1-10


あの日の夜のことは、一生忘れることはないだろう。凍え切ってしまうような冬の夜。

予備校から帰るその最中、僕は家の近くの公園を通りかかった。その遊具の中、何かから隠れるように誰かがいるのに気付いたのだ。


『……恵美さん?』


僕はすぐに駆け寄った。彼女は冬なのに下着とネグリジェだけの薄着で、寒さで凍えていた。僕を目にした瞬間ビクッと震えた彼女は、すぐに顔をくしゃくしゃにして泣き始めたのだった。


『瑞樹、くんっ……!!』


そのまま彼女は僕の胸に顔をうずめ泣き始めた。身体のあちこちに痣があるのが分かった。そして、腕には注射痕。何をされているのか、僕は子供ながらに薄っすらと悟った。


僕は恵美さんの背中にコートをかける。そして、恵美さんは泣きながらぽつりぽつりと彼女に何があったかを話し出した。

彼女は義父から日常的に虐待を受けていた。それだけではなく、無理矢理売春もさせられていたという。

恵美さんのお母さんはと聞くと、身体を震わせながら「もういない」という。それがどういう意味なのかは、考えたくもなかった。


『警察に行きましょう。行けば何とかなるかも』


彼女は「無理よ……」と首を振った。


『あいつは、私を必死に探してる。手下がたくさんいるの、ここにいたら瑞樹君も危ないよ』


駅からの帰り道、いつも以上にヤンキーを多く見かけたのを思い出した。まさか、そういうことなのか。


公園の入り口に、男が2人立っているのが視界に入った。


『いたぞっ!!』


こちらに向けて走ってくる。僕は恵美さんの手を引いて駆け出した。

あっという間に差が詰まる。案の定、すぐに捕まってしまった。


『ガキィっ!!』


ボスッ、と鳩尾に拳が入った。一瞬、息が詰まる。前屈みになったところで顔面に蹴りが入り、僕は吹っ飛んだ。


『やっと見付けたぜ、大人しくしてろ』


『いやあああっっ!!瑞樹くんっ、助けてっっ!!』


口の中が、血の臭いで一杯になる。鼻も折れてしまったのか、酷く痛い。僕にできることは、何もないのか。


男たちが恵美さんを引きずるようにして背中を向けて去っていく。道にはワンボックスカーがいつの間にか停まっている。あそこまで連れて行かれたら、もう永久に恵美さんとは会えない気がした。


『うおおおおおっっっ!!!』


僕は男たちに向けて走り出した。そして振り向いた男の1人の首に自分の腕を絡め、力一杯捻る。ゴギッという嫌な音がして、男はその場に倒れた。


『てっ、てめえっっ!!!』


もう一人の男が僕に殴りかかってくる。僕はそれを何とかガードしてそらした。


『恵美さんっっ、逃げてっっ!!!』


『でっ、でもっ!!』


ワンボックスから男が何人か飛び出してきた。そして、恵美さんの行く手を阻むように立ちふさがる。


『やっと見付けたぜ、恵美……さあ、戻るぞ』


大柄なオールバックの男が言う。僕は男たちに囲まれ、3発くらい殴られた後腕を極められた後地面に押し付けられた。


『もう嫌なのっっ!!それに私も、ママみたいに殺すつもりなんでしょっ!!?』


『殺したんじゃねえよ。薬射ってたら勝手に死んだだけだ』


倒れていた男の元にいたリーゼントが叫ぶ。


『兄貴っ!!朝倉のヤツ、息をしてねえっ!!』


『何ぃ?』


オールバックの男が倒れている男を覗き込み、「こりゃ死んでるな」と呟いた。そして、押さえつけられたままの僕を上から見下ろす。


『てめえがやったのか?』


『恵美さんを、解放しろっっ……』


サッカーボールのように奴は僕の頭を蹴った。激しい痛みに声も出ない。意識が飛びそうになる。


『ヒーロー気取りか?ガキが』


『お……おまえが、えみしゃんの……』


歯が何本か折れているのか、もう満足に喋れない。奴は僕の髪を掴んで無理矢理立ち上がらせた。


『無関係な人間が人の家庭に首突っ込むンじゃねぇよ』


今度は頭突きを受けて僕は膝から崩れ落ちた。


遠くからサイレンが聞こえてくる。オールバックの男が舌打ちする。


『騒ぎになっちまったな、恵美は車に押し込んどけ』


『このガキはどうします?』


『朝倉を殺したのはこいつだろ。『喧嘩で相討ち』に見せかけるよう、こいつもここで死んでもらうか』


血の気が一気に引く。僕は、死ぬのか。恵美さんを助けられないまま。何もできないまま。


『ふざっ、ける……な……』


倒れたままの僕の首が、踏まれるのが分かった。


『正義の味方気取るなら、身の程を知ってからにしろや、ガキが』


目から涙があふれる。僕にもっと力があれば。いや、僕がもっと賢ければ。もっと勇気があれば。



……恵美さんをこんな人間のクズから、救うことができたはずなのに。



ゴギッッ



激しい後悔の中、「竹内瑞樹」としての僕の人生はそこで終わった。




そして、僕は白い空間の中、「神様」を名乗るお爺さんと出会った。「お主の無念、晴らす機会を与えてやろう」と。

「透き通った空気」という恩寵を手にした僕は、こうしてヴァランに「憑依」したのだった。



僕は、自分の――「竹内瑞樹」としての一生を、できるだけかいつまんでエルさんに話した。彼女は泣きながらそれを聞いている。


「……あなたは、このまま消えてしまって、いいの」


彼女の問いに、もう一度お茶を飲んでから僕は口を開いた。


「ええ。僕は、愛する人をただ護りたかった。そして、エルさんが壊れかけていると知った時、自分が持つこの恩寵を活かせないかと思ったんです。

もう、エムスもホードも死んだ。あなたを苦しめる人間はもういないし、『見えざる刃』の名が抑止力になり、この街も多分平穏になる」


僕は、エルさんの顔立ちが恵美さんにどことなく似ていたことは黙っておいた。僕もエルさんのことを言えないと思ったからだ。


「とにかく、僕は自分がやるべきことを全てやった。恵美さんは護れなかった。でも、目の前にいるあなたは救えた。それだけでも、僕が転生した意味はあったんです」


「ミズキ……」


リンリン、と呼び鈴の音がした。ワイズマンとハンスが上がり込んでくる。


「お話は済みましたかな」


「ええ。大体は」


ハンスが革グローブをはめた。あれで僕を「殺す」のだろうか。前の時のように、痛くないといいのだけど。

それを見透かしたかのように、ワイズマンが苦笑した。


「大丈夫。一瞬で眠ってもらって、それで終わりよ。『浄化』そのものは、意識を失ってさえいれば何の苦痛もない。

眠らさずにやってもいいけど、そのぐらいはしてあげるわ」


「僕は、どうなるんですか」


「さあね。ただ、自我を失った上で別の人物に転生することになる、らしいわ。もちろん、それが誰かは法と秩序の神『イーリス』と慈悲と混沌の神『アザト』にしか分からないけど。

『タケウチミズキ』としての貴方は、どちらにせよここでおしまい。それが転生者に対するこの世界の掟よ、悪く思わないで頂戴」


まあ仕方がない。僕は、エルさんを護り救うため、そしてヴァランが望んでいたこの街の平穏のためとはいえ、あまりに多くの人間を手に掛けた。

そもそも、前世の時点で人を殺してしまっているのだ。別に天国に行けるなど思ってるわけじゃない。地獄に行かないだけでも上出来だ。


「随分、晴れやかな顔をしてますな」


ハンスが微笑んだ。さっきの独白を聞いていたのだろうか。


「珍しいですか。『浄化』前に落ち着いているのは」


「ええ。ただ、大変善いことです。未練がないというのは」


僕はエルさんを見た。また号泣している。本当に、よく泣く人だな。

僕はもう一度、彼女を胸に抱いて、ぽんぽんと背中を叩いた。


「ありがとうございます。……幸せになってください」


「ミズキっ……!!!」


エルさんに微笑む。彼女とヴァランが、これからどうなっていくかは僕には分からない。ただ、もう彼女が壊れることは、きっとないだろう。


「では。来世に平穏と幸福があらんことを」


ハンスが革グローブを僕の顔に押し当てた。物凄く甘い、花の香り。



それに包まれながら、僕の――竹内瑞樹の意識は、再び、そして永久に失われた。



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