第5話 鍵穴くん、出動

「これは……今日はゆっくりしてた方がいいわね」


 僕はベッドから、体温計を見ながらそう言うお母さんを見上げている。どうやら、熱を出してしまったみたいだ。


 お母さんには鍵穴くんの声が聞こえてしまうから、鍵穴くんはまん丸い両手で口を押さえて黙っている。鍵穴くんは時々行動がオーバーになる。


「ゆっくりしてるって、今日、学校休むってこと?」

「それしかないじゃない。きっと令斗は皆勤賞だからって張り切ってたのね」


 今まで学校を休むことがなかったから、なんだか体から力が抜けていく思いがした。


「お昼ご飯になったら、お粥もって来るから」


 そう言ってお母さんは部屋を出た。

 鍵穴くんは口を塞ぐ両手を下ろし、僕の隣にやってきた。


「体は大丈夫?」

「うん、ちょっと頭が重いくらい」

「そう……。多分、昨日の疲れが取れなかったんだね……」

「うん……」


 少しの間、お互い何も言わない時間が流れる。


 鍵穴くんはその雰囲気に耐えられなかったのか、

「だ、大丈夫だって! きっと休めば元気になるよ!」

 と言った。

 僕はそんな鍵穴くんが面白くて、くすくす笑ってしまう。


「ん、なに? 令斗君?」

「いや、鍵穴くんがいなかったら、今日みたいに風邪をひいたとき、僕はずっと一人ぼっちだったんだなーって思って」

「あ……」


 鍵穴くんはぽかんとした顔になって、そんな情けない声を出した。そして、二本の縦線の目から、丸い何かがぽろぽろ落ちてきた。


「え、もしかして、泣いてる?」


 僕はそう訊くと、鍵穴くんは涙をぬぐいながら答えた。


「いや、なんでだろう。なんだか、すごい嬉しくて……」

 曖昧な答えだった。

「ふふっ……、なにそれ」

 そんな答えに、僕は笑ってしまう。


「ねえ、初めて令斗君の家に来たときさ、僕、令斗君に言ったよね、僕は令斗君の悩みを解決するためにやって来たって」

「そうだね」


 僕の悩み事。記憶がないことと、そのせいで、いろんな人たちが怖いこと。それがみんなにばれるのが怖いこと。僕は本当に悩み事だらけだ。誰にも話せない、隠し事だらけ。


 でも、いつかは、鍵穴くんに打ち明けられるような気がするんだ。お母さんでも、かいちゃんでもなく、突然やって来た、どこの誰かもわからない鍵穴くんという存在に。


「だからさ、いつかは僕に話してくれると嬉しいな。今日じゃなくていい、明日じゃなくてもいいから」

「うん、わかった。ありがとね」


 鍵穴くんが顔の涙をすべてぬぐい取ると、僕は言った。


「そういえば、僕の事、ぼーちゃんって呼んでないじゃん」

「あ」

 鍵穴くんはまた顔をぽかんとさせた。

「ほんとだ、うっかりしてた」


 ふふっ、と僕は笑うと、鍵穴くんに言った。

「じゃあ、僕、もう一回寝るね」

「うん、おやすみ、ぼーちゃん」


 きっと鍵穴くんは、僕にとって、とても大事な存在だ。




 少しだけ夢を見た。


 本当に少しだけ。


 僕は誰かと一緒に、誰も知らない場所で宿題をしている。


 あの先生きびしーよなーとか、この前あいつがさーとか、たわいない話を誰かがしている。


 僕はずっと話を聞く立場だけど、そうしているのがとても楽しくて、この時間がずっと続いてくれるようにと、心の中でそう願っている。そして、きっとこの夢を見ている自分自身さえも。


 でも、その一瞬の夢は、お母さんが昼食を持ってきてくれる音で、覚まされてしまった。




「うん、結構熱下がったみたいだね」

 トレイにお粥とお水を乗せて運んできたお母さんが、体温計を見て言った。

「明日には学校行けるってこと?」

「まあ、ぶり返さなかったらね」


 お母さんは部屋を出て、鍵穴くんは口を塞ぐ両手を下ろした。


「いただきます」


 ベッドに座って、折りたたみ製の小さな机に卵粥を乗せ、僕は手を合わせてそう言った。


「そういえば、鍵穴くんは何も食べなくても生きていけるの?」

 卵粥を食べながら僕は言う。


「うん、おなかは減らないし、なにも飲まなくても生きていけるっぽいね」

「へー」

「でも、ちょっとみんなの食べてるものが気になったりするけど」


「じゃあさ、鍵穴くんはまず、何かを食べたりできるの?」

「あ、そういえば試したことないなー」

「そうなんだ。どこかでご飯食べたりする機会ってなかったの?」

「うーん、ここに来るまでずっと令斗君の家を探し回ってたからなー」


 鍵穴くんがここに来るまで何をしていたのか、基本的にはいろんな家の玄関のインターホンを押しまくってたのだろうけど、少し気になった。でも、鍵穴くんにそれを聞いたところで、はっきりとした答えは返ってこない気がした。


「じゃあさ、食べてみる?」

「え?」

「だから、このお粥、食べてみる?」

「え、いいの?」

「いいよ」

「やったー!」


 僕はスプーンでお粥を掬って、鍵穴くんの口に近づける。鍵穴くんは僕に顔を寄せて、大きく口を開いてあむっとスプーンをくわえた。なんだか餌付けをしているみたいだ。


 というかなんだ、この状況………。


 鍵穴くんは口を開け、僕はスプーンを戻す。そして、僕はスプーンの掬うところを凝視してしまう。


 お粥が残っている……。


「あー、美味しかった!」

「えっ⁉」

 鍵穴くんは味がわかるの?

「あれ、お粥なくなってない……」


 鍵穴くんはスプーンを見ながらそう言った。どうやら、味は感じられるみたいだけど、食べ物自体は残るらしい……。


「えー……、どうしたらいいの、これ……」


 スプーンに残っているお粥を、僕はまるでばっちいものでも扱うかのように見た。


「そんな嫌がらなくていいじゃん……。僕だってほぼ実態ないみたいなもんだしさ」

「理屈じゃわかってるけどさ……」


 うえー……、と思いながらぐちゃぐちゃのお粥を見る。


「こーゆうのは勢いが大事だから!」

 鍵穴くんがそう言う。


 僕はお粥を数秒間見つめて、目を閉じてあむっと口の中に入れた。すぐにそれを飲み込み、お母さんが用意した水をごくりと飲んだ。


「ぷはぁ……」

「オーバーだなー……」


 鍵穴くんが両手を上げてやれやれ、という感じで言う。僕から言わせてもらうと、そういう仕草がいちいちオーバーなのだが。




「さ、こっから暇だなー」


 昼食を食べ終わり、背伸びしながら鍵穴くんは言った。


「いや、昨日やり損ねた宿題があって……」

 僕はそう言いながら勉強机に向かう。

「あー、宿題やってないのー? 悪い子だ~」

「だって、昨日疲れてやれなかったし……」

「あ~、言い訳~」


 僕はそんな鍵穴くんの煽りを無視して椅子に座り、机に置きっぱなしにしていたプリントに向き合う。表面だけだからすぐに終わりそうだ。


「ねーねー見せてー」


 鍵穴くんがジャンプしながら机をのぞき込んでくる。そのうち鍵穴くんがジャンプに疲れたのか、僕がお粥を食べるために使った小さい机を動かしてその上に乗り、丁度机の上に顔が出る高さになって僕の宿題を覗いてきた。なんだか気が散る……。


「ね、これ何の問題? 算数?」

「ううん、数学だよ」


 小学校では数学のことを算数というのだと、どこかで聞いたことがある。


「へ? 数学って何?」

「算数よりも難しいってことなのかな」

「へー、どれどれ」


 僕が図形の横でいろいろ計算しているところを、鍵穴くんはまじまじと見る。


「え、なにこれめっちゃ難しそう……」

「え、そうでもないよ?」


 そう言いながら答えの欄に回答を書く。


 その後も鍵穴くんは隣でぎゃーぎゃー騒いでいた。対頂角とか同位角とかなんなんだよー! とか、証明? これとこれが同じって言えばいいの? 見ればわかるじゃん! とか。


 宿題が終わると、鍵穴くんは机を下りた。


「えー、ぼーちゃんってそんな難しいことやってるの……。あ、ねえねえ、ぼーちゃんは何かゲームとかはしないの?」

 そう鍵穴くんは訊く。


「うーん、ゲーム機とかはないしなー。あ! でも、オセロがあったかも」


 本棚の片隅に、確かオセロがあった気がする。

 しゃがんで本棚の一番下を見ると、漫画本の隣に緑色のボードが顔を出していて、すぐに見つけられた。


「ちょっと埃かぶってる……」


 ボードの横側の部分をぱんぱんとはたき、埃を落とす。この本棚に置かれてから結構時間が経っているのだろう。僕が小学生だったころ、お母さんと遊んだりしていたのだろうか。


「じゃ、これやろっか。鍵穴くん、ルール分かる?」

「うん、分かるよ、挟めばいいんでしょ?」


 間違ってはいないのだけど、すごいざっくりしている。

 でも、鍵穴くんがオセロのルールを知っているのが意外だった。鍵穴くんは、ここに来るまではずっと外を歩き回っていたのだから、てっきりいろいろ説明しないといけないと思っていた。


 いざ始めてみると、鍵穴くんはオセロが思いのほか上手で、僕は何回挑んでも負け続きだった。大きく挟んだと思ったら挟まれたり、そうこうしているうちに角を取られていたりと、この人には敵わない、と直感的に思うような動き方ばっかりだった。


 僕もかいちゃんと図書室でオセロをしたことがあるから、大体のルールは分かるし、それなりのセオリーも理解している。だから、普通の強さくらいはあるはずなのに、全く歯が立たなかった。


「え、なんでこんなに強いの……?、鍵穴くん……」


 僕は素直に困惑する。


「ふふーん」


 鍵穴くんは腰にまん丸い両手をあてて自慢するポーズをとった。


「いや、ふふーんじゃなくて……。どこで得てきたのそのスキル……」

「やっぱり僕って天才なんだなー」


 鍵穴くんは勝手にうぬぼれる。だめだ。会話にならない。


 その後も何戦か鍵穴くんに下剋上を仕掛け、何回も惨敗した。時間はすぐに過ぎていき、下の階からお母さんの、先生がプリント持ってきてくれたわよー、という声で、もう時間が午後の五時になっていることに気づいた。こんなに時間を忘れてゲームを楽しんだのは、初めての経験かもしれなかった。僕はこういう時間がずっと続いて欲しいと思ったのだ。相手のことを怖れている時間が、僕にはずっと付きまとっていたからなのかもしれない。


 下の階に降りてお母さんから封筒をもらい、部屋に戻りそれを開ける。

 中に手を突っ込んで、それを引き上げる。

 中から出てきたのは、理科の宿題だった。


「またプリント~⁉」


 鍵穴くんが残念そうに言った。




 次の日の朝、鍵穴くんがこんなことを言い出した。


「ねえ! 僕を学校に連れてって!」


 あの時、そう、鍵穴くんが僕の家に来たとき、僕は鍵穴くんに言ったはずだ。学校には付いてこないで、と。理由は単純。僕が鍵穴くんと話していると、周りから変に思われるから。


 でも、何故だろう。昨日、鍵穴くんと一緒に過ごして、少しだけ鍵穴くんといない時間を過ごすのが少し怖くなってしまっている自分がいた。相手に表面だけの顔だけ見せて、自分を良いように演出してしまう空間に行くのに、少し抵抗があった。


 だから、僕は言った。


「きょ、今日だけ特別だから……」

「やったー!」


 鍵穴くんがおねだりして、僕がしぶしぶ受け入れて、鍵穴くんが大喜びする。そんなやり取りを、僕達はいったい何回してきただろう。鍵穴くんは意外とちょろいとか思っているのではないだろうか。


「いやでも、自転車で行くけど、どうやって鍵穴くんは移動するの?」


 僕は純粋に気になって訊いた。


「そりゃあ、前のカゴに僕が入ればいいんじゃない?」


 う、噓でしょ?

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