第8話 鍵穴くんはどこ?
鍵穴くんが、あっ……、と言って反応したのを、僕は確かに聞いた。
かいちゃんは、僕のことを心配してそう訊いた。かいちゃんが、僕をからかうために、そんなことを言うわけない。
分かっている。そんなの、分かりきっている。でも、僕はそれに耐えられない。小学生の時に、自殺した? そんなこと、知りたくなかった。僕は確実に、かいちゃんに知られたくなかったことを知られてしまった。
嫌だ、誰かといたくないという思いが、僕の胸の中で渦を巻き始めている。
この部屋の光と影が、僕とかいちゃんを隔てている。
「帰って……」
「え……」
「帰ってよっ‼」
僕はそう叫ぶ。
その叫びに触れたかいちゃんの顔が青ざめた。これは、言ってはいけなかったのだと、瞬時に理解したのだろう。
「……ごめん!」
そう言って、かいちゃんはドアを開け、部屋を出て行った。
少し経って、お母さんの声が一階から聞こえてくる。
「あら、もう帰るの?」
「はい。失礼しました……」
「お気を付けて。またおいでね」
何も知らないお母さんは、かいちゃんにそう言う。
そして、玄関のドアが開いて、閉じる音がした。
「ぼーちゃん……」
鍵穴くんが僕に向かって言う。
「ごめん鍵穴くん。ちょっと、静かにしてて」
この気持ちを整理したかった。僕に記憶がないことを知られてしまった。そしてさらに、僕が小学生の時に死のうとしていたという、僕の知らないことまでかいちゃんは知っていた。僕と同じ小学校だったという美香から聞いたのなら、その情報は確かなもののはずだ。
そして、僕にふと、ある疑問が浮かんだ。
なら、お母さんは?
僕が自殺したということが事実なのだとしたら、それをお母さんは知っているはずだ。なのになぜ、そのことを言わなかったのだろうか。
僕はトレイを持って、一階に降りた。
お母さんはキッチンで夕食の準備をしていた。
僕はお母さんと向かい合って、キッチンにトレイを置いた。
「あ、ありがとね」
お母さんは野菜を切りながら、僕を見ないで言う。僕がどんな気持ちでここに立っているかも知らないで。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
お母さんは優しい声色でそう返す。いつもそうだ。僕の知っている人たちの中で、一番僕に優しく接しているのがお母さんだ。どうして、いつもそうなの? 僕のお母さんはどうしてそんなに優しいの? 僕はかいちゃんと話したことを思い返す。
ぼーちゃんのお母さん、ぼーちゃん思いだなあ。
あの言葉に、いい意味だけが含まれているようには感じなかった。かいちゃんは多分、ただの冗談交じりでそう言っただけなのだろう。けれど、その言葉はわだかまりとなって、ずっと僕の胸の中でうごめいていた。
ねえ、どうして?
どうしてお母さんはそんなに優しいの?
ひょっとして、僕のことが怖いの?
僕の目の前で料理をしているこの人は、いったい誰なの?
僕はそんな疑問を抱きながら、言った。
「ねえ、僕が小学生の時、自殺したって、本当なの?」
そう言った途端、お母さんの包丁を動かす手がピタッと止まった。
異常に、僕の手が震えていた。
ビニール袋に入ったピーマンたちも、ご飯を炊いている炊飯器も、ぽたぽたと水滴を落とす蛇口も、包丁の刃が入ったままの人参も、今だけは全部別の世界のものに思えた。
僕はただ、目の前の人物と向かい合うことだけに意識を使っていた。
僕のお母さんだというこの人は、きっと何かを隠している。
お母さんは僕の方を向いて、顔を引きつらせていた。
やっぱり、と、僕は思う。お母さんはこのことに関して何かを知っている。そうでなければ、真っ先に否定するはずだ。
「令斗……」
お母さんは、やっと声を出す。
何を言われるだろうか。やっぱり、意味が分からないと、声を大にして怒るだろうか。それとも……。
そうやって考えを巡らせていると、お母さんは言った。
「覚えて、ないの?」
え? と、僕は声に出した。
お母さんのその言葉は、美香に記憶がないことを話した時の彼女の言葉と、まるっきり一緒だった。
どうして? と、また僕は疑問を抱く。
美香もお母さんも、僕が僕のことを知っていることが当たり前みたいに話す。僕から見えている僕と、美香やお母さんから見えている僕は全く違っている。
僕はいったい、小学生の頃に何をしたんだ? この僕は、いったい誰なんだ?
そうやって頭の中を疑問が駆け巡っている。
僕が立っているこの世界が、だんだん歪んでいく思いがする。
もう、まったく意味が分からない。
「覚えてるわけないよ!」
僕の胸の中のわだかまりをすべて吐き出すように、僕はお母さんに言った。
「え……?」
お母さんはそう言って、包丁と人参から手を放し、キッチンを回って僕の方に来た。
お母さんは、僕の両肩に手を当てる。
「本当に、覚えてないの?」
僕は震える体を抑えて頷く。
「そんな……」
そう言ってお母さんはゆっくりと遠ざかる。
「僕、小学生の頃の事、何も覚えてないんだよ。どうして、お母さんは昔のことを話してくれなかったの?」
僕が小学生の頃に自殺した。そのことは、お母さんの反応から、事実だということが分かってしまった。小学生の頃、多分僕は、自殺をして、奇跡的に助かったのだろう。そうでなければ、今頃僕はここにいない。
「だって、令斗が、傷つくかもしれなくて……」
そう言って、お母さんは両手で顔を覆って、しゃがんで泣いてしまった。
僕が、傷つく……。
そうだった。お母さんがそのことを話題に出さないのは、よく考えれば当然の事なのかもしれない。
一体僕は、この状況を目の前にして、どうすればいいんだ?
この場所にいてもたってもいられなくて、僕は走ってリビングを出て、階段を上がり、自室へと逃げるように飛び込んだ
長い間、僕はベッドの上でうずくまっていた。
同じくベッドの上にいる鍵穴くんは、どう声をかければいいのか迷っている様子だった。
「かいちゃん、どうしてあんなことを言ったんだろうね?」
鍵穴くんは言う。
「かいちゃんは、悪ふざけのつもりで、あんなことは言わないよ。僕のことが心配だったのは分かるけど。僕は、あんなこと、知りたくなかった……」
僕はそうやって声に出す。理屈では分かっている。それでも、僕はいろんな人たちを信用することができなかった。美香も、かいちゃんも、お母さんも。
そして、目の前にいる鍵穴くんも。
僕の心の中にある疑問は、まだたくさんあった。この目の前にいる鍵穴くんに対して、今更になって思う。この鍵穴くんという存在は、いったい何なんだ? 突然僕の家に押しかけてきて、僕の悩みを解決したいなんて言ってきて、僕の生活をかき乱して。この前までの、鍵穴くんを受け入れていた僕が、だんだん遠ざかっていくように思えた。一体、目の前にいる存在は何なんだ? もしかして、全部僕が見ている幻だというのか?
「ねえ、鍵穴くん」
「何?」
鍵穴くんだって、何かを隠しているはずだ。
「本当は、全部知ってたんじゃないの⁉」
僕は鍵穴くんの腑抜けた目を見て言う。
鍵穴くんは顔が固まったまま、何も言わない。
「かいちゃんが僕にあんなことを言ったとき、鍵穴くんの反応がおかしかった! あっ……、って、鍵穴くんは言ってた! ねえ、全部知ってたんでしょ⁉ 僕が自殺したことも、記憶がないことも、その記憶の中身のことも!」
もう誰も信じられない。そんな僕はもう、言葉を止めることができなかった。
「え、あ……」
鍵穴くんの口が震えている。二本の縦線の目から、ぽろぽろと何かが零れ落ちていく。涙だ。そう分かっていても、もう止められなかった。
「もう誰も信じられないの! ここから出てってよ!」
僕はそう言って、ベッドの方に俯く。
僕の部屋が、だんだん静かになっていく。
言ってはいけないことを、言ってしまった。
そんな後悔が、すぐさま僕の胸の中を巣食っていく。
ベッドの布が擦れる音がする。そして、ドアが開く音がする。階段を下りる音がする。
……ああ、これだから僕は。
目を開ける。前を向く。
鍵穴くんはもう、そこにはいなかった。ドアが開かれたまま、静けさを放っていた。
……ああ、これだから。
「鍵穴くん……」
僕の心がぐちゃぐちゃになる。何も考えられなくなる。ベッドに張り付いたみたいに動けなくなる。
……これだから僕は、誰とも仲良くできないんだ。
頭の中で、そんな声が響く。
嫌だ。そんなの嫌だよ。僕はやっとみんなとうまくやれると思っていたのに。
僕が、僕がいけないんだ。僕は鍵穴くんに謝らないといけない。一緒にゲームをして、一緒に勉強して、一緒に約束してくれたのに、僕は鍵穴くんに何もしてあげられなかった。
だから、僕は鍵穴くんを傷つけてしまったんだ。
全部、全部僕が悪いから……。
僕は、部屋を駆け出した。まだ、遠くまで行っていないはずだ。
一階に降りて、リビングの方へ行く。お母さんは、ソファーに座ったまま、うつむいていた。
リビングから出たベランダの向こうに、隣の空き地が見える。その空き地には、一面に腰の高さ、いや、鍵穴くんの全身の高さほどの枯れ草が生えている。
お母さんの横を通り過ぎて、ベランダの方へ走る。
「令斗?……」
後ろからお母さんがそう言う。僕はその言葉を無視する。裸足のまま庭に出て、空地への足の高さほどの段差を上がる。
枯れ草をかき分けて僕は空地を進む。こんなところに鍵穴くんが隠れているわけでもないのに。
それでも、僕は叫んでしまう。
「鍵穴くん‼」
いるわけない。もう、取り戻せない。僕はそう、分かってしまう。
僕は膝から崩れ落ちる。
リビングからお母さんの声がする。
「令斗⁉」
僕の頭の中を空っぽにしようとするみたいに、額に夕日が照り付ける。足の痛みが、感情的な僕を殺していく。
どうして……。
どうして、こんなことになるの……。
……ああ、これだから僕は、誰とも仲良くできないんだ。
また、あの声がする。
僕に、訴えかけている。
すると、また、いつかのように、頭をハンマーで殴られたかのような痛みが走った。
僕の頭の中に、僕の記憶にない映像が浮かび上がる。
小さい僕が、誰かの手を引いている。
「ねえ、どこに行くの?」
手を引かれる小さい男の子は、小さい僕に訊く。
「ほら、あっち!」
どこ指さしているのか、分かった。
「あっちで見つけたんだよ! 俺らのひみ……」
また、頭に衝撃が走る。
「ああああああああああああっ‼」
様々な映像が、どんどん流れ込んでいく。
太陽に目を吸いつけられる。
やがて、僕は地面の方に顔を落とす。
「大丈夫⁉ 令斗?」
お母さんが僕の方に来て、しゃがみこんだ僕の肩に手を当てる。
おぼろげな僕の小学生の頃の記憶が、頭の中を駆け巡っていく。
「大丈夫? 落ち着いて……」
最初から、最後まで、僕は映像を辿る。
あれ、と、僕は思う。
その疑問が、小さく浮かんで、やがて頭の中で確かなものに変わっていく。
本当に僕は、小学生の頃、自殺したのか?
その日、僕は夢を見た。
とてもとても、長い夢だった。
どんな夢だったか、もはや言うまでもない。
少しずつ、確かな形ではないが、僕が小さいころに何をしていたのか、少しだけ分かっていった。
もしかしたら僕は、大きな間違いをしてしまっていたのかもしれない。
でも、昔の記憶はくっきりとした輪郭として、僕の中にきちんととどめることはできなかった。
だから、知らないといけない。
昔の自分のことを。
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