第38話
眠り姫は口づけで目を覚ました。
「うう……」
その唇の感触はひやりと冷たかった。両手をきちんとお腹の前で組みながら仰向けで目を瞑っていたコリンヌは上体をゆっくりと起こし、未だ心地よい夢の世界にいるかのように気持ちよさそうに体を伸ばした。低血圧のコリンヌが毎朝悩まされる寝起き直後の倦怠感もこの時は微塵もなく、この上なく清々しい気分だった。気のせいか、可愛らしい足音が遠ざかっていくかのような音が聞こえる。
「なによ、せっかく気持ちよく眠っていたのに……」
木漏れ日が薄っすらと差し込むその部屋は、レンガと木で作られた素朴な造りだっだ。初めて見る場所のはずなのに妙な懐かしさを感じた彼女は、不思議そうに辺りを見渡した。
「農夫の家かしら?馬丁や羊飼いの宿舎?ううん、昔に訪れたことがあるような……」
所々にヒビの入った土色の壁。その壁に備え付けられた簡素なデザインの木製ラック。むき出しの大きくて立派な梁。どれもこれも年季が入っているようだ。その部屋は、アポリネール一家が毎年夏休みに決まって出掛ける、シャルダン地方の高原放牧地にある別荘のような素朴な温かみがあった。コリンヌは親しみを感じながらしばらく辺りを見回した後、ようやく自分が置かれている状況に考えを巡らせた。
「そういえば私、先まで皆とフィオーネの壁画の前にいたんだわ。ジュリアン?マチアス?ポレット?どこにいるの!?」
何の反応もない。彼女の叫びは部屋中に虚しく響くだけであった。外からは、鳥の囀りやヤギのメェ~という牧歌的な鳴き声がただただ聞こえてくるばかりである。
「みんなどこに行ったのかしら?」
彼女はベッドから起き上がり、素足のまま窓のはめ込まれた壁まで歩いて行った。そして窓から外を覗いた彼女は、そこがアポリネール家の別荘でないことを悟った。あるはずのない湖が遠くに見えたからだ。すぐ近くでは、粗末な木製の柵の中で数頭のヤギがのんびりと草を食んでいた。
「ここはどこ?なぜ私はここにいるの?」
コリンヌが改めて部屋を見回すと、重々しい石の扉が部屋の裏手にあった。
「何かしら、随分目立つ扉ねえ」
ペリエ遺跡の第一ルートに通じる石扉にデザインがよく似たそれは、部屋のインテリアにあまりに不釣り合いで嫌でも目立った。コリンヌは気になって仕方なくなり、石扉の前に立ちあらん限りの力を出して押してみたが、予想通りビクともしない。
「やっぱり無理よね。他の出口を探すしかなさそう」
彼女は石扉を諦めて、今度は反対側の、玄関口にある木製の扉に目を向けた。すると、その窓もはめ込まれていない簡素な造りの木扉の前に一つの大きな物陰が見えた。布に覆われたモップのようなその物体は、しかし一瞬だけ動いたようだ。彼女はその物体に改めて目を凝らした。
「人の……子……?」
その子供はゆっくりとコリンヌの方を向き、少し不安そうなオッドアイの瞳で彼女の瞳を見つめ返した。コリンヌの眠っていた記憶がゆっくりと呼び起こされてゆく。
(そうだ、この子はフィオーネの壁画の前で会った子だわ。ポレットが言っていた幽霊の子……私に抱き着いてきて、それで……その後どうなったんだっけ?)
「あなたがキスをして起こしてくれたの?」
「…………」
「ねえ、ここはどこかしら?」
「…………」
何も答えようとはしなかった。コリンヌはじれったくなり、子供のいる場所へゆっくりと近づいて行った。それでも子供は微動だにしない。あと数メートルのところまで近づいたコリンヌは、子供の顔を見て思わず体を震わせてしまった。
「あ……あなた!」
コリンヌの叫びに驚いた子供は身を縮こませ、扉に背を付けてガタガタと震えだした。まるで叱られて怯えすくむ子のようであった。その様子に気付いたコリンヌは、大きな声がこの子を怯えさせたのだとすぐに気付き、優しく語り掛けた。
「大きな声を出してごめんなさい。あなた、その顔……どうしたの?」
暗い洞窟の中で気付けなかったが、よく見ると子供の顔にはあちこちに青いアザあった。腕や足にも鞭で執拗に叩かれたかのような跡がちらほら。子供は相変わらず玄関ドアの前に背中を付け、ガタガタと震えながらこちらを見ている。
「よしよーし、お姉ちゃん。どこにも行かないから。大丈夫よ」
コリンヌは両掌を膝に付け、身を屈めて子供の目線に合わせた。
「ほら……大丈夫、何も怖くないよ」
何十秒、いや、何分経っただろうか。同じ姿勢と笑みを崩さず、辛抱強く優しい口調で語り掛け続けるコリンヌに、子供のカチコチに固まった体は少しづつ緩んでいった。いよいよ同じ態勢を保ち続けることに疲労を感じ始めたコリンヌに、子供は囁くような声でコリンヌに語り掛けた。
「〇×●……オーネ●×」
「え?なあに?」
コリンヌは優しい笑顔を浮かべながら、手を当てた耳を子供に向けた。
「フィ……ネ、●……オーネ」
「フィオーネ?あなた、フィオーネって言ったの?」
子供は口を閉じ、無言でコリンヌの目をじっと見つめていた。コリンヌは確かめるかのように、一文字づつゆっくりと発音した。
「フィ・オ・オ・ネ?」
子供はこくこくと頷いた。子供が口にしたのは、死者の森の魔女の名前だった。
◇◇◇
子供はテーブルに座っていたコリンヌの前に、お盆に乗ったずしりと重そうなマグカップを置いた。飾り気のない大きなマグカップには、湯気を上げた白い飲み物が入っていた。その中にはすり潰した果実が入っているようだ。
「●××△〇、フィオーネ!」
「これを飲んでいいの?」
言葉が通じているとはとても思えなかったが、子供はその通りというように数度頭を前に振った。コリンヌはマグカップを手に持ち、恐る恐る口を近づけた。
「美味しい……ホットミルクの中にすり潰したリンゴが入っているのね」
コリンヌのほっとしたような表情を見て、子供は初めて笑顔になった。アザだらけの笑顔。コリンヌの胸は潰れそうになり、思わず椅子から立ち、膝をついてその子を両腕で抱きしめた。
「あなた、誰かに殴られたの?こんなの酷すぎる……」
彼女は胸に埋めさせた子供の顔をゆっくりと離し、その子の両肩に両手を置きながら、キョトンとしたあどけない表情を涙に濡れた瞳で真直ぐに見据えた。
「大丈夫。私が絶対にあなたを守って見せる」
コリンヌに見つめられた子供は視線をあちこちに動かしながら戸惑っている様子だったが、暫くして観念したのか、おずおずと伏し目がちにコリンヌの優しさに溢れた瞳を見つめ返した。そして、顔を真っ赤にしながらしゃくりあげた。
「よしよし」
小さな顔が埋まったコリンヌの肩に、涙と鼻水の温かくぬめりとした感触が伝わった。彼女が小さな背中を優しく撫でているその時、子供の体に異変が起きた。コリンヌは両肩に乗せた両手意外の体を思わず離して子供に起きている変化に目を見張った。
「あなた……」
透明な体に、徐々に鮮明な色が帯びていったのだ。特に赤い右目はますます燃え盛るように、青い左目はサファイアのようにその輝きを増していった。
「色を、取り戻していく……?」
それと同時に、石扉がギイイイと重々しい音を立ててゆっくりと開いて行った。彼女が驚いてそちらを向くと、開ききった石扉の先では漆黒の闇が待ち構えていた。
「石扉が……開いた?」
これが慈悲の心を持つ者の前で開け放たれる第三の門だとは、この時のコリンヌは知る由もなかった。そして、今いるこの家が一体何を意味するのかも。完全に色を取り戻した子供が、涙でクシャクシャになった笑顔を向けながらコリンヌの手を引っ張った。
「〇××〇△×●!」
「なあに?あの扉の先に行こうって言っているの?」
子供はコリンヌに大きく頷いた。こちらの言葉が本当にこの子に通じているのかは分からなかったが、コリンヌはゆっくりと立ち上がり、扉の先を見据えたその時だった。
「どこからか、声が聞こえる……」
その声は、間違いなくジュリアンとポレットのものだった。それは間違いなく石扉の先の闇から聞こえてきた。
「行きましょう。私の大切な人たちがあの先で待っているはずだから」
コリンヌは子供のぼさぼさの頭をゆっくりとなでながら、ゆっくりと深呼吸をして石扉の先の闇と対峙した。
◇◇◇
ポレットの幻想物語 ワイズウィル @honda1982
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