第6話 鍵穴くんと約束

「え、これで大丈夫?」

「大丈夫、いけるいけるって!」


 ジャンプをしてカゴの縁につかまり、中にすっぽりと入った鍵穴くんは言った。


「えぇ……」


 不安になりながらも僕は自転車のペダルを踏み始める。


「うおおおぉ!」


 ぐらぐらと揺れながらも、走っていく中で少しずつ安定していく。


「出発進行!」


 鍵穴くんが右腕をカゴから伸ばして叫んだ。揺れるからあまり動かないでほしい。




 僕の学校は住宅街を抜け、大きな川を渡り、田んぼの広がった道を抜けた先の、田舎の町の中にある。


 僕は緩やかで長い河川敷への坂を上って、橋を渡る。


 外の空気は少し肌寒くなっていて、長袖の制服で来た方が良かったかなと思った。

 鍵穴くんを乗せた自転車は少し重くなっていて、周りの人達には余計に力を入れてペダルを漕いでいる人に見えただろう。


 鍵穴くんは少しだけカゴから顔を出し、橋の何メートルも下にある川を覗いた。水面が朝日を映していて、そんな見慣れた風景でも、鍵穴くんには新鮮に見えているのが、僕にとっては楽しかった。


「でっかー! もうちょっと端っこに寄せて!」


 そう鍵穴くんが言って、僕は極力柵のほうに自転車を寄せた。


「わー、きれーい!」


 鍵穴くんはかごの中ではしゃぐ。今ではもう、はっちゃけないで欲しいという感情よりも、鍵穴くんがいることの安心感の方が勝っている。


「おはよー!」


 クラスメイトの、誰とも仲の良い女子が後ろから僕に声をかける。


「あ、おはよ」

「ふふ、なんか今日ゆっくりだね、元気でよかった!」


 そう言いながら女子は僕を追い越していく。その女子は長袖の制服を着ていて、ああ、多分今日は僕だけ半袖なんだなと、少し恥ずかしくなる。


「ぷぷ、女子に追い越されてやんのー」

 鍵穴くんは小学生みたいに僕を煽る。

「鍵穴くんが乗ってるからでしょ?」

 周りに誰もいないのを確認して、僕はそう言った。




 数学の授業中、鍵穴くんは教室の中をうろちょろしていた。


 どうせみんなには見えていないんだし。僕はそう思いながら、鍵穴くんを目で追ったり、黒板の文字を見たりしていた。


 大丈夫、と自分に言い聞かせる。


 僕にはこの教室の空間に、圧がかかっているみたいに思えるのだ。何かに抑圧されているように感じるのだ。僕を押さえつけるもの。それは、きっと僕自身だ。僕は鍵穴くんと仲良くなれたからこそ、僕がみんなの中にいることに対して、恐怖を覚えてしまっているのだ。


 授業中、誰かがふざけてぼけて、クラスメイトは笑い、先生はノリ良くそれに突っ込む。何も変わらない光景、でも僕は笑えない。いつもこういう場面で、みんなに乗っかって笑っているのに。そんな僕に、焦りを覚えてしまう。


 みんなはそんな僕には気付かず、授業は終わっていく。

 次の授業までの休み時間になると、教科書を持ったかいちゃんが寄ってくる。


「ぼーちゃーん、ここわからーん。教えてー」


 いつものかいちゃんの行動だ。いつも、僕は何も考えずに返事している。


 だから、今回もちゃんと返事すればいい。いいよ。それだけを言えばいい。なのに、僕はそれを言うのに時間をかけてしまった。


「……いいよ」


 かいちゃんはわかりやすく、一瞬だけ困った顔になり、すぐに表情を明るいものに戻して、教科書のページを僕に見せた。


「ここなんだけどさー」


 かいちゃんは教科書を僕の机に置いて、しゃがんで問題の場所を指さす。


 かいちゃんは、疲れたりしないのだろうかと、僕は思う。かいちゃんは誰にでも仲が良くて、みんなに明るく接して、別の学校にまで友達がいて、こんな僕にも接してくれて、怖いと思わないのだろうか。


 かいちゃんは僕なんかよりも、ずっといろんな経験をして、僕みたいにみんなとの壁を作らずに生きて、たくさん傷ついてきたのかもしれない。なのだとしたら、僕はどうやってこれから、この場所に居続けていくのだろうと、漠然とした大きな不安が、棚から本が大量になだれ落ちてくるみたいに僕を襲った。


「ん、どしたの、ぼーちゃん?」


 かいちゃんにそう言われ、僕は考え込んでしまっている自分に気づいた。


「いや、何でも……。ここがわからないの?」

「うん」


 心の中で、無理やり自分の頬を両手ではたいて、なるべく明るい声を出そうとする。


「ここはね、直角三角形を利用して……」


 僕は自分のノートに証明を書いていく。自分の何かが崩れ落ちそうなところを、必死に理性で防ごうとする。


 証明を書いている間、かいちゃんは言う。


「日曜の時はごめんな……。あんなことにさせちゃって。それのせいで、昨日休んだんだろ?」


 かいちゃんはこんな時に、さりげなく僕を気遣う。


「うん。ちょっと熱が出ちゃって……」


 そう言って、僕は証明を完成させる。この話を終わらせたくて、僕はノートをかいちゃんに見せて、説明をする。


 大丈夫、大丈夫。みんな、みんな、ちゃんと優しい。何も怖くない。


「あー、なるほどね」


 僕の説明を聞いたかいちゃんはそう返事する。


「あー、今回のテストやばいかもなー。ガチでやんないと。あ! そうだ!」


 かいちゃんは、急に何かをひらめく。これもいつもの事だ。


「ぼーちゃんのとこで勉強会させてよ!」


 今にも崩れそうな僕のことなど知らずに、かいちゃんはそう言う。


 いつもなら、僕はここで断っていない。でも、今日だけ、断ったらどうなってしまうのだろうと、考えてしまった。かいちゃんのことだ、嫌な顔なんて一瞬もしないだろう。


 でも、やっぱり自分の気持ちを言うのが、まだ怖い。


「うん、いいよ」

「よっしゃー! じゃあ、今週の土曜日ね!」

「うん」


 あっさりと予定が決まってしまった。


 かいちゃんが次の授業の準備のために元の場所に戻ると、鍵穴くんが僕のところにやって来た。


「ぼーちゃんすごいね! あんな感じで友達を助けたりしてるんだ! かっこいー!」


 違うよ、違うよと、僕は心の中で鍵穴くんに呼びかける。みんなに、鍵穴くんの思うカッコいい僕を演出してるだけだよ。


「そんなんじゃないよ……」


 いつの間にか、そんな言葉がぽろっとこぼれてしまった。


 鍵穴くんの表情が一瞬で戸惑いに変わった。




 昼休みに、僕は鍵穴くんを駐輪場の奥に連れてきた。そこは校舎の影になっていて、ほとんど人が来ることはない。そこでなら鍵穴くんと話せると思った。


 僕は金網に寄りかかって、校舎の上の青い空をただ見ていた。こうでもしないと、自分を落ち着かせられないと思った。


 鍵穴くんは、心配そうに僕を見上げている。


「鍵穴くん……」


 僕はやっとのことでそう言う。そうやって言葉を出すだけでも、僕は精一杯で、胸が苦しくて、心臓が自分のものじゃないような、そんな感覚がした。


「なに?」

 優しく鍵穴くんは訊く。

「ぼ、ぼく……」


 空を見ながら、僕はそれだけで口を噤んでしまう。これ以上言葉に出したら、僕の何かが決壊してしまうような、そんな気がした。


 校舎の中のクラスから、楽しそうな声が聞こえる。


 野球部の人達の、活発な声が聞こえる。


「大丈夫、ゆっくりでいいから……」

 鍵穴くんはそう言った。


「えっとね、ぼく……、信じ、られないかも、しれない、けど……」


 どうやって伝えたらいいのか分からずに、声が震えてしまう。


 記憶がないこと。人が怖いこと。


 これを言ったら、僕は、僕が今まで演じてきた自分を、自分で潰してしまうことになるのだ。でもそれは、いずれ必要になることだった。今、ここで言わないといけない。そうしなければ、僕は、中身の見えない、ただただ大きな不安を抱えたまま生きていくことになってしまう。


「ぼくさ、記憶が、なくて、その、えっとね……、だから、小学生の頃とか、何やってたか、分かんなくてさ……」

「うん」


「人と、話したこととか、覚えてなくて、さ、みんなと、どうやって話したらいいか、よく、わかんなくて」

「うん……」


 気づかないうちに、僕は目に涙を溜めている。校舎と空の境目がぐちゃぐちゃになる。


「鍵穴くんは、ぼくが、みんなと、普通に話してる、って、見えるかも、しれないけど……、僕にとっては、すごく、辛くて……」

「うん」


「どうしてここにいるのかとか、どうしてこうやって、生きてるのかな、とか、考えちゃって、なんで僕、生きてるんだろう、って……」


 ここで言って、自分で初めて気づいた。


 僕はずっと分からなかった。どうしてこんな僕が、ここで生きてるんだろうって。僕がここで生きていく理由はいったい何なのだろう、って。


 僕は、誰かに教えてほしかった。示してほしかった。辞書に書かれている説明みたいに、教科書に書かれている公式みたいに、僕が生きる意味をはっきり教えてほしかった。


 人といるのが怖くて、自分の記憶さえ何も分からなくて、どこでどうやって僕は育ってきたのか分からなくて、そんな右も左もわからない僕に、生きる意味を、教えてほしかった。


 みんなは何が動力源になって生きてるんだろうって、僕はずっと不思議だった。


 答えも何も分からないまま、ずっと惰性で生きていくのが、とても怖かった。


「生きる意味が、分かんなくて……」


 もう僕は、うつむいて涙を流してしまっていた。


 地面の砂利に、ぽたぽたと水滴が落ちる。


 鍵穴くんは、優しそうに僕を見つめていて、ぽろぽろと涙を流していた。それは地面に落っこちて、跡も残さないまま消えていった。


「そっか、そうだったんだね、教えてくれてありがと、ぼーちゃん」


 涙をぬぐいながら鍵穴くんはそう言う。


 少し涼しい風が、思いを言い切った僕をほめてくれているみたいに、優しく吹いた。


 少し間をおいて、鍵穴くんは言った。


「ぼーちゃん」

 鍵穴くんは、明るい顔をしている。


「僕、お母さんとか、先生みたいに、すごい人じゃないけどさ、これだけは言えるよ」


 明るい顔が、自信満々な顔に変わる。


「意外とね、簡単なことでも、生きようって思えるんだよ。ほら、あの漫画家の新刊出るのが楽しみ、とか、ゲームでもっと強くなりたいとかさ。ほら、昨日、一緒にオセロしたでしょ? ぼーちゃん、楽しそうだったじゃん」


 僕は少し悔しくなりながらも、頷いた。


「記憶のことも、きっと大丈夫だよ。小学生の時でも、きっと、ぼーちゃんにはとっても明るい時間があったはずだよ!」


 僕は、鍵穴くんのその言葉で、目を見開いた。僕はそんな風に思ったことがなかったからだ。


「生きる意味が分かんなくてもさ、自分にとっての生きる意味を探すことを、生きる意味にしようよ!」


 僕は鍵穴くんのその言葉で、僕が勇気を出した行動が、すべて報われた気がした。


「じゃあ、僕との約束ね!」

 鍵穴くんは丸っこい右腕を僕に向けた。

「え?」

「ほら、指切りげんまん」


 気づくと鍵穴くんの丸い手から、小指がちょこんと出ている。


 ……鍵穴くん、そんなこともできたんだ。


 まるでネコ型ロボットの手みたい、と思いながら、僕は自分の小指を、鍵穴くんの小指に近づけた。




 今日の放課後はみんなに気付かれないように、また鍵穴くんを自転車のカゴに入れ、帰り道を走った。


 鍵穴くんが朝はしゃいでいた橋の上を、僕は自転車を漕ぎながら、鍵穴くんと話した。


「いやー、ここは夕日も綺麗だなー」


 鍵穴くんは川を見下ろしながらそう言う。僕は何も言われなくても、自転車を端に寄せている。


「今日は楽しい日だったなー。ぼーちゃんの通っている学校にも行けたし、ぼーちゃんの悩みも分かったし!」


 鍵穴くんは顔を僕の方に向けて言った。


「うん、今日は、ありがとね」


 僕は素直にそう言う。


 すると、鍵穴くんの両方のほっぺたに、斜線が重なってでてきた。


 何だこの線……。魚のえら? いや違う、照れてるのか。


「どーいたしまして。へへ、そうストレートに言われると照れるなー」


 やっぱり照れてた。


「ねえねえ、帰ったらまたオセロしようよ!」


 鍵穴くんはそう言いながら、自転車のカゴをかちゃかちゃ揺らす。


「分かった、って、うおっ! ちょちょちょ!」


 僕は慌てて右足で自転車を止める。


「危ないでしょ、あんまり揺らさないで!」

「ああ、ごめんごめん……」


 まったく、鍵穴くんは変わらないなー。


 そう思っていると、僕の学校の制服を着た男子が僕の横を通り過ぎて、一瞬不思議そうな顔をして僕を振り返り、前を向いて走って行った。


 僕は急に恥ずかしくなって、顔を赤らめた。


 僕はまたペダルを漕ぎ始め、カゴの中の鍵穴くんに言った。


「もう、また変に思われたじゃん!」


 ごめんごめん、と、鍵穴くんは丸い手を頭の後ろにやって、にこにこと謝る。


 まあいいか、と思い、橋を過ぎて長い坂を下る。


 田んぼの中の大通りに出て、道が平坦になると、鍵穴くんがまた話しかけた。


「そう言えば、かいちゃんとお勉強会するって、ぼーちゃん約束してたよね?」

「あ、そうだ、忘れてた」


 今日は鍵穴くんに悩みを話すのに精一杯で、鍵穴くんに言われないと思い出せなかった。


「どうする?」


 僕の話を聞いた鍵穴くんは、僕を心配しているのか、そう言った。


「うーん、まあ、勉強会はやろうかなとは、思ってるかな」

「あ、そう」


 鍵穴くんに話したおかげで、僕は少しだけ、不安が和らいだ。だから、かいちゃんと接することも怖くないと思ったのだ。


「あ、でも、鍵穴くんはおとなしくしててよね。ものが勝手に動いたりしたら、かいちゃんは多分、ポルターガイストだ! って言って騒ぎ始めるから」


 僕の言葉を聞いた鍵穴くんは、ふふっ、と少し笑った。


「何?」

「……いや、ぼーちゃんは多分、自分の思っているよりも、人のことを考えられる人なんじゃないかな」


 そう言われても、あまり実感がなかった。


「ほんとに?」

「うん。僕にはあんまりできないことだもん。ぼーちゃんはさ、もっと自分に自信を持っていいと思うよ」


 鍵穴くんにそう言われて、なんだか、学校とか人間関係とか、そういうものが少しだけ怖くなくなっていくような気がした。


「わかった。ありがと、鍵穴くん」


 今日は鍵穴くんに助けられてばっかりだなと、僕は思った。

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