1-5


「……さすがに、誰も来てないか」


荒い息を吐きながら安堵した。あの女から逃げ切れたのだ。


まさか、僕の存在に気付く奴がいるなんて思いもしなかった。確かに騎士団も裏ギルドも警戒態勢は強めていた。でも、僕の恩寵――「透き通る空気」の前では無力だと思っていたからだ。

僕が地上ではなく屋根の上で休んでいるという発想は、普通ならまず考えつかない。相手は相当な手練だ。多分、僕を捕らえるために雇われた奴だ。


……ここが限界、なのだろうか。


僕は家の呼び鈴を鳴らした。すぐに長い金髪の女性が現れる。


「……ヴァラン。遅かったわね」


心配しているような、悲しんでいるような表情で母さん……いや、エルさんが出迎えた。


「うん、ただいま。ごめんなさい、夕食のお店が混んでいて」


無言で彼女は僕を家に入れる。いつも、僕は8時前には家に帰る。ただ、今日はあいつに追われたから少し遅れていた。


彼女はリビングにあるテーブルの席に座ると、「お茶を淹れるわね」と小さく告げた。


やはり、いつもと様子が違う。帰宅後にお茶を2人で飲んで、日々のあれこれを語り合うのがこの親子の日常だ。ただ、これほど暗い表情のエルさんを、僕は見たことがない。


トンプー茶をカップに注ぐと、彼女は切り出した。


「ヴァラン、本当はどこに行っていたの」


……こっちも遂に来たか。僕は唾を飲んだ。


薄々、気付かれているとは知っていた。僕がヴァランではないことも、そして僕が犯罪者を殺して回っていることも。

ずっとこのままやっていけるわけじゃないことは、僕自身がよく知っていた。そして、近いうちに終わりが来るだろうことも分かっていた。


ならば誤魔化すのは無駄だ。僕は彼女の目を見た。


「……母さん、全部知っているんだよね」


一瞬驚いた様子を見せて、エルさんは目を伏せた。


「認める、のね」


「うん。僕はヴァラン・ピールドじゃない。そして、フィラデリアを騒がせている『見えざる刃』も僕だ。

でも、母さんは今日までそれを止めなかった。それは、母さんの望みでもあったから」


「違うっ!!」


エルさんが顔を真赤にして立ち上がった。僕は首を横に振る。


「いや、違わない。母さんの望みが何かは、『僕』がよく知っている。

自分を疎まず、フリではなく本当に愛してくれる息子。そして、フィラデリアの安寧。

それは本物のヴァランじゃ、決して与えてあげることはできない。僕だからこそ、あなたに与えてあげられるんだ。それを分かってたから、今まで母さんは黙ってた」


「ヴァランの声で、言わないで頂戴っ……!」


涙を流しながら、力なく彼女は座る。


そう。本物のヴァランは、エル・ピールドを疎んでいた。いや、憎んでいたとすら言っていい。


ヴァランの記憶から、エルさんがなぜ彼に異常なほどの愛情を向けているかは知っていた。今はどこにいるのかすら分からない、ヴァランの父親の面影をエルさんが彼に見ているからだ。

ヴァランはそのことを知っていた。そして、父親の代わりとして自分をありとあらゆる意味で拘束するエルさんに、憎しみを向け始めていた。それは、彼女も気付いていたはずだ。

それでも彼が彼女に刃向かえなかったのは、彼にそれだけの力と勇気がなかったからだ。彼女の庇護がなければ、ヴァラン・ピールドはただの童顔で非力な18歳の騎士見習いに過ぎないのだ。



そんな日々に絶望するヴァランに、僕――竹内瑞樹は「憑依」した。

そして……僕はこの哀れな中年女性に、一目で恋に落ちてしまったのだ。



彼女は、38とは思えないほど若々しく、美しかった。そして、僕が「前世」で得られなかった愛情を、「ヴァラン」に注いでくれる女性でもあった。


彼女のためなら、僕は神にでも悪魔にでもなる。そして、それだけの力を僕は持っている。

だからこそ、エルさんの望みを叶えるために……僕は「見えざる刃」ヴァラン・ピールドとして生きると決めたのだ。



僕は彼女の肩に手を置いた。


「大丈夫。どんなことがあっても、僕は母さんの味方だから。何か起きても、僕が母さんを護る」


エルさんは力なく、僕の手を振り払おうとする。


「もう、無理なのよ……貴方は、結局ヴァランじゃない。それに、貴方はやりすぎてしまった」


「……というと」


「ホード商会の首領、ダグラム・ホードが殺されたと連絡があったわ。あれも、貴方がやったのでしょう?」


「それのどこが悪いの??あいつは、麻薬でこの街を汚していた。騎士団が捕まえ処刑すべき、最大の相手の一人じゃないかっ」


「……ホード商会は、今血眼になって犯人を探してる。『フィラデリアの黒曜石』の手によるものじゃないかとも疑ってるらしいわ。正面衝突ということになれば、この街全体が戦場になってしまう」


それは想定通りだ。だから、僕の次の……そして最後のターゲットは決まっている。「賭博王」ハーディ・エムス。もう一つの闇ギルドの長であり、この街に巣食う最大の害悪だ。


「大丈夫、それもすぐに終わるよ」


僕はエルさんを抱き寄せようとした。思いもかけず、強い抵抗に遭う。


「……無理よ。なぜなら……」


「『見えざる刃』が僕だとは、誰も気付かないよ。あの現場に残しているカードだって、母さんが『鑑定』結果を偽造したじゃないか。あれは本当なら、騎士団詰所にあるインクで書かれたものだと分かっていた。

母さんが自分の手で『鑑定魔法』を使い、出所不明ということにした。あなたも共犯なんだ」


「ええ……でも、もうそういう状況じゃないのよ」


リンリン、と呼び鈴が鳴った。僕は咄嗟に奥の寝室に移動する。何か、嫌な予感がした。


「エル、いるか」


中年ぐらいの男の声が聞こえた。誰だろう。


「……ええ」


「そこにお前の倅がいるはずだ。身柄を引き渡せ」


騎士団の誰かだろうか?いや、そんなはずはない。だとしたら、これは誰だ。


「ヴァランは、まだ帰ってきていないわ」


「しらを切るなよ。あいつが戻るとしたら、ここしかねえんだ」


ズカズカと男が入ってきた。禿頭と髭の男だ。僕は「透き通った空気」を使い、身を潜める。2分ぐらいは、このままやり過ごせる。

僕のいる寝室にも入ってきた。殺るか?……いや、ここで殺せばエルさんが真っ先に疑われる。それはできない選択だ。


しばらく寝室に滞在した後、その男は玄関の方に戻っていった。


「マジでいねえのか。お前の顔には、ここにいると書いてあるが」


「いないものはいないわ。……ジャニス・ワイズマンに、引き渡すの?それとも、ホード商会?」


「前者だ。ヴァランが『浄化』されない限り、俺の命は常に危険にさらされてるわけだからな。ダグラムが死んだことでホード商会とは戦争になるが、勝てば問題はねえ」


会話の内容から、この男が「フィラデリアの黒曜石」の一員だということは分かった。まさか、ハーディ・エムスか。

エルさんがこの男と手を結びたがっていたのは知っていた。止まらない治安の悪化に苦しんでいた騎士団としては苦渋の策だけど、「ヴァラン」がエルさんを嫌悪していたのは、これも一つの理由だった。


彼は正義感が強い男だった。「悪」と手を結ばねば街の平穏は得られない。その現実にも絶望していた。

だから、僕が彼の望みを代行していたのだ。「フィラデリアの見えざる刃」の存在は、裏社会の人間に恐怖を、そして無辜の民には「悪は必ず滅される」という安心感を与える。

裏ギルドの大物2人の死を以って、どちらにせよ暗殺は一時休むつもりだった。それで僕の目的は、ある程度達成される。


そして、僕のすぐ近くにエムスがいる。彼がここを去ったら、跡を付けて殺そう。あとは、多分何とかなる……



ちょっと待った。さっきエムスは「ジャニス・ワイズマン」と言わなかったか?



血の気が一気に引いた。騎士団にいる人間なら、彼女の名前は一度は耳にしたことがある。

レヴリア最高の、いや世界最高の「祓い手」。法外な料金と引き換えに、どんな転生者も祓うという女。

そいつに、エムスは僕の「浄化」を依頼している。さっき追ってきたあの女が、それかっ!?


玄関での会話は、まだ続いている。


「沢山の人が死ぬわよ」


「俺や部下たちの命も脅かされてるんだ。それに、『浄化』された方がお前にもいいだろう?お前があいつを溺愛しているのは知ってる。だから、『浄化』依頼をジャニスにした。本物のヴァランを取り戻すためにな」


僕の体温が下がった。やはり、エルさんは僕を必要としていないのか。いいように使われたのは、僕の方だったのか?


「……分からない。今でも、そのままの方がいいのか、悩んでる」


「呆れるな、腰を振ってくれるなら偽者でもいいわけか?それに、転生者を匿った人間は死罪だぜ?」


「……とにかく、貴方たちにヴァランは引き渡さない。私たちのことは、私たちが決める」


ククッという笑いが聞こえた。


「そんな悠長なことを言っていられる場合か?ヴァランの父親が誰か世間に知られたら、どっちにしろお前には破滅しかねえ。そして、『本物』のヴァランがそれを知ったらどうするだろうなあ?

お前の生殺与奪の権利は、俺たちが握っている。ヴァランが生きている限り、お前は俺には一生逆らえねえんだよ」


ヴァランの父親??どういうことだ。ヴァランの記憶には、父親が誰かという情報はない。

エルさんがそこまで隠さねばならない話なのか。


……とにかく、もう余裕はほとんどなさそうだ。できるだけ早く、全ての計画を完遂する。そう心に決めた。

そして、エムスを殺したらエルさんを連れて夜中にでもこの街を出ていこう。行く先は……転生者に寛容な、セルフォニアか。辿り着けるかは分からないけど、この「透き通った空気」は無敵の能力だ。どんな追っ手が来ても、これを使えば撃退できる。


エルさんが求めているのが本物の「ヴァラン」であっても構わない。僕が代わりになれなくてもいい。

だけど、彼女を愛してあげられるのは彼じゃない。僕だ。返される愛がなくとも、僕にとってはそれで十分だ。


再び、エムスが嗤った。


「まあとにかく、いい加減覚悟は決めておけよ?ヴァランをどこに匿っているかは知らんがな」


やっと帰るのか。まあいい。しばらくしたら「透き通った空気」を使い、エムスを刺してやる。

たとえあいつが馬車を使ってここに来ていたとしても問題はない。気体になることで、僕は相当に速く移動できる。追いつくことなんて、造作もない。


ドアが閉まる音がした。僕は恩寵を発動させ……



身体が、気体にならない??



これは、どういうことなんだ。



再び、呼び鈴が鳴る。低い男の声がした。



「ヴァラン・ピールド君が、ここにいらっしゃいますね?」



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