芥火古書店怪奇譚

灰汁須玉響 健午

第1話


「それはきっと、マッチ箱のようなものね」

 美々丘(みみおか) リは、その狂ったように美しい顔で、ため息混じりに呟いた。大きく整った瞳を、マッチ棒が余裕で五本は乗るほどの長い睫毛ごと憂い気に伏せて、絶妙に頬杖なんぞをつきながらこぼすのだ。

「マッチ箱?」

 僕が聞き返すと、つまらなそうにこちらを向いて、

「そう。マッチの箱。細くて短い木の棒の先に塩素酸カリウム、硫黄、膠、ガラス粉、松脂、珪藻土等を塗りつけて、それを箱の側面の赤リン、硫化アンチモン、塩化ビニルエマルジョンを合成したものにすり合わせることで発火する着火装置のことよ」

「あ、いや、さすがにマッチがどういうものかは知ってるから」

 僕が言うと、彼女は「あら、そう」と言って、また目を伏せた。確かに、彼女からすれば、僕の頭脳なんてものはゴミみたいなものかもしれないが、マッチが分からないほどバカではない。というか、どんだけバカだと思われているんだ?

「だから、そうじゃなくて、なぜマッチ箱?」

「ああ、そうね、式守狗狛(しきもりいこま)君、あなた、新品のマッチ箱そのものに火をつけて一気に燃やしたことはあるかしら?」

 視線だけを僕のほうに向けて、彼女は実に退屈そうに言った。

「中身の入ったままか? それはないな」

 いや、なかなか無いだろう。そんな無意味で勿体無く、かつ物騒なこと。

「あら、つまらない人生ね。マッチを使ったことがあるのに、マッチ一箱全部が燃えた時の熱量や燃え方に興味を抱かないなんて、なんて想像力が乏しく退廃的なのかしら」

 実に詰まらなそうに、まるで虫でも見るかのような目で僕を見ると、美々丘リはそう言い放った。

 いやいや、マッチを箱ごと燃やしたことがないという常識的なことを言っただけで、なぜここまで罵倒されなければならないのか。

「まあ、いいわ。そんな哀れな式守君にこの私が。あえて実際に検証するという手間を省き、結果だけ教えてあげるわ」

 哀れなのか、僕は。

「すまないね。是非教えてくれ」

 色々な感情をグッと堪えてそう返すと、彼女は三秒ほどゆっくりと溜めてから、

「すごく、燃えるわ」と言った。

「は?」

「それはもう、一瞬火事になるのではないかというありもしない心配が頭を過ぎってしまうほどにすごい火力で燃えるのよ。当時私は十歳だったけれど、なかなかの危機感を覚えたわ。今となっては良い思い出よ」

 小学三年生にして随分と危ない遊びをしていたもんだな。

「というように、つまりは、とても強い火力になるのよ」

「ほう。それで?」

「それで? じゃなくて、考えても御覧なさい。そもそもあなたは、たった一本のマッチにビクビクと恐怖しながら、それを点火させるかしら?」

「いや、別にそんなには警戒しないな」

「じゃあ、マッチ箱を持ち歩くとして、まるで爆弾を運ぶように慎重になるかしら?」

 僕はそれにも首を横に振る。

「じゃあ、マッチ箱が何らかの拍子で着火してしまって、一気に一箱燃える、という事態が、あなたのポケットの中で起きたらどう?」

 奇麗で澄んだ、しかし、どこか寂れて冷たい瞳を、意地悪そうに歪めながら彼女は言う。

「それは、大惨事だな。やけどもするだろうし、色々運が悪けりゃ焼死する可能性もある」

 僕が答えると、彼女は満足そうにニンマリと微笑む。

「では、式守君。話はまた戻ってしまうけれど。だからと言って、あなたはマッチ箱を持ち歩くのに、防火素材のケースに入れるなどの最善の注意をはらうか、と聞かれれば、きっと答えはノー。よね?」

 なるほど、確かにそうかもしれない。

 きっと誰だってそうだろう。最悪の事態を考えれば、マッチ箱一つでも大火事になる。まさに「マッチ一本火事の元」だ。しかし、僕らはそんなマッチ箱を丁重には扱わない。

「ほら、ね」

 多分、僕は何か納得のいったような表情をしたのだろう。それを見た彼女は、大きく深く頷いて、僕を真っ直ぐに見た。

「重大に扱うのはバカバカしいが、重大に扱わねば危険である、と」

 僕はその直射日光並の破壊力がある魅力的な視線を、なんとか受け止め、耐える。彼女をいつも見慣れている僕でさえ、こうしてたまに向けられる、真っ直ぐで澄んだ視線はかなり危険である。それはもう綺麗で美人で、可愛くて愛くるしくて、妖艶で怪しくて、見られているこっちがなんだか恥ずかしくなってしまう。

「まあ、今のは文豪芥川が『人生』というものを端的に表した時の名言なのだけれどもね」

「受け売りかよ!」

「でも、今回のは、きっとそういうことよ」

 彼女の視線が三度伏せられ、鋭くなる。

 いうとおりかもしれない。

 今回の案件は、きっとそういうことだ。


 事件は一人の少女が姿を消した、といういかにもミステリーやらSFやら、ホラー小説なんかにはありがちな、手始めにその話をやってこの小説の登場人物像、世界観を分かりやすく説明しながら読者の心を掴むのに持って来い、のお手軽案件のような話だが、本当に起きてしまったことなので、仕方がない。

 柴田佳奈美。

 それが、居なくなった少女の名前だ。

 失踪は一ヶ月前。彼女はその日、普通に学校に登校し、普通に全授業を終え、放課後友達と教室に残って駄弁っていたらしい。なんてことはない日常を過ごした彼女は、その直後に姿を消している。その日駄弁っていた友達は三人。一人は校門で別れ、二人は駅の近くまで。いつも通りの分かれ道、「また明日」、「バイバイ」なんて普段となんら変わらない挨拶まで、特筆すべきことはないように思われた。しかし、だ。彼女は家までの百メートル、ゆっくりと歩いても一分かかるかどうかの距離で、突然居なくなったのだ。

 捜索願は出され、警察も動いているらしいが、どうにもこうにも見つからない。誘拐、通り魔、家出、色々な方面から調べても、まったく持って解決しない。

 解決しない事件は、迷宮入りとなる。

 だが、それは通常の話。

 この町で起きる原因不明の不可解な事件は、一通り捜査を行った後、商店街を抜けた先の、静かな丘の上に建つ小さな古書店の主に預けられるのだ。

『芥火古書店』と書かれた洋風の建物は、どこか奇妙に古びていて気味が悪い。しかし、この建物こそ、常識から外れてしまった事件を扱う『おさめ屋』の事務所なのである。

このおさめ屋が何をする仕事かというと、表向きは古書店なので、基本的にはこの古本店で古書の売買と管理。しかし本当の仕事は、怪奇的、超常的なものが絡んでいる事件の解決、もしくは解決への手助けである。低級オカルトから、本格的な呪いの類まで、何でも扱うというのだから、危険奇妙極まりない。

ああ、さっきから気になっている人もいるかもしれないので言っておくが、美々丘リは、『美々丘』が苗字で、『みみおか』と読み、『リ』は名前でそのまま『り』と読む。元々は恋(れん)璃(り)という名前だったのだが、ある事件に巻き込まれて名前を失ったのだ。『璃』だけ残してもなにか寸足らずなので、カタカナ表記で『リ』にしたのだそうだ。

なぜそうなったのか、と言う話はまだ別の機会にするとして、今回はこの人間消失の案件である。因みに僕は、彼女のことを『ヒメ』と呼んでいる。それは、彼女が名前を奪われる前からそう呼んでいる呼び方だ。

「人間消失にはいくつかあるけれど、それを挙げられて? 式守君?」

 ヒメは優雅に紅茶をかき混ぜながらそう問う。

「専門じゃないから詳しくは知らないけど、まず現実界において処理されるケースと、異界に行ってしまう、もしくは連れ去られてしまうケースの二つがある。前者の呼び名は原因によって様々だが、後者はほぼ統一して神隠しと呼ばれる」

 僕は答えた。

「そのとおりね。前者は人体発火による炭化や食人を糧とする魔物による捕食などが主な原因。後者はちょっと誘って遊び相手をさせて帰す悪戯レベルのものから、そのまま永遠に異界に取り込んでしまう悪質なものまで色々ね。返すパターンは稀だけど」

 小さな口でコクりと紅茶を一口飲む。そして、

「この紅茶、まあまあね」

 と言った。

「そりゃどうも」

 僕は言って、軽く会釈をしてみせる。紅茶を入れたのは僕で、彼女の「まあまあ」はかなり評価の高いほうである。

「でも、今回のこれは、根本的に違う気がするわ。恐らくよ? あくまでこれは私の勘とすら言えることだけれども、この事件、失踪そのものは私たちの扱う類のものではないと思っているわ」

 ヒメはやはり静かに淡々と、無感情とさえ言える口調で、つぶやき始める。

「失踪は、結果であって、手段でも目的でもない。となると、失踪しなくては行けない状況になった。もしくは今回の『何か』がおきたことで、自ら姿を消す意思を持つに至った、ということね」

「ヒメ、その仮説、あまりに勘の要素が大きすぎる。ミスリードの可能性はないのか?」

 僕は進言する。

 すると、ヒメは宙を見つめて考えたあと、

「大丈夫よ。この仮説を口にしてみて、違和感がないわ。それは真実に近づいている証拠。それに、私は思い込みを極力しないから、平気」

 冷静に述べた。

 僕はそれに頷き、次の言葉をまつ。

 これでいいのだ。僕の役割の一つに、意見を述べることというものがあるが、それは、自分の意思を通すためのものではない。僕が彼女に進言するのは、普通の人間は、こんなふうな考え方をしますよ、というガイドラインを提示するためだ。情報の一つ、もしくは一部として処理されること目的である。

 美々丘 リは、超常的で、非常識で、平均から逸脱した存在である。恐ろしい量の情報と知識、思考と回転力、そして特異な力。彼女はそれらを駆使してこの「おさめ屋」に依頼される事件の解明を行う訳だが、当然彼女は万能ではないし、全能でもない。というのも、彼女は逸脱しすぎていて、普通とか、一般的に、といった感覚が無いに等しい。そして時に、その普通の感覚が謎解きに必要だったりすることも多い。そこで、僕の出番だ。常にそばに居て、普通のことを普通の感覚で普通に口にする。そうすることで、奇抜と奇異と特殊に偏りすぎて暴走することを止めるのだ。

「引っかかるわね。彼女たちが何をしていたのか」

「いつ?」

「失踪した日の放課後よ」

「話によると、駄弁っていたんだろ? 普通におしゃべりしていたって話だ」

 僕が言うと、ヒメはまた黙り込む。何もない空気を見ているような、遠くを見る瞳は、幻想的であると同時に、得体の知れないものを見ているような気がして、気味の悪さすら感じる時がある。

「柴田佳奈美の行動記録は、一ヶ月前まで遡って調べたのよね?」

「ああ。警察の情報と、僕自身が調べた情報に誤差はないから、信憑性はあると思うよ」

 情報収集も僕の仕事の一つだ。これも、警察と同じ。なるべく主観を入れずに淡々と情報だけを集める。本当にあったであろう事実を、なるべく信憑性の高い形でヒメに渡すのだ。今回もそうだ。柴田佳奈美の行動に怪しいところはない。少しオカルトマニアなところは否めないが、それも全くもって常識の範囲内だ。

「しかし、霊痕はある」

「そう、だから、この案件は僕たちのところに来た」

 霊痕とは、幽霊や妖怪や魔物やそれに伴う、霊力や魔力や妖力などの超常的な現象の名残で、その道の者のみが感じ取れる足跡のようなものだ。

「そうね。そう……」

 ヒメはそう呟くが、恐らくもう僕の声はほとんど聞こえていないだろう。すぅっと数メートル先を見て、焦点を合わさず、どこか違う場所を見つめ続ける。この状態になると、しばらく彼女の耳には何も入って行かない。耳だけじゃない。目も口も、感覚全てが虚ろになる。思考の羅列を組み合わせ、分解し、また組み合わせる、という作業を何十、何百回と繰り返しているのだ。

「女子中学生、大人しめの子、仲良しは三人、放課後、噂、オカルト……占い? 失踪、霊痕、起きない第二の霊害……」

 彼女がこぼすワードを僕は逃さずノートに書き記す。

 ヒメの思考から漏れる呟きは、上手くつなげるとそれだけで答えになることも多い。

「なるほど」

 ヒメの目がこちらの世界に戻ってきた。

「わかったのか?」

「ええ、もちろんよ。むしろ、一番最初に気付くべきことだったわ」

「ええ。では、式守くん。油揚げを二千円分買って来てくれるかしら? 話はそれからよ」

 恐らく、完璧な微笑みという物があるなら、こういう表情をいうのだろう。そんな顔でヒメは言い放った。



 全くもって、困ったものだ。

 ここは失踪した柴田佳奈美の通う高校の、彼女の在籍していたクラスの教室。時間は放課後の午後五時半。

 目の前には、毛に覆われた尖った耳と、二つ尻尾の生えた人間。半人半妖と呼ぶに相応しい異形な姿をしている。およそ柴田佳奈美の面影を本当にかろうじて残しているものの、目は赤く光って釣り上がり、口と鼻は、人間の顔の構造というには、些か奇妙な形で前方に尖るように伸びている。爪は鋭く伸びて、手の甲にも、そして破れた衣服から覗く体のいたるところにも、犬や猫のような体毛が生えている。何より特徴的なのは、四つん這いのスタイルだ。そんな奇妙で珍妙で不気味すぎる外見へと成り果ててしまった柴田佳奈美は、一言で表して、一つの動物に似ていた。

 『狐』だ。

そして、そんな狐化した柴田佳奈美は、臨戦態勢をとって僕とヒメ睨みつけ、僕の数メートル後ろには、壁がある。もはや『彼女』と呼べるかどうかは定かではないが、それとの距離は八メートルほど。周囲には、机と椅子が通常の教室にある数位はしっかりと並んでいるので、自由に身動きが取れるとも言いづらい。

 おまけに僕は丸腰。

 ピンチだ。なかなか概ね、超ド級の窮地と言って差し支えない。普通なら、ではあるが。

 この状況に陥るに至る説明をするには、時計の針を、三時間ほど戻さねばなるまい。

午後二時半、柴田佳奈美の通っていた学校の教室に僕とヒメはいた。白い紙と硯と筆、使い古しの十円玉と大量の油揚げ。

 ヒメは慣れた手つきで五十音と『はい』、『いいえ』、一から十までの数字、紙の中央上に鳥居を筆で書く。

「ヒメ、これって」

「そうよ。見ての通り、『こっくりさん』ね。彼女たちは……いいえ、『彼女』はあの日、放課後の教室に残って、こっくりさんをやっていたの。恐らく、柴田佳奈美一人で……ね。情報によると、他の二人は、委員会と職員室に行っていたようだし、それを待っている間に、行ったのでしょうね」

 なるほど。それなら辻褄はあう。

「でも、こっくりさんとか、キューピットさんとかって心理的なもので本当の降霊術ではないんだろう?」

 僕が言うと、ヒメはいつもの冷ややかな目でこちらを見たあと、小さく鼻で笑った。

「もちろん基本的には嘘っぱちよ。いいえ、正確には九十九%偽物ね」

「ってことは、残りの一%は?」

「正式な降霊術。しかも、色々な契約や条件をすっ飛ばして行われる、上位の強制召喚」

 呆れたような口調で言うヒメ。

 いや、待てよ? 今なんて言った?

「上位の強制召喚といったのよ」

「それって、何十年単位で山に籠もった修験者や、半世紀以上仏道や神道、魔導に従事した人間がようやく出来る芸当なんじゃ……」

「その通りよ」

 ズバッと言い放つのは構わないが、色々矛盾だらけではないのか。

 そのままの意味なら、女子中学生がこっくりさんをやっていたら、うっかり常人ではどう頑張っても出来ないはずの上位の強制召喚をやってのけたことになる。

 そんなバカな。

 こんなことはまかり通るのは、三流以下のSF小説くらいものだ。

「式守君。あなたは本当に、清々しいくらいに愚かね。そんな愚かなあなたの為に、私が説明してあげるわ」

 それはありがたいな。

「元来、神様とはどういうものか、知ってる?」

「神?」

「そうよ」

「どういうものか、か……。そうだな、人の願いから生まれた幻想……」

 僕が答えると、ヒメは目を見開いて、驚いたような顔をしてこちらを見ていた。

「驚いたわ。ほぼ正解よ。ごめんなさいね。私、あなたはもっとゴミみたいな回答をしてくるかと思っていたものだから」

 中々に酷い言われようだが、とりあえず話を進めてもらおうか。

「神は基本的に、世界の創造など『神ありき』で語られることが多いけど、当然の如く実際はその逆なの」

「人が神を作る、か」

「そういうこと。人間は弱いから、その弱さを補ったり、時に払拭したりする為に、自分ではない何かに想いを託す。それが神の始まりよ」

 確かに、人の思いが神を作り、神を信仰することで、初めて神は『存在できる』のだ。ということは、つまり人が願い、思い描くことさえ出来れば、神は現れる、と。

「そうか」

「分かった様ね?」

「でも、そんなこと……」

「あり得るのよ」

 ヒメは、表情を崩すことなく、淡々と語る。

「神が願いから生まれるなら、願えばどこにでも神は生まれる。そして、神になりきれないものが、妖怪や怪異やその他の奇怪な現象を司るとしたら」

 なるほど。万能の知識と先見を成す上位の妖狐を呼び出すことも、また不可能ではない。

「もちろん、いくら強い願いがあったとしても、女子中学生の想いが大権現を呼ぶことなど有り得ないわ」

「そう、だよな」

 大権現の『権現』とは、神や上位存在が、何かの姿で顕現すること。

 つまり、大権現とは上位存在が仮の姿で顕現したということになる。もちろん、それが善神である保証などはなく、霊的に上位であるもの全般を指すこともある。

「そこで、呪文よ。『本物の呪文』というものは、決して日常では口にしない、思いつかない、出鱈目な羅列から意味を形成していったものになる。それに至るには、『知ってるか知らないか』しかないの。だから……」

 つまりは、教えたやつがいるってことか。

「……あら、こっくりさんを始めるまでもなかったようね」

 十円に指をかざしていたヒメが、そんな風に言った。

 途端に、半開きになっていた教室のドアから、一人の女子生徒が入ってくる。

 制服は来ているものの、薄汚れてボロボロで、髪も乱れていた。

「柴田佳奈美……なのか」

 僕は半信半疑にそう呟く。

「随分と短期間で出来上がったものね。 誰がどう、『囁いた』のかしら?」

 ヒメが言うと、教室の前と後ろのドアが、勢い良く閉まった。

直後、柴田佳奈美らしき人物は上を向いて、遠吠えのような甲高い声を上げた。

「うぉぉぉぉぉぉぉん」

それは、『狐』の遠吠えであった。

僕は、ヒメの腕をつかんで、一目散に柴田が入ってきたのとは、別のドアへと向かう。しかし、力いっぱい開けようとしても、ドアは固定されたように動かない。

「無駄よ。すでにここは……いいえ、もしかしたら、彼女たちがこっくりさんをしたあの日から、特殊な結界で覆われているのだから」

「逃げられないってことか?」

「そういうことになるわね」

「何を呑気な……!!」

 先ほど遠吠えを上げていた『元』柴田は、地面をとんっ、と蹴り、教室の教壇の上に飛び乗った。犬の『お座り』の形で、こちらを見つめながら片手で顔をごしごしと洗っている。そして、驚くことにみるみるうちに、その形が変容していったのだ。

 耳は伸び、体表は毛におおわれ、爪と牙が発達し、二本の尻尾が現れる。見事に半獣化した、狐人間の出来上がりだ。

「式守君、わかっているとは思うけど、彼女にとりついているのは、大権現よ。位の高い妖狐。並みの術式も退魔符も効かないわ」

 僕はポケットから出そうとしていた退魔符を握りしめながら、ため息をつく。

「やっぱり、効かないか。この妖力値からしてそんな気はしていたけど……」

「……これは、少し強引にでも取り出すしかないわね」

「それって、僕がやるんだよな?」

「あなた以外に、誰がやるの? あなたは、私を守る狛犬でしょう?」

「そうでした」

 そう、僕は人間であって、人間ではない。

 かつて美々丘恋璃に救われ、彼女を救えなかった愚かな人間。今は、その身に妖を宿し、狛犬として、彼女を守り、彼女と主に存在する半妖。

「悪いな、お狐様。あんたがどれほど高貴な妖霊かは知らないが、ここは人間の世界。実態を持たない者が、のさばっちゃいけないんだ」

 僕は教壇の上で臨戦態勢になる柴田狐に、まっすぐ手をかざす。

 僕が率先して人外の力を使わない理由はただ一つ。

 僕の中にある狛犬の力は、大抵の場合において、圧倒的であるからだった。

 もともとは御神体と、聖域たる神社を守る力。その力は、有無を言わさずに敵とみなしたものを焼き尽くしてしまう。

「浄化の火」

 僕の手から、ものすごい速度で炎が噴き出す。そしてその炎は、一直線に柴田狐に向かっていく。

 狐も危機を感じたのか、炎を避けようと飛びあがるが――

「残念ね。あらかじめ、天井より低い所で、物理的な結界を張っておいたわ。相手が狐なら、きっと高く飛ぶと思ってね」

 ヒメが言う通りに、飛び上がった妖狐は、透明な何かにぶつかる様にして、落下し、そのまま僕の放った炎に包まれた。

「うぉぉぉぉんっ! うぉぉぉぉぉんっ!」

 苦しむような声をあげて、もだえ苦しむ。

「その炎は、現実世界のものには影響しない……つまり、そのまま焼いても、消し炭になるのは、あんただけだよ、お狐様」

 そういうと、柴田佳奈美から黒い靄が影のように飛び出した。

 そして、先ほどヒメが用意していた『こっくりさん』の紙の中へと入っていった。おそらく紙の鳥居を通じて、向こうの世界へ帰ったのだろう。

 ヒメはすぐさまその紙まではしり、数回破く。

「うまくいったわね、あとは、これを焼却炉で燃やせば、一見落着ね」

「いや待て、彼女の為に、救急車は呼んだ方がよくないか?」

「そうね。ついでに警察も。依頼完了の報告もしないとけないしね」

 ヒメは言うと、少しだけけだるそうにスマホを取り出し、電話をかけたのだった――。

 


 柴田佳奈美は、しばらく入院が必要とされたが、一応命に別状はなかった。ただ、上位の動物霊に長い時間とりつかれていたことで、人間としてのパーソナリティに欠落が残る後遺症があるかもしれない。それがどんな形で発症するかは、未知数すぎてわからない。

「深い憎しみや、恨みがあった訳ではない。彼女たちのこっくりさんだって、別にそれほど真剣なものではなかったはずよ」

 芥火書店の事務所で、いつものように紅茶を飲みながら、ヒメは語る。

「別に特別なことなんて、なにもなかったってことだよな」

「ええ、そうよ。それこそ、本当にマッチを擦ったようなもの。だけど、それが、うっかりと床に置いて、あるいはカーテンに飛び火して、大火事になった」

 小さくため息をついて、ヒメは僕を見た。

「占いも、まじないも、呪いも、交霊術も、どれも基本的には危険はないけど、一線を越えた瞬間にそれまでとは別次元で危険なものになる。タイミングが悪ければ、今回のようになることだって、珍しくない。でも……」

 ヒメの目から、すうっと感情が消える。

「『本物の呪文』へと導いた存在は、確実にいるわ。それが誰なのかは分からないけど……そこには、明確な混乱へと誘う意思がある。それだけは、軽視できないわね」

 そうだ。今回の件、ただ一つだけ不可解なのは、『こっくりさん』を行う上で、大権現へと通じる呪文を、柴田佳奈美が知っていた理由だ。

 それさえなければ、もう少し事態は異なっていたことだろう。

「まぁ、それは追々、調べることにしましょう。その先には、私の名前を奪った存在がいるかもしれないし……」

 ヒメの名前を取り戻す。

 それも、彼女の僕が、この古書店で働く理由でもある。

 この町で起こるあらゆる怪奇、超常の現象を辿っていけば、いずれはその存在へと辿りつくことができる。

 そんなことを考えて、ふと、あることを思い出す。

「ヒメ、そういえば、あの大量の油揚げ、意味はあったのか?」

「式守君は、あいも変わらず、愚かね、知らないの? 狐は油揚げが好きなのよ」

「いや、それはなんとなくは知ってるけど、あれだけ買っていっても何の役にも立たなかっただろ?」

「そうねぇ……交渉に使えると思ったのだけどその暇もなかったわね」

「食べ物で買収するつもりだったのか? お狐様を?」

「バカね。動物にとって、食べ物の優先度は人間以上に高いのよ? 好物ともなれば、あっさり体から離れるかもしれないじゃない?」

 ヒメは堂々と、自信満々に言い放った。

「式守君、どうして狐が油揚げが好きか、知ってる?」

「いや……」

「人間の瘡蓋に食感が似ているらしいのよ。だからね、昔は全身やけどや傷を負った人が出ると、その治り際には、看病する人間が、狐が化けた者ではないか、慎重に見極めていたという話があるわ。瘡蓋を食べに人に化けてやってくるらしいのよ、狐が」

「え? それじゃあ、狐は、もともと人間の瘡蓋を食べるのが好きってことか?」

「油揚げが先か、瘡蓋が先かはわからないけど、文明的なことを考えると、瘡蓋が先……かもしれないわね」

 涼しい顔で言うヒメ。

「うわぁ……それは、ぞっとしない話だ」

 僕は眉をひそめて、ため息を吐いた。


  了





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