マッチングアプリ

さかもと

マッチングアプリ

「そろそろストレッチ終わった?」

 耳に刺したワイヤレスイヤホンから奈々の声が聞こえてくる。

「ああ、終わったよ。じゃあ、そろそろ行きますか」

 僕は左腕にはめたスマートウォッチをタップして、本日のランニング記録を開始した。タイマーが回り始める。

 毎朝のように走っている近所の遊歩道だった。左右の足を交互にゆっくりと前に動かし始める。すぐに奈々がまたイヤホン越しに話しかけてきた。

「今日は朝一から大事な打ち合わせがあるから、軽めにしておこうね」

「オッケー。何の打ち合わせがあるの?」

「編集会議っていうんだけど、私の担当している雑誌の編集者が全員集まって、それぞれ自分で考えた企画を持ち寄って、ああでもないこうでもないって、お互いの揚げ足を取ったり、なんだかんだと、とにかく色々大変なのよ」

 朝日の昇り始めた周囲の景色に目をやりながら、僕は奈々の声に耳を傾ける。

「ふーん。雑誌の編集の仕事ってよくわからないけど、和気あいあいって感じで楽しそうだけどな」

「それは、雅一さんみたいにIT関係のエンジニアが集まっている職場に比べれば、コミュニケーション量は段違いに多いと思うけど。でもそれだけストレスも多いんだよ。実際、こないだなんかね、上司が私のところに来てさ、いきなり……」


* * *


 僕と奈々は、とあるマッチングアプリを通じて知り合った。

 お互いの共通の趣味がランニングだったので、アプリのメッセージ交換機能を使って、日々の走った記録や、走っている道すがら撮った写真なんかをお互いに見せ合ったりしている内に、いつの間にか親しい仲になっていた。

「二人とも毎朝走るのを日課にしているんだったら、これから毎朝一緒に走ろうよ」

 ある時、奈々がそう提案してきた。試しに、アプリの音声通話機能を使って、一緒に走りながらイヤホン越しに会話してみたらすごく楽しかった。耳元から聞こえてくる奈々の息づかいや声を聞いているだけで、二人だけのゆったりとした豊かな時間を過ごしているような気がしてきたのだ。それ以来、日々のランニングは必ず奈々と音声通話しながら行うようになっていた。

 そこまで親しく話すような仲になったら、実際に会ってみたいと思うようになるのが自然な流れだろう。ところが、僕の方から奈々に会おうと誘ってみても、奈々の方は「今、仕事がすごく忙しいので気持ちに余裕がないから」などと、色んな理由をつけて断られてしまう。そんな状態が、数ヶ月続いていた。

「このままの状態が続くんだったら、僕は、君との今のこの関係を解消したい」

 いつまで待っても、奈々が僕と会う気になってくれる気配が感じられなかったので、しびれを切らした僕は、とうとう奈々にそう言ってしまった。

 すると、それからしばらく奈々からの連絡が途絶えてしまった。アプリのメッセージで呼びかけても反応がなく、毎朝のランニングも一人で走ることになってしまった。

 正直、僕は「やってしまった」と思った。

 一週間ほど、やきもきしながら奈々からのメッセージを待ち続けていた。すると突然、奈々から「会いましょう」という一言だけのメッセージが僕に届いた。


* * *


 繁華街のど真ん中にある商業ビルの一階ロビー。それが、奈々から待ち合わせに指定された場所だった。緊張していた僕は、約束した時刻より30分も早くその場所に着いてしまった為、ビルには入らずにしばらくそのあたりをぶらぶらしていた。

 このあたりは「若者の街」と呼ばれるだけあって、どこに目を向けても派手で奇抜な格好をした若い人達の姿が視界に入ってくる。大人しい性格の僕にとっては、正直苦手な雰囲気だった。早く奈々と会って、落ち着いた喫茶店にでも場所を移したいな、と僕は思っていた。

 そうこうしている内に、待ち合わせの5分前になった。僕はビルの中に入って、ロビーをぐるりと見渡した。立ち話をしている若者グループが何組かいるだけで、奈々だと思われるような女性の姿は見えなかった。スマホのマッチングアプリを開いて、奈々に「僕はもう着いたよ」とメッセージを送る。

 僕は、じっとロビー全体を睨みながら、しばらく待った。スマホの時計表示を見ると、待ち合わせ時刻を何分か過ぎていた。僕はもう一度アプリを開いて、奈々に「今どのあたりにいるの?」とメッセージを送る。

 すると一寸間を置いて、スマホの通知が来たので、僕は画面に目を走らせた。

「私ももう着いてるんだけど……」

 僕はもう一度、ロビー全体を見渡した。けれども奈々がどこにいるのかわからなかった。

 スマホに目を戻し、アプリの音声通話メニューから奈々を呼び出す。

「雅一さん?」

 スマホを耳に当てると、奈々の声が聞こえてきた。いつもよりも少し声のトーンが暗いような気がした。

「奈々ちゃん? どこにいるのかな……僕、ここにいて、手を上げてるけど、そっちから見えてる?」

 僕は右手のスマホを耳に当てたまま、左手を上に上げて左右にぶらんぶらんと振った。

 奈々からは何の反応もない。黙ったままだった。

「本当にこの場所であってるのかな? ○○にある××ビルの一階だよね」

「うん、確かにそこであってるよ」

 奈々がそう答える。僕はさらに左右に手を振りながら、周囲をぐるりと見渡す。やはり奈々らしい女性の姿は見えなかった。

「私たち、ここで会ったんだよ」

 奈々が続けてそう言った。どうして過去形で「会った」なんて言うのか、僕にはわからなかった。

「どういうこと?」

 僕はそう尋ねる。スマホからは「ごめん」と、か細い声が帰ってきた。涙声になっているような気がして、僕はさらにわけがわからなくなった。

「ごめん。本当にごめん……もう切るね」

 奈々がそう言って、通話が途切れた。

 僕はスマホを耳に当てたまま、しばらくその場で呆然と突っ立っていた。


* * *


 結局、奈々と会うことはできずに自宅に戻ってきた僕は、そのまま自分の部屋に引きこもってベッドでぐったりと横になっていた。

 あれは、僕とは会いたくないということだったのだろうか。何か奈々の気に障るようなことを、気づかない内に彼女に言ってしまっていて、それで嫌われてしまっていたとか、そういうことなんだろうか。なんにせよ、今日会えなかったことの理由が知りたかった。しかし、もうスマホのアプリ経由で奈々とやりとりすることに、うっすらと疲れを感じてもいた。

 枕元に転がしてあったスマホが震えた。見ようかどうか少し迷って、結局画面に目をやる。奈々からのメッセージ通知だった。

「今日は本当にごめんなさい。きちんと説明するから、今、通話しても大丈夫かな?」

 僕は「いいよ」とだけ返事を返した。すぐに奈々から音声通話のリクエストが来た。スマホを耳に当てる。

「雅一さん、さっきは、ごめんね」

 普段通りの奈々の声。さきほどの涙声はなんだったのだろうと思いながら、僕は「どういうこと? 説明してくれるんだよね?」と、落ち着いた声で言った。

「今日、待ち合わせにした場所にね。あそこで待ち合わせすれば、また雅一さんと会えそうな気がしてたんだけど、やっぱり無理だった」

 奈々が何を言っているのかやっぱりよくわからなかった。待ち合わせの時からずっと感じていた違和感が、僕の胃のあたりでぐるぐると渦巻いている。

「さっきから奈々ちゃんの言ってることがよくわからないんだけど」

「私ね、雅一さんのこと、ずっと前から知ってたんだよ。知ってたっていうか、付き合ってたんだけど」

 僕は頭を抱えたくなった。そんなばかな話があるわけがない。奈々とは数ヶ月前にマッチングアプリで知り合って、一度も会ったこともなければ、付き合ったことなどあるはずがないのだから。

「奈々ちゃん、何言ってるの、大丈夫?」

「信じられないのはわかるけど、私の質問に答えて欲しいの。雅一さん、今年は西暦で何年?」

 なぜそんなことを訊かれているのかわからずに困惑しながらも、僕は「2019年」と答えた。

「そうだよね、2019年だよね。でも、私の世界では、今は2022年なんだよ」

 奈々が何を言っているのか、さらに訳がわからなくなった。僕はすっかり返答に屈してしまった。

「私の世界と、雅一さんの世界は、ちょうど3年ずれてるの。このアプリがあるおかげで、こうやって雅一さんと話すことができるんだけど、でも、二人の世界は3年ずれてるわけだから、会うことはできないんだよ」

 僕は懸命に奈々の言葉を理解しようとした。つまり、このアプリは、二人の間にある3年の時空を超えて、音声をやり取りできるということなのか。そんなこと、信じられるはずがない。

「嘘だろう? そんなこと信じられないよ」

「私と雅一さんは、2019年から2年間付き合ってたんだよ。その間、二人で色んな場所へ行って、色んな話をしたから、雅一さんのことなら、私はどんなことでも大体知ってる」

 奈々はそう言うと、僕の子供時代の話や、体の変な場所にあるホクロのことなど、まだ奈々には教えていないことを次々と話し始めた。確かにそれは全て、僕に関する正しい情報だったので、奈々の話を信じる方向に、徐々に心が流され始めていた。だが、奈々の話が本当のことだったとして、僕には一つだけ気になることがあった。

「教えて欲しいんだけど、2年間付き合っていたってことは、結局僕たちは2022年の時点で別れてるってことなの?」

 奈々が沈黙した。話そうかどうか迷っているような気配がスマホの奥から漂ってくる。何と声をかけてよいものかどうか迷っていると、奈々が突然思いもかけない言葉を投げかけてきた。

「亡くなったんだよ、雅一さんは。2021年に、病気でね」

 亡くなった? 僕が? 2021年ということは、これから2年後に、僕は何かの病気で命を失うことになるということなのか。

 冗談がきつすぎると思った。

「ごめん、やっぱり馬鹿げてるよ、そんな話」

「雅一さんと、そんな形で別れることになって、私はとても辛い思いをしてるんだよ。その辛い気持ちを少しでも緩和しようとして、このアプリを使ってたんだけど、こんなこと、やっぱりよくないよね。きちんとけじめをつけて、お別れしておかないといけないんだって、今は思ってるんだ」

 僕は何の病気でなくなったのだろう。何か、2019年の今から気をつけておけば、予防できるような病気なんだろうか。

「奈々ちゃん、教えてよ。僕は一体何の病気で亡くなったの? 今、僕はこんなにピンピンしてる訳だし、何らかの方法でそれを回避できたりしないのかな」

「2020年から世界中で流行る感染症なんだけど、でも、もうどうやっても防ぐことはできないんだよ」

 そんなはずはない。感染症なら、普段から感染しないように細心の注意を払っていれば、最悪死を免れることはできるはずだ。僕は、そのことを奈々に伝えようとしたが、奈々がそれより先に残酷な言葉をぶつけてきた。

「もう、無理なんだ。だって、あなたは、本当はもうどこにもいないんだから」

「どこにもいないって、どういうこと? 僕はちゃんとここにいるよ」

「あなたと話してるこのアプリ、実はマッチングアプリじゃないんだよ」

 奈々のその言葉を聞いた瞬間、僕は自分の周囲を取り巻く世界が、急速に色を失っていくのを感じていた。それは、全身の感覚が麻痺していくような、意識が眠りに落ちていくような、そんな感覚だった。

「これは、亡くなってしまった人の人格を、コンピューターのAIがシミュレーションして、文字や音声で受け答えしてくれるっていうアプリなんだ。私は、2019年の雅一さんを、このアプリにシミュレーションしてもらって、ずっと使い続けてたんだ。雅一さんの方からはマッチングアプリに見えているのは、アプリの中でそういう設定にしているからなんだよ」

 スマホを手にしている指先から徐々に、感覚が消えていく。色彩の失われた世界から、僕の意識が取り払われようとしていた。

「さっきも言ったけど、本当にこういうことはよくないって、もうわかったから、終わりにしようと思うんだ。今までありがとう」

「ちょっと待ってよ、僕はどうなるの?」

「さよなら」

 次の瞬間、僕の意識は跡形もなく消失していた。

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