第37話

 石扉の先は夜の幻想世界だった。地面一面では夜空の星空一つ一つがはっきりと映し出されており、まるで小さな宝石が地面に埋め込まれているようだった。そしてひと際大きな宝石である三日月が、まばらに生える不思議な形の木々を地面からぼんやりとした光で照らしていた。


「凄いや、今度は地面一面が鏡みたいだ……」


地面には薄っすらと水が張っていた。ジュリアンは水の張った地面に人差指の先をチョコンと当ててその指先を舐めてみた。舌先に強烈な苦みが広がる。


「しょっぱい!なるほど、塩で出来た地面に水が張っているいるから鏡みたいに反射するのか。でも空気は全然湿ってないや」


 ジュリアンが湿った人差し指で乾いた空気をなぞっていると、その指先の数メートル先では見覚えのある蝶が羽ばたいていた。


「あの時の蝶だ……」


 それは野原の空間でポレットの頭上に止まった、薄緑色の斑点をした蝶だった。月明かりに照られたその蝶は、頼りなさげに羽を動かしながらこちらに近づき、先程と同じようにゆっくりとポレットの頭上に止まり、そのまま羽を休めた。


「ポレット……?」


 ジュリアンは蝶が頭に止まったポレットの名を呼んだものの、反応はなかった。ポレットは切迫した状況も忘れて目の前一面に広がる天空の鏡に魅入っているようで、目にはうっすらと涙を浮かべている。


「こんなに綺麗な風景を見たの初めて……」


 ポレットはそう呟いた後、おもむろにリュックの中から一冊の本を取り出した。それはシモン・アルカンの「魔女の子シャンタル」の原本コピーだった。去年出版されたこの絵本は元々はジャニーヌの5歳の誕生日プレゼントとして書かれたもので、原本に添えられた挿絵は当時8歳だったポレットが妹のために心を込めて描いたものだった。ポレットはジャニーヌとの大切な思い出が詰まったこの本を、お守り代わりに持ち歩いているのだ。


「ポレット、このモンスターを肩に乗っけたおばあさんは?」


 不思議そうにその原稿を覗き込むジュリアンの一言に、ポレットはカチンとなり言い返した。


「おばあさんじゃないわよ!これはあんたが尊敬するパパのヒット作、「魔女の子シャンタル」の原本コピーなんだから!」

「ええっ!シャンタルの原本!?じゃあこれはおばあさんじゃなくて……」

「おばあさんじゃなくてシャンタル!ついでに言うと……あんたがモンスターと馬鹿にしたこの子は、……その……シャンタルの相棒のココよ。えっと……この絵、あたしが書いたんだけど……」


 自分の絵をジュリアンにまじまじと見られていることが恥ずかしくなり、徐々に顔が赤くなってゆくポレット。彼女は決して絵が下手という訳でもないのだが、ジャニーヌのために気合を入れ過ぎてリアルに描こう描こうとしたためやたらと厳つい絵柄になってしまったのだ。当然正式に出版される際の挿絵は、プロのイラストレーターによる当世風のものに差し替えられたのだが……。


「ご、ごめん、ポレットの絵だったんだ。でもさ、なんで急に本を取り出したの?」

「だってお星さまがこんなに明るいし、空だけでなく足元一面に映し出されているんだもの。きっと本も読めると思って」


 ポレットの言う通り、パラパラとめくるページの一文字一文字が、ポレットの描いたシャンタルのイヤリングや耳、歯といった細部までが、星々の光だけでありありと浮かび上がっていた。


「すごいや……星の光で本が読めるなんて!君の言う通り、世界は驚くことばかりだね!」

「うん!本当にすっごーーーい!」


 満天の星でキラキラ光るで2人の瞳には、ほんの一瞬だが夜空をすっと横切る小さな光が映し出された。


「流れ星だ!」

「うわあ!あたし流れ星って初めて見た!」


 ホーッ、ホーッという眠りを誘うような心地よいフクロウの鳴き声が聞こえてくる。まばらに生えた木々のどこかから2人を物珍し気に見ているに違いない。


「今度はフクロウさん!シャンタルの世界みたい!」


 ポレットは目を輝かせながら、この世界を抱きしめるかのように両手を胸いっぱいに広げた。その瞬間、ポレットの頭上に止まっていた蝶が飛び立った。蝶の体は徐々に夜空に溶けてゆき、薄緑色の斑点だけを残して消滅してしまった。すると、その薄緑色がぼうっとした光を放ち始めながら広がっていき、木々のちょうど上あたりから空一面を覆うエメラルドグリーンのオーロラへと姿を変えていった。ポレットは摩訶不思議な発光現象をぼんやりと眺めながら独り言のように呟いた。


「なんだか物語の世界に閉じ込められたみたい……」

「うん、とびきり幻想的な物語にね」


 ジュリアンはそう言って隣にいるポレットの方を向いた。優しい光に照らされたポレットの横顔は現代ジュネ美術界を席巻する印象派の人物画のようで、ジュリアンは隣にいる御伽噺のお姫様から目を離すことができなくなった。ポレットは月に照らされたその横顔をゆっくりとジュリアンに向けた。


「ねえ、この風景ってどこかで聞いたことない?」

「ポレットも気付いた?」

 

 2人の頭の中には、ジュネの子供たちが一度は母親に読んでもらう、ジュネに大昔から伝わる民話の情景が浮かんでいたはずだ。そして、きっとその物語の中に、この空間の謎かけのヒントがあるに違いない。ポレットは両手の甲を腰に当てながら、ニンマリと笑ってこう言った。


「今度は”知恵”が試されるってわけね」


◇◇◇

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