1-9


「戻りましたね」


家の玄関前に、ハンスとジャニスが待っていた。エルさんが、僕に駆け寄ってきて抱きしめる。


「ヴァランっ……!!」


「エルさん……ただいま」


嗚咽する彼女の頭を抱く。無事戻ってきたという安堵と、エルさんとの今生の別れが近いという悲しみが入り混じり、僕の目からも熱いものが流れた。


「逃げ出さずにここに来たこと、感謝いたしますよ」


「……人質を取っておいてよく言うよ」


エルさんから身体を離し、涙を拭ってハンスに応える。


ハーディ・エムスを殺せたのは、彼らの協力があってこそのことだ。


異常に用心深いエムスの邸宅の警備は厳しい。僕の恩寵にも薄々感づいているのか、地上だけでなくサーチライトのようなもので上空まで警戒していた。気体になって姿は消せるけど、「透き通った空気」の有効時間である2分以内に全てを済ませるのは簡単じゃなかった。

おまけに、本拠が暗黒街入口近くにあったダグラム・ホードと違い、エムスの邸宅は最奥だ。この厳戒態勢の中で暗黒街の通りを突っ切って近づくのは、かなり難しい状況だった。


そこでハンスは僕に提案したのだ。「囮役とお膳立てはこちらでやります。後は煮るなり焼くなり好きにしなさい」と。


彼らは、半ば無理矢理エムスの邸宅に押し入った。特に驚いたのは、あのハンスという男だ。どうやっているのかは分からないけど、凄まじい速さで次々と門を固めていた連中を眠らせていった。

人数が減り、上空を照らしていた光も消えたからこそ、僕は意識を失っていたエムスの背中に短剣を突き立てるだけでよかったのだ。


このまま逃げることをわずかでも考えなかったわけじゃない。ただ、それは不可能だった。彼らは、「逃げた場合はエルさんと僕との関係を公にする」という脅迫をしてきたからだった。



それに何より……僕自身、エムスの殺害で最後だと、元々決めていた。それは、エルさんがあいつに脅されていようがいまいが、関係なく考えていたことだった。



フフフ、とハンスが笑う。ジャニスが静かに告げた。


「最期の別れの時間をあげるわ。私たちはここで待っているから、2人は家に入りなさい。

15分したら、私たちもそっちに行く。それまでは、好きにすればいいわ」



「ヴァラン……」


「瑞樹、でいいよ。僕はヴァランじゃない。エルさんにとっても、でしょ」


しゃくり上げながら、小さくエルさんが頷いた。随分と歳上なのに、彼女は僕の前ではいつでも弱々しく、儚げだった。今もそうだ。


彼女は、僕がヴァランではないことにかなり早いうちから気付いていたはずだ。


ヴァランは、エルさんを疎んでいた。それは彼女を愛していなかったからじゃない。彼女がヴァランに、今は亡き彼の父親――そしてエルさんの兄でもある、ジェインさんの面影を見ていることに気付いてしまったからだ。


彼は、ヴァラン・ピールドとして愛されたいと思っていた。そして男としてではなく、息子として普通に愛されたかった。

だけど、エルさんは「壊れていた」。初めから倫理観がおかしかったのかもしれないけど、増え続ける犯罪の中、厳格で優秀な騎士団長という仮面を付け続けていることで心がさらに摩耗していったんだろう。

そして、ある時から彼女はヴァランに「男」を求めるようになった。誰かに依存していないと、心が耐えきれない。そんな彼女の状況に、ヴァランもまた気付いていた。


今なら、その引き金が何であったか分かる。エムスによる脅迫が始まったからだ。


ヴァランは、そんなエルさんを痛ましく思い、そして徐々に疎ましくすら感じるようになった。

彼の記憶からして、多分彼女をこれ以上壊してはいけないという、ほぼ義務感だけで彼女を抱いていたんだろう。それは、多分彼女にも伝わっていたはずだ。



そして、ヴァランの心も壊れてしまいそうになったある日。

僕は彼に「憑依」したのだった。



「お茶でもいる?」


僕は冷めきっていたポットを手にする。こくん、とエルさんが頷いた。

テーブルに出しっぱなしだったカップに、緑がかったお茶が入る。トンプー茶は冷めても十分美味しい。僕はそれが好きだった。もう飲むのはこれが最後だけど。


「ごめんなさい。……『竹内瑞樹』として、もう少しエルさんの側にいたかった」


「……いいの。1つ、聞いていい?どうしてあなたは、そこまでしてくれたの」


目の前のカップにお茶を注いだ。一口飲んで、僕は口を開く。



「……もう、嫌だったんだ。愛する誰かを守れず、救えないままでいるのが」




僕、竹内瑞樹は埼玉の片田舎で生まれた。父さんは公務員、母さんは専業主婦。5歳離れた妹が1人。どこにでもいる、ごく普通の中流階級だった。

勉強はまあまあできた。そんなに人から極端に好かれも、嫌われもせず、ごく普通に大学に入って大人になる。それで十分だと思っていた。


隣には僕より2歳上の幼馴染、恵美さんが住んでいた。母子家庭で暮らし向きは大変そうだったけど、とても明るくて優しい人だった。黒く長い髪が綺麗で、ひょっとしたらスカウトとかされるんじゃないかと思うぐらいには評判の人だった。

恵美さんは、僕にとって姉みたいなものだった。一人っ子の彼女にとっても、僕は弟のように見えていたと思う。

僕は当然のように彼女に恋をしたけれど、歳下で特段取り柄もない僕じゃ釣り合うはずもない。大人になって綺麗になっていく彼女を見ながら、いつか彼女にも普通の幸せが来るといいなと思うだけだった。



僕らの運命が暗転したのは、僕が17の時だ。

彼女のお母さんが再婚した時から、全てが狂っていった。



恵美さんのお母さんは水商売をやっていた。もちろん、彼女を悪く言うつもりはない。女手一つで子育てをするのはとても難しい。恵美さんも色々バイトをして、何とかやりくりをしていた。

問題は、彼女の再婚相手が……水商売で知り合った暴力団員だったということだ。


ヤクザだというのは、結婚するまで分からなかったと聞いた。そしてその男は、結婚後本性を剥き出しにする。

あいつは多額の借金をしていた。そして、その返済を恵美さんとそのお母さんに強いた。その手段は……身体を売ること。


隣の家に怪しい男たちが出入りするようになって、僕はおかしいと思い始めていた。恵美さんの姿も見なくなった。そして父さんと母さんは、あれほど親しかった恵美さん一家との付き合いをパタっとやめた。

「これ以上お隣と関わるのはやめなさい。何が起きても、もう関係のないことよ」。あれだけ優しい母さんが、死んだ目で言ったのを見て僕は何か大変なことが起きていると悟った。


それでも、僕は真相を知りたいと思った。そしてその日は、それから1ヶ月後にやってきた。


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