆じゃね?」

 かいちゃんは床にバッグを置いて、笑いを少し含んだ声で言った。

「こ、こっちの椅子座り心地悪いから」

「あ、そう。せんきゅ」


 そう言って、かいちゃんはふかふかとした座り心地の椅子に座った。


「んで、テストの範囲ってどこからどこまでだったっけ」


 かいちゃんは勉強机に肘を預けながら言う。あれ、と僕は疑問に思う。テストの範囲なら、それが書かれたプリントが配られてあったはずだ。


「え、そこから?」

「テスト範囲が書いてあるプリントなくしちゃったんだよ~」

「あ~、そういうことね」


 えーっと、どこにあったっけ、と呟きながら、僕はバッグの中のクリアファイルを探った。


「あ、これだこれだ」

 僕はクリアファイルから、プリントを取り出す。


 テスト範囲が記された黄色い紙には、テストが二週間後だと伝える文章と、みんなで頑張ろう! と吹き出しのついた猫と犬のフリー素材のイラストが載せられている。


「あんがと。写真撮らせて」


 僕はプリントを机の上に置き、かいちゃんはそれを、バッグからスマホを取り出して写真を撮った。


「え、かいちゃんって自分のスマホ持ってるの?」


 僕は単純に驚いてそう訊いた。


「え、逆にぼーちゃんは持ってないの?」

「うん、お母さんが、まだネットは危ないからって」


 そう言うと、かいちゃんが口をあけて笑った。何がそんなにおかしな事だったのか、僕にはよくわからず、首を傾げた。


「ぼーちゃんのお母さん、ぼーちゃん思いだなあ」

「それはいい意味で? 悪い意味で?」

「さあ、それはぼーちゃん次第じゃない?」


 なんだか、僕が子供だと言われた気分だ。だけど、僕は本当にスマホの使い方が分からないから何も言えない。


「はい、もうこの話おしまい。勉強会でしょ?」


 恥ずかしくなって、僕は話を終わらせた。スマホの話をし始めたのは僕だけど。


「はーい」

 かいちゃんがめんどくさそうに言う。

「じゃあ、なんの教科からやる?」

「数学からかな」

「りょうかーい」


 僕はバッグから数学の問題集を取り出す。

 すると、お母さんの声が廊下から聞こえた。


「令斗ー、柿切って来たよー」

「はーい」

「両手ふさがってるから開けてー」

「はーい」


 そう返してドアを開けると、お母さんは柿と二人分のお茶をトレイに乗せて運んで来てくれた。


「おー、おいしそー!」


 かいちゃんが大きな声でそう言う。すると、今までベッドの上で眠っていた鍵穴くんの鼻ちょうちんが弾けて、目を覚ました。まずい。


 鍵穴くんはお母さんの持ってきてくれた柿を見た。


「わー! 僕も食べたーい!」


 お母さんとかいちゃんがいるにもかかわらず鍵穴くんはそう言う。


「あ、ああ……」


 僕は戸惑って、鍵穴くんに向かってそんな声を出してしまった。今は鍵穴くんとは話せないから、余計に焦ってしまう。


「あれ、なんか声しなかった?」


 勉強机にトレイを置きながら、お母さんはきょろきょろと周りを見渡しながら言った。


「そうですか?」


 そうだった……、お母さんには鍵穴くんの声が聞こえるんだった……。


 それを聞いた鍵穴くんはとっさにまん丸い手で口を塞いだ。いつもの、見慣れた動きだ。


「ん、ぼーちゃんどこ見てんの?」

 かいちゃんが後ろからそう訊く。


「ああ、いや、えっと……」

「ふふっ、なんか、ぼーちゃん最近面白くないですか?」

 かいちゃんはお母さんに向かってそう言う。

「ああ、確かにそうかもね」


 そう言って二人は笑う。


 だめだこりゃ、と、僕は頭を下げた。




 五時のサイレンが街に響き渡るまで、僕達はたまに雑談をしたり柿を頬張ったりしながら、テスト対策をやっていた。


 勉強机の前にある窓の小さなレースカーテンから夕日の光が漏れている。お母さんの持ってきたトレイの上には、空っぽになった皿と二つのコップが乗っている。


 鍵穴くんはと言えば、あの後かなり反省したようで、ベッドの上で一人、静かに過ごしていた。


「じゃあ、今日はありがと」


 かいちゃんは荷物をバッグに詰めながら、僕にそう言った。そう言ってくれることが僕にとっては嬉しくて、今日みたいな日が、もう一回あってもいいと思えた。


 だけど、ありがとうと言ったかいちゃんに、僕は違和感を覚えた。かいちゃんの表情に、少し影がかかったように見えたのだ。普段はそんな表情はしない。僕は、何か失礼なことでもしてしまっただろうか。


「うん、僕も、来てくれてありがと」

 僕はそんなかいちゃんに言った。

「じゃ、また学校で」


 かいちゃんは上着を着てバッグを背負い、ショルダーバッグを肩にかけ、部屋のドアの、ドアノブをつかんだ。


 そこで、かいちゃんの動きが止まった。


「ん? かいちゃん?」


 かいちゃんの表情の影が一層強くなっていく。ドアノブをつかんだまま、かいちゃんはうつむいて、何かを考えている様子だった。


 夕日しか明るく照らしてくれないこの部屋は、なんだかうわべだけの明るさが取り除かれているように思えて、これ以上ここに居られる気がしなかった。触れてはいけないものに触れてしまいそうな、そんな予感があった。


「ねえ、ぼーちゃん……」

 やっとのことで、かいちゃんは躊躇いがちに僕に言う。


「な、なに?」


 かいちゃんのその様子からして、いつものビッグニュースのような、そんな明るい言葉が出てくるようには思えなかった。


「あの、さ、あいつから聞いた話なんだけど……」

「あいつ、って?」


 少しの間、かいちゃんは口を閉ざす。


「み、美香から……」


 美香。その名前を聞いたとき、僕は美香の家に上がったことを思い出した。そして、美香との誤解を解くために、話をしたたことも。

 そして、かいちゃんが美香と言ったとき、左のベッドの方で鍵穴くんが、えっ? と言った気がした。でも僕はかいちゃんが目の前にいるために、鍵穴くんの方を向くことはできなかった。


「えっと、話……って?」

 いい答えは返ってこないと、僕の直感がそう告げているのにも関わらず、僕は訊いてしまう。

 またかいちゃんは返答を躊躇ってしまう。


「あ、あのさ!」


 かいちゃんは僕の方を向く。

 かいちゃんから発せられた言葉は、僕が一番知りたくなくて、それでも知らなければならないものだった。


「小学生の時に、飛び降り自殺したって、本当か⁉ そのせいで、小学生だった時のことが分からないって……」




 いつかの、自転車のカゴの中で揺られている鍵穴くんは僕に言う。


「本当にかいちゃんにだけ、ぼーちゃんって呼ばれてるんだね」


「うん、そうだよ」


「二人だけのあだ名って、なんかいいなー」


 そう言いながら鍵穴くんは夕焼けに照らされた田んぼの景色を眺めている。


 ねえ、どうして?


 どうして鍵穴くんは、そんなに悲しそうな顔をしているの?

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