暗黙の了解 1 (バッエンド)

帆尊歩

第1話 暗黙の了解  1(バッドエンド)

俺の目の前には、美しい入り江が広がっている。

見事に配置されたビルには灯がともり、夜景を形つくり始めている。

入り江の先の山には、夕日が沈もうとしている。

昼と夜の中間。

人はこれを黄昏れ時というが、これから始まる夜の世界の輝かしい光の共演を思うと、とても黄昏れとは思えない。

太陽と月、二つのライト。

トワイライトゾーン。

この時間は、かつて子供だったときの俺は嫌いな時間だった。

何かが終わってしまう、そういう時間に思えた。

でも今は違う。

段々と夕日が沈み、夜が辺りを支配し始めると、夜景たちが輝き始める。

涼しげな気持ちの良い風に吹かれて、俺は座り心地のいいソファーでカクテルを一口飲む。

この大きなバルコニーには、他に多くの人がいるが、みんな思い思いに夜景と酒を楽しんでいる。

「お待たせ」と言って優香が俺の前に座った。

「何を飲む?」俺は優香に尋ねる。

「じゃあオレンジジュース」

「食事は?」

「まだ良いわ。それに別に食べても食べなくても」

「優香、それを言っては」と俺は優しく微笑みながら言う。

「ごめんなさい。暗黙の了解だったね」

「ああ。この気持ちの良い空間を手に入れたのだって、暗黙の了解を受け入れたためだからね」

「ええ。そうだった、ごめんなさい」

「いや、でも確かに俺たちはラッキーだ」

「本当にラッキーなのかしら。ここにいる人達も同じように思っているのかな」

「それはそうさ、こんなに美しい景色と夜景を見ながら大好きな彼女と語り合えるんだから」

「誰のこと言っているの?」と嬉しそうに優香が言う。

「優香に決まっているだろう」

「ありがとう」と優香は嬉しそうに言う。

「そしてごめんなさい、私たちは確かにラッキーだった。ここに来れなければ、あたしは死んでいた」

「俺もさ、それに優香より辛い死だったかもしれない」

「そうなの?」

「そうさゾーンに来れなかったら、俺は本当に酷い死に方をしていたと思う」

「あたしだって。でも、感染しなかったのは軌跡だわ」

「そしてこのゾーンに入れたこともね」

「そうね」と優香は少し寂しそうに頷いた。

俺は優香を元気づけるように明るく話す。

「優香は郊外の方だっただろう。家族が感染したと言っても、家族だからまだ制御が出来ただろうけど俺は都心の方だから、家族と言うより周りがもう戦場のようだった。あそこで生き残るのは、至難の業だ」

「でも寛人はゾーンにいる」

「でもあの界隈でゾーンに来れたのは、俺だけだった」



世界は原因不明のウイルスが蔓延した。

世界規模の蔓延は、これまた世界規模の対策を練る必要があった。

誰もがマスクをして防御シールドをかぶった。

でも次々変異して行くウイルスに、人類は無力だった。

特にたちが悪かったのは、感染から発症までの潜伏期間があまりに長かった。

そして分からなかった。

潜伏期間が長いので待機期間という物も設定できない。

もし本当に待機期間を設けるなら、年単位の待機期間が必要だ。

だから誰が感染して、保菌者になっているか誰にも分からない。

健康でいてもある日発症し、死んでしまう。

だからそこに差別は生まれなかった。

差別される側と、差別する側の境がないのだ。

誰かをどこかに隔離しても隔離された人ではなく、隔離した側の人間が発症したりする。

効果的な対策を打ち出すことが出来ないまま、人類は緩やかに後退していった。

社会生活はあれ、略奪、暴行は当たり前になった。

警察も機能しなくなって、仕方なく人々はコミュニティーで結束して自警団をつくった。

でもまたその中で発症する者が出る。

街は自然と破滅して行き、世界は荒廃していった。


「優香の住んでいた街はどうなった」

「さあ。でももう誰もいないと思う。プロジェクトノアが発動されて、世界は見捨てられた」

「そうだね。俺のいた都市は一千万人がいたけれど、きっともう」

「コラコラ。話が湿っぽい。こういう話をしない事が、暗黙の了解でしょ」優香は自分への戒めも込めて言う。

「ごめん、そうだった」

「あたしこそ、自分に言っているようなものよ」

「そうか、食事はどうする」

「今日はフレンチの気分かな」

「よし。今日はフレンチだ」


俺たちは、フレンチのフルコースを食べる。

昨日は中華。

一昨日は日本料理だった。

でも何の味もしない。

「うん、おいしい」と俺が言う。

「嘘だー」と優香が楽しそうに言う。

「そうでも言わないと、気分が出ないだろう」

「そうね、いくら仮想空間の中での食事と言っても、味の再現くらいして欲しいわね」

「それも言わないのが、暗黙の了解だろ」

「そうか」


プロジェクトノア。

その名前を知っている人間のそうは多くないだろう。

感染で人が死に、どこの国も末期的な状態になった。

そんな力が衰えた政府が、各国共同で最後に発動したプロジェクトだった。

全世界から、確実に感染していないだろう人間を三千人選んで隔離する。

三千人は確実に感染していないはずだが、絶対に大丈夫とは言い切れない。

そこで誰一人、別の人間とは接触をさせないようにした。

それがこの仮想空間で生活することだ。

リアルの体を絶対に他者とは接触させない。

そのためにオリジナルは一人一人カプセルに寝かされ、意識だけがこの仮想空間で生活している。

だからこの入り江も、夕日も街並みも夜景も、仮想空間の中に作られた物だ。

世界にこんなに綺麗な街並みは残っていない。

目の前の食事も、仮想空間の中に作られた物だ。

だから味もしないし、食べたという実感もない。

目の前にいる優香でさえ仮想空間の中に作られたアバターであり、自分もアバターだ。

お互いのオリジナルは、どこかのカプセルに、大事に保管されている。

そうやって病原菌から守り、人類の種を保管したのがプロジェクトノアだ。

そしてその事をアバター同士で言うことは、暗黙の了解でしない事になっている。


「優香」

「なに」

「ゾーンに来たときの事覚えている?」

「覚えているよ。荒涼とした土地、なにもない湖が広がっていた。斜面には何もないのにそこだけコンクリートの棒のような物が突き出していて、その突端に鉄の扉がありそこから入った」

「ああ、そして何層にも重なった床に、カプセルが並びその一つに入った」

「入るとき裸になって、体を洗われ、消毒をされてその裸のままカプセルに入った」

隣の席の紳士が、諌めるようにこっちを見た。

こういう話も暗黙の了解でしない事になっている。

「怒られちゃったね」と優香はかわいらしく言う。

ゾーンはまさにノアの方舟だ。

人間という種を保存するための施設がゾーンだ。

世界中から人を集めるなら、各地に作った方がいい。

この荒廃した世界で遠くまで人を移動させるのは、現実的ではなかった。

でもそれをしてでも一カ所に集める必要があった。

ゾーンは避難施設ではない。

あくまでも人間と言う種を保存するところだ。

誰も近づけない場所を選んで、誰も手を出せない施設にする必要があった。

だからこの北欧の果て北極圏の島が選ばれた。

そして施設の大半が地下で、地上に出ているのは入り口となる扉のユニットだけだった。

間違えて誰かが来ても、大きめの農業倉庫か、インフラのための無人の中継施設くらいにしか見えない。



優香とはこの仮想空間で知りあった。

俺は優香の本当に顔を知らない。

今、目の前にいるのは、アバターだ。

でも基本的な顔はそのままアバターに引き継がれるから、全然違う顔と言うことはない。


急にフロアーが騒がしくなった。

一人の男が大声で叫んでいた。

「みんな、こんなことしていていいのか。我々の肉体は、カプセルの中で朽ち果てて行くんだ。考えても見ろ。種の保存というのは我々を生かしておくことではない。遺伝子や細胞を保存しておくことだ。こんなぬるま湯のような状態の中で、生きながらえることに何の意味があるんだ」

叫んだ男は、ナイフを自らの胸に突き立てた。

どこからともなく悲鳴が聞こえたが、何も起こらない。

アバターは実体があるわけではないから、物理的に何かが起こるわけではない。

周りの人達は薄笑いをうかべて食事に戻った。

ところが男は急に苦しみだした。

その苦しみ方はナイフを刺したという苦しみ方ではなく、まるで心臓発作を起こしたような感じだった。

「どういうことだ」と俺は誰ともなくつぶやいた。

「ナイフは関係がないけれど、過度のストレスがかかって、オリジナルに何かが起こったのかもしれない」優香がつぶやくように言う。

「どういうこと」

「過度なストレスがかかって心臓発作を起こしたとか」

「そういうことか」


そしてしばらくするとその男は、忽然と姿を消した。

「消えた。死んだのか」

「いえ、コネクトが外れて目が覚めたのかもしれない。まあ死んだ可能性もなくはないけれど」

「馬鹿だな。このままが幸せなのに、ってなんで優香そんなに詳しいんだ」

「うん、なんでかな」



食事が終わって俺は優香をホテルの最上階のスイートに連れていった。

入り江はさらに高いところから眺める事が出来た。

「綺麗」と優香が言う。

俺は優香を抱き寄せた。

そして優香を愛おしげに見つめる。

「好きだよ」

「あたしも」

俺は優香の唇に自分の唇を合わせる。

でも何の感触もない。

抱き寄せた手にも何の感触もない。

オリジナルはここにはいない。

「優香、結婚しよう」

「えっ」

「結婚だよ」優香は驚いたように俺を見る。

「そんな事出来るのかしら、そもそも私たちに戸籍という概念があるのか」

「なら、二人だけの結婚式をしよう。戸籍と言う概念がないなら、お互いの気持ちで、結婚すれば良い。法的に夫婦じゃないかもしれない、でも信じてさえいれば神様の前では夫婦になれる」

「ええ、それなら、あたしたち結婚して夫婦になりましょう」


それから俺たちは二人でひざまずき、神に祈った。

ここで俺たちは夫婦になったが、それを知っているのは俺と優香と神様の三人だけだった。

それから俺たちは着ている服を全て脱いで、裸でお互いに見つめ合った。

優香の裸体は本当に美しかった。

最も仮想空間のアバターなので、これが本当に優香の体なのかは分からない。

でも俺たちは本当に夫婦になったかのように感じた。

俺は優香を抱き寄せた。

肌が触れあっているはずなのに、何も感じない。

触れている感触がない。

本来あるはずの弾力も、温もりも。

分かっているはずなのに、どこかむなしい。

抱き寄せた優香の髪を掻き上げると優香は上を向く、下を向いた俺と優香の顔は近づき俺は優香の唇に唇を合わせる。

でもそこでも何の感触もない。

アバター同士の俺たちにとっては何をしても、精神的なつながりしかない。

でもいい、愛した優香といつも一緒にいられるなら、それでもいい。


それから俺たちは、いつも一緒にいるようになった。

名目上とはいえ、俺たちは夫婦だ。

時間はたっぷりある。

浜辺、入り江、とにかく俺たちはゆっくりと歩きながら様々な話をした。

子供の頃のこと、どんなところに住んでどのように育ったのか、どんな人と出会いどんな生活をしていたのか。

そんな事をして時が経った。

仮想空間で時間は余り関係がない。

実際にはどれくらいの時間が経っているのかわからないまま、俺は優香の事なら何でも分かるつもりになっていた。

嫌、これはつもりではなく本当に優香の事なら何でも分かる。

経験の積み重ねで、こういう場合優香ならこう考える、ということも分かるようになっていた。

そしてそれは優香も同じだった。

俺たちは、この世のどんな夫婦よりも純粋に、お互いを慈しみ合い、尊敬して、そしてお互いの内面の本当に深いところまで知り合うことが出来た。

そしてそんな事が深くなればなるほど、俺は優香を深く愛し、優香も俺のことをほんとに深く愛してくれた。

でも体はアバターである。

それ以上を望むことは出来ない。

だからそれは精神と観念だけの究極の愛だった。

でもその愛が高まれば高まるほど、俺は優香に触れたくなった。

優香の感触を感じたくなった。

そしてその思いは、優香と楽しい生活を送れば送るほど思いは強くなっていった。


「どうしたの」と優香が聞いてくる。

あまりに俺が塞ぎ込んでいるから心配したようだ。

「いやなんでもない」と言ったが、俺は優香に触れたいという思いが押さえられなくなっていた。

つまり自殺をすればいい。

仮想空間のアバターだから自殺をしたからと言って死ねるわけではないが、過度なストレスがかかれば、オリジナルの体に変調を来す、そうすればコネクトが切れるかもしれない。そうすれば目が覚める。

そして、三千あるカプセルを一つ一つ見て、優香を探しだせばいい。

そしてその優香にキスをしたい。

ただそれだけで良い。


俺は衝動的にバルコニーから飛び降りた。

後ろで優香の声が聞こえたような気がしたが。

どうでも良かった。



俺は目を覚ました。

カプセルの中だ。

どうやら、コネクトが切れたらしい。

体に感触がある。

俺は目が覚めたんだ。

体中についている電極や管などを強引に外すと、俺はカプセルの扉を押し上げた。

上体を起こし座る形になると、長く寝ていたせいか、頭がふらつく。

上体を起こしただけなのに息切れがした。

何とかそれが収まると立ち上がった。

周りには無数のカプセルが並んでいる。

そうだ俺はゾーンに連れてこられた時、このカプセルの部屋に入り、裸でカプセルに寝た。

カプセルにはプレートがついていて名前と生年月日、年齢、職業が書かれている。

俺はふらつきながら優香を探した。

でもうまく歩けない。

体が鉛のように重い。

筋肉が落ちているんだ。

でもこれで優香と触れ合える。

優香。

優香。

ここに来たときは、時間がずれていたせいか、数人だけでこのカプセルに入った。

その時優香はいなかった。

このフロアーだけでざっと数えて五百並んでいる。

と言うことは、この五百の中に優香がいない可能性もあるが、そんな事は言っていられない。

俺は重くふらつく体を引きずるようにして、一つ一つカプセルを見て行く。

そして半分くらい探したところで(優香オブライエン)というプレートのカプセルを発見した。

職業は脳科学者となっている。

優香は二十四歳だった。

駆け出しの脳科学者と言うことか。

俺は、重いガラスの蓋を上げた。

そこには無数の管につながれた、裸の優香が横たわっていた。

そうそれは確かに優香だった。

でも、その優香の裸体は、どう見ても二十四歳ではなく、老婆に近かった。

そういえば俺だって二十七歳のはずだが、カプセルのガラスの蓋に映った俺の顔はどう見ても六十代。

俺は慌てて自分の寝ていたカプセルに戻り、扉のプレートを見た。

カプセルには六十九歳と書かれている。

俺はもう一度、優香の所に戻る、年齢は六十八歳。

ここでどれくらい寝ていたか分からないが、少なくともこのカプセルに入ったのが六十九歳と六十八歳ならば、最低これ以上の年齢と言うことになる。

俺は優香の若々しい体に触れたくて、アバターからオリジナルに戻った。

なのに。


誰もいない。

もう俺を元の仮想空間に戻してくれる人間はいないと言うことか。


俺は無数のカプセルの並んだ、地下空間に一人残された。

いったい俺はどうしたらいい。

俺はただ途方に暮れるばかりだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

暗黙の了解 1 (バッエンド) 帆尊歩 @hosonayumu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ